第十話 成長の可能性
海の向こうにも、夜はあった。
同じ月が浮かび、同じ潮の匂いがする。
波は舟底を叩き、櫂が海を掻くたび、黒い水面へ細い銀の筋が伸びた。
島で教えられてきた話とは違い、空の色も、海の音も変わらない。
違うのは、振り返っても家へ帰れないことだけだった。
光留は船尾へ座り、遠ざかる島を見ていた。
町の明かりはもう見えない。
北山に残った炎だけが、水平線の端を赤く染めている。
その上には、白い霧が低く溜まっていた。
あの中に蓮次郎がいる。
今度は、兄ちゃんが待ってて。
弟の声が、波の音へ混ざる。
光留は膝の上の黒い刀を抱え直した。
鞘へ戻した刃は静かだったが、右腕の黒い筋は消えていない。手首から肩まで、薄い墨を皮膚の下へ流したように残っている。
指先には、まだ感覚が戻らなかった。
「見ても、島は近づかないぞ」
橘伊織が隣へ腰を下ろした。
裂けた隊羽織は脱ぎ、左脇腹へ白い布を巻いている。布の端には、すでに血が滲んでいた。
家も、稽古場も、母の部屋も。
蓮次郎も。
同じ場所に残ったままだった。
舟の中央では、負傷した隊士たちが横になっている。
時任清十郎の両腕は添え木で固定されていた。耳と鼻の血は止まっているが、顔色は白い。
御影は柱へ背を預け、両眼を布で覆っていた。
白鷺道伯がその布を外し、灯籠の火を近づける。
「右の眼は開けるな。左も明るさが分かる程度じゃろうぞい」
「朝までには戻るか?」
「戻らんぞい。綻びを見すぎたぞい。二、三日は人の顔すら亀裂に見えるぞい」
「そうか、ありがとうな」
「当分の間は安静にすることじゃぞい」
白鷺は新しい布を巻き直した。
光留は二人の前へ移動した。
「御影隊長」
「何だ」
「なんで、あんなことになったんですか」
波と櫂の音だけが続いた。
舟にいた隊士たちも、目を閉じたまま耳を向けている。
御影はすぐには答えなかった。
「試合で、時任が蓮次郎の霊を振動で崩せて相性が悪かったんだ、」
「はい」
「一体ずつでは通じないと考えた蓮次郎は、一度に多くの霊を呼んだ」
添え木の上で、時任の指が僅かに動いた。
意識があるのかは分からない。
「それで、蓮次郎の眼が暴走したんですか」
「それだけなら、試合場の中で止められたんだ」
御影は布で覆われた眼を島へ向けた。
「蓮次郎が呼んだものに、呼んでいない死者が混じった。昔の隊士、埋められていた眼獣、榊原玄斎。あれだけのものが、偶然一度につながるとは思えん」
「じゃあ、誰かが蓮次郎を使ったんですか?」
「分からん」
御影の声は静かだった。
「確かなのは、試合場の下に俺たちの知らない何かがあったこと。玄斎が蓮次郎の霊の眼を必要としていたこと。そして、お前の黒い刀を知っていたことだけだ」
「蓮次郎のせいじゃないんですよね」
「あいつが多くの霊を呼んだのは事実だ」
光留の拳へ力が入る。
「だが、子どもが一度力を誤っただけで島じゅうの死者が蘇る場所を作ったのは、蓮次郎ではない」
御影は続けた。
「止められなかった俺たちの責任だ」
「隊長だけの責任みたいに言うなよ」
伊織が口を挟んだ。
「俺も試合場にいた。蓮次郎の異変にも気づいてた。それでも止められなかった」
「俺だって――」
光留の声が詰まった。
もっと早く、弟の白い眼を問い詰めていれば。
母の部屋へ向けていた視線を、見て見ぬふりしなければ。
父の刀を探すことより、隣にいる弟を見ていれば。
「全員で一つずつ見落とした」
白鷺が言った。
「今、一人で全部背負おうとするなぞい。」
光留は返事をしなかった。
そのとき、頭の奥で男の声がした。
