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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第一章 幻の島と失ったもの

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第五話 叶った願い

 町の警鐘が鳴りやんでも、誰もすぐには口を開かなかった。


 祭りの客は刃眼隊に誘導され、試合場と隣り合う社の境内へ集められていた。


 さっきまで人で埋まっていた屋台通りには、食べかけの団子や倒れた椅子が残されている。消された炭から細い煙が上がり、紅白の飾り布だけが風に鳴っていた。


 海から来るものに備え、町の門は閉じられた。


 だが、見張り舟を運んだ何かは、すでに島の内側にいる。


「全員無事なのに、誰も目を覚まさないのか」


 光留が尋ねた。


 救護所の前では、舟に乗っていた三人が並べて寝かされている。外傷はない。呼吸も穏やかだった。


 ただ、三人とも固く瞼を閉じ、どれだけ呼びかけても反応しなかった。


 蓮次郎が一人の船乗りを覗き込む。


 男の唇が、微かに動いた。


「……かえ……った……」


「何て?」


 蓮次郎が耳を寄せる。


「帰った……帰ってきた……」


 男の右手が跳ね上がり、蓮次郎の手首をつかんだ。


「帰ってきたぞ」


 瞼は閉じたままだった。


 蓮次郎が腕を振りほどく。


 光留は弟を背へかばい、男から距離を取った。


 白鷺道伯が駆け寄り、船乗りの額へ濡れ布を置く。


「熱に浮かされておるだけだ。下がれ」


「でも今――」


「下がれと言ったぞい」


 普段より強い声だった。


 蓮次郎はつかまれた手首を擦りながら、救護所を離れた。


 その右肩には、まだ冷気が残っている。


「あの人が言ったこと、聞こえた?」


「帰ってきた、だろ」


「誰が帰ってきたんだろう」


「知らねーよ、本人が起きたら聞け」


 光留はそう答えたが、頭には二日前の夜が浮かんでいた。


 ――今、誰か帰ってきた?


