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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第一章 幻の島と失ったもの

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第九話 被害者 Ⅱ

海沿いの焼き場で、全ての死体が同時にのけぞった。


 眼獣の身体から白い糸が引き出され、町の中心へ向かって伸びる。


 一番隊の刀へ噛みついていた顎が止まった。


 海から上がった骨の脚も、砂へ深くめり込む。


「今だ!」


 一番隊長が叫ぶ。


 隊士たちは残った力で刀を振るった。


 白い糸が伸びきった眼獣から、脚と顎を斬り離していく。


 一体。


 三体。


 十体。


 死骸が炎の中へ崩れた。


 これまでより、戻りが遅い。


 三呼吸を越えても、新しい眼が開かない。


「誰かが、向こうでも戦ってるのか、」


 若い隊士が町を見た。


 試合場の上空に、黒い筋が立ち上がっている。


 一番隊長は刀を杖にして立ち上がった。


 再び形を得ようとする骨を、炎の奥へ蹴り戻した。


     ◇


 北山で、山喰らいの右脚が崩れた。


 三番隊の攻撃ではない。


 巨体を作っていた白い眼力が、試合場の方角へ引かれている。


 山喰らいは踏ん張ろうとした。


 しかし白い糸が伸びるほど、焼けた骨同士の隙間が広がっていく。


「鎖を掛けろ!」


 三番隊長が斜面へ飛び出す。


「今度は脚じゃない! 胴を谷側へ引け!」


 新しい鉄鎖が、露出した肋骨へ通された。


 十人がかりで引く。


 山喰らいの巨体が、僅かに谷へ傾いた。


 喉の眼が赤く光る。


 熱を吐こうと口が開く。


 だが眼力まで白い糸へ吸われ、火の代わりに黒い煙だけが漏れた。


「もう一度!」


 三番隊が鎖を引く。


 焼けた後脚が地面を離れた。


 山喰らいの身体が横向きに倒れ、谷の縁へぶつかる。


 斜面が崩れた。


 巨体の半分が谷へ落ちる。


 残った前脚が土へ爪を立て、落下を止めた。


 完全には落とせない。


 だが町へ向かう足は止まった。


 三番隊長は試合場へ伸びる白い糸を見る。


「命をかけて、持たせるんだ」


 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。それでも必死で


「あと少しだけ、持たせろ!」


     ◇


 南の船着き場には、島じゅうの舟が集められていた。


 漁舟。


 見張り舟。


 荷を運ぶための平舟。


 海へ出られるものは、壊れかけた小舟まで一列につながれている。


 二番隊は桟橋へ板を渡し、町民を順番に乗せていた。


「子どもと負傷者を先へ!」


「荷物は置いていけ! 水と食料だけだ!」


 泣く子どもを船へ渡す者。


 動けない老人を背負う者。


 家へ戻ろうとする者を押し止める者。


 誰も、島の外で何日過ごすことになるのか知らない。


 戻ってこられるかも分からない。


 それでも、町の方角から聞こえる眼獣の声が選択を急がせた。


「第一船、出せ!」


 綱が解かれる。


 老人と子どもを乗せた舟が、櫂をそろえて岸を離れた。


 団子屋の老婆は船縁につかまり、坂の上を見続けている。


「あの兄弟は」


 近くの二番隊士へ尋ねた。


「まだ試合場です」


「隊長さんも一緒かい」


「はい」


 隊士はそう答えたが、自分にも確信はなかった。


 試合場から戻った伝令は、一人もいない。


 桟橋の入口で、別の隊士が人数を数えている。


「残り三十七人です!」


「四隻残せ! 第二船まで先に出せ!」


 町へ続く坂の途中で、白い霧が立ち上がった。


 骨だけの眼獣が二体、避難路へ入り込む。


 残った二番隊士が刀を抜いた。


「舟へ近づけるな!」


 波が桟橋を叩く。


 海はいつもと同じように満ち引きを繰り返している。


 だが島の上だけが、白い死者の霧に包まれ始めていた。


     ◇


 光留は、白い海の中へ立っていた。


 試合場はまるで消えているように。


 足元には水があるのに、濡れていない。


 空も海も白く、境目がなかった。


 黒い刀だけが、右手に残っている。


「蓮次郎!」