――降伏するなら今だぞ。
光留の顔が上がる。
舟の先に、一人の古い隊士が立っていた。
胸に三本の矢が刺さっている。
試合場で最初に斬りかかってきた男だった。
男が槍を上げる。
切っ先が伊織の背中へ向く。
「伊織!」
光留は黒い刀へ手をかけた。
伊織が振り返る。
古い隊士の姿は消えていた。
そこには、帆柱と夜の海しかない。
「どうした」
「今、そこに――」
視界の端が黒く欠けた。
舟が大きく傾く。
光留は立っていられず、片膝をついた。
鼻から血が一滴、甲板へ落ちる。
白鷺がすぐに顎をつかんだ。
「眼を開けろ」
「開いてる」
「黒の眼ではない。力を抜け」
光留は呼吸を整えた。
眼力を足、腰、背中へ散らしていく。
黒く染まりかけていた白目が、ゆっくり元へ戻った。
白鷺の乳白色の瞳へ、三重の輪が浮かぶ。
鑑定の眼が、光留の瞳から腕、胸の奥へ移っていった。
老人の眉間に深い皺が寄る。
「やはり、残っておる」
「何がですか」
「お前が黒水で吸った眼力じゃ」
白鷺は小さな水筒を取り出し、光留へ渡した。
「黒の眼は、相手の眼力を消しておるのではないぞい。相手からお前の器へ移しておるぞい」
「でも、俺の眼力は増えてない」
「使える形で収まっておらんからじゃ。水へ泥を混ぜれば、量は増えても飲めんじゃろう」
光留は水筒へ口をつけた。
水は冷たかった。
だが舌には、血と砂と知らない煙の味が残っている。
「吸った眼力には、持ち主の記憶や感情がこびりついておる。先ほど見たものも、その残りじゃ」
「いつか消えますか」
「少しずつ薄まるものもある。残るものもある」
白鷺が光留の右腕を示す。
「無理をすれば、眼と鼻から血が出る。視界が欠ける。人の記憶と自分の記憶を取り違える。さらに器を満たせば、身体が眼力の出口を求めて壊れ始める」
「眼獣になる?」
「可能性はあるぞい」
伊織が息を止めた。
光留だけは、右腕の黒い筋を見たままだった。
「黒水は、もう使えないんですか」
「当分は使うなぞい」
「当分って何日ですか」
「日数の問題ではない。吸った眼力を自分の中で流し、不要なものを外へ逃がす術を身につけるまでじゃぞい」
「その術を覚えれば使えるんですね」
「答えは一つでは無いぞい」
「強くなれば、また使えるのか、」
白鷺が深く息を吐いた。
「御影。こやつの頭も診た方がよさそうじゃ」
「昔からだ。治らん」
「聞こえてますよ」
「黙れ、寝ろ」
御影が言った。
「夜明けまで、西へ走る。着く前に倒れられると邪魔だ」
「どこへ向かってるんですか」
「島だ」
「それくらいは分かりますよ、」
光留が言い返そうとしたとき、頭の奥で別の声が泣いた。
帰りたい。
幼い子どもの声だった。
光留は黒い刀を胸へ抱え、横になった。
眼を閉じても、知らない最期が暗闇の中へ浮かぶ。
それでも、弟の声だけは聞き違えなかった。
――逃げて、兄ちゃん。
◇
どれだけ横になっても、眠れなかった。
舟の上では、誰かが絶えず泣いている。
声を殺して泣く者。
眠った家族の名を呼ぶ者。
帰れないと分かっていて、次の舟へ家族が乗っているはずだと海を見続ける者。
光留は身体を起こした。
伊織が舳先にいた。
指先へ小さな火を灯し、濡れた隊羽織を乾かしている。
炎は拳ほどの大きさしかない。傷を開かないよう、眼力を抑えているらしい。
光留は隣へ座った。
「寝ろって言われただろ」
「お前もだろ」
「俺は見張りだ」
「負傷者だろ」
「隊士でもある」
光留は膝を抱えた。
少し前までなら、その言葉を聞くだけで腹が立った。
