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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第一章 幻の島と失ったもの

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第七話 日常の幸せ Ⅱ

「全員、境内の奥へ下がれ!」


 御影が刀を抜いた。


 古い隊士の一人が、抜き打ちで審判へ斬りかかる。


 御影の刀が受け止めた。


 半透明の刃と本物の刃がぶつかり、白い火花が散る。


「こいつらは味方じゃない!」


 今の刃眼隊が、観客と死者の間へ入る。


 試合場の中央では、蓮次郎が頭を抱えたまま叫び続けていた。


「出ていけ! 俺の中から出ていけ!」


 古い隊羽織の男が、その背へ腕を回す。


 ――私なら止められる。


「嘘だ」


 ――このままでは、お前の器が先に裂ける。


「俺が呼んだんじゃない!」


 ――お前が戸を開けた。


 男の手が蓮次郎の胸へ沈む。


 冷気が心臓を包んだ。


 ――身体を貸せ。


「嫌だ」


 ――では、この声とともに壊れろ。


 頭の中で、死者たちの叫びがさらに大きくなる。


 母の声が混じった。


 父の声もした。


 兄が自分を呼んでいる声まで聞こえた。


 本物が一つも分からない。


「止めて」


 蓮次郎は、誰に言ったのか分からなかった。


「もう、止めてくれ」


 男が笑った。


 古い隊羽織が、蓮次郎の身体へ重なった。


 白い眼力が急に止まる。


 蓮次郎の両腕が、力なく下がった。


 静かになった試合場で、砂を割る音だけが続いている。


 今度は、人の手ではなかった。


 太い爪が板を突き破る。


 牙。


 角。


 大小の眼に囲まれた首。


 試合場の下から、死んだ眼獣が這い上がってくる。


 一体ではない。


 亀裂の一つにつき、一体。


 白い霧が骨を作り、その上へ腐った肉を貼りつけていく。


 観客の悲鳴が上がった。


「昔の隊士だけじゃないのか!」


 隊士が刀で眼獣の牙を受ける。


 別の眼獣が柵を踏み壊し、境内へ降りた。


 逃げ遅れた少年が、崩れた見物席の下で動けなくなっている。


 眼獣が口を開いた。


 牙の間から白い霧が溢れる。


 赤い炎が、壊れた鳥居の向こうから一直線に走った。


 燃える刃が眼獣の顎を斬り上げる。


 巨体が横へ倒れ、少年の指先すれすれで砂を滑った。


 三番隊の羽織が、炎の後を追って試合場へ飛び込む。


「全員、伏せろ!」


 橘伊織だった。


 その後ろから、二人の三番隊士が続いて飛び込んでくる。


 伊織は少年を片腕で抱き上げ、近くの隊士へ投げるように預けた。


「境内の外へ! 止まるな!」


 倒したはずの眼獣が、背後で起き上がる。


 焼けた顎を白い霧が作り直していた。


 伊織は振り返りざま、刀へ火をまとわせる。


 炎が死骸の輪郭をなぞると、その内側を走る白い眼力が一瞬だけ浮かび上がった。


「死んでるくせに、しつこいな」


 白い流れへ刃を入れる。


 眼獣は崩れたが、霧は地面から離れない。


 すぐに戻る。


 それでも、逃げるための時間は作れた。


 伊織は試合場の中央を見た。


 頭を抱える蓮次郎。


 その背へ重なる古い隊羽織。


 前の試合で炎越しに見えた、何十人もの眼力。


 今はもう、隠れていなかった。


「蓮次郎!」


 返事はない。


 伊織は刀を握り直した。


 御影は綻びの眼を開いた。


 死者と蓮次郎を結ぶ白い流れを見る。


 数が多すぎる。


 一本を断っても、その後ろに十本ある。


 十本の奥には、島じゅうへ伸びる太い流れがあった。


「白鷺、あの男が見えるか」


 白鷺道伯の乳白色の瞳へ、三重の輪が浮かぶ。


 蓮次郎の身体と、その内側へ入った男を見通す。


