第四話 願いを叶える者
二回戦を告げる太鼓が鳴った。
その音が消えないうちに、海の方から低い鐘の音が返ってきた。
ごおん、と一度。
祭りの笛も、観客のざわめきも、その一音だけは覆い隠せなかった。
「今の、警鐘?」
蓮次郎が海の方へ顔を向けた。
光留は答えず、見物台を見上げる。
御影宗十郎は椅子から立っていた。
左右の一番隊長と三番隊長も、同じ方角を見ている。三人の背後に吊られた町の警鐘は動いていない。
鳴ったのは、もっと遠くにある鐘だ。
南の岬に建つ見張り櫓。島へ近づく船と、海から上がる眼獣を見張るための鐘だった。
一人の隊士が人垣を押し分け、見物台の下へ駆け込んだ。
「申し上げます! 南の見張り舟が一艘、刻限を過ぎても戻りません。鐘番が沖に黒い影を見たと」
観客の近くにいた者が息を呑んだ。
「眼獣か」
三番隊長が尋ねる。
「分かりません。影はすぐに沈みました」
「三番隊を半数、南へ回せ。一番隊は町の門と避難路を固めろ」
御影が見物台から命じた。
「大会はどうする」
一番隊長の問いに、御影は試合場を囲む人々を見渡した。
突然中止すれば、理由を知らない者まで海へ押しかける。狭い通りで混乱が起これば、眼獣が一体現れるより多くの怪我人が出る。
「鐘が一度のうちは続ける。二度鳴ったら、試合場を閉じて町民を社へ移せ」
「聞いたな。動け!」
三番隊長の声が飛ぶ。
柵の外にいた橘伊織が、四人の隊士とともに走り出した。
光留の前を通り過ぎる寸前、伊織の足が止まる。
「悪いな。次は見られそうにない」
「優勝するからゆっくりでいいぞ」
「馬鹿言え」
伊織は光留の胸を拳で軽く叩いた。
「戻ったとき、まだ名前を残しておけよ」
「そっちこそ、見物に戻る前に眼獣に食われるなよ」
「誰に言ってるだか」
伊織は笑い、今度こそ振り返らずに人混みへ消えた。
昔、二人で海岸を走ったときも、伊織はいつも先へ行った。
追いつけそうで、追いつけない距離を残して。
審判が試合場の中央へ戻った。
「警備は刃眼隊が引き受ける! 出場者は試合へ集中しろ!」
太鼓がもう一度鳴らされる。
止まっていた祭りの時間が、無理やり押し出されるように動き始めた。
◇
「二回戦第一試合、葛城蓮次郎。荒巻弦馬。前へ!」
蓮次郎は返事をせず、試合場へ上がった。
「おい」
光留が呼び止める。
「鼻血、本当に平気なのか」
「もう止まったよ」
「あんまり無理するなよ」
「分かってるって」
蓮次郎は背中を向けたまま片手を振った。
いつもと同じ軽い返事だった。
だが、試合場へ上がる足取りは、一回戦の前より静かだった。
何かの歩幅へ、自分の足を合わせているように見えた。
対戦相手の荒巻弦馬は、昨年の大会で準決勝まで進んだ男だった。
年は二十を少し越えたほど。長い髪を後ろで束ね、木刀を腰の横へ寝かせるように構えている。
「一年で八眼から六眼か。町じゅう、お前の噂でもちきりだ」
「悪い噂じゃないなら、もっと広めてよ」
「勝ったら考えてやるよ」
弦馬の瞳に、淡い緑の筋が走った。
風走の眼。
足へ眼力を集め、風を踏むような速さで間合いを詰める眼だ。能力そのものは七眼だったが、弦馬は十年以上も使い続けている。
眼級が一つ上だからといって、蓮次郎が簡単に勝てる相手ではない。
開始の板が鳴った。
弦馬の姿が揺れる。
遅れて、砂が爆ぜた。
木刀はすでに蓮次郎の喉元へ迫っている。
蓮次郎の身体が傾いた。
避けたのではない。
攻撃が来る前から、そこに木刀が通ると知っていたような動きだった。
切っ先が首の皮一枚を掠める。
蓮次郎は弦馬の横を抜けながら、短く息を吐いた。
「来て」
白い霧が試合場へ渦を巻いた。
霧の中から、一人の武者が現れる。
一回戦で呼び出した足軽とは違う。欠けた胴丸を身につけ、片方の袖を失った老武者だった。顔には額から顎まで届く刀傷がある。
老武者は蓮次郎を見なかった。
弦馬だけを見据え、半透明の刀を下段へ構える。
「そいつ一人で、俺の速さについて来られるか?」
弦馬が砂を蹴った。
右。
左。
蓮次郎の周囲を緑の残像が走る。
老武者と蓮次郎は動かない。
「後ろだ!」
観客の声と同時に、弦馬が背後へ現れた。
横薙ぎの木刀が迫る。
老武者の半透明の刀が、それを受け止めた。
弦馬の目が見開かれる。
老武者は後ろを見ていなかった。
それでも刀だけを背へ回し、正確に打撃を止めている。
