第六話 日常の幸せ Ⅰ
古い隊羽織がはためいた。
男の影から溢れた白い霧が、一人の武者へ形を変える。
現れた武者は、首の半ばまで斬られていた。
欠けた胴丸。
折れた刀。
額から顎へ続く深い傷。
それでも武者は倒れず、踏み込んでくる時任清十郎と蓮次郎の間へ立った。
時任の木刀が、半透明の刀とぶつかる。
乾いた音ではなかった。
寺の鐘を水の底で鳴らしたような、低く濁った音が試合場へ広がる。
武者の足元から白い霧が散った。
蓮次郎はその背後へ身を隠し、木刀を握り直す。
「その一体で来るのか」
時任が尋ねた。
「十分だよ」
「なら、崩すだけだ!!」
時任の瞳が、鈍い銀色へ染まった。
虹彩の内側へ、水面へ小石を落としたような細い輪が広がる。
木刀を握る右手が震えた。
怯えているのではない。
細かく、速く、一定の間隔で震えている。
白鷺道伯が目を細めた。
「振動の眼……」
五眼級。
触れたものの揺れを読み、眼力を振動として流し込む眼だった。
木刀。
地面。
相手の武器や、眼力によって形を得たもの。
触れ合った瞬間に相手固有の揺れを読み取り、同じ振動を重ねれば、内側から共鳴させることができる。
ただし、振動は空中へ飛ばせない。
必ず何かへ触れ、一つずつ揺れを合わせる必要があった。
時任の木刀が、武者の折れた刀を押し返す。
「震打」
ぶうん、と低い音が鳴った。
武者の腕が細かくぶれる。
揺れは肩から胸へ、胸から腰へ伝わり、半透明の身体全体へ広がった。
次の瞬間、武者は白い粒となって弾けた。
「なっ……」
蓮次郎の前から盾が消えた。
時任は止まっていない。
一歩で間合いへ入る。
蓮次郎が木刀を上げるより早く、その肩へ打撃が入った。
「ぐっ!」
身体が横へ回る。
続く一撃が脇腹を捉え、蓮次郎は砂の上を転がった。
「霊に守られている間、お前自身の足は止まる」
時任は追わず、木刀を正眼へ戻した。
「二回戦を見て分かった」
蓮次郎が砂へ手をつく。
右肩は冷たいままなのに、打たれた場所だけが熱を持っていた。
「一度に一体までしか呼べないのだろう」
蓮次郎が白く濁った眼を開く。
「来い!!」
砂の中から、槍を抱えた足軽が這い出した。
槍が時任の足元を薙ぐ。
時任は跳んだ。
足軽が槍を返し、空中の胴を突く。
時任は木刀の腹で穂先へ触れた。
銀色の輪が縮まる。
「共鳴崩し」
槍と武者が同時に震え、白い霧へ戻った。
着地した時任の木刀が、そのまま蓮次郎の左腕を打つ。
指が開き、木刀が砂へ落ちる。
観客席から声が上がった。
「相性が悪すぎる」
「霊が触れた瞬間に崩されるぞ」
「時任は、今まで能力を隠してたのか」
蓮次郎は左腕を押さえ、落とした木刀を拾う。
時任清十郎は、この大会の優勝候補だった。
これまでの試合では、剣術だけで相手を下している。
大会で振動の眼を見せたのは、これが初めてだった。
時任は右手を一度だけ開き、痺れを逃がすように指を振った。
共鳴させるには、相手の揺れへ自分の腕を合わせなければならない。
霊を崩すたび、同じ振動は時任の骨にも残る。
「降参しろ」
時任が言った。
「お前の眼が弱いと言っているんじゃない。お前は俺と相性が悪いだけだ」
「だったら、勝ってみろよ」
時任の眉が僅かに動いた。
蓮次郎の鼻から、赤い血が一筋落ちた。
白鷺が見物台の下から声を張る。
「蓮次郎、そこまでだぞい! 棄権するんじゃ!」
「うるさい」
「器が広がり続けておる! これ以上呼べば戻らなくなるぞい!」
蓮次郎は袖で鼻血を拭った。
兄のいない通路を見る。
まだ帰ってこない。
「兄ちゃんが来るまで、負けられないんだ」
蓮次郎は木刀を握り直し、白く濁った眼へ力を込めた。
「二人、来い」
砂の左右から、二つの影が立ち上がる。
薙刀を握った女。
首のない槍兵。
白鷺の顔色が変わった。
