ep.2-7【過去と今】5時46分
今回は、海都にとって大事な回になっています。
真摯に向き合って書き上げました。ご覧ください。
公式的に現実逃避を許されたはいいものの、具体的にどのように過ごすかという大事な点が不明確であることに変わりない。
結局のところ悩みごとが尽きることはない。
「海都は、明日からまた大学の授業とかあるよね?」
既に学生の土日2日間を捧げてもらってしまっているうえに、明日からは再び平日が始まる。これ以上湊の遅れてきた反抗期に付き合ってもらうわけにはいかないため、共に過ごせるひと時も今日で終わりとばかり思っていた。
「明日も1日大丈夫だよ。授業はあるけど、休んでも別に何も言われないし」
大学生とはそういうものだというから、その身分を経験したことのない湊にはやはり未知の域だなと思うばかりだった。
「どうせなら淡路島の方とか遊びに行っちゃう?レンタカー借りてさ、2人でドライブ!楽しそう」
天気予報を調べた限りだと、明日はよく晴れるらしく絶好のドライブ日和だった。
今夜は早めに就寝して明日に備えよう、2人の合意のもと日付が変わった頃には消灯となった。
夜明けのことだった。
微かな物音に、寝入っていたはずの耳が反応して意識を呼び戻した。夢と現の境にいた己の聴覚が正しいならば、ケトルでお湯を沸かす音だった。スイッチが切れる音、沸騰した合図だった。
ケトルのそばにいた海都は、その軽快な音を聞いたと同時に取っ手に手をかけマグカップにお湯を注ぐ。
ほのかに甘い香りを纏った湯気を携えこちらへ戻ってくると、彼は身体を小さく丸めて窓辺に座る。ポケットからスマホを取り出した。画面を一瞬見ては閉じてを繰り返しているから、ホーム画面の時間か通知を気にしているようだ。
同じ挙動を始めて12回目、その場だけ時が止まってしまったみたいに、彼はただじっと画面を見つめていた。そして暫くすると安堵した表情とともにスマホを手放した。空いた手でマグカップを口元まで持っていき、いくらか冷めているだろう中身を啜る。
「海都」
その一連を全て観察していたこと、こちらが何か示さない限り気づかないのだろうと思い声を掛けた。もちろん驚いて飲み物を吹き出してしまわないように、彼がマグカップをフローリングに敷かれたコースターの上へ着地させてからだ。
「わっ、びっくりした…。ごめんね、起こしちゃったね」
布団にくるまったままベッドから自分を見つめていた湊に、海都は驚いて瞳を大きくさせていたが、すぐに湊への気遣いに向けて感情の舵を切る。
起こされたことに対して腹を立てているのではないと示すためにも、湊は起き上がってベッドに座り直す。ふと時計へ目を向けると、時刻はもうじき朝6時を迎えようとしていた。
「もしかして、見てた?」
素直にその問いに湊が頷くと、海都は苦笑いをする。見られては気まずいことだったのかもしれない。
「実はね、ココアもあるんだ。うち」
ふとマグカップを手に取り、海都は湊へ中身を見せてくれた。マグカップから漂っている甘い香りの正体は、ココアだったようだ。
「湊も飲む?」
甘いものが苦手でなければ、と配慮もしてくれる。むしろ甘いものは好きな類いの人間である。
「昨日は選択肢に入れなくてごめんね」
たしかに昨夜、湊が独り語りをする前に飲み物を入れてくれた際、ココアだけは選択肢になかった。
「ココアはこの時間だけって決めてるんだ。それ以外のタイミングで飲むと、なんだか生活リズムが狂ってしまって」
どうやら、この朝の時間は彼にとって日常の一部のようだった。その中でも大事なルーティーンなのだろうと、ココアの一件からも伺える。
暫し海都は、自身の手元を見つめて黙り込んでいた。俯いているからはっきりとは見えないが、泣くのを我慢している子どものような表情を覗かせていた。
「そろそろ、どう?」
次に海都が発したのは、その合言葉だった。