蓮次郎が振り向きざまに木刀を振る。
弦馬は身を沈めてかわし、風を蹴って距離を取った。
「偶然かよ」
再び残像が走る。
今度は三つ。
正面の影が木刀を上げ、左右の影が同時に踏み込んだように見えた。
光留は眼を凝らす。
緑の眼力は弦馬の両脚へ集まり、砂を蹴るたび足跡の上へ細く残っている。三つの残像のうち、眼力が途切れず続いているのは左だけだった。
「左だ、蓮次郎!」
叫ぶより先に、蓮次郎は右へ身体を開いていた。
本物の弦馬が左から突っ込んでくる。
老武者の刀が木刀を上へ弾く。
蓮次郎の一撃が、空いた脇腹へ入った。
「ぐっ……!」
弦馬の足が止まる。
蓮次郎は追わなかった。
老武者と同じ姿勢で木刀を下段へ構え、弦馬が立て直すのを待っている。
構えだけではない。
呼吸の長さも、踵の上げ方も、刀を握る指の順まで同じだった。
「あいつ、いつ覚えたんだよ」
光留の隣で、先ほどの源八が呟いた。
「あんな構え、一回戦ではしてなかっただろ」
光留にも分からなかった。
蓮次郎は剣術を習っていない。兄弟で毎日木刀を振ってきたが、あれほど無駄のない構えをしたことは一度もなかった。
弟が老武者を操っているのではない。
老武者の方が、弟の身体を動かしている。
そんな考えが浮かび、光留はすぐに打ち消した。
「これが通用しないなら、全力でやらしてもらうぞ」
弦馬が腰を落とした。
両脚へ緑の眼力が膨れ上がる。
長く使えば器へ負担がかかる量だった。
審判が止めるより早く、弦馬が消えた。
真っ直ぐだった。
残像を捨て、全ての速さを一歩へ注いだ突き。
老武者の刀が上がる。
間に合わない。
蓮次郎の背後で、黒い影が動いた。
古びた隊羽織の男だった。
大きな手が、蓮次郎の右肩を押す。
弟の身体が半歩だけ前へ出た。
弦馬の木刀が脇を通過する。
蓮次郎は相手の懐へ潜り込み、老武者と同時に木刀を振り上げた。
二つの刃が、上下から弦馬の木刀を挟む。
木刀が宙へ飛んだ。
蓮次郎の切っ先が、弦馬の胸へ止まる。
「そこまで! 勝者、葛城蓮次郎!」
歓声が上がった。
光留だけが声を出せなかった。
老武者は白い粒になり、夏の光へ溶けていく。
古い隊羽織の男は消えない。
蓮次郎の背後に立ったまま、顔を光留の方へ向けた。
影の奥で、二つの眼だけが白く濁っていた。
光留と目が合う。
男の口元が、僅かに持ち上がった。
「蓮次郎、後ろだ!」
弟が振り向く。
影は消えた。
「なんだよ?」
「今、そこに――」
「誰もいないよ」
蓮次郎は笑おうとした。
だが、その声は掠れていた。
右肩を押さえた指の隙間から、冷たい白い息が漏れている。
◇
「次の試合へ出すべきではないぞい」
ぞい爺は、試合場の裏にある救護所で言った。
蓮次郎は上半身の着物を脱ぎ、敷物の上へ座っている。
右肩には傷も痣もなかった。
それでも触れれば、井戸水へ手を入れたように冷たい。
「え、勝ったのに?」
「勝ち負けの話をしておらんぞい」
白鷺の乳白色の瞳へ三重の輪が浮かぶ。
蓮次郎の眼と、肩と、胸の奥を順に見通していく。
「呼び出した霊は一体だったな」
「はい」
「では、最後におぬしを動かしたものはなんだったぞい」
蓮次郎は答えなかった。
光留が代わりに口を開く。
「古い隊羽織の男です。母の部屋にもいた。こいつの後ろに立って、肩へ触ってた」
白鷺の輪が一瞬、乱れた。
「顔は見たのかぞい」
「影になっていて、よくは。ただ、眼が白く濁ってました」
「隊羽織の背には、何と書かれていたぞい」
「そこまでは――」
光留は言葉を止めた。
「先生は、誰か分かるんですか」
「見えぬものに名を与えるのは、判定ではなく決めつけだぞい」
老人は蓮次郎の胸へ耳を当てた。
心臓の音を数えるように、長い間、黙っている。
「器がまた広がっておるぞい」
「強くなったってこと?」
「違うぞい」
白鷺は顔を上げた。
「一回戦のあとより、さらに大きい。人の器は、試合を一つ終えるたびに広がるものではないぞい」
「でも、ひびはないんでしょう」
「今はな、ぞい」
その三文字だけが、救護所へ重く落ちた。
「もう棄権しろぞい」
蓮次郎は脱いだ着物をつかんだ。
「嫌です」
「蓮次郎」
「兄ちゃんと約束したんだ。決勝で会うって」
「約束を守るために、おぬしが壊れたら何になるぞい」
「壊れないよ」
蓮次郎は着物へ腕を通した。
震えている右手を、光留から隠すように帯を結ぶ。