「蓮次郎! 無理するなと言ったはずじゃぞい!」
「一体じゃ勝てない」
二体の霊が、左右から同時に踏み込む。
時任は薙刀を木刀で受けた。
一体目の揺れを読む。
その背へ槍が迫る。
木刀を返し、槍の柄へ触れる。
二体目の揺れを読む。
「共鳴崩し」
二つの低い音が重なった。
薙刀の女が胸から崩れる。
一呼吸遅れて、首のない槍兵も白い霧へ戻った。
時任は着地したが、木刀を握る右手が大きく震えていた。
一体目と二体目。
異なる揺れへ続けて身体を合わせたため、腕の感覚が追いついていない。
蓮次郎はそれを見た。
「一体ずつなら、崩せるんだろ」
白い眼力が、蓮次郎の足元から溢れ出す。
「やめるんじゃ!」
白鷺が試合場へ踏み出す。
審判も異変に気づき、試合を止める板へ手をかけた。
だが、板が鳴るより先に白い眼力が噴き上がる。
蓮次郎の濁った瞳へ、白い輪が次々と浮かんだ。
「だったら――崩しきれないほど呼べばいいだけだ」
砂の中から、無数の腕が伸びた。
五人。
十人。
それでも止まらない。
折れた刀を持つ武者。
矢の刺さった足軽。
色褪せた隊羽織を着た男。
蓮次郎を囲むように、死者たちが立ち上がる。
観客席から悲鳴にも似た歓声が上がった。
時任は木刀の切っ先を砂へ突き立てる。
「地走り」
試合場の砂が波打った。
振動が霊たちの足元を走り、三体の輪郭が大きく揺らぐ。
時任はその三体へ一息で触れた。
白い身体が砕け散る。
だが、残った霊は止まらない。
六本の刃が同時に振り下ろされる。
時任が初めて後ろへ跳んだ。
蓮次郎の口元に笑みが浮かぶ。
数なら押し切れる。
その判断は、間違っていなかった。
ただ、崩れた三体の声が、自分の頭の中へ残ったことには気づかなかった。
寒い。
帰りたい。
まだ死にたくない。
古い隊羽織の男が、死者の群れの最後に立っていた。
今度は、蓮次郎が呼んだのではない。
男の方から影を伸ばし、耳元へ顔を寄せる。
――聞こえるか。
「何が」
――帰りたがっている。
「誰が」
男が笑った。
――全員だ。
◇
その頃、島の海沿いにある焼き場で、火が消えた。
眼獣の死骸は、土へ埋めない。
肉に残った眼力が土へ染み込み、新たな眼獣を生むと信じられているからだ。
刃眼隊は討ち取った死骸を海沿いの焼き場へ運び、骨まで灰にする。
二日前、橘伊織たちが倒した六本脚の眼獣も、夜明けから焼かれていた。
黒く焦げた巨体の下で、薪が赤く燃えている。
火守りの男が鉄棒で炭を崩した。
「まだ芯が残ってるな」
返事はなかった。
一緒にいたはずの男が、消えている。
「おい」
焼き場には、古い焼却穴がいくつも並んでいる。
十年前の灰。
二十年前の骨。
何百体もの眼獣を燃やした跡だった。
その全てから、白い煙が立っていた。
風は海へ向かっている。
それでも煙は流れず、人の背丈ほどまで上がると、地面へ向かって折れた。
灰の中へ吸い込まれていく。
ごり、と音がした。
黒い焼却穴の縁へ、爪がかかる。
骨だけの前脚。
その周囲へ白い霧がまとわり、焼けた肉の形を作っていく。
一つ隣の穴からも、眼が開いた。
さらに隣。
その隣。
火守りの男は警鐘へ走った。
「眼獣だ!」
背後で、燃え残った六本脚の死骸が立ち上がる。
首の下にある大きな眼は、伊織の刀で潰されたままだった。
それでも動いた。
死んだ眼が開かない代わりに、胸の焼け跡へ新しい眼が作られていく。
警鐘が一度鳴った。
白い尾が火守りの背へ迫る。
その間へ、紺色の羽織が降りた。
一番隊の刀が尾を受け止める。
「火守りを下げろ!」
続けて十人の隊士が焼き場へ飛び込んだ。
「一番隊、焼却穴を囲め! 一体も町へ出すな!」
刀が抜かれる。
灰の穴から、次々と眼獣が這い出してくる。
皮膚のないもの。
半身が骨になったもの。
頭だけを焼かれ、首から下を白い霧で作り直したもの。
