第46話「狂恋」
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「ここは……」
肌寒さに身震いしながら体を起こす。車内であることを理解すれば、意識が一気に覚醒した。
「やば」
シートが倒れているということは、新垣さんが倒してくれたのだろう。一夏さんが、あの人を〝優しい〟と言っていた意味が、今更ながら分かるような気がした。
効きすぎるくらいの冷房に二の腕を摩る。Tシャツから覗いた腕は鳥肌が立っていた。と、運転席のドアが開く。そちらに目線を向ければ、乗り込んでくる新垣さんがいた。
「起きたか。腹減ってないか? おにぎりで良かったら食えよ。後ろの席にある」
「あ、ありがとうございます。って、もう夕方!?」
「七時になるとこだから、夜って言っても過言じゃないかもな」
「夜!? 連絡……」
「は、しといた」
「え?」
「お前の文面真似して息抜きに友達とご飯食べに行ってくるってな。
寝れてなかったんだろ? 起こすのも悪いから寝かしといた」
「何から何まですみません……」
「一週間で随分老けたな」
「せめて扱けたとか、痩せたとか言ってください」
文句を言いながらオニギリに齧り付く。咀嚼していれば目元を緩める彼がいた。
「言い返す元気があんなら大丈夫だ。喋れるうちは人間なんとかなる」
昔を思い出しているのだろうか。遠くを見つめるような瞳は哀愁漂っていた。恐らく堕ちていた時期の一夏さんと比べてということなのだろう。
「煙草吸っていいか?」
「あ、はい」
そう言った彼がライターと煙草を取り出す。煙草の先端を炙ると、燻っていた紫煙が伸びた。僅かに息を吸った彼が吐き出す。唇から漏れるそれは、煙草独特の臭気を発していた。
「煙草、吸うんですね」
「一夏の為にやめてたんだけどな。暫く口寂しくなるし」
「なんで一夏さんの為に?」
「アイツ、この匂い嫌いなんだよ。あと苦いだろ」
「苦いんですか? 煙が?」
「お前、キスしたことないの?」
オニギリと共に言葉の意味を咀嚼し顔が熱くなる。暫し目を瞬いていた俺が紅潮したものだから、新垣さんが噴出していた。
「ないんだ?」
「ありますよ!」
「へぇ? 一夏のことは諦めて煙草吸う女と付き合ってみたら? 苦いの意味分かると思うぜ?」
「絶対、嫌です」
「お子様にアイツが落とせるとは思わないけど」
「いつまでも子供じゃありませんから」
「どうだか」
「もうキスしないでくださいね」
「しねぇよ」
「そうですか」
「したくてもできねぇしな」
切なそうに吐き出した煙が透徹に浸透していく。煙草の火を消した彼は、暫く逡巡しているようだった。
「話してもいいか?」
「はい」
「俺、一夏がレイプされたことを警察に言ったんだ」
「聞きました。そして俺はストックホルム症候群だと言われました」
「スト……ああ、被害者が犯人に恋するとかいうアレか」
「監禁中に恋してないんだから該当しないですよね」
「そもそもアレ監禁かといえば怪しいけどな」
「軟禁でした」
「まぁ、適応されんなら間違いなく監禁罪だけど」
「まぁ、そうですね」
「監禁罪ってな。被害者が監禁されてる自覚無くても適応されんだって」
「へぇ」
「ストックホルム症候群はねぇな」
「話が、あちこち飛びますね」
「だって、そうだろ。誰がどう考えても違う。刑事は俺達に嘘の証言をさせたいんだ」
「どうしてですか?」
「さぁな」
「さぁなって……」
「計画性があったことは、もう覆せない。だから情状酌量の余地があることを目一杯アピールすることにした。だから……一夏には悪いが明るみに出させて貰った」
「恨まれますよ」
「愛憎なんて願ったり叶ったりだよ。例え何も出来なくなっても、俺が迎えに行って、養ってやるんだから」
自嘲する彼は、強い眼差しで未来を見据えていた。
「なんでそこまで出来るんですか?」
「さぁ、自分でもよく分かんないよ。けど、それが好きってことなんだろうな。無条件で何でもしたくなる。俺は他人に興味がないぶん、分散される筈の愛情が好きな奴にのみ注がれるんだと思う」
「好きになるキッカケとかあったんですか?」
「覚えてねぇよ。気付いたら好きになってて、気付いたら一緒にいた」
シートに踏ん反り返った彼が、面倒くさそうに言葉を連ねる。未だ残る煙草の匂いは空気中を浮遊していた。
傾いた陽が山脈に身を隠す。藍色の空には月が姿を現していた。




