第八話 被害者 Ⅰ
島が、下から鳴いていた。
石畳の隙間から響く音は、地震のものではない。
町のあちこちで、死んだ眼獣が土と石を押し上げながら這い出している。
光留は揺れる坂を駆け上がった。
背中で、黒い刀が脈打っている。
試合場へ近づくほど、その鼓動は速くなった。
どん。
どん。
自分の心臓と、刀の鼓動と、島の底から届く音。
三つが重なり、どれが自分のものなのか分からなくなる。
社へ続く石段の上から、人々が雪崩のように下りてきた。
羽織を血で汚した隊士。
泣きながら親を呼ぶ子ども。
肩を貸し合う負傷者。
「上へ行くな!」
二番隊士が光留の腕をつかもうとする。
光留は身体をひねってかわした。
「弟がいるんだ!」
「上は眼獣で埋まってるんだぞ!」
「だから行かなきゃいけないんだよ!」
石段を二段ずつ上がる。
鳥居は半ばから折れ、石段へ倒れていた。
その向こうに、祭りの試合場が見える。
紅白の布は焼け落ちている。
見物席は砕け、砂の上には古い鎧を着た隊士たちが並んでいた。
数十人。
その外側を、死んだ眼獣が取り囲んでいる。
中央には蓮次郎がいた。
俯いたまま、古い隊旗の下へ立っている。
「蓮次郎!」
光留が叫ぶ。
弟は顔を上げなかった。
代わりに、手前にいた古い隊士が振り返る。
胸に三本の矢が刺さった男だった。
半透明の足で砂を蹴る。
長槍の穂先が、光留の喉へ伸びた。
黒い刀を鞘ごと前へ出す。
槍と鞘がぶつかった。
白い眼力が腕へ流れ込み、知らない男の記憶が一瞬だけ見えた。
燃える家。
夜の海。
背中へ突き立つ、味方の槍。
「っ……!」
光留の足が止まる。
古い隊士が槍を引き、もう一度突き出した。
赤い火が横から走る。
槍の柄が燃え、穂先が光留の頬をかすめて逸れた。
橘伊織が、二人の間へ滑り込む。
「遅い」
火をまとった刀が、古い隊士の胴を斬った。
白い身体が上下へ分かれ、砂へ崩れる。
「共闘なんて久しぶりだな」
「足を引っ張るなよ」
「伊織こそ、隊士さんなら見本頼むぜ!!」
伊織が笑う。
笑ったのは一瞬だけだった。
崩した古い隊士が、二人の足元で再び形を取り始めている。
「すぐ戻るな、」
伊織が刀を構え直した。
「眼獣も隊士も同じだ。斬っても燃やしても終わらない」
「蓮次郎を止めれば、全部止まるのか」
「御影隊長は、つながってると言っていたな」
光留は試合場の中央を見る。
蓮次郎の身体から、無数の白い流れが伸びていた。
試合場の死者へ。
町へ。
山へ。
海沿いへ。
眼を凝らしても、数え切れない。
川というより、島じゅうに張り巡らされた根だった。
「全部、あいつの中を通ってる」
光留が呟く。
「見えるのか」
「ああ、」
古い隊士の身体が戻る。
伊織が前へ出ようとする。
光留はその肩をつかんだ。
「待て」
背負っていた黒い布を解く。
黒漆の鞘。
色の褪せた紺糸の柄。
閉じた眼が刻まれた鍔。
伊織の火が、鞘の表面へ赤く映る。
「それが、お前の親父さんの刀か」
「ああ」
光留は黒い刀を頭上へ掲げた。
「蓮次郎!」
弟へ届くよう、腹の底から叫ぶ。
「父さんの刀、持ってきたぞ!」
蓮次郎の左手が僅かに動いた。
垂れていた指先が、何かをつかもうとするように曲がる。
光留は見逃さなかった。
「見えてるんだろ!」
蓮次郎の顔が、ゆっくりと上がった。
白く濁った両眼。
口元には、弟のものではない笑みがある。
「持ってきたか」