 声は遠くへ響かず、その場で沈んだ。


 白い海の向こうから、人影が歩いてくる。


 一人ではない。


 鎧を着た者。


 隊羽織を着た者。


 着物姿の女。


 幼い子ども。


 眼獣の形をした影も混じっている。


 全員が、身体のどこかを失っていた。


 腕。


 眼。


 顔。


 死者たちは光留を見ず、同じ方向へ歩いていく。


 その先に、一枚の大きな戸が立っていた。


 家の戸ではない。


 島の門よりも高く、白い海から空まで続いている。


 戸の前に蓮次郎が座っていた。


 膝を抱え、顔を伏せている。


「蓮次郎!」


 光留は死者の流れへ逆らって走った。


 肩がぶつかるたび、知らない最期が身体へ入る。


 焼かれる痛み。


 海へ沈む息苦しさ。


 仲間へ置いていかれる恐怖。


 帰る家を失った悲しみ。


 足が重くなる。


 それでも止まらない。


 蓮次郎の肩をつかんだ。


「兄ちゃん」


 弟が顔を上げる。


 眼は白く濁っていた。


 だが声は、いつもの蓮次郎だった。


「遅いよ」


「刀が見つかりにくいところにあったんだよ」


「俺のせいにするの?」


「お前が待つって言っただろ」


 蓮次郎が弱く笑う。


 その笑みはすぐに消えた。


「俺、たくさん呼んじゃったんだ、」


「見れば分かる」


「一人ずつだと、全部崩されて負けそうだったから」


「馬鹿だな」


「兄ちゃんに言われたくない」


 死者たちは二人の横を通り、巨大な戸へ吸い込まれていく。


 戸の隙間から、暗い海が見えた。


 そこには空も星もない。


 ただ、数え切れない白い眼だけが浮かんでいる。


「あいつが、声を止めてくれた」


 蓮次郎が戸を見た。


「身体を貸せば、決勝にいかせてくれるって」


「これが決勝かよ、」


 蓮次郎は自分の両手を見る。


「母さんの声がした。父さんもいた。兄ちゃんまで俺を呼んだ」


「俺はここにいる」


 光留は弟の額を小突いた。


 白い海が揺れる。


 巨大な戸の前へ、古い隊羽織の男が現れた。


 榊原玄斎。


 蓮次郎の身体を使っていたときより大きい。


 肩には古い傷があり、胸には折れた刀が突き刺さっている。


 白く濁った眼だけが、死んだ者とは思えないほど強く光っていた。


「本物と偽物を、何で見分ける」


 玄斎が尋ねた。


「声か。姿か。記憶か」


 父の姿をした影が、玄斎の横へ現れる。


 母の姿をした影もいる。


 光留の胸が痛んだ。


 顔も声も、記憶の中と同じだった。


「蓮次郎」


 父の影が手を伸ばす。


「よく待ったな」


 蓮次郎の身体が動きかける。


 光留は腕をつかんだ。


「父さんなら、俺たちを待たせたことを先に謝る」


 父の影が止まった。


「母さんなら、蓮次郎だけを呼ばない。俺にも飯を食べろって怒る」


 母の影から、笑みが消える。


 二つの影が白い霧へ戻った。


「記憶だけで作った偽物だ」


 光留は玄斎へ刀を向ける。


「それで俺たちをだませると思うな」


 玄斎は答えず、巨大な戸へ手を置いた。


 隙間の向こうで、数え切れない眼が開く。


 白い海を歩いていた死者たちが、一斉に蓮次郎へ顔を向けた。


「この器は、すでに扉へつながった」


「だったら、そのつながりを切ってやるさ」


「やれるものならな」


 玄斎が笑う。


 死者の列が崩れ、白い波となって光留の黒い刀へ押し寄せた。


 刃が急に重くなる。


 何十人もの声が、腕から頭へ流れ込んだ。


 光留の足が白い海へ沈む。


「兄ちゃん、もういい」


 背後で、蓮次郎が言った。


「よくない」


「その眼、壊れるよ」


「壊れる前に連れて帰るさ」


「無理だ」


 蓮次郎は白い戸を見上げた。


「俺が呼んだ霊だけじゃない。知らない声が、島じゅうから入ってくる」


「何でだ」


「分からない」


「あいつが何をした」


「分からないんだよ!」


 蓮次郎の声が白い海へ響いた。


 玄斎は何も答えない。


 ただ、弟の後ろへ影を伸ばし続けている。


「気づいたら、試合場の下から声がした」


 蓮次郎が震える手を握る。


「俺がたくさん呼んだら、関係ない霊まで入ってきた。眼獣も、昔の隊士も……あいつも」


「俺が動けば、全部ついてくる」


 蓮次郎の足元から、島じゅうへ無数の白い糸が伸びていた。