 誰もいない家で、蓮次郎が口にした言葉だった。


 社の石段の上では、三人の隊長が低い声で話している。


 一番隊は境内と町民を守り、二番隊は島の内側を捜索し、三番隊は海岸を封鎖していた。


 御影だけが試合場に残っていたのは、大会を見るためではない。


 島のどこから異変が起きても、三隊へ命令を届けられる場所だからだ。


「見つけました!」


 屋根の向こうから声が飛んだ。


 橘伊織が、二人の隊士を連れて戻ってくる。


 羽織の裾は泥で汚れ、左袖には焼け焦げた跡が増えていた。


「何かいたか」


 御影が石段を下りる。


「何も」


 伊織は息を整え、地面へ簡単な図を描いた。


「舟は南の斜面にありました。引きずった跡と足跡は、そこから北へ続いています。畑を越え、杉林へ入って――古い慰霊碑の前で消えていました」


「慰霊碑?」


「刃眼隊ができる前、この島を守って死んだ者たちの碑です」


 御影の目が細くなる。


「周囲の眼力は」


「残っていません。ただ、足跡の中だけ草が枯れていました」


「眼獣のものか」


「形は人です。けど、大きさは人じゃない」


 伊織が腕を広げた。


「足の長さだけで、俺の肩から指先くらいまである」


 近くで聞いていた町民たちがざわめいた。


「慰霊碑の下を掘れ。石室があるなら全て調べろ」


 御影は二番隊の隊士へ命じた。


「三番隊は見張り舟の航路を逆にたどれ。一番隊は、このまま境内を守れ」


「大会はどうする」


 一番隊長が尋ねた。


 御影は境内に集められた人々を見た。


 家へ帰せば、町じゅうへ散らばることになる。何かが島内に潜んでいるなら、一か所に集めたままの方が守りやすい。


「捜索の第一報が戻るまで止める。その後、準決勝だけを行う」


「正気か」


「今年は眼獣が海から二度上がった。見張り舟まで襲われた。今、戦える者を選ばず、いつ選ぶ」


 御影の視線が、残った四人の出場者へ向けられた。


「それに、三隊長と眼判定士が揃うこの場所より、安全な試合場が島のどこにある」


 一番隊長は返事をしなかった。


 反対する理由も、賛成する理由も、同じくらいあった。


     ◇


 一刻ほど経っても、足跡の主は見つからなかった。


 慰霊碑の下には小さな石室があったが、中に残っていたのは錆びた刀と、朽ちた隊羽織だけだった。


 森にも海岸にも、新しい足跡はない。


 御影は大会の再開を命じた。


 祭りの笛と屋台の火は戻らなかった。


 観客は社の境内側だけへ座らされ、反対側の席は全て刃眼隊が固めている。試合場の周囲には、本物の刀を抜いた隊士が立っていた。


 武闘大会というより、何かを待ち受ける陣のようだった。


「戻ったとき、まだ名前を残しておけって言ったよな」


 伊織が光留の隣へ来た。


「残ってるだろ」


「あと一つだ」


「お前、さっきから隊長みたいなことしか言わなくなったな」


「隊士だからな」


「昔は、俺が勝つと悔しがったくせに」


「お前が俺に勝ったことなんかあったか?」


「三回くらい」


「夢の中でか?」


 伊織が鼻で笑った。


 光留も笑い返す。


 ほんの短い間だけ、二人の間から一年分の距離が消えた。


「光留」


 伊織が声を落とす。


「終わったら、蓮次郎を白鷺先生のところへ連れていけ」


「言われなくても、そのつもりだ」


「あいつの後ろに何かいる」


 光留は伊織を見た。


「お前にも見えたのか」


「姿は見えない。火を出したときだけ、あいつの肩の後ろで妙な眼力が揺れた」


 伊織の火の眼が、僅かに赤くなる。


「一人分じゃない。何十人も、同じ器へ指をかけてるみたいだった」


「どういうことだよ、」


「白鷺先生には報告した。蓮次郎の試合は止めるはずだ」


 光留は弟を捜した。


 蓮次郎は対戦表の前にいた。


 笑っている。


 周囲には誰もいないのに、誰かと話すように唇が動いていた。


「準決勝第一試合! 葛城光留、伊吹岩蔵! 前へ!」