 老人の顔から血の気が引いた。


「慰霊碑の、一番上……」


「誰だ」


「榊原玄斎だ」


 白鷺の声が震える。


「刃眼隊を作った、最初の隊長だ」


 蓮次郎が顔を上げた。


 その口元には、弟のものではない笑みが浮かんでいた。


「ようやく、名を呼んだか」


 老人の声が、少年の喉から出る。


 玄斎が右手を上げる。


 古い隊士の霊が、一斉に刀を構えた。


「帰還だ」


 その言葉と同時に、島じゅうの警鐘が鳴った。


 御影は海沿いと北山、二つの方角から上がる煙を見た。


「伊織、ここを預ける」


「隊長は」


「二番隊で避難路を作る。試合場の死者を町へ出すな」


 伊織は玄斎に奪われた蓮次郎を見る。


「あいつはどうするんです」


「無理に引き剥がせば、蓮次郎の器が先に裂ける。俺が戻るまで近づくな」


 御影は走り出す直前、伊織へ振り返った。


「あいつに誰も殺させるな。それが、お前の役目だ」


 御影は屋根へ跳び、町の人波へ向かった。


 伊織は炎をまとわせた刀を、古い刃眼隊へ向けた。


「三番隊、観客を囲め! ここから一人ずつ逃すぞ!」


     ◇


 北の山腹では、土が燃えていた。


 最初は、落雷だと思われた。


 杉林の中から赤い火が上がり、乾いた枝を伝って尾根へ広がっていく。


 だが炎は、風上へ向かって進んでいた。


 山の土を内側から押し上げながら、町の方へ下りてくる。


 三番隊の主力が到着したとき、古い石塚が崩れた。


 太い角が、燃える土から突き出す。


「総員、散れ!」


 三番隊長の声と同時に、石塚が爆ぜた。


 炎をまとった巨体が立ち上がる。


 杉の木より低い。


 だが、家の屋根よりは高い。


 四本の脚は焼け焦げ、右半身には骨が露出している。


 背中には、火のついた杉の幹が何本も突き刺さっていた。


 頭の中央にある一つ眼だけが、白い霧の中で開いている。


「山喰らい……」


 年長の隊士が呟いた。


「知ってるのか」


「二十年以上前、三隊がかりで討った眼獣だ。死骸を山で焼いたが、骨までは砕けなかったと聞いている」


 半分焼けた死骸が、白い肉をまとって蘇っていた。


 山喰らいが前脚を下ろす。


 地面が沈み、火の粉が斜面を走った。


 口が開く。


 喉の奥には舌ではなく、縦に並んだ眼があった。


 全ての眼が赤く光る。


「伏せろ!」


 熱風が吐き出された。


 炎ではない。


 白い眼力を含んだ高熱が木々を撫で、葉が触れる前に燃え上がる。


 三番隊の隊士たちは地面へ伏せた。


 最後尾の一人が避けきれず、羽織の背に火がつく。


 隣の隊士が燃える羽織を引き剥がし、二人で土の上へ押し倒した。


 別の三人が山喰らいの前脚へ飛び込む。


 三本の刀が、焼けた肉と露出した骨の隙間へ入った。


 眼力を込めた刃が、白い流れごと脚を断つ。


 巨体が傾く。


 だが切断面から白い霧が溢れ、炎ごと新しい脚へ作り直していく。


「火が効いてない!」


「火だけじゃない! 斬っても戻るぞ!」


 三番隊長が、荷車へ積まれた太い鉄鎖を指した。


「討獣鎖を出せ! 前脚と角へ掛けろ!」


 六人が鎖を抱え、燃える斜面へ走る。


 先端の鉤が山喰らいの角へ掛かった。


 別の鎖が、作り直された前脚へ巻きつく。


 隊士たちは鎖の端を杉の幹へ回し、全身で引いた。


 山喰らいが吠えた。


 斜面の火が、一斉に町の方へ倒れる。


 このまま下ろせば、眼獣より先に火が家々へ届く。


「三番隊、ここで止めるぞ!」


「どうやって!」


「半分は巨体を縛れ! 残りは町との間に火除けを作れ!」


 三番隊長が、眼力をまとわせた刀を肩へ担ぐ。


「町へ一歩も下ろすな!」


 三番隊が散開した。


 炎の山を背に、死んだ巨獣と迫る火の両方へ向かっていく。


     ◇


 町では、二番隊が人の流れに逆らって走っていた。


 試合場から逃げてきた者。


 家から飛び出した者。


