プロローグ ~セミの鳴く中で~
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小学生の頃、恋をしましたか?
俺はした。
すごく、好きな人がいた。
初恋の相手は担任の先生だった。
当時『もうすぐ還暦』と言っていたから、今はもう六十路を超えている頃だと思う。
大人しくてお上品で、誰にでも優しい人だった。
そして何より美しい女性だった。
彼女と初めて会った時、俺は小五のクソガキだった。
だから、恋が何なのかなんて分かるはずもない。
好きってことがどういうことなのかも分からない。
むらむらと沸き上がるこの気持ちの収め方も、まるで分からなかった。
でも、色んな本やマンガ、テレビの言葉を借りれば、これが俺の初恋であったことに間違いはない。
俺の初恋の相手は、六十手前のおばさんだったわけだ。
結果、その恋は叶わなかった。
だけど、隠そうとしない滑らかな白髪、目元や首元の柔らかなシワ、喉の奥から出るような少し低めの優しい声——
その、美しく熟した果実に、俺は確かに恋をしたのだ。
そして時は流れ、高校二年生になった俺がここにいる。
大きくなれば同世代の女を好きになると思っていた。
だけど、俺の理想像はまるで変わっていない——
「熟女好きの何がおかしいんだよ……」
ガンガンに冷房が効いている部屋。
なのに空気がどんよりとしていて、何より臭い。
この六畳のマイルームが、俺の唯一の安息の場所だ。
外からはセミの鳴き声が聞こえる。
一匹が窓に張り付いたみたいで、ものすごくうるさい。
窓を叩けばすぐに飛んでいくだろう。
だけど、立ち上がって窓までいくのすら面倒だ。
ベッドとパソコンデスク、トイレへの往復。
これが俺の行動範囲になっている。
典型的なニートの生活をしているけど、残念ながら俺はニートじゃない。
歴とした学生で、今は夏休みなのだ。
だけど正直、二学期からはニートになりたい。
学校なんていきたくない。
小学校、中学校と九年間耐えてきて、何で高校でもイジめられなきゃいけないんだ。
イジメの原因は色々ある。
というより『どんな事象でもイジメの原因になり得る』と言った方がいいのかもしれない。
数多くのイジメの原因がある中で、俺のイジメの原因は、顔だった。
だった、というか現在進行形だ。
顔だ。
顔がよろしくない人間の末路なんて、誰もがよく知っている。
小さい時から観てきたアニメでは、カッコいいイケメンのヒーローが、不細工なキモい悪役をブチのめして、みんなから感謝される。
『やったぜ!』と喜ぶ。
不細工な俺は、容赦なくブチのめされた。
だけど、誰も『可哀想』だなんて言わない。
教師ですら口を揃えて、
『やったぜ!』
だった。
もしくは見て見ぬフリだった。
俺の初恋の、彼女以外は——
「……あぁ。熟女は、美しいなぁ」
パソコンの画面に写し出されているのは、実に2テラに及ぶいかがわしい画像達だ。
それが実に2テラ分、画像だけで2テラ分ある。
当然、動画なんてその何倍もある。
俺は『歳の離れた人を愛しちゃいけない』という暴法を敷くこの世界が一番怖い。
人間が人間を愛することの、いったい何がいけないのだろうか?
こんなのおかしい。
少なくとも、お互いの同意があればいいじゃないか。
大人達の勝手な固定概念で、俺達の恋心を踏みにじらないでくれ。
「何かないかな……」
2テラあっても毎日見ていると飽きる。
だから日々、新しい画像を探す作業を繰り返している。
ネットで行きつけの掲示板を漁る。
日課のようになってしまっていて嫌になる。
時間の無駄だといつも思う。
だけど他にやりたいこともない自分に気が付いて、もっと嫌になる。
「何だよ、全然ないな……」
今日は不作か、とため息を吐きながら掲示板を漁っていると、
「お……?」
くだらない会話や一発ネタのようなものの中に、目を引く一文があった。
『夏は川に行け。熟女の水着姿がたくさん見えるぞ』
「なるほど……」
そういえば、家から自転車で三十分ぐらい走ったところに、川遊びで有名な川がある。
あまりに無縁だからすっかり忘れていた。
「特にやることもないしな……」
引き出しの奥から久しぶりに自転車の鍵を取り出して、部屋を出た。
「出掛けてくる」
リビングでテレビを観ていた母親にそれだけ伝えて家を出た。
特に興味もなさそうだった。
※
「おぉ……」
セクシーお尻がそこにはたくさんあった。
多分、孫の付き添いできている、おばあ様達なのだろう。
子ども達はギャハギャハとはしゃぎまわって、新陳代謝の臭いと耳障りな騒音を振り撒いている。
不愉快すぎる。
一方、おばあ様達はどこまでも美しかった。
さすがにビキニみたいな格好をしている人はいなかった。
だけど着ているTシャツが濡れ、ふくよかなボディラインがぴったり浮かび上がっている人はたくさんいた。
……何か興奮してきたな。
小学生の時に履いていた短パンを引っ張り出して履いているから、かなりキツい。
色んな意味でキツくなってきたから、短パンを履き直すフリをしてポジションを整え、周囲を見渡す。
川は周囲を森に囲まれていて、家族連れが数えきれないぐらいいる。
人でごった返したその風景には、自然の風情みたいなものはまるでない。
だけど人がいなければ、なかなか壮観だったかもしれない。
川はところどころ小さな滝をいくつも作っていて、ごつごつとした岩が至るところにある。
その風情におばあ様達が咲いて、本当に美しい。
好みの人はいないかな、と周囲を見渡していたら、
「わお……」
ドストライクな人がいた。
七十手前ぐらいだろうか。
白い短パンと白いTシャツを着て、美しい熟れたボディラインがよく分かる。
長い白髪を一つ結びに結っていて、うなじに視線が吸い込まれていく。
だけど彼女は自分にそんな魅力があるということも忘れて、大はしゃぎする孫の相手をしている。
ごくり、と、喉が鳴る。
もっと近くで見たい。
あの柔らかなしわの寄った肌を。
優しそうな目尻を、近くで見たい。
芳醇な匂いでも嗅げたら最高だ。
限界まで近寄ったら、自転車にまたがって颯爽と逃げ去ろう。
そして、その美しさを五感に焼き付けたまま妄想に耽ろう。
今、俺は最大のチャンスを迎えている。
あぁ、ドキドキしてきた。
これ、犯罪か?