伊織は隊士で、自分は違う。
一年前から続いていた、見えない境目だった。
「俺、お前を目指してたんだ」
伊織の火が揺れた。
「急に何だ」
「隊に入ってから、全然話さなくなっただろ」
「話してただろ」
「春に『道を空けろ』って言っただけで、話したことにするなよ」
「覚えてたのか」
「蓮次郎に同じことを言われた」
弟の名を口にすると、胸の奥が痛んだ。
光留は痛みごと、言葉を吐き出した。
「お前が入隊してから、朝は一刻早く起きた。海岸を十往復して、木刀を千回振った。御影隊長が来る日は、立てなくなるまで相手をしてもらった」
「九回倒されてたらしいじゃないか」
「あの日だけじゃない」
「自慢することか?」
「十回目に勝つために必要だった」
伊織は火を見つめたまま黙っている。
「お前が隊長になる前に、追いつきたかった」
「あれは隊のやつらが勝手に言ってただけだ」
「それでも、お前なら本当になると思った」
「俺が島を出るのが嫌だったのか」
「違う」
光留は即答した。
「置いていかれるのが嫌だった」
伊織が光留を見る。
「同じことだろ」
「全然違う。お前が先へ行くのは勝手だ。俺が隣にいないのが嫌だった」
「寂しがり屋かよ、」
「うるさい」
小さな火が消えた。
伊織は乾ききらなかった羽織を膝へ置く。
「俺も、お前たちに会いづらかった」
「何でだよ」
「三人で入るって、勝手に思ってたからだ」
海岸で拾った三本の流木。
光留と伊織と蓮次郎は、それを刀にして日が暮れるまで振り回した。
誰が言い出したわけでもない。
いつか三人で紺の羽織を着ると、全員が信じていた。
「俺だけ先に入って、何を話せばいいか分からなかった」
伊織が自分の手を見る。
「隊の仕事は面白かった。眼獣を倒せば褒められた。昇級もした。それをお前の前で話したら、自慢してるみたいになると思った」
「考えすぎだろ」
「お前に言われたくない」
「普通に来て、稽古すればよかったんだよ」
「お前が負けるたびに不機嫌になるから嫌だ」
「負けるつもりでやるやつがいるか」
「そこは変わってないな」
伊織が笑った。
光留も、僅かに口元を緩めた。
笑ったことが弟へ申し訳ない気がして、すぐに島の方角を見る。
伊織はそれに気づいていた。
「蓮次郎は、お前に待てって言ったんだろ」
「ああ」
「なら、生きてるさ」
「根拠は」
「死ぬつもりのやつが、次に待つ相手を決めるかよ」
光留は弟の笑顔を思い出した。
泣きそうなくせに、いつもと同じように笑っていた。
「必ず助けに戻る」
「ああ」
「島も取り返す」
「ああ」
「父さんも見つける」
「急に増えたな」
「最初からだ」
光留は立ち上がった。
舟が波へ乗り、足元が傾く。
それでも両足を開いて踏ん張った。
「全部やるには、何から始めればいい」
「まず寝ろ」
「違う。強くなる」
「その前に寝ろ」
「今から鍛える」
光留は甲板へ両手をついた。
一度目の腕立てで、感覚のない右腕から力が抜けた。
顔から板へ落ちる。
鈍い音に、近くで眠っていた隊士が眼を開けた。
「何をしてる」
「鍛えてる」
「馬鹿なのか」
「今ごろ気づいたのか」
御影が、眼を覆ったまま言った。
伊織は腹の傷を押さえ、声を殺して笑っている。
「笑うな。傷が開くぞ」
「誰のせいだよ」
光留は鼻を押さえて起き上がった。
弟を置いてきた痛みは消えない。
知らない声も頭に残っている。
だが、立ち止まって考えているだけでは、何一つ戻らないことだけは分かった。
なら、動く。
間違えたら、直してまた動く。
追いつけないなら、追いつくまで走る。
