第16話「悪意」
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淡い月桂が降り注ぐ。僅かに持ち上げた瞼の先には孤月が在った。
「何時だろ……」
枕元を漁りスマートフォンを探す。青光りの先は十九時過ぎを指していた。最後に時刻を確認したのは十七時頃だった気がする。俺は再び瞼を下ろすと、二度寝しようとしてやめた。
彼女の言葉に甘えて十日。俺は好奇心擽られる書物を片っ端から読み漁っていた。いつも通り家を出て、公園のトイレで着替える。そのままチカさんの家に上がり夜まで時間を潰すのだ。
一人暮らしの女性の家に入り浸るのもどうかと思うが、泊まるだなんてもっと有り得ない行為だろう。俺は怠い身体を持ち上げ、ベッドから降り立った。
歩き慣れた廊下を歩み、リビングのドアを開ける。そこには見たことのないスーツ姿の男と、チカさんがいた。立ち話でもしていたのか、それとも家に上がったばかりなのか。目の前に立ちはだかる長身の男に恐れ戦く。驚きに目を瞠り扉を閉めようとすれば、それを制された。勿論、相手は他でもない彼である。
「誰だ」
「あ、えと……そ、え、っと……」
威嚇するかのように低く唸る声。蒼白した顔を伏せ、俺は吃音を発することしか出来なかった。
「隼君だよ」
「俺以外の男を家に上げたのか」
「ココは私の家でしょ」
「い……!」
「チカ」
「何を……」
「チカって呼んで」
射貫くような鋭い眼差しに気圧されたらしい彼が不満げに緘黙する。
「伊澄」
「……分かった。でも、こいつを家に上げるのはやめろ。不愉快だ」
「あ、あの俺……チカさんとは怪しい関係とかじゃ……!」
「知っている。黙れ」
唐突に胸倉を掴まれ、壁に押し付けられる。精悍な顔立ちが迫ってきたことで身を縮こませた。
「いじめないで」
「俺はお前が心配で……!」
「分かってる。大丈夫だから、ね?」
「でも!」
「離してあげて」
「……クソッ……!」
悔しさを吐き捨てた彼から解放され後ずさる。乱れた胸元を直しながら目を泳がせていれば、チカさんに「大丈夫?」と訊ねられた。彼の様子を伺いながら小さく首肯する。それを確認した彼女は彼に向き直った。
「ありがと」
「いい……お前の頼みだからな」
そう言った彼が破顔する。その笑みがあまりにも優しくて、この人がチカさんをかけがえなく思っているのが分かった。
それと同時に淀んだモノがせり上がる。咽頭を刺激するそれに、俺は叫び出したくなった。
「……帰ります」
「あ、待っ……」
制止するチカさんを彼が止める。躊躇いなく触れる大きな掌に俺は逃げ出した。
半ば走るように玄関へ向かう。靴を履いてドアノブに手を掛けたところで、自身が荷物を手にしていないことに気付いた。
「なに、してんだろ」
零れだした自嘲が鼓膜を切なく揺らす。名前の付いてしまった感情に唇を噛んだ。
鉄の味が口腔を侵す。浅い呼気に痛む胸。虚に流れ込む真実に蓋など出来なかった。
このまま帰るわけにも行かず、リビングへ足を向ける。足音を立てぬよう細心の注意を払っていれば、聞きたくもないささめきが耳介を撫でた。
「なんであんな奴を……あの顏を見てるだけで腹が立つ」
「話したでしょ。隼君をいじめないで」
「いじめるって言い方が気に食わない。それは……!」
「分かってる! 伊澄の言いたいことは、ちゃんと分かってるから……ちゃんと、いつも感謝してるから……」
「俺が欲しいのは感謝じゃない」
「わかっ……」
声が途切れたことで胸がざわつく。全身が総毛立ち、脳が警鐘を告げていた。耳鳴りと共に視野の縁を闇が染め上げていく。このまま帰らなければ、そんなことを思惟しながらも俺の手はドアノブを回していた。




