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——姫!
誰かの呼ぶ声がする。
小さな女の子の声だ。
——姫!
その声は震えていた。
すがるように、祈るように、痛々しく何度も呼びかけている。
——目を覚ましてください! 姫!
気付けば、両肩を揺すられていた。
どうやら俺に呼びかけているらしい。
——私が……私がもっと、しっかりしていれば……!
女の子の啜り泣く声が聞こえる。
肩を揺らす手が震えている。
どうやら、姫というのは俺のことらしい。
変なの。
——大丈夫です、しっかりしてください、すぐにリベロ様達がきますからね……!
雨が降ってきた。
いや、これは涙なのかもしれない。
この子は、何で泣いているのだろうか。
俺みたいな、価値のないやつのために泣かなくていいよと言ってあげたい。
それに、眠いからちょっと静かにしてほしい。
——腕も、大丈夫です、きっと、治りますから、大丈夫です!
腕?
震えるその言葉が気になって、ふと目を開けた。
「姫……? 姫! よかった……よかったっ……!」
女の子に抱き付かれる。
彼女は泥だらけで、びちゃ、と音がした。
俺も泥だらけだった。
寒いし声も出ない。
そして眠い。
「大丈夫ですからね……! 私が、必ず、あなたを……!」
女の子は這うようにして、俺の顔の上に覆い被さる。
鉄の臭いがする。
どうやら俺は地面に倒れているらしい。
塞がれた視界を取り戻したくて、俺は横を向いた。
泥の上に何かが無造作に置かれている。
あれは、腕か。
自分の右腕を見ると、肩から先がなかった。
あぁ、俺は死ぬのか。
他人事のようにそう思った。
悲しくも、苦しくもなかった。
痛みさえもない。
ただ寒くて、そして眠い。
おやすみ——
目を閉じようとした瞬間、
「うぐっ」
という嗚咽と共に、女の子が視界から消えた。
見上げた空は鬱陶しいぐらいに明るくて、雲一つない。
その視界を遮る黒い影。
「悪いねぇ、お嬢さん」
それが人だと分かったのは、声が聞こえたからだった。
「君に恨みはないんだけど、僕が生きていくにはこうするしかなくてねぇ。悪く思わないでよね」
男の声だった。
俺は胸ぐらを掴まれて、地面から持ち上げられる。
全身が泥だらけで、泥や小石や血がぼたぼたと地面に落ちていく。
男は目を見開いている。
口元が力んだ不自然な、笑顔に似た表情をしている。
その表情を顔に貼り付けたまま、拳を振り上げた。
バチッと音がする。
拳の周りに電流が流れている。
スタンガンかぁ……。
一回だけ使われたことがあるけど、強さだけ加減してくれれば、死ぬほどのものではないかな。
あぁでも、腕を切り落とすぐらいだから俺のこと殺す気なんだよな。
もう何でもいいよ。
どうせ生きてたってイジめられるだけだ。
眠らせてくれ。
今なら気持ちよく眠れそうなんだ。
「——いてっ」
突然、胸ぐらから手を離された。
再びべちょりと地面に倒される。
「このガキィ! 鬱陶しいな! クソッタレ!」
男は地面に横たわる何かを、力任せに踏み付けている。
そのたびに地面が振動して、同じタイミングで『ぐぇ』という嗚咽が聞こえる。
何とか視線を動かす、さっきの女の子が男の脚にしがみついていた。
俺を守ろうとしてくれた女の子が、何度も何度も踏みつけられている。
子どもなんてまったく好きじゃないけど、俺のせいで子どもが酷い目に遭うのは——違うだろ。
「……やめろ、それ」
気付けば、立ち上がっていた。
体を吹き抜けていく風が冷たい。
いや、俺の体が冷たくなっているだけかもしれない。
「なっ⁉︎ おいおいマジかよ……!」
男は動揺しながらも拳を握った。
「お嬢さん、その状態でもまだ立ち上がるとか、お姫様のくせになかなか根性あるねェ……!」
明らかに動揺しているけど、その拳からはバチバチと攻撃的な音がする。
「暴力には、慣れてるからね……」
そう答えながらも、どんどん意識が遠のいていく。
考えろ。考えろ。
今の俺に何ができる?