「話、聞くよ」
海都が自分にしてくれたように、湊も海都の言葉ひとつひとつに耳を傾けようと思う。
「ココア、淹れてくるね」
海都お手製のココアをお供に、早朝の独白は始まる。
「おまたせ」
海都が、湊の分もココアを持ってきてくれた。
「さてと、まず何から話すべきか」
キッチンに立っている間にある程度気持ちを落ち着かせたのか、彼は穏やかな口調でそう前置きした。
「遡ること、31年前」
それは海都が生まれる10年前のことだった。
海都の両親は、ここ神戸で出会い夫婦となった。学生結婚だった。母は大学卒業を控えた4回生、父は医学部に通っていたため5年目の学生生活を送っていた。彼女のお腹の中には、小さな命も宿っていた。海都の姉である。
住まいは、小さなアパートの一室。手狭ではあるが、2人で暮らすには充分幸せで、安心感のある空間を少しずつ築き上げていた真っ最中だった。
1995年1月17日午前5時46分、最大震度7の大地震が神戸を含む関西地域を襲った。阪神淡路大震災、人々はこの日をその名で呼ぶ。
実際その瞬間に居合わせた人々にとっては、たった漢字7文字で表せるような出来事ではない。一人一人に想いがあって、恐怖があって、癒えない傷がある。海都の両親にもある。彼らが地震に壊されたのはアパートの一室だけじゃない。平和な日常、安心感、温もり―誰のせいでもないからこそ、何処にもぶつけられない遣る瀬なさをその当時は自分の胸の内にただ携えておくしかなかった。
海都の母は、当時小さき命を身籠もっていた。彼女の実家は関東にあり、運良く途絶えず繋がっていた電話回線で無事を知らせた娘に両親は、母体と胎児のことを第一に実家へ帰ってくるよう懇願した。
ただその実現は容易でなかった。地震によって一部の高速道路が倒壊する事態となり、その他の交通機関も止まった。東と西を繋ぐ新幹線に至っては、万全を期して約3ヶ月後の4月まで動くことはなかった。出産予定日は6月、夫と義父母の後押しもあって母子は関東の実家での生活を選んだ。関東で迎えた出産は無事予定日通りに母子共に健康な状態で終えることができた。
父親は医学生であったため、未完ながらも自身にも流れる医療の力を信じて被災地でのボランティアに尽力した。大学の授業が再開してからは残りの学生生活、そして翌年に控えた国家試験、卒業後の研修先の決定など目まぐるしい日々を過ごした。少しでも早く妻との生活を取り戻すため、初期研修先は彼女の実家がある関東に的を絞って探した。
そんな夫婦の間に生まれた愛娘、生田家の長女はその間も両親、沢山の人々から愛情を受けて不自由なくすくすくと成長していった。彼女が10歳になった年、待望の弟も生まれた。その子が海都だ。
「父さんは、毎年1月17日になると当時の話をしてくれた。思い出すのも苦しいことは沢山あるけど、それでもこの震災の経験から学んだことも沢山あるから、それを知らない世代に知ってもらいたいって想いがあるみたい」
湊も同じ関西で生まれ育ったが、自分が生まれる12年も前の出来事であり、両親から当時の話を聞いたり小中学校の歴史の授業で習うことはあっても今ひとつ身近に感じることは出来なかった。言い方が正しいか、配慮がなされてると判断しかねるが、自分が身近に感じるなんて烏滸がましいという感覚だ。
海都も湊と同じ年頃であるから、当時はこの世に生を受けてさえいない。その計り知れない揺れをその身で体感することはなかった。それでも神戸という地で結ばれた両親の下に生まれた彼には、彼なりの向き合い方があった。
「母さんは、話してくれないんだよね。無理に話してってお願いしたことはないし、聞かないでって言われたわけでもないけど、でも子どもながらになんとなく聞いてはいけないのかなって空気を今も変わらず纏ってて。俺が神戸の大学に進学したいって言った時も、母さんだけは反対した。母さんにとって神戸はつらい記憶を置いてきたところなんだと思うって、父さんも言ってた」