 どこへ続いているのか、弟にも分からない。


 一本を外しても、その下に十本。


 十本を抜いても、さらに白い根が現れる。


「だから、兄ちゃんは逃げて」


「ふざけるな」


「町の人も、伊織も、隊長も連れて」


「お前を置いていけるか!」


 光留は蓮次郎の腕をつかんだ。


 冷たい。


 それでも、確かに弟の腕だった。


「決勝で待ってるって言っただろ」


「待てなかった」


 蓮次郎が泣きそうな顔で笑う。


「だから今度は、兄ちゃんが待ってて」


「嫌だ」


「父さんを見つけて」


 光留の手から、力が抜けかけた。


「父さんなら、俺に何が起きたか知ってるかもしれない」


「そんなこと――」


「兄ちゃん」


 蓮次郎は、つかまれた腕を自分から握り返した。


「俺も、何が起きてるのか分からない」


 白い濁りの奥から、弟の眼が光留を見る。


「だから、生きて確かめて」


 玄斎の影が蓮次郎の背中へ重なる。


 弟の指から、少しずつ力が失われていく。


「逃げて、兄ちゃん」


 蓮次郎が光留の胸を押した。


 白い海が割れた。


     ◇


 試合場へ、光留の意識が戻った。


 両手は黒い刀の柄を握っている。


 切っ先は砂へ深く刺さったままだった。


 地面の下から、白い眼力が濁流のように押し寄せてくる。


 黒水はそれを吸い続けていた。


 右腕に浮かんだ黒い筋は肩を越え、首まで上がっている。


 息を吸うたび、知らない声が肺の内側で叫んだ。


 帰りたい。


 殺せ。


 寒い。


 門を開けろ。


 忘れるな。


「光留、手を離せ!」


 御影の声が聞こえる。


 離せば楽になる。


 刀から手を放し、白い流れへ蓮次郎を返せば、この痛みは終わる。


 光留は柄をさらに強く握った。


「嫌だ!」


 玄斎が蓮次郎の右腕を上げる。


 古い隊士たちが、光留へ殺到した。


 伊織が一人で前へ出る。


 左右から迫る槍を刀で払い、正面の武者へ炎を浴びせた。


 一体を崩す。


 その背後から二体。


 二体を斬れば、その後ろから四体。


「まだか、光留!」


「あと少し!」


「さっきから、それしか言ってないぞ!」


 古い隊士の槍が、伊織の左脇腹をかすめる。


 羽織が裂け、血が散った。


 伊織は下がらない。


 炎を刀から腕へ広げ、身体ごと死者の列へぶつかった。


「ここは通さない!」


 御影は玄斎の左胸を見続けていた。


 綻びの眼へ眼力を集めるほど、白い線が増えていく。


 一本だった亀裂が十本へ分かれる。


 十本の先が、さらに細かく枝分かれする。


 どれが蓮次郎で、どれが玄斎なのか。


 見分けようとするたび、眼球の奥へ針を刺されたような痛みが走った。


 御影の右眼から血が垂れる。


 続いて左眼。


 赤い筋が頬を伝っても、眼を閉じなかった。


「まだ、見える」


 自分へ言い聞かせる。


 時任は折れた木刀を、痺れた右手へ握り直した。


 外れた左腕は動かない。


 右の指にも、木刀を握っている感覚はほとんど残っていなかった。


 それでも両膝を砂へつき、木刀の折れた先を地面へ押し当てる。


「地走り」


 銀色の波紋が、両眼へ浮かぶ。


 振動が砂を伝い、古い隊士たちの足元へ届く。


 一体目。


 二体目。


 三体目。


 それぞれ異なる揺れを、無理やり一つへ重ねる。


 時任の鼻から血が落ちた。


 銀色の眼の端からも、細い赤が流れる。


 砂へ落ちた血が、振動で小さく跳ねた。


「共鳴……崩し!」


 三体の霊が同時に歪む。


 だが、崩れない。


 揺れを合わせきれず、時任の身体へ振動が返ってくる。


 喉の奥から血を吐き、その場へ倒れた。


「時任!」


 御影の視線が一瞬だけ外れる。


 見えていた綻びが、白い線の中へ消えた。


「くそっ……!」


 光留も限界へ近づいていた。


 吸い込んだ眼力が黒い刀から腕へ上がり、首筋まで染めている。


 黒く染まった両眼から、熱い血が流れた。


 鼻から落ちた血が唇へ入り、舌の上に鉄の味が広がる。


 第一話の稽古場で味わった、汗と砂と海の塩とは違う。


 自分の器が裂け始めている感じだった。


「まだだ……!」


 黒水を強める。


 白い根を一本吸う。


 その下から十本が現れる。