 審判の声が響いた。


 光留は動かなかった。


「行け」


 伊織が背を押す。


「でも、蓮次郎が――」


「俺が見てる」


「試合は止めるんだろ」


「そのためにも、先に勝ってこい」


 試合場の向こうから、岩蔵が木刀を肩へ担いで待っている。


 蓮次郎も光留に気づき、拳を上げた。


 決勝で待つ。


 そう言っているように見えた。


 光留は拳を返し、試合場へ上がった。


     ◇


 伊吹岩蔵は、島の石切り場で働く男だった。


 三十を越えた大きな身体には、砕けた石でついた白い傷が無数に残っている。


 木刀も普通のものではない。


 太い樫を削ったもので、光留の木刀より一回り長く、二倍近い重さがあった。


「九眼だからといって、手は抜かん」


 岩蔵が言った。


「今までの二人とは違うんだな」


「御影宗十郎が一年鍛えた相手を、眼級だけで量るほど馬鹿ではない」


 光留は木刀を正眼へ構えた。


「助かる」


「勘違いするな。敬っているわけではない」


 岩蔵の瞳が黄褐色へ変わる。


「本気で叩き潰すということだ」


 眼力が首から右肩へ流れ、腕の表面を覆った。


 皮膚が灰色へ変わる。


 岩肌の眼。五眼。


 眼力を集めた場所を岩のように硬くする眼だった。


 身体全てを一度に覆うことはできない。だが岩蔵は、攻撃を受ける場所へ瞬時に眼力を移す技術を持っている。


「始め!」


 開始の板が鳴った。


 岩蔵が一歩で間合いへ入る。


 巨体からは想像できない速さだった。


 太い木刀が振り下ろされる。


 光留は両手で受けた。


 木がぶつかったとは思えない音がした。


 手首が沈む。


 膝が折れ、木刀の峰が額へ触れた。


「ぐっ……!」


 押し潰される寸前、身体を横へ逃がす。


 岩蔵の木刀が砂へめり込んだ。


 試合場の板が、低く軋む。


 光留は右の脇腹を狙って打ち込んだ。


 黄褐色の眼力が、岩蔵の肩から胸を通り、脇腹へ移る。


 木刀が灰色の皮膚へ当たる。


 硬い。


 岩を叩いた衝撃が腕へ返り、指が開きかける。


 岩蔵の裏拳が飛んできた。


 光留は腕で受ける。


 身体が横へ飛ばされた。


 砂の上を転がり、柵の手前で止まる。


「一撃であれか」


 観客の声が聞こえた。


「今度こそ終わったな」


 光留は木刀を杖にして立ち上がった。


 左腕が痺れている。


 右肩には、御影との稽古で受けた痛みがまだ残っていた。


「立つか」


 岩蔵が木刀を砂から引き抜く。


「倒れるのは得意なんでな」


「なら、立てなくなるまで倒す」


 岩蔵が再び踏み込んだ。


 横薙ぎ。


 光留は後ろへ跳んだ。


 木刀の風が着物を叩く。


 岩蔵は止まらない。


 一歩。


 もう一歩。


 光留を試合場の端へ追い込んでいく。


 逃げながら、光留は眼を凝らした。


 岩蔵の眼力は、攻撃するときには両腕へ集まる。


 光留が木刀を振れば、受ける場所へ流れる。


 額。


 肩。


 脇腹。


 どこを狙っても、打撃が届く直前には岩へ変わった。


 移動が速すぎる。


 光留は顔へ突きを放つ。


 黄褐色の流れが額へ上がった。


 寸前で木刀を止め、手首を返して膝を狙う。


 眼力が胸を下り、膝へ移る。


 また間に合った。


 木刀が弾かれる。


「考える程度では、俺の守りは抜けん」


 岩蔵の肩が胸へぶつかった。


 空気が肺から押し出される。


 光留の踵が、柵の下の板へ触れた。


 あと半歩下がれば場外だ。


 岩蔵が木刀を上段へ振り上げる。


 腕だけへ集めるな。


 御影の声が蘇った。


 足から腰。


 腰から背。


 背から肩。


 最後に腕。


 光留は息を吸った。


 身体の中へ眼力を巡らせる。


 岩蔵の木刀が落ちる。


 光留は正面へ踏み込んだ。


 振り下ろされる途中の柄へ、自分の木刀を斜めに当てる。


 受け止めない。