榊原玄斎の声だった。
「待っていたぞ」
光留の親指が鍔を押す。
父の言いつけは守った。
蓮次郎へ見せた。
刀を抜く。
澄んだ音が、死者の立つ試合場へ走った。
刃は、光を返さなかった。
黒く塗られているのではない。
そこだけ夜を切り取ったように、伊織の炎も、夏の日差しも吸い込んでいる。
刃文はない。
鏡のような光沢もない。
ただ、根元から切っ先まで、一つの深い黒でできていた。
光留の眼が熱を持つ。
瞳孔だけではない。
虹彩も白目も、墨を流し込まれたように黒く染まった。
黒い眼と黒い刀が、同時に脈を打つ。
試合場を覆っていた白い霧が、一歩だけ後ろへ引いた。
古い隊士たちがざわめく。
声ではない。
鎧と刀を震わせ、何かを恐れるように揺れている。
玄斎だけが笑っていた。
「やはり、黒は残っていたか」
「何を知ってるんだ」
「穢れたこの島さ」
玄斎が右手を上げる。
古い隊士たちが、一斉に光留へ向き直った。
「来るぞ!」
伊織が光留の隣へ並ぶ。
火と黒。
二本の刀が、死者の群れへ向けられた。
◇
海沿いの焼き場では、炎が白く変わっていた。
油も薪も赤く燃えている。
だが、眼獣の死骸から噴き出す眼力が火へ混ざり、炎全体を白く染めていた。
一番隊の列は、焼却穴から三十歩のところまで押し戻されている。
最初に数えた二十体だけではなかった。
灰の底から、さらに古い骨が這い出している。
脚だけのもの。
顎だけで石畳を進むもの。
幾つもの死骸が白い霧でつながり、一つの巨体になったもの。
倒せない敵が、増え続ける。
「隊長、海側からも来ます!」
若い隊士が叫んだ。
波打ち際から、濡れた骨が立ち上がっている。
海へ捨てられた眼獣の死骸だった。
一番隊長は刃こぼれした刀を握り直す。
「前は焼却穴! 後ろは海! 二列に分かれろ!」
「人数が足りません!」
隊士たちが背中合わせになる。
逃げ道はなかった。
だが彼らの後ろにも、逃げる町民はいない。
二番隊が、全員を南へ通した。
ならば、ここで退く理由もなかった。
「一番隊!」
隊長が刀を上げる。
「町へ行きたがってる死体に、帰る場所を教えてやれ!」
隊士たちが応える。
白い炎の中へ、紺色の列が踏み込んだ。
◇
北山では、三本目の鉄鎖が切れた。
山喰らいの巨体が、燃える杉を押し退ける。
前脚が斜面を削り、土と岩を町へ落とした。
「第二の杭まで下がれ!」
三番隊長の命令で、隊士たちが鎖を手放す。
焼けた手の皮が鉄へ残った。
斜面の下には、新しい杭が半円状に打ち込まれている。
町との距離は、もう半里もない。
ここも破られれば、燃える巨体が家々へ届く。
山喰らいの喉に並ぶ眼が赤く光る。
「熱が来るぞ!」
三番隊士たちが岩陰へ飛び込む。
白い熱風が斜面を薙いだ。
張り直そうとしていた鎖が赤く焼け、地面へ溶け落ちる。
一人の隊士が逃げ遅れた。
三番隊長が襟をつかみ、岩陰へ引きずり込む。
二人の頭上を熱が通り過ぎた。
「隊長、このままじゃ――」
「分かってる」
三番隊長は、炎の向こうにある町を見た。
祭りの赤い布が、小さく見える。
そのさらに先には海があった。
南の船着き場には、島じゅうの舟が集められている。
二番隊が町民を乗せ、出航の準備を進めていた。
だが桟橋には、まだ長い人の列が残っている。
「まだ舟は出ていない」
隊士の一人が呟いた。
三番隊長は試合場の方角を見た。
白い霧と黒い筋が、町の中央で絡み合っている。
