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挿絵(By みてみん)


     1


 ——姫!


 誰かの呼ぶ声がする。

 小さな女の子の声だ。


 ——姫!


 その声は震えていた。

 すがるように、祈るように、痛々しく何度も呼びかけている。


 ——目を覚ましてください! 姫!


 気付けば、両肩を揺すられていた。

 どうやら俺に呼びかけているらしい。


 ——私が……私がもっと、しっかりしていれば……!


 女の子の啜り泣く声が聞こえる。

 肩を揺らす手が震えている。

 どうやら、姫というのは俺のことらしい。

 変なの。


 ——大丈夫です、しっかりしてください、すぐにリベロ様達がきますからね……!


 雨が降ってきた。

 いや、これは涙なのかもしれない。

 この子は、何で泣いているのだろうか。

 俺みたいな、価値のないやつのために泣かなくていいよと言ってあげたい。

 それに、眠いからちょっと静かにしてほしい。


 ——腕も、大丈夫です、きっと、治りますから、大丈夫です!


 腕?

 震えるその言葉が気になって、ふと目を開けた。


「姫……? 姫! よかった……よかったっ……!」


 女の子に抱き付かれる。

 彼女は泥だらけで、びちゃ、と音がした。

 俺も泥だらけだった。

 寒いし声も出ない。

 そして眠い。


「大丈夫ですからね……! 私が、必ず、あなたを……!」


 女の子は這うようにして、俺の顔の上に覆い被さる。

 鉄の臭いがする。

 どうやら俺は地面に倒れているらしい。

 塞がれた視界を取り戻したくて、俺は横を向いた。


 泥の上に何かが無造作に置かれている。

 あれは、腕か。

 自分の右腕を見ると、肩から先がなかった。


 あぁ、俺は死ぬのか。


 他人事のようにそう思った。

 悲しくも、苦しくもなかった。

 痛みさえもない。

 ただ寒くて、そして眠い。


 おやすみ——


 目を閉じようとした瞬間、


「うぐっ」

 という嗚咽と共に、女の子が視界から消えた。

 見上げた空は鬱陶しいぐらいに明るくて、雲一つない。


 その視界を遮る黒い影。


「悪いねぇ、お嬢さん」


 それが人だと分かったのは、声が聞こえたからだった。


「君に恨みはないんだけど、僕が生きていくにはこうするしかなくてねぇ。悪く思わないでよね」


 男の声だった。

 俺は胸ぐらを掴まれて、地面から持ち上げられる。

 全身が泥だらけで、泥や小石や血がぼたぼたと地面に落ちていく。


 男は目を見開いている。

 口元が力んだ不自然な、笑顔に似た表情をしている。

 その表情を顔に貼り付けたまま、拳を振り上げた。

 バチッと音がする。

 拳の周りに電流が流れている。


 スタンガンかぁ……。


 一回だけ使われたことがあるけど、強さだけ加減してくれれば、死ぬほどのものではないかな。

 あぁでも、腕を切り落とすぐらいだから俺のこと殺す気なんだよな。

 もう何でもいいよ。

 どうせ生きてたってイジめられるだけだ。


 眠らせてくれ。

 今なら気持ちよく眠れそうなんだ。


「——いてっ」


 突然、胸ぐらから手を離された。

 再びべちょりと地面に倒される。


「このガキィ! 鬱陶しいな! クソッタレ!」


 男は地面に横たわる何かを、力任せに踏み付けている。

 そのたびに地面が振動して、同じタイミングで『ぐぇ』という嗚咽が聞こえる。

 何とか視線を動かす、さっきの女の子が男の脚にしがみついていた。


 俺を守ろうとしてくれた女の子が、何度も何度も踏みつけられている。

 子どもなんてまったく好きじゃないけど、俺のせいで子どもが酷い目に遭うのは——違うだろ。


「……やめろ、それ」


 気付けば、立ち上がっていた。

 体を吹き抜けていく風が冷たい。

 いや、俺の体が冷たくなっているだけかもしれない。


「なっ⁉︎ おいおいマジかよ……!」


 男は動揺しながらも拳を握った。


「お嬢さん、その状態でもまだ立ち上がるとか、お姫様のくせになかなか根性あるねェ……!」


 明らかに動揺しているけど、その拳からはバチバチと攻撃的な音がする。


「暴力には、慣れてるからね……」


 そう答えながらも、どんどん意識が遠のいていく。


 考えろ。考えろ。

 今の俺に何ができる?