 衝撃を木刀から肩へ通し、背から腰へ落とす。


 両足を通して、砂へ逃がす。


 岩蔵の一撃が横へ滑った。


 太い木刀が柵を砕く。


 光留は懐へ入った。


 岩蔵の顎を狙う。


 黄褐色の眼力が、額へ向かって上がる。


 木刀は当てない。


 次は脇腹。


 眼力が下がる。


 それも当てない。


 肩。


 膝。


 左の肋骨。


 光留は木刀を止めるたび、次の場所へ切っ先を走らせた。


 岩蔵の眼力が、身体の中を上下へ揺さぶられる。


「小細工を!」


 岩蔵が左腕を振る。


 光留は身を沈めた。


 頭上を岩の拳が通る。


 木刀を足首へ振る。


 眼力が膝から脛へ落ちた。


 今度は止めない。


 だが木刀が触れる直前、足首は灰色に変わった。


「遅い」


 岩蔵が笑う。


 光留は木刀を引かなかった。


 硬化した足首へ、木刀を触れさせたまま押さえる。


 力で砕ける硬さではない。


 だが、光留が狙っていたのは岩ではなかった。


 一回戦では、弥吉の灰色の眼力が消えた。


 二回戦では、兵馬の紫の縛りが薄くなった。


 理由はまだ分からない。


 それでも、黒へ触れた眼力が戻らないことだけは分かっていた。


 御影の声が蘇る。


 ――力を一か所へ溜めるな。水のように全身へ通せ。


 光留は、この瞬間を待っていた。


 瞳の奥にある黒い熱を、足から腰、背から肩へ巡らせる。


 最後に腕を通り、木刀の先へ。


 黒い眼力が、墨を落とした水のように木目を這った。


 砕く必要はない。


 岩を作っている眼力だけを、黒へ引き込めばいい。


「これが俺の必殺だ――黒水」


 黒が、木刀と足首の境目へ流れ込んだ。


 黄褐色の眼力が、岩蔵の身体から引き抜かれる。


 足首から木刀へ。


 木刀から光留の両腕へ。


 黒水は硬化を砕いたのでも、ほどいたのでもなかった。


 硬化を支えていた眼力を、そのまま吸い上げていた。


 灰色の皮膚から色が消え、下から人の肌が戻ってくる。


「俺の硬化が……!」


 岩蔵の笑みが消えた。


 吸い込んだ眼力が、光留の両腕を焼くように熱くする。


 指先が痺れた。


 もう一度は使えない。


 だが、一度で十分だった。


 光留は木刀を引き、岩蔵の脇を擦り抜けた。


 互いの位置が入れ替わる。


 岩蔵の背後には、先ほど砕かれた柵があった。


「小僧!」


 岩蔵が振り返り、脇腹へ眼力を集めようとする。


 黄褐色の流れが胸を下りていく。


 だが、黒水に奪われた分だけ遅い。


 光留は木刀を両手で握り直した。


 足から腰。


 腰から背。


 背から肩。


 最後に腕。


 全身を巡った眼力を、一撃へつなぐ。


「遅いのは、そっちだ!」


 木刀が、硬化の戻らない脇腹へ叩き込まれた。


 乾いた音が、試合場を突き抜ける。


 岩蔵の巨体が動いた。


 半歩。


 たった半歩、後ろへ動いた。


 その踵の先に、地面はなかった。


 岩蔵の身体が傾く。


 伸ばした手は、光留へ届かない。


 巨体が柵の外へ落ちた。


 地面が揺れる。


 しばらく、誰も声を出さなかった。


 光留は試合場へ膝をつき、砂を吐くように息をした。


「場外!」


 審判が我に返る。


「勝者、葛城光留! 決勝進出!」


 境内から歓声が上がった。


 一回戦のような笑いは混じっていなかった。


 岩蔵は地面へ仰向けになったまま、太い声で笑った。


「見事だ、九眼級」


「名前で呼べ」


「……やるな、葛城光留」


 光留は木刀を拾い、差し出した。


 岩蔵がその手をつかむ。


 一人では引き上げられず、近くの隊士が二人加わった。


「最後まで格好がつかんな」


「それはお互いさまだろ」


 見物台で、御影が僅かに笑っていた。


「やるじゃないか。」


 御影の呟きは、歓声に消えた。


     ◇


「よくやったな」


 試合場を降りた光留へ、御影が言った。