「向こうが終わるまで、こいつらは止まらん」
足元の山が、もう一度鳴った。
「一人でも多く舟へ乗せる。俺たちの仕事は、それまで眼獣に山を下ろさないことだ」
◇
古い刃眼隊が、音もなく駆け出した。
足軽が槍をそろえ、その後ろで武者たちが刀を抜く。
生きた軍勢より静かだった。
だからこそ、砂を踏む何十もの足音が不気味にそろって聞こえる。
伊織が刀を横へ振った。
炎が半円を描き、先頭の五人を包む。
古い隊士たちは止まらない。
燃える鎧のまま、炎を突き抜けてくる。
「右!」
伊織の声に、光留は黒い刀を上げた。
二本の槍を刃の腹で受ける。
触れた場所で、白い眼力が刃の表面へ浮かび上がった。
柄を握る両手が冷える。
光留は吸い込む相手を二本の槍へ定めた。
光留は足を踏ん張り、黒い眼力を刃へ通した。
「黒水」
刃の表面を、濡れた墨のような黒が走る。
白い槍が切っ先から色を失った。
槍を握る二人の隊士も、腕から肩、胸へと黒く染まり、白い霧へ崩れていく。
鞘のまま使ったときとは違う。
黒い刀は、触れた眼力を一滴も逃さなかった。
吸い込んだ力を刃の中へ通し、そのまま光留の身体へ流し込んでくる。
二人分の最期が、同時に頭へ入った。
夜の石段。
泣いている子ども。
閉ざされる大門。
門の向こうで、紺色ではない隊旗が下ろされる。
――我々は、島を守った。
――それのなのになぜ。
光留の膝が揺れた。
横から来た刀を、伊織の炎が弾く。
「止まるな!」
「分かってる!」
光留は記憶を振り払い、前へ出た。
黒い刃が、霊の刀へ触れる。
一体。
二体。
三体。
黒水で眼力を抜くたび、死者の身体が崩れる。
同時に、光留の中へ声が増えていく。
蓮次郎が耐えられなかったものを、今度は自分が飲み込んでいる。
「使い続けるな、光留!」
御影の声が背後から飛んだ。
二番隊長が鳥居を越え、時任清十郎と並んで試合場へ戻ってくる。
時任の右腕は痺れたまま垂れ、片耳から乾きかけた血が残っていた。
それでも左手には木刀を握っている。
御影が光留の隣へ入る。
「辛そうだが大丈夫か?」
「うるせー」
「元気そうで何よりだ」
御影が綻びの眼を開く。
瞳に細い亀裂のような線が走った。
玄斎を中心に広がる白い流れ。
その中から、最も細い一本を探す。
「蓮次郎と玄斎は完全には重なっていない」
「引き剥がせるんですか」
「あいつ次第だがな、」
御影は玄斎の左胸を指した。
「綻びは、心臓の横だ。」
「そこへ黒水を使えば」
「つながりだけを抜けるかもしれん」
「かもしれない?」
「失敗すれば、完全に乗っ取られるかもしれない」
光留は黒く染まった眼で、試合場の中央を見る。
「やります」
「少しは迷え」
御影は短く息を吐いた。
「時任」
「聞こえています」
「左手で振動を使えるか」
「精度は落ちますがあと一回なら、」
「一体崩せればいい」
時任は木刀を左手へ持ち替えた。
銀色の眼へ波紋が広がる。
「試合の続きをする気はありませんよ」
「勝敗なら、あとで弟と決めろ」
「では、本人を返してもらわないと困りますね」
伊織が火のついた刀を肩へ戻した。
「俺は何をすればいい」
「一番派手な仕事だ」
御影が死者の群れを示す。
「道を作れ」
伊織の口元が上がった。
「それなら、得意だ、任せろ!!」
四人が横一列へ並ぶ。
中央まで、二十歩。
その間に立つ死者は三十を越えている。
眼獣も七体。
崩しても三呼吸ですぐ戻る。