 焼き場の方角から逃げてきた火守り。


 道は瞬く間に人で埋まり、前へ進むことも戻ることもできなくなっている。


「押すな!」


 御影が屋根の上から叫ぶ。


「南の船着き場へ向かえ! 二番隊の羽織だけを見ろ!」


 隊士たちが通りへ飛び降りる。


 二人一組で紺色の縄を張り、人の流れを細い路地へ分けた。


 倒れた屋台を持ち上げる者。


 泣く子どもを背負う者。


 閉じた家の戸を叩き、残っている者がいないか確かめる者。


 二番隊は眼獣を倒すためではなく、全員が逃げるための道を作っていた。


 路地の先で、白い霧が膨らむ。


 犬ほどの眼獣が三体、石畳から這い出した。


 身体の半分は骨だった。


「道を止めるな!」


 御影が屋根から降りる。


 一体目の頭を刀の峰で跳ね上げ、二体目の脚を払う。


 三体目が横を抜け、逃げる人々へ飛びかかった。


 若い隊士が身を投げ出して受け止める。


 牙が肩へ食い込んだ。


「隊長、こいつ、眼を潰しても止まりません!」


「眼を見るな。流れを見ろ!」


 御影の瞳に、糸がほつれたような細い線が走る。


 綻びの眼。


 白い霧で作られた身体の中から、形を保つ力が最も薄い場所を見つける。


「左の首筋だ!」


 隊士の刀が、指示された場所へ入る。


 白い流れが一度だけ途切れ、眼獣の身体が崩れた。


「倒した!」


「立つ前に人を通せ!」


 死体を殺すことはできない。


 御影の眼にできるのも、崩れる場所を見つけ、僅かな時間を作ることだけだった。


 二番隊はその時間で十人を通した。


 眼獣が再び形を得る。


 次の隊士が前へ出た。


「交代! 道を空けろ!」


 島じゅうから警鐘が聞こえる。


 海沿い。


 北の山。


 試合場。


 どの鐘も、眼獣の出現を告げていた。


「隊長!」


 屋根の上から伝令が飛び降りる。


「一番隊、焼き場で二十体以上と交戦! 食い止めていますが、倒しても戻ります!」


「三番隊は」


「北山で大型と接触! 山火事が町へ向かっています!」


「試合場は」


 伝令が言葉を詰まらせた。


「昔の隊士が……死んだ刃眼隊が、蓮次郎を守るように集まっています」


 御影は目を閉じた。


 一番隊を焼き場から下げれば、眼獣の群れが町へ入る。


 三番隊を山から呼べば、火と山喰らいが下りてくる。


 二番隊が止まれば、町民は船着き場へ着けない。


 どこにも、余っている隊士はいなかった。


「二番隊は避難路を維持する」


 御影が決めた。


「一番隊へ、焼き場を死守。三番隊へ、山から下ろすなと伝えろ」


「試合場はどうします」


 御影は、白い霧の立ち上る社の方角を見た。


「俺が行く」


     ◇


 光留は、坂の途中で最初の眼獣を見た。


 黒い刀を背負い、試合場へ向かって走っていた。


 前方の石畳が割れ、白い霧が人の形ほどに膨らむ。


 現れたのは、首のない眼獣だった。


 四本脚の獣に似ているが、頭があるはずの場所には古い切断面だけが残っている。


 その傷口から、小さな眼がいくつも開いた。


 光留は刀へ手を伸ばす。


 背中には、父が残した黒い刀がある。


 布を解き、鞘をつかむ。


 柄へ手をかけた。


 眼獣が地面を蹴る。


 光留は黒い刀を振った。


 牙と鞘がぶつかる。


 腕へ重い衝撃が入った。


 身体が後ろへ滑る。


 眼獣は止まらない。


 頭がないため、どこを見ているのかも分からなかった。


 切断面の眼が一斉に光る。


 白い眼力が首へ集まり、失われた頭の形を作り始める。


 光留は眼を凝らした。


 霧の中を流れる眼力が見える。


 胸から首へ。


 首から、作りかけの頭へ。


 鞘をその流れへ押し当てた。


「黒水」


 黒い眼力が、鞘の表面を走る。


 白い流れが黒へ引かれた。


 作りかけの頭が崩れ、眼獣の前脚が止まる。


 だが吸い込んだ力は、岩蔵の硬化とは比べものにならなかった。


