ep.0 僕が旅に出た理由
小さい頃から、石橋は叩いて叩いて粉々にして結局渡れず立ち尽くす人生だった。
そんな用心深く何の挑戦もせずやり過ごしてきた彼が初めてその目の前の橋を叩いて壊さず踏み込めたのが、音楽の世界だった。
そして今、彼は2度目の勇気を振り絞ろうとしているー
その夢にまで見た舞台を、諦めるという勇気だ。
それにしても、どうして自分は今ここにいるのだろう。
絶え間なく無我夢中に思考を巡らせすぎて、こんがらがった記憶は断片的で曖昧だった。それでも覚えているのは、自分が現状から逃げ出してきたということ。
周りからの大きな期待と、それと同じくらい化け物みたいな妬み嫉みの渦。
要は現実逃避だ。未だこの業界あるあるの羨望と嫉妬には慣れない。慣れてたまるかと意地にもなっているだろう。
何はともあれ、彼は1人この初めましてでしかない駅を彷徨い歩いていた。
JRの駅と私鉄が繋がっているようで、似たような駅名の看板を先程からいくつも見かけては素通りしている。ますます自分は今どこにいるのかわからない。
階段を上り下りしてようやく、建物の隙間から地上の空を観測した。
初めましての時計台、その下に続く階段は憩いのスペースなのかカップルや友達同士でそれぞれ身を寄せ合って話し込んでいる。
どの名前で呼ぶのが正しいのだろうか。
まあどの駅にも共通して使われている「三宮」がこの場所の地名なのだろう。
「すみません」
声を掛けられた。つい癖で被っていた帽子をさらに深く被り直す。
振り返ると、時計台のふもとで賑やかに話を繰り広げていた友達グループの1人がスマホ片手に立っていた。
「撮ってもらってもいいですか?」
逃げてきた手前堂々と名乗るのは気が引けるが、これでも全国老若男女にその歌声を届けてきたという自負はある。
しかしこの今問われた「撮ってもらってもいいですか」の被写体に値するのが彼らと自分自身であるとは、1ミリとして思わなかった。
自分の名声に自信がないのではない。姿形だけでこの学生が今目の前にいるこの青年を国民的人気シンガーと認識するわけがないと本人が一番よくわかっているからだ。
案の定、撮ってもらいたいのは同じ制服に身を包んだ自分たちのみの集合写真だった。快く、愛想良く、縦と横でそれぞれ複数枚ずつシャッターボタンを押しておく。
「めっちゃ最高!お兄さん、写真のセンスある」
声を揃えるでもなく各々好き好きに感謝の言葉を口にすると、彼らは再び時計台下の階段に屯しその撮ってもらったばかりの集合写真をエアドロし始めた。
言っておくが、センスがあるのは写真だけじゃない。歌も作詞も作曲もだ。
そんなのこんな街中で口が裂けても実際に声には出来ないのだが、たまたま通りかかって集合写真を撮ってあげた親切な通行人Aとして他所様の青春にエキストラ出演を果たしたところで、ようやく思い出した目的地へとつま先を向けた。
目指すは、ここから最も近い"異国の地"だ。
ここらで一度、現状を整理しようか。
彼が今どうしてこの三宮という地に辿り着いたのか、そもそも彼は一体何者なのか。どうか52の文章だけお付き合い願いたい。
屋島 湊、それが彼の名前だ。湊は京都市内のごく一般的な両親のもとに生まれた2番目の子だった。5歳歳上の姉は文武両道容姿端麗のよく出来た長女であり、その陰にこっそり隠れて息を潜めてきた湊は、親からの過度な期待を受けることなく伸び伸びとした幼少期を過ごした。
その盾とも言える姉を唯一憎んだ出来事といえば、姉が小学6年生、湊が小学1年生の時、その文武両道容姿端麗の優等生な彼女の弟としてそれは大変な注目を浴びたことだった。湊少年は人から注目されることがとにかく嫌いだった。人前に出ることも、もはや授業中先生に当てられて黒板に文字を書きに行くことさえこわくて出来ない、そんな内気な性格だった。
その彼が、ある日突然歌手を目指すこととなる。きっかけは、中学校に上がって初めて手にしたスマホだ。
彼はそんな内気な性格を中学校入学の頃も変わらず引きずっていたため、友達が少なかった。数少ない、親友ともいえない程度の教室内でとりあえず一緒にいてくれる友人Aくんに言われるまま、某動画サイトのアプリを自分のスマホにダウンロードして見始めた。