それが光留にできる、最も単純なやり方だった。
いつ眠りへ落ちたのかは、分からなかった。
気づくと、光留は再び白い海へ立っていた。
空と水の境目はない。
死者の列も、蓮次郎も、榊原玄斎もいなかった。
ただ、あの巨大な扉だけが、白い海の中央へ立っている。
固く閉ざされた1枚の扉。
向こう側から、何かがこちらを見ていた。
「蓮次郎?」
返事はない。
光留は扉へ近づいた。
一歩進むたび、足元の白い水が黒く染まっていく。
扉へ手を伸ばす。
指先が触れる直前、向こう側から手のひらを重ねられたような温かさが伝わった。
「誰だ」
長い沈黙のあと、声がした。
蓮次郎でも、父でもない。
自分の声に似ている。
けれど、自分よりもずっと長い時間を生きてきた者の声だった。
「今は、強くなるしかないんだ」
「何を知ってる」
光留は扉を押した。
動かない。
「お前は誰だ!」
今度は、答えがなかった。
扉の隙間から黒い水が一滴だけ流れ、光留の足元へ落ちた。
波紋が広がる。
白い海が砕けた。
光留は舟の上で眼を開けた。
右手が、黒い刀の柄を強く握っている。
扉の向こうの声だけが、胸の奥へ残っていた。
◇
夜明け前、海へ霧が下りた。
最初は水面を這う細い帯だった。
西へ進むほど濃くなり、やがて隣の舟の灯りまで隠した。
「櫂を止めるな!」
一番隊長の声が霧の向こうから飛ぶ。
「灯りを三度振れ! 前の舟から離れるな!」
各舟の隊士が灯籠を振る。
一度。
二度。
三度。
遠くから同じ明滅が返ってくる。
舟は細い列を作り、白い海を進んだ。
「こんなところに島があるのか」
光留が舳先から眼を凝らす。
黒の眼は使っていない。
それでも、霧の向こうに何かが立っているのが見えた。
細い木の柱だった。
海の中へ等間隔に並び、枝から小さな鐘を吊るしている。
波があるのに、鐘は一つも鳴らない。
先頭の舟が柱の間を右へ曲がる。
次は左。
見えない道を知っているように、霧の中を進んでいく。
「柱の外へ出るな」
御影が言った。
「暗礁ですか」
「それだけなら分かりやすい」
「来たことがあるんですか」
「島の外周まで一度だけな」
「何の島ですか」
「着けば分かる」
霧の向こうで、低い音が鳴った。
鐘ではない。
長い竹筒へ風を通したような音だった。
並んでいた柱の鐘が、一斉に揺れる。
それでも音は出ない。
代わりに霧が左右へ割れた。
島が現れる。
海から切り立った黒い岩壁。
その上を、杉と竹の森が覆っている。
木々は山の頂まで隙間なく続き、朝日が昇り始めても奥は暗い。
岩壁の一か所だけが裂け、細い入り江になっていた。
舟は一隻ずつ、その裂け目へ入っていく。
中には穏やかな湾があった。
海沿いに木造の家が並び、長い桟橋が三本伸びている。
人の姿はない。
だが桟橋には新しい縄が置かれ、炊事場の釜からは細い煙が上がっていた。
誰かが、光留たちの到着を知って準備していた。
◇
空が白み始める頃、全ての舟が湾へ入った。
町民たちは、足元を確かめるように一人ずつ桟橋へ下りる。
誰も助かったとは言わなかった。
舟を降りても、背後には知らない島があるだけだ。
団子屋の老婆が、光留の前を通った。
「弟は」
尋ねられ、光留は一度だけ唇を噛んだ。
「迎えに行きます」
「そうかい」
老婆はそれ以上聞かなかった。
「なら、帰ってきたときの団子を考えておかないとね」
「俺の分もお願いします」
「あんたは金を払いな」
「蓮次郎だけですか」
「待たせた罰だよ」
老婆は小さく笑い、避難民の列へ戻っていった。
光留は、その背中へ頭を下げた。