 何人もの叫びが、眼力と一緒に腕へ入ってくる。


 痛い。


 寒い。


 帰りたい。


「ぐっ……!」


 光留は鞘を離した。


 眼獣の形が崩れ、白い霧となって石畳へ落ちる。


 右腕が痺れて動かない。


 一度でこれだった。


 通りの向こうには、同じ白い霧がいくつも立っている。


「一人で何をしている!」


 二番隊の隊士が駆けてくる。


 崩れた眼獣を見て足を止めた。


「お前が倒したのか」


「倒してない、」


「立てるか」


「弟が試合場にいる」


「分かっている。だが今は、こっちを手伝え!」


 隊士の背後では、逃げる人々が路地へ詰まっていた。


 倒れた荷車が道を半分塞いでいる。


 老人が転び、その上へ人が重なりかけていた。


 試合場からは、白い霧と悲鳴が上がっている。


 光留の足は、弟のいる方へ向いた。


 そのとき、小さな女の子が人波から押し出された。


 以前、海の向こうにも町があるのかと母親へ尋ねていた子だった。


 泣きながら、倒れた母親の手を引いている。


「お母さんが立たないの!」


 光留は試合場を見た。


 もう一度、女の子を見る。


 黒い刀を背へ戻した。


「荷車を退けるぞ」


 二番隊士と並び、車輪の下へ肩を入れる。


 右腕はまだ痺れていた。


 左腕と背中で押す。


 荷車が石畳を擦り、僅かに動いた。


「もう一度!」


 二人で押す。


 道が人一人分開いた。


 光留は倒れた母親を背負い、女の子の手をつかむ。


「紺の羽織から離れるな」


「お兄ちゃんは?」


「あとから行く」


「本当に?」


 答えるまでに、一呼吸かかった。


「絶対に行く」


 二番隊の作った道へ、親子を送り出す。


 その先で御影が光留に気づいた。


 背負った黒い刀を見る。


「見つけたか」


「はい」


「蓮次郎が――」


「分かっている!」


 御影の声に、光留は言葉を止めた。


 いつも冷静な男の額から、血が流れている。


「試合場から出た死者は、全てあいつへつながっている。今、無理に助けようとすれば蓮次郎の器が裂けるだろう」


「じゃあ、どうするんですか」


「その答えを探すために俺が行く」


 御影は二番隊士へ振り返った。


「光留を船着き場まで連れていけ」


「嫌です」


「命令だ」


「まだ隊士じゃない」


「屁理屈まで父親に似てきたな」


 御影は光留の胸を指で押した。


「お前が弟だけを見て、この道を塞げば、ここにいる全員が死ぬ」


 路地には、逃げる者が途切れず続いている。


 団子屋の老婆もいた。


 試合で戦った岩蔵が、負傷者を二人抱えて歩いている。


 時任の家族らしい女と子どもも、互いの手を握っていた。


 光留は痺れた右手を握り直して。


「道を空けたら、戻ります」


「好きにしろ」


 御影はそれだけ言い、試合場へ向かって走り出した。


     ◇


 海沿いの焼き場では、一番隊の列が三度崩されていた。


 灰の中から現れる眼獣は増え続けている。


 斬っても戻る。


 崩しても、別の焼却穴から形を得る。


 隊士たちの刀は刃こぼれし、腕は上がらなくなっていた。


「交代できる者は!」


 返事は三人だけだった。


 一番隊長は焼き場の背後を見た。


 坂を越えれば、避難中の町民がいる。


 ここを離れることはできない。


「火を全部つけろ」


「効きません!」


「倒すためじゃない。霧を見えるようにする!」


 油壺が焼却穴へ投げ込まれる。


 赤い炎が一斉に立ち上がった。


 炎の中で、眼獣を作る白い霧が黒い影となって浮かび上がる。


「白い流れを斬れ!」


 一番隊が再び前へ出る。


 火の壁の向こうから、六本脚の眼獣が飛び出した。


 隊長を押し倒し、その牙を開く。


 二本の刀が横から入り、首を挟んだ。


 若い隊士たちが叫びながら押し返す。