それでも海都は、この地で夢を追いかけることにした。
彼が神戸の大学を進学先に決めたのは、父と同じ道を進むと決意したからだった。父の母校で医学を学ぶ、それが彼の選んだ道だ。
「ということは…海都は今、医学生ってこと?」
彼は授業を休んだところで何も言われない、と言っていた。湊は大学が実際どういうものなのか理解できていないが、それでもさすがに医学部に通う学生が授業をさぼっても誰にも何も言われないということはないのではないかとは思う。
「この春から、休学してるんだ。だから2回生とは自己紹介したけど、正確には2回目の春を大学では迎えてない」
尊敬する実父のような医者になると心に決めて、1人この街に来た。母にとってはつらい思い出を呼び起こす地でも、父にとっては故郷であり医師として歩み始めた道の原点でもある。
「どうしても、この大学の医学部に入りたかった。父さんと同じ道を歩みたかった。そのために2浪して、やっと昨年の春スタート地点に立てた。だけど…いわゆる燃え尽き症候群ってやつかな、念願の大学生活だったはずなのに身も心も全然追いつかなくて」
母親の反対を押し切った形で進んだ道なだけに、母には相談する勇気はなかった。自分に期待してくれている父親にも、自分から言い出すことはできなかった。
ただ、数ヶ月に一度両親の代わりに神戸まで様子を見に来てくれていた姉は弟の異変に気づいていた。姉は弟の心身の健康を第一に考え、休学という選択肢もあるのではないかと勧めてくれた。だけど海都は容易にその案を飲み込むことができなかった。2年の遅れに焦りがあったのもある。ただそれは僅かな理由に過ぎなかった。
休むという行為こそ、彼にとって苦しみの根源だった。
決してあの日のことを自ら語ることない母が、唯一その面影を見せた日。彼はその日の出来事を忘れられずにいた。
「両親は、震災を2回経験してる。2011年3月11日、俺ら家族は千葉にいた」
住まいは神奈川だというが、その日彼らは某テーマパークへ遊びに千葉まで来ていた。
「誕生日にどうしても行きたいって俺がお願いして、幼稚園を休んで家族みんなで行ったんだ。お姉ちゃんは中学を卒業した年だったから、お姉ちゃんの卒業祝いも兼ねて。でも言い出したのは俺、みんなにまた苦しい思いをさせてしまったのは俺のせいだった」
母は、神戸で経験したあの日のことを思い出して酷く取り乱していた。海都はその日6歳になったばかりだったが、21歳になった今もその日の母の姿だけは鮮明に覚えている。
「自宅の方も今まで経験したことがないくらい揺れたみたいだけど、揺れ以外の大きな被害に直面してしまったのはいつもと違う場所にいたから。どんな揺れだったとか、どんな想いで帰宅できるまでの時間を過ごしたとか、当時まだ小さかったから母親のこと以外はあんまり覚えてないんだけど、自分の誕生日が来るたびにあの日の母のことは思い出す」
子どもだったから、両親の前ではそんな盾を構えて何も覚えていないフリをしていた。だけど幼いながらに、海都はずっと心に大きな十字架を背負ってきた。
その後ろめたさは大学生になってからも色褪せることなくあって、自分が休むと何か悪いことが起きるんじゃないか、誰かがつらい想いをするんじゃないか、その恐怖に駆られて休むという行為が頑なに出来なくなっていた。
「お姉ちゃんが父さんに相談して、父さんが忙しい仕事の合間を縫って会いに来てくれて。心や身体が壊れてしまう前に一度立ち止まって休むことは遠回りなんかじゃなくてむしろ近道だったりするよ、って言ってくれた。でもその渦中にいるとわかんないんだよね、その言葉の本当の意味が。それでも父さんはそんな俺を説得しに時間を見つけて何度も足を運んでくれて…そのこと自体に申し訳なくなってしまって、結局休学することにした」