「見てたなら、もっと喜んでくださいよ」


「優勝したら褒めてやるさ」


「そういえば、俺の必殺技どうでした?」


「なかなか悪くなかったぞ」


 御影は羽織の内側から、折り畳まれた紙を取り出した。


 端が黒く焦げ、古い油の匂いが染みついている。


「お前の父親から預かっていた」


 光留は息を止めた。


「父さんから?」


「お前が大会の決勝へ進んだら渡せと言われた」


「いつ」


「あいつが島を出る前だ」


 御影の手から紙を受け取る。


 見慣れた癖のある字が、表に一つだけ書かれていた。


 光留へ。


「だから、俺を鍛えたんですか」


「勘違いするな。頼まれたのは、これを渡すことだけだ」


 御影は光留の黒い瞳を見る。


「鍛えたのは、お前が何度頼んできたあ(・)の(・)日(・)があったからだ」


 光留は紙を開いた。


 短い文だった。


 光留へ。


 ここまで来たなら、お前はもう、他人につけられた眼級だけで自分を量ってはいないだろう。


 鍛冶場へ行け。


 火床の奥、海を背にした鬼瓦を外せ。


 そこに、お前の眼のために打った刀がある。


 そして覚えておけ。


 その刀はお前だ。


 父より。


 最後の一文だけ、ほかより強い筆圧で書かれていた。


「父さんが、俺の眼のために……」


「良かったな、」


 御影が試合場を振り返る。


 審判たちは壊れた柵を直し、次の準決勝の準備を始めていた。


「次の試合まで、四半刻ほどある」


「蓮次郎の試合を見てから行きます」


「兄ちゃん」


 背後から弟の声がした。


 蓮次郎が、手紙を覗き込んでいる。


「父さんから?」


「ああ。刀が残ってるって」


 蓮次郎の目が明るくなる。


「本当に?」


「鍛冶場に隠してあるらしい」


「早く取ってきなよ」


「お前の試合が終わってからでいいよ」


「何年も探してた刀じゃん。俺の試合なんて、すぐ終わるよ」


「ぞい爺は出るなって――」


「大丈夫だって」


 蓮次郎は御影を見たが、御影は何も言わなかった。


 その沈黙を、蓮次郎は許可だと受け取った。


「兄ちゃんと対決するまで負けないから」


「絶対に無理はするなよ」


「兄ちゃんがそれ言うの?」


 いつもの笑い方だった。


 それでも右手は、冷えた肩を押さえたままだった。


 光留は御影へ顔を向ける。


「こいつを頼みます」


「言われるまでもない、いつも通りだ」


 御影の返事を聞き、光留は走り出した。


 蓮次郎の隣を通るとき、拳を合わせる。


「決勝で会おうぜ!」


「うん!」


 触れた拳は、やはり冷たかった。


     ◇


 祭りの日とは思えないほど、町は静かだった。


 戸は閉ざされ、通りには誰もいない。


 光留の足音だけが、石畳と家々の壁へ跳ね返る。


 坂の途中にある地蔵の前を通った。


 赤い前掛けが外れ、地面へ落ちていた。


 拾う時間さえ惜しかった。


 数歩走り過ぎてから、光留は足を止めた。


 戻って前掛けの砂を払い、地蔵へ結び直す。


「ここまで二人とも勝ってきたんだ感謝しなきゃな」


「弟に勝って俺が優勝して、いつもの日常が続きますように」


 朝、口にしなかった願いを、今度は声に出した。


 言えば叶わない。


 蓮次郎はそう言っていた。


「そんなもの、知るか」


 光留はもう一度走り出した。


 家の木戸を開ける。


「ただいま」


 返事はない。


 それを確かめる間もなく、土間を抜けて裏庭へ回った。


 鍛冶場の戸には錆びた錠が下がっている。


 父がいなくなってから、何度も開けた錠だった。鍵は柱の割れ目に隠されている。


 戸を引く。


 乾いた鉄と炭の匂いが流れ出した。


 中央には火の消えた炉がある。


 壁には大小の金槌と鋏が並び、床には父が最後に掃いたときの炭屑が残っていた。


 光留は幼い頃、この場所が嫌いだった。


 父が鉄を打つ音は大きすぎて、何を話しても聞こえない。