あの子を生かす方法を考えろ。
最悪、俺は死んでもいい。
男はスタンガンを持っている。
俺は片腕をなくしている。
女の子は怪我だらけで気を失っている。
ここは畑の上らしい。
「そうか、慣れてるならちょうどいいねぇ」
どぼん、と腹から音がした。
食道を、猛烈な勢いで熱いものが駆け上がってくる。
耐えきれずに口先で決壊した。
喉が焼けるように熱い。
口の中も切れているのか、鉄みたいな味がする。
「うわっ、汚ねぇな! 全然慣れてねーじゃねーか!」
バチッと音が鳴って、右足に激痛が走った。
全身が痙攣する。
膝の関節が逆側に曲がりそうなほど強い衝撃を受けて、またもや地面に倒される。
脳みそがたぷんと揺れて、取り戻した視界が急速に白くなっていく。
時間を、稼がなきゃ。
彼女は確か、誰かが助けにくると言っていた。
警察でも誰でもいい。
その誰かがくるまで、俺の命を全部使って時間を稼ぐんだ。
あの子が助かるように。
俺は仰向けに転がった。
もう空も眩しくない。
いよいよ目が機能しなくなっているらしい。
「ここまで散々痛めつけちまったからな。最期ぐらいは一思いにやってやるよ」
霞んでいく視界の中で、ひときわ強烈な閃光が煌めいた。
びびび、と耳障りな音が鼓膜を揺らす。
男は俺の顔を覗き込んで、拳を振り上げ——
「——ぎゃあ!」
と悲鳴をあげた。
血まみれの唾を、顔面に吐きかけてやった。
「オエェッ! 最悪だ! 汚すぎる!」
男は地面の泥の、なるべく水が綺麗そうなところを選んで必死に顔を洗っている。
今だ。
今がチャンスだ。
何とか立ち上がる。
多分、右脚が折れてる。
立ち上がるだけで精一杯だ。
走る力なんて当然ない。
それでも、絶対にコイツだけは倒す。
近くにあった大きな石を拾おうと思った。
でも、その力すらない。
——なら、こうするしか。
「あぁクソ、最悪だよ! このガキお姫様のくせになんて下品なことしやがる——ウグゥッ!」
ごちん、と大きな音が鳴った。
しゃがんでいる男の後頭部に、全体重を乗せた頭突きを喰らわせる。
男の頭めがけて、頭から倒れにいったという方が近いかもしれない。
「倒した……か……?」
額から流れ出る血が、頭突きの威力を物語っている。
不意打ちを喰らった男は完全に脱力して、意識を失っていた。
頭蓋骨が軋んでいる。
脳みそが飛び出てるんじゃないかと思うほど痛い。
だけど、痛いってことはまだ生きてる。
俺はまだ、生きてるんだ。
その痛みが、俺の意識を覚醒させた。
周囲の景色や音が、鮮明に入ってくる。
火事場の馬鹿力というやつなのかもしれない。
逃げなきゃ。
何で俺は襲われているんだ?
この男は誰なんだ?
この女の子は誰なんだ?
というか俺、さっきまで川にいなかったか?
何でこんなところにいるんだ?
いや、そんなこと、今はいい。
今のうちに、この男にトドメを刺すべきだ。
俺は、握れる程度の石を手に取った。
コイツを振り下ろせば——
「——ダメです、姫」
声がして振り向くと、女の子がこちらに向かって手を伸ばしていた。
「殺しては、ダメです。あなたは今度こそ、戻れなくなる」
何を言ってるんだ?
自分を殺そうとしているヤツを、庇おうとしてるのか?
そしてこの子は、何で俺のことを『姫』と呼ぶんだ?
「お願いです、姫、どうか」
息も絶え絶えに懇願する彼女には、言いようのない気迫があった。
「わ、分かったよ。分かったけど、どうすればいいんだよ」
「逃げてください」
食い気味に、はっきりとそう言って続ける。
「この森を抜けて、道なりに少しいけば、ラーハットの駐在所があります。そこまで……とにかく走り抜けてください」
そこまで言い切ると、ふー、と長いため息を吐いた。
なるほど。
やるべきことは分かった。
俺は周囲を見渡して、男のズボンから片手でベルトを抜き取る。
それを輪っかにして、首からぶら下げて、女の子を輪の中に入れた。
ベルトをきつく締め直して、体を密着させる。
「姫! な、何をしてるんですか!」
「何って、逃げるんだよ」
片腕しかないから抱きかかえることはできない。
だからこうするしかない。
歩きづらいけど、歩けはする。
「何で今日に限ってそんなことをするんですか! 私のことなど、嫌いなはずでしょう! 捨て置いていけばいいじゃないですか!」
「頭痛いからさ、ちょっと黙ってくれないかな」
ずるずると、お互いがお互いを引きずるように歩く。
いったいこれは何なんだ。
妖怪みたいな顔をした男が、女の子とこんな体勢で歩いてていいのか?
でも、ここがどこで、彼女が誰であろうと関係ない。
自分を守ろうとしてくれた人を見捨てていけるほど、人として終わっていない。
考えろ、まだ道はあるはずだ。
続く