 あの子を生かす方法を考えろ。


 最悪、俺は死んでもいい。


 男はスタンガンを持っている。

 俺は片腕をなくしている。

 女の子は怪我だらけで気を失っている。

 ここは畑の上らしい。


「そうか、慣れてるならちょうどいいねぇ」


 どぼん、と腹から音がした。

 食道を、猛烈な勢いで熱いものが駆け上がってくる。

 耐えきれずに口先で決壊した。

 喉が焼けるように熱い。

 口の中も切れているのか、鉄みたいな味がする。


「うわっ、汚ねぇな! 全然慣れてねーじゃねーか!」


 バチッと音が鳴って、右足に激痛が走った。

 全身が痙攣する。

 膝の関節が逆側に曲がりそうなほど強い衝撃を受けて、またもや地面に倒される。

 脳みそがたぷんと揺れて、取り戻した視界が急速に白くなっていく。


 時間を、稼がなきゃ。


 彼女は確か、誰かが助けにくると言っていた。


 警察でも誰でもいい。

 その誰かがくるまで、俺の命を全部使って時間を稼ぐんだ。

 あの子が助かるように。


 俺は仰向けに転がった。

 もう空も眩しくない。

 いよいよ目が機能しなくなっているらしい。


「ここまで散々痛めつけちまったからな。最期ぐらいは一思いにやってやるよ」


 霞んでいく視界の中で、ひときわ強烈な閃光が煌めいた。

 びびび、と耳障りな音が鼓膜を揺らす。


 男は俺の顔を覗き込んで、拳を振り上げ——


「——ぎゃあ!」


 と悲鳴をあげた。

 血まみれの唾を、顔面に吐きかけてやった。


「オエェッ! 最悪だ! 汚すぎる!」


 男は地面の泥の、なるべく水が綺麗そうなところを選んで必死に顔を洗っている。

 今だ。

 今がチャンスだ。


 何とか立ち上がる。

 多分、右脚が折れてる。

 立ち上がるだけで精一杯だ。

 走る力なんて当然ない。


 それでも、絶対にコイツだけは倒す。


 近くにあった大きな石を拾おうと思った。

 でも、その力すらない。


 ——なら、こうするしか。


「あぁクソ、最悪だよ! このガキお姫様のくせになんて下品なことしやがる——ウグゥッ!」


 ごちん、と大きな音が鳴った。

 しゃがんでいる男の後頭部に、全体重を乗せた頭突きを喰らわせる。

 男の頭めがけて、頭から倒れにいったという方が近いかもしれない。


「倒した……か……?」


 額から流れ出る血が、頭突きの威力を物語っている。

 不意打ちを喰らった男は完全に脱力して、意識を失っていた。


 頭蓋骨が軋んでいる。

 脳みそが飛び出てるんじゃないかと思うほど痛い。


 だけど、痛いってことはまだ生きてる。

 俺はまだ、生きてるんだ。


 その痛みが、俺の意識を覚醒させた。

 周囲の景色や音が、鮮明に入ってくる。

 火事場の馬鹿力というやつなのかもしれない。


 逃げなきゃ。


 何で俺は襲われているんだ?

 この男は誰なんだ?

 この女の子は誰なんだ?


 というか俺、さっきまで川にいなかったか?

 何でこんなところにいるんだ?


 いや、そんなこと、今はいい。

 今のうちに、この男にトドメを刺すべきだ。


 俺は、握れる程度の石を手に取った。

 コイツを振り下ろせば——


「——ダメです、姫」


 声がして振り向くと、女の子がこちらに向かって手を伸ばしていた。


「殺しては、ダメです。あなたは今度こそ、戻れなくなる」


 何を言ってるんだ?

 自分を殺そうとしているヤツを、庇おうとしてるのか?

 そしてこの子は、何で俺のことを『姫』と呼ぶんだ?


「お願いです、姫、どうか」


 息も絶え絶えに懇願する彼女には、言いようのない気迫があった。


「わ、分かったよ。分かったけど、どうすればいいんだよ」

「逃げてください」


 食い気味に、はっきりとそう言って続ける。


「この森を抜けて、道なりに少しいけば、ラーハットの駐在所があります。そこまで……とにかく走り抜けてください」


 そこまで言い切ると、ふー、と長いため息を吐いた。


 なるほど。

 やるべきことは分かった。


 俺は周囲を見渡して、男のズボンから片手でベルトを抜き取る。

 それを輪っかにして、首からぶら下げて、女の子を輪の中に入れた。

 ベルトをきつく締め直して、体を密着させる。


「姫! な、何をしてるんですか!」

「何って、逃げるんだよ」


 片腕しかないから抱きかかえることはできない。

 だからこうするしかない。

 歩きづらいけど、歩けはする。


「何で今日に限ってそんなことをするんですか! 私のことなど、嫌いなはずでしょう! 捨て置いていけばいいじゃないですか!」

「頭痛いからさ、ちょっと黙ってくれないかな」


 ずるずると、お互いがお互いを引きずるように歩く。

 いったいこれは何なんだ。

 妖怪みたいな顔をした男が、女の子とこんな体勢で歩いてていいのか?


 でも、ここがどこで、彼女が誰であろうと関係ない。

 自分を守ろうとしてくれた人を見捨てていけるほど、人として終わっていない。


 考えろ、まだ道はあるはずだ。


続く

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