 熱く、煙たく、近づけば怒られた。


 それでも夜になると、蓮次郎と二人で戸の隙間から覗いた。


 赤い鉄を叩くたび火花が飛び、父の横顔だけが暗闇に浮かんだ。


 まるで、何もない場所から星を作っているように見えた。


「火床の奥……海を背にした鬼瓦」


 炉の奥には、四枚の鬼瓦が埋め込まれていた。


 東西南北へ一枚ずつ。


 海は家の南側にある。


 海を背にするなら、北を向いた鬼瓦。


 光留は煤を払い、瓦の角へ指をかけた。


 動かない。


 両手で引いても、びくともしなかった。


「また力だけで何とかしようとしてるな」


 父の声が聞こえた気がした。


 幼い頃、金槌を持ち上げられなかった光留へ、父が言った言葉だ。


 ――鉄は力で言うことを聞かせるんじゃない。どこを叩けば動くか、鉄に教えてもらうんだ。


 光留は瓦を観察した。


 三枚は煤で真っ黒だが、北の一枚だけ、右の角に細い隙間がある。


 床に落ちていた小さな金槌を拾い、左上を軽く叩いた。


 鈍い音。


 右下を叩く。


 少し高い音が返る。


 もう一度。


 瓦の奥で、何かが外れた。


 北の鬼瓦が手前へ傾く。


 裏には、人の腕が入るほどの空洞があった。


 黒い布に包まれた、細長いものが収められている。


 光留は両手で引き出した。


 重い。


 木刀とは比べものにならない。


 布を解く。


 現れたのは、黒漆の鞘に収められた一振りの刀だった。


 柄には色の褪せた紺糸が巻かれ、鍔には閉じた眼の紋が刻まれている。


 幼い頃に見たときは、柄も鞘もなかった。


 父は島を出る前に、この刀を完成させていた。


 光留が柄へ触れる。


 瞳の奥で、黒い熱が脈打った。


 鞘の中から、同じ鼓動が返ってくる。


 刀が呼吸している。


 そんなはずはないのに、手の中で僅かに重さが変わった。


 刀を黒い布で巻き直し、背へ負った。


 そのとき、遠くで開始の板が鳴った。


 乾いた音は町を越え、鍛冶場まで届いた。


     ◇


「準決勝第二試合、葛城蓮次郎。時任清十郎。前へ!」


 その瞬間、島そのものを揺るがすような大歓声が、試合場から爆ぜ上がった。


 試合場の中央で、二人が向かい合っていた。


 蓮次郎は、兄のいない通路を見る。


 まだ戻ってこない。


 向かいの時任清十郎が木刀を構えた。


 白鷺は見物台の下から、蓮次郎を止めようと一歩出る。


 その肩を、御影がつかんだ。


「なぜ止める」


「危険なんだ、手遅れになるかもしれない、」


 御影の視線は、蓮次郎の背後へ向けられていた。


「三隊長とお前がいる。少しくらいなら大丈夫さ」


 御影は刀の鍔へ手を置く。


「何かあれば俺が斬る」


 開始を告げる審判が、板を掲げた。


 蓮次郎の背後には、古い隊羽織の男が立っている。


 今度は一人ではなかった。


 男の後ろに、幾十もの白い影が並んでいる。


 足軽。


 武者。


 刃眼隊の羽織を着た者。


 人の形を失い、獣のように四つ足で伏せる者。


 その全てが、蓮次郎の身体を見ていた。


 ――呼べ。


 古い隊羽織の男が囁く。


 蓮次郎は首を振った。


「一体だけで勝てる」


 ――その一体に、私を選べ。


「お前が誰かも知らない」


 ――私は、お前の願いを知っている。


 男の大きな手が、蓮次郎の右肩へ置かれた。


 冷気が胸の奥まで流れ込む。


 ――兄と決勝で会いたいのだろう。そしてもう一度、母に会いたいのだろう


 蓮次郎は、もう一度だけ通路を見た。


 光留の姿はない。


 審判の板が鳴る。


「始め!」


 時任清十郎が踏み込んだ。


 蓮次郎は白く濁った眼を開く。


「……来い」


 古い隊羽織が、風もないのに大きくはためいた。


あったら面白そうな眼の能力があれば気軽にコメントしてください!!

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