世の中には退屈な動画が溢れかえっているものだな、初めはそう思っていた。しかしその動画と動画の間に挟まった広告動画に、彼は運命を変えられた。
顔出しNGシンガーソングライターオーディション開催の宣伝動画だ。
あの容姿端麗な姉の弟である。湊も人並み以上どころではないそれは端正な顔立ちをした少年であったが、いかんせん人前に出ることが苦手だ。むしろ吐き気がするほど嫌いであるため、人前で歌うことが主とされる歌手という道は諦めていたし眼中にもなかった。
しかし、歌そのものには何故か無性に自信があった。何でもできる姉に、唯一勝てる武器と言っても過言ではない。
湊は生まれて初めて、親に頼んだ。このオーディション用紙にある保護者の同意欄にサインをしてほしいと。
湊の両親は、大賛成だった。元々やりたいことは何事にも挑戦しなさいという懐の大きい両親であったが、湊はその性格もあり何事にも挑戦せず細波さえ立たない静かで平穏な生活を好んでいた。そんな湊が、自ら荒波へ揉まれに行こうとしている。応援しないわけがなかった。
オーディション結果は、見事合格。湊は晴れて某事務所に所属することが決まった。
内気な少年が抱いていた根拠のない自信は、大人の手によってれっきとした商品価値へと磨かれていった。
素顔NGの謎の天才中学生シンガーソングライターとして、湊は瞬く間にその名を轟かせた。
デビューは声変わり前であったが、その声が時に掠れ徐々に低くなっていっても、その人気は衰えなかった。むしろ声に色気が増したとか、歌声に説得力が生まれたとか、メディアもファンも彼がもたらす歌の力に魅了され続けた。
そしてついに足掛け8年、二十歳となった湊は念願の東京ドーム公演が決まった。
もちろん湊にとっても喜ばしいことであったが、決して大手とはいえない湊の所属事務所にとってもこれは悲願であり大快挙であった。
そして大人たちは、調子に乗って湊へ提案した。
東京ドームという大舞台にはその素顔を見せて立ってみないか、と。
二十歳という節目、東京ドームという願ってもみない晴れ舞台は覆面歌手の湊という存在をアップグレードするのにもってこいの機会だった。
ただしそれは大人にとっての、である。湊本人にとっては大きなお世話の大迷惑な話であった。
「僕には無理です」
湊はその唯一無二な透き通る声で、大人たちに言った。
しかし本人の主張も虚しく、東京ドームでの顔出し解禁が大々的に発表された。それがつい昨日のことであった。
湊は同居している両親にレコーディングへ行ってくると言って、家を出てきた。いや本当にそのつもりでいた。
自分がこの最大の試練を乗り越えれば、大きな話題にもなるし、もしかしたらもっと上のステージにもいけるかもしれない。湊にだって歌手としてのプライドはある。野望だってある。
レコーディングスタジオがある大阪駅に向かっているはずだった。湊の家からはJR京都線で1本、ただ最寄駅に止まった大阪方面の電車に乗り大阪駅まで揺られていればいい話だった。
だけど何を思ったのか、湊は目的地である大阪駅に到着してもその場から立ち上がらなかった。寝過ごしたからではない、故意に降りなかったのだ。乗っていたのは、姫路行きの電車だった。
まだ湊がレコーディングスタジオへ向かおうという志にあった頃、彼はひたすら逃避行していた。SNSを駆使した世界旅行だ。
そして見つけた、パスポートを持っていない湊でも今すぐ行ける"異国の地"を。
学校さえ休まず皆勤賞で登校した真面目な湊が、まして仕事をすっぽかすなんて自分でも考えられなかった。だけど今行かないと後悔する、そんな突き動かされる想いだった。
こうして湊は最寄駅のひとつである三ノ宮駅に降り立ち、その異国の地へと向かったのだった。
先日行った旅行先が兵庫、そして四国(徳島/香川)でした。
そして偶然にもその地域を含んだ大賞の概要が発表され「これは書くしかない!」と運命を感じて今、この作品を黙々と書き進めています。
物語には作者の私が実際に訪れた場所も数多く出てきます。時に自分が街並みや出迎えてくれた人々へ抱いた想いも投影しながら、湊の人生として描いていけたらと思っています。
何より、感銘を受けた"せとうち"の美しい街並みを伝えたい!がんばります。
お付き合いのほどよろしくお願いします!