休学する間、母には実家へ帰っておいでと言われた。逆に父には、神戸にいたかったらいてもいいんだよと言われた。形は違うけど、どちらも何より我が子のことを想って差し出してくれた優しさだった。
海都は、休学してもこの地に残ることを選んだ。結局のところ、完全に歩みを止めてしまうことがこわかったのだと思う。
「こっちに残ってよかったと思ってる。ありがたいことに年の差が2つあっても、休学して1学年ずれてしまっても、気兼ねなく接してくれる友だちがいてくれる。こうやって神戸に留まったから、湊とも出会えた。でもひとつだけ…後悔してることがあって」
ある日の早朝、彼は目覚ましのアラームではなく電話の着信音で目を覚ました。
画面には母の名が表示されていた。寝ぼけ眼に電話をとると、母の声は涙で濡れていた。
やっと電話に出てくれた、心配したんだよ、母は涙ながらに言った。訳もわからないまま電話は切れてしまったが、着信履歴に何十件と並んだ母の名を見てその意味を痛感した。
その日最初に刻まれた着信履歴は、5時46分だった。
「その日父さんは病院からの急な呼び出しで夜中からずっと家を空けてたらしくて。お姉ちゃんも一人暮らしで実家にはいないし、母さんは1人きりの夜を過ごしてたんだと思う。眠れなくて、外が明るくなり始めて、時計の針はあの日と同じ時刻を指した。神戸で1人暮らしてる息子は無事だろうか、無理矢理にも程があるけど、そんな思考回路で不安な気持ちに駆られて、いっぱいいっぱいな気持ちのまま電話をかけ続けた」
そんな朝早くから電話が来たのは、その一度きりだった。だけどその一度があってから毎日、海都はこうしてあの時刻を迎える前に目を覚ましスマホを握りしめて待機するようになった。自分の選択がまた母につらい思いをさせてしまった、その罪悪感から解放されるためにはこうするしかなかった。
毎日、朝が来るのがこわかった。ロック画面に"5:46"の数字が浮かび上がるその1分間は、息もできないくらい苦しい。ココアはそんな毎朝を少しでも穏やかに迎えられるように、海都なりに編み出した御守りみたいなものだった。
「昨日久しぶりに、1人きりじゃない朝を迎えたんだ。湊はぐっすり寝てたけど、その寝顔を見て少しだけ気持ちがほぐれた。勝手に見ちゃってごめん、今日はその後起こしちゃったのもごめん、でもありがとう」
寝顔なんて見られて減るものでもない。謝ることでもないから、湊は彼からの感謝の言葉だけ拾い集めてそっと胸の内にしまった。
「こちらこそ、つらいことを思い出させてしまってごめん。でも、話してくれてありがとう」
話を聞いただけで海都の全てを知った気になっていてはそれは驕りにすぎないが、それでも湊の中で海都という人の解像度が上がったことに違いはない。
海都は湊の言葉に小さく頷いて、小さく笑って、大粒の涙を溢した。話し終えるまで、我慢していたのだと思う。涙を拭うことも忘れて泣きじゃくるから、湊が代わりに彼の頬を撫でる。
「日の出、見られるかな」
海都にとっては毎日当たり前の景色かもしれないが、比較的目覚めが遅い湊は久しぶりに日の出前にこうして布団から抜け出している。どうせなら二度寝せずに日の出時刻を迎えたい。
「たしかに見られるかも、日の出」
毎日この時間に起きても、気にしたことがなかったという。
「これからは、朝日を楽しみに起きようかな」
きっと明日も彼は、早朝からココアを淹れて5時46分を迎えるのだと思う。それでもその1分間を乗り越えた先に小さな楽しみがあれば、少しは気持ちも晴れるだろう。
東向きの窓辺に並んだ2人を、朝の光りが優しく照らした。
今回は、海都と海都の家族が経験した過去についてでした。そして長きに渡ってお届けした第2章は、今回で終了となります。
お互いの過去を知り、少しだけ前を向き始めた彼らは、気持ち新たに再び2人で小さな旅に出ます。第3章もお楽しみに!