 十本を黒く染めれば、さらに百本の細い糸が蓮次郎へ集まった。


 終わりがない。


 島じゅうの死者と眼獣が、弟の身体を通してつながっている。


 光留一人の器へ収まる量ではなかった。


 黒い刀に、細い亀裂が走る。


 柄を握る指から感覚が消える。


「光留、止めろ!」


 御影が叫ぶ。


「これ以上吸えば、お前まで戻れなくなる!」


「蓮次郎を置いて、どこへ戻るんですか!」


 光留は白い流れを引いた。


 玄斎と蓮次郎の輪郭が、僅かにずれる。


 弟の左眼から、白い濁りが引いた。


 黒い瞳が現れる。


「兄ちゃん」


 内側で聞いた声と同じだった。


 光留は左手を柄から離し、蓮次郎へ伸ばす。


「手を出せ!」


 蓮次郎の左手が上がる。


 二人の指先が触れた。


 その瞬間、玄斎の背後から白い眼力が噴き上がった。


 数百本の糸が一度に張り、蓮次郎の身体を後ろへ引き戻す。


 光留の指から、弟の手が滑る。


「蓮次郎!」


「逃げて!」


 弟が叫んだ。


「今度は兄ちゃんが待ってて!」


 蓮次郎の霊の眼が大きく開く。


 白い輪が一つだけ、濁った瞳へ浮かんだ。


 試合場にいた古い隊士たちが、一斉に足を止める。


 玄斎が弟の右手を上げようとする。


 蓮次郎は左手で、その手首をつかんだ。


 同じ身体の中で、二人が争う。


「今だけは、俺の言うことを聞け!」


 蓮次郎が霊たちへ命じる。


「兄ちゃんたちを、外へ出せ!」


 古い隊士たちがゆっくりと向きを変えた。


 光留たちへ背を向け、試合場から這い上がる眼獣の群れへ刀を構える。


 死者と死体がぶつかった。


 白い霧が壁となり、中央への道を塞ぐ。


 玄斎の顔から笑みが消えた。


「器ごときが」


 蓮次郎の右手が、自分の左腕をつかむ。


 白い濁りが、再び左眼を覆い始める。


「兄ちゃん!」


 弟の最後の声が飛ぶ。


「行け!」


 伊織が光留の襟を後ろからつかんだ。


「離せ!」


「あいつが作った時間を無駄にするな!」


 光留は黒い刀を砂から抜こうとする。


 指が動かない。


 御影が代わりに柄をつかみ、黒い刀を引き抜いた。


 黒水のつながりが切れる。


 吸い込まれかけていた白い眼力が、一斉に蓮次郎へ戻った。


 反動が光留の身体を吹き飛ばす。


 伊織が背中で受け止めた。


 御影は黒い刀を光留の胸へ押しつける。


「持て。父親の刀だろう」


 光留は動かない指で柄を抱え込んだ。


「蓮次郎が――」


「分かっている!」


 御影の両眼から、まだ血が流れている。


「分かっていても、今は連れ出せん!」


 伊織が倒れた時任を右肩へ担ぎ、左腕で光留を引く。


「走れ!」


 白鷺と残った隊士たちも、鳥居へ向かう。


 光留は何度も振り返った。


 死者の隙間に、蓮次郎が立っている。


 左眼は再び白く濁り、顔から弟の表情が消えていく。


 それでも、下げた左手だけが僅かに動いた。


 行け。


 そう言うように、指先が一度だけ開いた。


     ◇


 御影の警笛が、町へ響いた。


 短く三度。


 長く一度。


 全部隊へ撤退を告げる音だった。


 海沿いの焼き場で、一番隊長が警笛を聞く。


 目の前では、崩した眼獣が再び形を取り始めている。


「一番隊、海沿いを捨てる!」


「町へ入られます!」


「町民はもう南だ! 俺たちも舟へ向かう!」


 一番隊は油壺を残らず焼却穴へ投げ込んだ。


 炎の壁を作り、その背後から退く。


 北山でも、同じ警笛が聞こえた。


 三番隊長は、谷へ半身を落とした山喰らいを見る。


 鎖を離せば、巨体は再び町へ向かう。


 だが守るべき町民は、すでに船着き場へ移っている。


「鎖を杭へ巻け! 全員、南へ走れ!」


 残った鎖を三重に巻きつける。


 隊士たちは焼けた手を布で縛り、山を下り始めた。


 背後で、山喰らいが鎖を引きちぎる音が響く。


 一番隊と三番隊が、別々の道から南へ向かった。


 町の中では、白い霧が家々の間を埋めている。


 死んだ眼獣が石畳を歩き、昔の刃眼隊がその横を進む。


 何が彼らを呼び戻したのか。


 なぜ蓮次郎が選ばれたのか。


 榊原玄斎が何を望んでいるのか。


 誰にも分からなかった。


 ただ、今の刃眼隊に止める力が残っていないことだけは分かった。