玄斎は蓮次郎の身体で、動かずに待っていた。
「行くぞ」
御影の声と同時に、伊織が刀を砂へ突き立てた。
「火の眼――炎路!」
赤い炎が一本の道となり、試合場の中央へ走る。
左右にいた古い隊士が火を避ける。
避けなかった者は輪郭の白い流れを露わにした。
「左から三人目、右脇!」
御影が叫ぶ。
時任は炎路の上を走り、古い隊士の刀へ木刀を当てた。
「震打!」
振動が右脇の綻びへ届く。
一体が崩れた。
空いた場所へ御影が踏み込み、左右の槍を刀で受ける。
「進め、光留!」
光留が三人の間を抜ける。
前から、頭のない眼獣が飛びかかってきた。
首の切断面に開いた無数の眼が、同時に光る。
「伏せろ!」
伊織の炎が頭上を通る。
眼獣の身体を包み、白い流れを浮かび上がらせた。
光留は身を低くし、すれ違いざまに黒い刀を腹へ触れさせる。
「黒水!」
白い流れが、刃へ引かれた。
眼獣が空中で形を失い、骨と霧になって光留の背後へ落ちる。
今度は、獣の記憶が入った。
暗い檻。
眼を抉る人の指。
海へ投げ込まれる身体。
殺せ。
帰れ。
殺せ。
光留の右腕に黒い筋が浮かぶ。
手首から肘へ。
肘から肩へ。
吸い込んだ眼力が行き場を失い、皮膚の下で暴れている。
黒い刀がさらに重くなった。
足が止まりかける。
「光留!」
伊織が背中を押した。
昔、海岸を走ったときと同じだった。
伊織はいつも先へ行った。
追いつけそうで、追いつけない距離を残して。
だが今は、隣にいる。
伊織が前方の霊を斬り上げる。
光留はその横を走った。
十五歩。
十歩。
五歩。
玄斎が初めて動く。
蓮次郎の右手を前へ出した。
砂から、巨大な白い腕が現れる。
人の腕ではない。
五本の指それぞれに眼が開き、光留たちをまとめて握り潰そうと落ちてくる。
「散れ!」
御影と伊織が左右へ跳ぶ。
時任は動かなかった。
木刀を砂へ突き立て、左腕へ残った全ての眼力を流し込む。
「地走り!」
砂が激しく震えた。
巨大な腕の指先が揺らぐ。
五本の眼の振動は同じだった。
一つへ合わせれば、全てへ届く。
「共鳴崩し!」
白い腕が手首から砕けた。
時任の木刀も中央から割れる。
左腕が跳ね、肩が外れた。
時任はその場へ膝をつく。
「行け!」
光留は砕けた白い腕の下を抜けた。
玄斎まで、あと一歩。
黒い刀を振る。
白い刃が、下から受け止めた。
蓮次郎が呼び出した刀だった。
持ち手はいない。
刃だけが空中に浮かび、黒い刀とぶつかっている。
白と黒の眼力が押し合う。
玄斎が、弟の顔で笑った。
「その程度か」
「この身体で、偉そうにするな」
光留は両手で黒い刀を押し込む。
「それは、俺の弟だ」
黒水が白い刃を侵食する。
切っ先から黒く染まり、空中の刀が霧へ崩れた。
光留は勢いのまま踏み込む。
玄斎の左胸へ、黒い切っ先を止めた。
皮膚まで、指一本分。
斬れば蓮次郎も傷つく。
光留は刃を返し、切っ先を二人の足元へ突き立てた。
砂の下を通る、最も太い白い流れ。
玄斎と蓮次郎を結ぶ根へ、黒い刃が触れた。
「黒水」
今度は叫ばなかった。
眼力を、足から腰へ通す。
腰から背。
背から肩。
最後に両腕。
御影に教えられたとおり、力を一か所へ溜めない。
黒い流れを全身から刀へ送り、白い根を引いた。
その時、試合場全体が大きく揺れた。
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