 一番隊長は立ち上がり、白い流れへ刀を振り下ろした。


 眼獣の身体が炎の中へ崩れる。


 三呼吸。


 それだけで、再び眼が開いた。


「十分だ」


 一番隊長が刀を構える。


「今は何度でも切るしかないんだ!」


 隊士たちが吠えるように応えた。


 その背後で、海の色が白く濁り始めていた。


     ◇


 北山では、炎が尾根を越えた。


 山喰らいは三番隊の包囲を破り、町へ向かって斜面を下り始めている。


 右前脚は三度斬った。


 三度とも戻った。


 角へ掛けた鉄鎖は二本とも切れ、杉へ結んだ三本目だけが軋みながら巨体を引いている。


「前脚を狙うな! 作り直されるだけだ!」


 三番隊長が斜面を駆け上がる。


 山喰らいの腹の下へ滑り込み、焼けた肋骨の間へ刀を突き立てた。


 刃をひねる。


 骨の奥を通る白い流れが切れ、巨体の右半身が崩れた。


 山喰らいが斜面へ倒れる。


 山が揺れる。


 岩と燃えた木が町へ向かって転がっていく。


「落石を止めろ!」


 三番隊の半数が斜面へ並び、眼力を込めた刀を地面へ突き立てる。


 丸太を横へ渡し、落ちてくる岩を受けた。


 残る半数が、新しい鎖を山喰らいの胴へ回す。


 一本を岩へ。


 一本を太い杉へ。


 最後の一本を、斜面へ打ち込んだ鉄杭へ結ぶ。


「隊長、伝令を出します!」


「こいつは倒せないと伝えろ! だが、日が沈むまでは山から下ろさない!」


「日没まで持つのか!」


「全員で持たせる!」


 山喰らいの一つ眼が三番隊長へ向く。


 喉の眼が赤く光った。


 三番隊長は、斜面に残っていた焼けた杉へ刀を入れた。


 幹が折れる。


 巨大な杉が山喰らいの前へ倒れ、町へ下る道を塞いだ。


 直後、吐き出された熱風が杉を包む。


 炎が壁となって立ち上がった。


「鎖を離すな!」


 隊士たちは焼けた手で鉄鎖を握り続ける。


 白い霧が山喰らいの右半身を作り直し、三本の鎖が一斉に張った。


 三番隊長は炎の向こうへ刀を構える。


「倒せなくていい。町へ着かせなければ、俺たちの勝ちだ」


 山喰らいと三番隊が、燃える山の中で引き合った。


     ◇


 試合場は、死者の陣へ変わっていた。


 古い刃眼隊が、玄斎を中心に円を作っている。


 その外側を、死んだ眼獣が歩き回る。


 今の隊士たちは観客を逃がしながら、少しずつ境内の端へ追い込まれていた。


 橘伊織が、境内の出口へ炎の線を引く。


 死んだ眼獣が火を踏み越えるたび、その身体を作る白い流れが赤く浮かび上がった。


 伊織は浮かんだ流れへ刀を入れ、眼獣を一時だけ崩す。


 その間に、三番隊士が観客を一人ずつ外へ運んでいた。


 時任は耳から流れた血を肩で拭い、痺れた右手で木刀を拾う。


 最も近い古い隊士の刀を受け、その揺れを読む。


「共鳴崩し」


 木刀から振動が流れ、一体が白い霧へ崩れる。


 だが、その背後から三体が現れた。


「きりがないな」


 時任は木刀を握り直した。


 審判を背へかばい、霊の刀を受ける。


「まだ戦えるか」


 御影が試合場へ上がってきた。


「試合は中止されたはずですが」


「なら、今からは刃眼隊の仕事だ」


「俺は隊士じゃないですよ、、」


 御影が時任の横へ立つ。


「一体ずつなら崩せるか」


「右腕が動く間は」


「十分だ。俺が綻びを見つける。そこへ振動を通せ」


 二人が同時に眼を開く。


 御影の瞳に、糸がほつれたような細い線が走る。


 時任の銀色の虹彩へ、幾重もの波紋が浮かぶ。


「右から二体目。胸の穴だ」


 時任の木刀が、古い隊士の刃へ触れた。


「震打!」


 振動が刃から腕へ走り、胸の綻びへ届く。


 古い隊士が崩れた。


「次、眼獣の左後脚!」


 伊織の炎が眼獣の進路を曲げる。


 時任が横から木刀を当て、御影の示した一点へ振動を流し込んだ。


 白い流れが乱れ、眼獣が砂へ沈む。


 御影ができるのは、最も崩れやすい場所を見つけること。