     ◇


 光留たちが船着き場へ着いたとき、残っていた舟は四隻だった。


 一隻には、逃げ遅れた町民が乗っている。


 もう一隻には負傷した隊士たちが運び込まれていた。


 残る二隻は、一番隊と三番隊のために、最低限の漕ぎ手だけを乗せて桟橋へつながれている。


「御影隊長!」


 二番隊士が駆け寄る。


「残りは」


「ここにいる者で最後です!」


「町民と負傷者を乗せた二隻は沖へ出ろ! 残りは一番隊と三番隊へ残せ!」


 伊織が時任を船へ横たえる。


 白鷺がその肩と耳を確かめた。


「すぐには死なん。じゃが、両腕は当分使えんぞい」


 時任が薄く眼を開く。


 光留は桟橋の途中で足を止めていた。


 背後の坂を見る。


 白い霧が屋根を越えている。


 その奥に、古い隊旗が浮かんでいた。


 蓮次郎は見えない。


 今戻れば、まだ間に合うかもしれない。


 そんな考えだけが、何度も頭へ戻ってくる。


 一歩、島側へ足を動かす。


 伊織が前へ立った。


「どけ」


「嫌だ」


「蓮次郎がいる」


「知ってる」


「なら――」


 伊織は光留の胸を拳で押した。


「あいつは、お前に逃げろと言った」


 光留は言い返せなかった。


「今戻ったら、あいつが作った道も、時任と隊長が流した血も全部無駄になる」


「お前に何が分かる」


「分からない」


 伊織の脇腹からも血が落ちている。


「何が起きたのかも、どう助けるのかも、俺には分からない」


 伊織は島の奥を見る。


 御影が二人の横を通り、舟へ乗る。


「光留」


 両眼の血を袖で拭っても、赤い跡は消えなかった。


「お前の父親を捜す」


 光留が顔を上げる。


「あの刀と玄斎を知っている可能性がある」


「どこにいるか、分かるんですか」


「分からん」


「島の外に何があるかは」


「それも知らん」


 御影は舟の中から手を伸ばした。


「だから確かめに行く」


 町の方角で、眼獣の咆哮が重なった。


 白い霧が坂を下り始める。


 光留はもう一度だけ、島を見た。


 黒い刀を胸へ抱え、御影の手を取った。


 舟へ乗る。


「綱を切れ!」


 伊織が最後に飛び乗り、船着き場の綱を刀で断った。


 隊士と町民が櫂を握る。


 一度。


 二度。


 舟が桟橋から離れた。


 直後、骨だけの眼獣が船着き場へ飛び込んでくる。


 二番隊士が船尾から刀を振り、伸びてきた前脚を弾いた。


 もう届かない。


 舟は沖へ進む。


 途中で、一番隊を乗せた舟と合流した。


 少し遅れて、三番隊の舟も島影から現れる。


 全員ではなかった。


 どの舟にも空いた場所があり、そこにいたはずの者の名を呼ぶ声が聞こえた。


 それでも舟は止まれない。


 島の浜には、死んだ眼獣が次々と集まっている。


 白い霧の奥には、昔の隊士たちが立っていた。


 その中央で、古い隊旗が揺れている。


 光留は船尾から島を見続けた。


「御影隊長」


「何だ」


「結局、何が起きたんですか」


 御影はすぐに答えなかった。


 白鷺も眼を伏せている。


「分からん」


 御影は正直に言った。


「分かっているのは、蓮次郎が呼んだ霊に、別の何かが混じったこと」


「そいつが榊原玄斎と名乗ったこと」


「そして、島じゅうの死者があいつへつながったことだけだ」


「初代隊長なんですよね」


「記録ではな」


「どうして、あんなことを」


「それを知っている者が、島に残っているかどうかも分からん」


 光留は黒い刀を見る。


 刃に走った細い亀裂は消えていない。


 吸い込んだ死者の声も、頭の奥へ残っている。


 父なら何かを知っているのか。


 なぜ、この刀を残したのか。


 答えは一つもなかった。


 島から風が吹く。


 潮の匂いに、焼けた木と白い霧の冷たさが混じっている。


 光留は黒い刀を鞘へ戻した。


「待ってろ、蓮次郎」


 今度は、警鐘に声を呑まれなかった。


 燃える山も、町の屋根も、海沿いの稽古場も残っている。


 だからこそ、そこへ弟を置いてきたことがはっきりと分かった。


 故郷の島は、蓮次郎を残したまま、荒れた海の水平線の向こうで小さくなっていった。

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