プロローグ 〜甘い匂いに包まれて〜
0
またイスがない。
残された机の上には、ティッシュやプリントがぐちゃぐちゃに散乱している。
ボールペンで、下品な絵や言葉がたくさん書かれている。
イスはどこかな。
また探さなきゃ。
また屋上だろうな。
屋上に行こうとした俺の背中を、誰かが思いっきり蹴る。
受け身も取れず、俺は無様に教室の床に倒れこむ。
「うわ、お前ひでぇな」
数人がゲラゲラと笑う声がする。
打った頭が痛い。
じんじんする。
死ーね、死ーね、とクラスメイトがコールを始める。
「おい、オチコ」
落ちこぼれ、の意味だろうか。
俺をそう呼びながら、彼は俺の髪を掴んで無理矢理のけぞらせる。
「お前さぁ——」
逆光している彼の顔は、黒い。
ぞっとするような笑みをその顔に貼り付けて、彼は言う。
「——生きてる意味、あんの?」
毛布を跳ね飛ばして起き上がる。
深夜のリゾートホテルの一室。
開け放たれた白い窓からは、静かな波の音が聞こえる。
「夢……か」
嫌な夢だった。
そして、残念ながら実際にあったことだ。
心臓がバクバクと脈を打つ。
首の周りに、ベッタリと汗をかいている。
冷たい風が、そのベッタリ感を際立たせる。
「姫……どうかされましたか?」
隣のベッドで眠っていたエイリーを起こしてしまった。
「ごめん、怖い夢、見て……」
何の気なしに自然に答えるつもりが、言葉につまってしまった。
気付けば、泣いていた。
うまく喋れなかったことで、ようやく自分が泣いていることに気付いた。
え? 俺こんなことで泣いてるの?
まるで他人事のように衝撃を受けた。
今までどれだけ殴られようが罵倒されようが無視されようが、泣いたことなんて一度もなかった。
そんな俺が、たかだか夢を見た程度で泣いてる……?
この世界に来てからというもの、簡単に泣いてしまう。
周りから愛されるようになって、ようやく安心して泣けるようになったのか。
この体の元の持ち主であるパーチェちゃんが涙もろかったのか。
子どもになったから年相応に泣きやすくなってしまったのか——
そこまで悲しいとも辛いとも思っていないのに、涙が出てしまう。
エイリーを困らせるだけだから止めたいのに、止め方が分からない。
まぁ、今の俺は妖怪系男子ではなく美少女(※♂)だから、その姿ですら可愛いに違いない。
「怖い夢……そうですか。今日は一緒に寝ましょう」
エイリーは寝起きとは思えないほどすっと姿勢よく立ち上がって、自分のベッドの掛け布団をめくる。
「どうぞ」
その優しさにもっと泣きそうになる。
ベッドから出てエイリーのベッドの中に入り込むと、ほのかに温かく、ほのかに甘い匂いがした。
「失礼します」
エイリーが入ってくる。
すぐ目の前に顔がある。
「……ごめんね」
情けない。
俺は(精神的には)高校二年生なのに、遥か年下の女の子にあやされるだなんて。
「いえ、」
エイリーは静かに首を振って微笑む。
「今日は、姫がお眠りになるまで起きていますから。安心してお休みください」
あぁ、情けないな。
でも、このままダメになってしまうとしても、今はこの優しさにどっぷりと浸かっていたい。
『甘える』っていうのは、もしかするとこうやってやるのかもしれない。
「……」
でも、これはちょっと眠れなさそうだ。
なぜなら俺は——ロリコンだからだ。
こんな可愛い子と同じベッドに入って、すやすやと眠れって?
無理無理!
体は寝てても、別の地点は立ってますけど⁉︎
生前(※)の俺は、熟女好きだった。
六十手前のおばさん先生が、俺の初恋の相手だったのだ。
そんな俺が、今では立派なロリコンになってしまっている。
中身が高校二年生の男が、小さな女の子を恋愛対象として可愛いと思っている……というのは、客観的に見ても処刑モノだと思う。
だけど今は俺自身が、小さな女の子(※♂)なのだ。
そんな俺が小さな女の子を可愛いと思って、恋愛対象として見ているのは至極当然のことだ。
だからこそ、ちょっと眠れそうにない。
涙は止んだけど、違うところから違う涙がこぼれ落ちそうになる。
あー耐えろ。
耐えろ耐えろ。
耐えろ……。
『姫が眠るまで起きてる』と言っていたくせに、エイリーはすぅすぅと寝息を立てて、無防備にもすぐに眠ってしまった。
体は決して触れていないのに、柔らかな湿度を持った体温が伝わってくる。
甘い匂いをお腹いっぱいに吸い込むと、頭がクラクラする。
心臓が固く固く激しく脈を打つ。
眠れるわけないだろこんなの!
まつ毛長いな……。
耐えろ……。
エイリーを傷付けるようなことは絶対にしないぞ……。
とはいえ——
こうして、リゾート大国セーレットでの最初の夜が明けていく。
続く