 時任ができるのは、一度に一つへ振動を合わせること。


 伊織の火も、死体を焼き尽くすことはできない。


 どの眼も、一つだけでは死者の群れを止められなかった。


 それでも三つを重ねれば、人が逃げるための数呼吸を作れた。


「境内、残り十二人!」


 隊士の報告が飛ぶ。


「先に行かせろ!」


 御影と時任が、伊織の炎を越えて死者の群れへ踏み込んだ。


 玄斎は動かなかった。


 蓮次郎の身体で、二人の戦いを眺めている。


「弱い眼を、よく使う」


 その声に、御影の顔が上がる。


「宗十郎。お前は昔から、強い眼を欲しがらなかった」


「俺を知った口を利くな」


「知っているとも。」


 玄斎が笑う。


 御影の刀が止まりかけた。


 その一瞬を、古い隊士の槍が狙う。


 時任の木刀が横から弾いた。


「話を聞くのは、逃がしてからにしてください」


「命令するな」


「隊士じゃないので」


 御影は鼻で笑い、再び刀を構えた。


 最後の町民が境内を出る。


 二番隊が作った紺の縄の道へ入った。


「境内、避難完了!」


 報告を聞き、御影が後ろへ跳ぶ。


「全員、試合場を放棄! 南へ下がれ!」


 現在の刃眼隊が、一斉に距離を取る。


 伊織は最後まで炎の線を残し、逃げ遅れた隊士を肩へ担いで鳥居を越えた。


 振り返った先で、蓮次郎の白い眼と一瞬だけ目が合う。


 その奥にいるのが弟自身なのか、玄斎なのかは分からなかった。


 玄斎は追わせなかった。


 古い隊士と眼獣を従え、壊れた試合場の中央に立っている。


「何が目的だ」


 御影が尋ねた。


「帰ることだ」


「死者が、どこへ帰る」


「この島へ」


 玄斎は蓮次郎の胸へ手を当てた。


 地面の下から、何かを叩く音がした。


 試合場だけではない。


 町の家々。


 海沿いの焼き場。


 燃える北山。


 島のあらゆる場所から、同じ音が重なる。


「やめろ!」


 蓮次郎の左手が、自分の胸をつかんだ。


 僅かな間だけ、弟自身の声が戻る。


「島を、壊すな」


 右手が左手首をつかみ、引き離す。


 玄斎の声が答えた。


「壊すのではない」


 白く濁った眼が、さらに大きく開く。


「失われたものを、元へ戻すだけだ」


     ◇


 二番隊の避難路は、南の船着き場までつながった。


 最後の一団が坂を下りていく。


 光留は列の後ろに立ち、何度も試合場を振り返っていた。


 白い霧の上に、古い隊旗が浮かんでいる。


 刃眼。


 今の紺色ではない。


 血と煤で黒ずんだ旗だった。


 黒い刀が、背中で脈を打つ。


 鞘の中から、何かが呼んでいる。


 弟の声ではない。


 父の声でもない。


 もっと古く、もっと深い場所から届く鼓動だった。


「光留!」


 団子屋の老婆が坂の下から呼ぶ。


「あんたも早くおいで!」


「先に行って!」


 光留は返事をし、背を向けた。


 船着き場ではなく、試合場へ。


 光留が走り出す。


 その足元で、石畳が震えた。


 町の屋根の向こうで、白い霧が次々と立ち上がる。


 一つ。


 十。


 百。


 島じゅうから、死んだ眼獣が姿を現す。


 海沿いでは、一番隊が炎の中で群れを押し返している。


 北山では、燃える巨獣と三番隊がぶつかっている。


 町中では、二番隊が道をつないでいる。


 そして試合場からは、昔の刃眼隊が歩き出していた。


 死んだ者たちが、死んだ獣を率いて町へ出る。


 全ての白い流れが、葛城蓮次郎の眼へ集まっている。


 光留は黒い刀の柄を握った。


「待ってろ、蓮次郎」


 遠くで、弟の叫びが聞こえた気がした。


 だが次の瞬間、島中の警鐘がその声を呑み込んだ。


 大会の決勝を告げる太鼓は、二度と鳴らなかった。

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