まさか。触るわけでも盗撮するわけでもない。
ただ近くに行かせていただくだけだ。
大丈夫、大丈夫。
どくどくと、心臓の音が聞こえる。
川に膝まで浸かっているというのに、その川の音より心臓の音の方がはるかに大きく聞こえる。
決めた、いこう。
一歩ずつ、慎重に、距離を詰めていく。
近付くたびに、彼女の姿がよく見えた。
しわとシミの目立つ手は、一切水を弾いていない。
そのすべてを受け入れているように見える。
聖母そのものだ。
健康的な太陽の光の下で、ぬらぬらと妖しく光っている。
皮と肉がたるんだ二の腕。
Tシャツの下に着ている黒い水着。
うなじの産毛に光る水滴。
あぁ、美しい。
これが、人間の美の究極系だ——
「きゃっ」
後ろから小さな悲鳴が聞こえた。
あと数歩でも前を歩いていたら、きっと聞き逃していただろう。
それぐらい小さな悲鳴だった。
イジメられっ子は物音に敏感だ。
だから気付けたのかもしれない。
反射的に振り返ったら、大きな岩から、子どもが滑り落ちていく瞬間だった。
なぜかやたらスローに見えた。
どぼんと大きな水しぶきをあげながら沈んだ彼女は、十秒経っても浮かんでこない。
目の前で起きたことが処理しきれずに、俺はその場でフリーズした。
え? 大丈夫だよな?
別に大したことじゃないよな?
どうせ、滑って落ちて、そのついでにちょっと潜水を楽しんでいるだけだよな?
だけどそのフリーズも、苦しそうにもがく彼女が水面に顔を出したことで終わる。
「——あ、危ない!」
危ないことなんて誰が見たって一目瞭然だ。
周囲で騒いでる家族連れやカップルが見たって一目瞭然だ。
でも俺は咄嗟にそう叫んで、女の子のもとへ不格好なフォームで泳いで駆け付けた。
近くに寄った途端、右腕をぎゅっと掴まれる。
うわ、つるつるのガキの感触だ。
こんなものの何がいいんだ。
新陳代謝で生命が漲っている感じがして気持ちが悪い。
女の子の腕を必死に引っ張る。
だけどパニックになっているからか、もがいて暴れている。
これが火事場の馬鹿力というやつか、となぜか冷静に考えている自分がいた。
自分の好みとは対極にいる女に触れられているから、醒めているだけなのかもしれない。
そういえば、ライフセーバーが溺れている人間を助ける時って、下手すると自分も溺れさせられるから、一回わざと溺れさせるんだっけか。
緊急事態なのに、時間が何十倍にも伸びたかのように色んな考えが頭をよぎる。
走馬灯とは違うけど、これは何だろう。
空いている左腕で子どもの腰に手を回す。
抱き付く形になる。
子どもは完全にパニック状態で、体を大きく動かして暴れている。
このままでは自分も引きずりこまれてしまう。
ぐっと力を入れるものの、すぐに振り解かれてしまう。
そして肩にしがみつかれる。
そのままどんどん、俺でも足が届かないところに流されていく。
「女の子が溺れてるぞ!」
どこかでおっさんが叫ぶ。
誰かの悲鳴。
彼女の悲鳴。
ばしゃばしゃという水の音。
セミの鳴き声。
川の流れる音。
耳に水が入って音が遠くなっていく。
あぁ。
せめて熟女に触れたかったな。
ふっ、と、体から力が抜ける。
世界が徐々に白くなっていくのを感じた。
あぁ、俺、死ぬのかな。
まぁ、いっか。
最悪な人生だった。
だけど、死ぬ間際にいいものが見れた。
最高に美しい熟女だったな。
神様もなかなか粋な演出をするもんだなぁ。
強烈なセミの鳴き声の中。
しわもシミもない少女の体に辟易しながら、俺はしょうもない人生に幕を下ろした。
続く