桟橋の中央で、三人の隊長が残った隊士を集めている。
御影の眼には、まだ白い布が巻かれていた。
三番隊長は片手に火傷を負い、一番隊長の刀は半ばから折れている。
それでも三人は、紺色の羽織を着たまま立っていた。
「舟はこれ以上分けない」
御影が告げた。
「町民も負傷者も、全員この島へ上陸させる。ただし、その後は二つに分かれる」
杖代わりの木刀で、桟橋の先を示す。
海岸沿いには、家々へ続く広い道がある。
反対側には、森の奥へ登る細い石段があった。
「一番隊と三番隊の大半は、海沿いの外里で町民を守れ。二番隊は負傷者の手当てと、各舟の確認。動ける者を選び、後で島の内側へ使者を出す」
「内側へ何を頼むんですか」
隊士の一人が尋ねた。
「食料と滞在の許可。それから、故郷の島へ戻るための協力だ」
光留が列の外から前へ出た。
「戻るんですか」
「今すぐではない」
「蓮次郎の救出は」
「斥候を送り、島の状態を確認する。玄斎と死者のつながりを調べ、対抗できる人数をそろえる。それから救出作戦を組む」
「何日かかりますか」
「分からん」
「急いで全滅すれば、助ける者がいなくなる」
御影は光留の方へ顔を向けた。
布で眼を覆っているのに、睨まれているのが分かった。
「俺も参加します」
「駄目だ」
「救出作戦へ入れるのは、隊士だけだ」
光留は紺の羽織を着た者たちを見る。
大会は途中で終わった。
勝ち残っても、入隊を認める者も、結果を書き残す試合場も島へ置いてきた。
自分はまだ、刃眼隊ではない。
「なら、今ここで入れてください」
「断る」
「何でですか」
「自分の眼を一度使っただけで、眼と鼻から血を流して倒れる者へ、救出を任せられるか」
「次は倒れません」
「根拠は」
「今から強くなります」
隊士たちの間へ、短い沈黙が落ちた。
一番隊長が額へ手を当てる。
三番隊長は伊織を見た。
「お前の友人は、前からこうなのか」
「ひどくなったみたいです」
御影だけが笑わなかった。
「強くなれ」
光留が眼を瞬く。
「ただし、力だけでは足りん。黒の眼を自分で止められるようになれ。吸うものを選び、吸ったものに呑まれず、帰るところまで自分の足で立っていられるようになれ」
御影は一歩近づいた。
「そのとき、救出隊にお前が必要だと、俺へ認めさせろ」
「分かりました」
光留は森へ続く石段を見る。
光留は少し考えた。
伊織が光留の後頭部を軽く叩いた。
「隊長の眼が治る前に、心労で倒れるぞ。あんまり無理するなよ、」
三番隊長が腰から小さな木札を外し、伊織へ投げた。
表には刃眼隊の印。
裏には、絡み合う三本の線が刻まれている。
「橘伊織。内側への使者はお前だ」
「俺がですか、」
「五眼級で、まだ歩けて、余計なことを言う友人を止められる者がほかにいない」
伊織は光留を見る。
「最後の条件が一番難しいですね」
「おい」
「葛城光留は、黒の眼を制御する術を探すため同行させる。この島には、眼力を身体の内で巡らせる術がある」
御影が続けた。
「黒の眼を制御する手掛かりになるかもしれん」
「強くなれるんですね」
「可能性の話だ」
「十分です」
光留は黒い刀を背負い直した。
右腕は痺れたままなのに、今すぐ石段を駆け上がりそうな顔をしている。
「光留」
時任の声がした。
担架の上で眼を開けている。
「起きてたのか」
「今、起きました」
時任は添え木で固定された両腕を見る。
「大会の勝敗は、まだ決まってないぞ」
「分かってる」
「蓮次郎を連れ戻したら、三人で再試合だぞ」
「三人?」
「俺とお前と蓮次郎だ」
時任は一瞬だけ眼を見開いた。