数を数えようとした隊士が、途中でやめた。
二十を越えていた。
「眼を狙え!」
一番隊の隊士が、最初の眼獣へ刀を突き込む。
眼が潰れ、巨体が倒れた。
だが地面へ触れる前に、別の場所で眼が開く。
倒れた脚が動き、隊士の足首をつかんだ。
「死んでないぞ!」
「違う!」
一番隊長が刀を振り下ろし、その腕を断つ。
「こいつらは、最初から死んでいる!」
火で焼いても死なない。
眼を潰しても死なない。
首を落としても、白い霧が別の首を作る。
これまで眼獣を倒すために磨いてきた技が、何一つ終わりへ届かなかった。
「なら、動けなくなるまで刻め!」
一番隊長が叫ぶ。
「ここが抜かれれば、町へ二十体入る! 死体だろうが何だろうが、全部ここで食い止めろ!」
一番隊が横一列へ並んだ。
その向こうで、灰に埋もれていた眼が一斉に開いた。
◇
試合場で最初に異変へ気づいたのは、時任だった。
足の裏へ、砂を伝って無数の揺れが届いている。
普通の霊は、蓮次郎の鼓動を薄くしたような振動を持っていた。
同じ揺れを探し、木刀から重ねれば崩せる。
だが、古い隊羽織の男だけが違う。
男から蓮次郎へ、重くゆっくりとした脈が流れ込んでいる。
左右から、四体の霊が時任へ斬りかかる。
時任は最初の刀を受け、その揺れを読む。
次の槍を木刀の柄で弾く。
三体目の足軽へ肩からぶつかり、四体目の刃を紙一重でかわした。
全て違う。
一つの振動へ合わせる間に、残りの三つが迫る。
「震打!」
最初の霊が弾けた。
崩れた霊の叫びが、蓮次郎の頭へ流れ込む。
首が熱い。
刃が骨へ入る。
土の上へ倒れる自分を、知らない誰かが見下ろしている。
一瞬だけ、蓮次郎の視界から試合場が消えた。
「まだだ!」
自分へ言い聞かせ、さらに霊を呼ぶ。
減った一体の後ろから、二体が現れた。
時任の読みどおりだった。
少ない霊なら、振動で崩すことができる。
だから蓮次郎は、崩せない数を呼んだ。
勝つための判断だった。
同時に、自分の器へ数え切れない死者を招き入れる判断でもあった。
時任は木刀を砂へ打ちつける。
「地走り!」
広がった振動が、霊たちの足を止めた。
だが、壊れない。
揺れの異なる十数体を、一度に共鳴させることはできなかった。
振動が腕へ跳ね返り、時任の指が開く。
木刀が砂へ落ちた。
耳の奥で何かが切れ、頬へ細い血が伝う。
「もう呼ぶな!」
時任が叫んだ。
「勝ち負けの前にお前が死んでしまうぞ」
蓮次郎の背後で、古い隊羽織の男が笑う。
――そうだ。よく開いた。
男の方から、蓮次郎へ白い眼力が流れ込んだ。
その瞬間、蓮次郎が頭を抱えた。
「うるさい」
木刀が砂へ落ちる。
「蓮次郎?」
審判が近づく。
「うるさい……うるさい、うるさい!」
蓮次郎が両膝をついた。
耳を塞いでも、声は頭の内側から聞こえる。
帰りたい。
寒い。
痛い。
まだ戦える。
島を守れ。
誰かを殺せ。
数え切れない声が、同時に蓮次郎の眼を叩いていた。
白く濁った瞳へ、幾重もの輪が浮かぶ。
一つ。
三つ。
十。
輪は増え続け、瞳孔の形さえ見えなくなった。
「試合中止!」
審判が板を叩く。
「両者、試合場から下がれ!」
時任は痺れた右手を押さえながら、蓮次郎へ左手を伸ばす。
「立てるか」
「来るな!」
蓮次郎が叫んだ。
白い眼力が、身体から爆ぜた。
時任と審判が吹き飛ばされる。
試合場の砂へ、無数の亀裂が走った。
亀裂の隙間から白い指が伸びる。
一本。
十本。
やがて、砂の下から人の形が起き上がった。
古い鎧を着た足軽。
折れた槍を握る武者。
紺色ではない、色褪せた隊羽織をまとう男たち。
胸に穴が開いた者。
首に矢が刺さった者。
顔の半分を失った者。
かつて刃眼隊だった死者たちが、試合場の砂から次々と現れる。
あったら面白そうな眼の能力があれば気軽にコメントしてください!!