「勝手に人数を増やさないでください」
「細かいことは、治ってから考えろ」
光留は担架の横へ拳を出した。
時任は腕を動かせない。
代わりに額を光留の拳へ軽く当てた。
「先に死んだら、不戦敗にします」
「お前もな」
◇
海沿いの道と、森へ続く石段の前で、人の流れが分かれた。
町民と負傷者は海沿いへ進む。
一番隊と三番隊が、その前後を守っていた。
誰も別の島へ向かうわけではない。
同じ島の中で、休む者と、助けを求めて奥へ入る者に分かれるだけだった。
御影と白鷺は、時任の担架とともに外里へ残る。
光留と伊織は、森の入口へ立った。
「本当に二人で行くのか」
光留が尋ねる。
「怖いなら戻っていいぞ」
「二人じゃ、時間がかかると思っただけだ」
「行くぞ。隊長候補」
「その呼び方はやめろ」
「俺が追い越すまでだ」
「さっきまで追いつきたいって感動的な話をしてただろ」
「追いつくって決めたら、次は追い越すだろ」
「決めてから早すぎるんだよ、」
二人は石段へ足をかけた。
森へ入ると、海の音が急に遠くなった。
杉の幹が朝日を遮り、足元には濡れた苔が広がっている。
細い石段は、先が見えないほど上へ続いていた。
鳥の声はする。
風もある。
それなのに、人が暮らしている気配だけがなかった。
「道、合ってるのか」
「一本道だ」
「隠し道があるかもしれない」
「どうやって探すんだ?」
「全部の木を蹴るとかか?」
「お前、本当に頭を打ったんじゃないか」
光留は一番近くの杉へ足を上げた。
伊織が止めるより先に、黒いものが頬を横切った。
背後の幹へ、細い刃が刺さる。
苦無だった。
二人は同時に構えた。
伊織の右手が刀へ伸びる。
光留も黒い刀の柄を握った。
「抜くな」
声が上から落ちてきた。
枝を見る。
誰もいない。
「刃眼隊の使者が一人」
今度は左。
竹の葉が揺れただけだった。
「眼の壊れかけた者が一人」
背後。
振り返っても、石段しかない。
「名と用向きを言え」
伊織が三番隊長から受け取った木札を掲げた。
「刃眼隊三番隊、橘伊織。島の長へ、避難民の滞在と援助を願いに来た」
「もう一人は」
「葛城光留!」
光留は森全体へ届く声で名乗った。
「弟を助けるために、強くなりに来た!」
伊織が額を押さえる。
「声が大きい」
正面から返事がした。
十歩先の石段へ、人影が立っている。
いつ現れたのか分からなかった。
灰色の装束。
口元を布で隠し、額には細長い鉄板を巻いている。
背には刀ではなく、短い棒と巻物を負っていた。
「面白い奴らだ」
男の眼が、光留の黒い刀へ向く。
僅かに細められた。
「その刀を、どこで手に入れた」
「父さんが残した」
「父の名は」
光留が答えるより先に、男が片手を上げた。
森の中で、何十もの気配が一斉に動く。
木の上。
岩の陰。
地面の下。
光留が誰もいないと思っていた場所全てに、人がいた。
伊織の指先へ、小さな炎が灯る。
光留は黒い刀から手を離し、代わりに拳を握った。
恐怖より先に、胸が高鳴っていた。
ここには、自分より強い者がいる。
まだ知らない戦い方がある。
それを覚えれば、蓮次郎へ近づける。
「いいな、ここ」
光留が笑う。
「お前は少し黙れ」
伊織が低く言った。
灰色の男は二人を見比べ、森の奥へ身体を向ける。
「ついてこい。入れるかどうかは、奥で決める」
男の姿が霧へ溶ける。
消える直前、その声だけが石段へ残った。
「ここは忍びの島――篠隠島だ」
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