「俺の眼なのに、どうして皆、俺より怖がるんだよ」
外から、次の試合を告げる太鼓が鳴った。
蓮次郎は立ち上がる。
「兄ちゃんの番だ」
「話は終わってないぞい」
「行ってきなよ」
すれ違いざま、蓮次郎は光留の胸を拳で叩いた。
「あと二つ。負けるなよ」
その拳は、海の底から拾い上げた石のように冷たかった。
◇
「二回戦第四試合、葛城光留。真壁兵馬。前へ!」
試合場へ戻ると、観客の半分は海の方を気にしていた。
鐘は、まだ二度目を鳴らしていない。
伊織たちも戻っていなかった。
見物台の中央には、御影が残っている。だが左右の席は空き、一番隊長と三番隊長はそれぞれの隊へ指示を飛ばしていた。
光留は木刀を握り直した。
考えることが多すぎた。
海の黒い影。
戻らない見張り舟。
蓮次郎の背に立つ男。
試合ごとに広がる弟の器。
「九眼が二回戦まで来るとはな」
向かいから声がした。
真壁兵馬は、光留より一回り年上の大工だった。
日に焼けた指には細かな切り傷があり、木刀の鍔へ数本の細い木片を挟んでいる。
昨年は二回戦で敗れたが、相手を試合場へ縫い止め、一歩も動かさなかったことで名を知られていた。
「御影隊長の稽古は、よほど効くらしい」
「試してみるか」
「同情で教わった技が、どこまで通じるか見てやる」
兵馬の瞳へ、紫色の細い十字が浮かんだ。
縫影の眼。六眼。
自身の眼力を込めた木片で相手の影を地面へ縫い、肉体の動きを封じる眼だ。
審判が二人を見比べる。
「始め!」
兵馬の右手が動いた。
一本目の木片が飛ぶ。
光留は首を傾けてかわした。
木片は身体ではなく、足元へ突き刺さる。
右足が止まった。
砂の下から何かにつかまれたように、踵が上がらない。
「影を避けなきゃ意味がない」
二本目。
光留は木刀で弾く。
三本目が、その陰に隠れていた。
左腕の影へ刺さる。
肘から先が動かなくなった。
兵馬が正面から踏み込んでくる。
光留は動く右腕だけで木刀を構えた。
打ち下ろされた一撃を受ける。
片足と片腕を縫われた身体へ、衝撃が逃げずに残った。
膝が砂へ落ちる。
「一回戦は相手が勝手に力を使い果たしただけだ」
兵馬が木刀を押し込む。
「能力もない九眼が、二度も勝てると思うな」
光留は奥歯を噛んだ。
力で押し返そうとしても、左腕が動かない。
右足も砂へ縫いつけられたままだ。
御影なら、どこを見る。
光留は眼の奥へ意識を沈めた。
黒い瞳が、さらに深く染まる。
兵馬の左眼から紫の眼力が流れ、肩で二つに分かれている。一つは木刀を握る腕へ。もう一つは木片を投げた右手へ。
さらに細い流れが、地面へ刺さった二本の木片まで続いていた。
木片が影を縫っているのではない。
兵馬が眼力を送り続けることで、縫い止めている。
「一つ聞いていいか」
「降参なら聞いてやる」
「何本まで使えるだよそれ」
「知ってどうする」
「あとで数えるのが面倒だからな」
光留は右肩の力を抜いた。
押し込まれていた木刀が下がる。
兵馬の身体も前へ流れた。
頭突きが鼻へ入る。
「ぐあっ!」
兵馬が仰け反った。
光留はその隙に木刀を横へ振り、右足の影へ刺さった木片を叩き折った。
足は動かない。
「無駄だ。折っても、影に刺さった眼力は消えない」
兵馬が鼻血を拭い、鍔から新しい木片を二本抜いた。
光留は折れた木片を見た。
紫の流れは、確かに地面へ残っている。
だが、色が薄い。
右足を包んでいた眼力が揺れ、一筋ずつ色を失っている。
一回戦と同じだった。
弥吉の灰色の眼力も、光留へ近づくほど色を失った。
木片を折ったからか。頭突きで兵馬の集中が乱れたからか。
理由は分からない。
考えるのはあとだ。今は、弱まった縛りを破る。
光留は息を吸った。
足先へ眼力を巡らせる。
右足を引く。
薄くなった紫の縛りが伸び、糸の切れるような音を立てた。
踵が地面から離れる。
「何だと……」
兵馬の手が止まった。
「一つ」
光留は動くようになった右足で砂を蹴った。
飛んできた木片を木刀で弾く。
兵馬はもう一本を、左腕の影へ重ねて打ち込んだ。
紫の縛りが太くなり、肩まで動かなくなる。
「なら、もう一度縫うだけだ!」
兵馬が左側へ回り込む。
動かない腕を狙った打撃。
光留は避けなかった。
右腕一本で受ける。
一撃。
二撃。
三撃。
木刀がぶつかるたび、手の皮が裂けた。
腕の骨まで震える。
それでも光留は、足から腰、腰から背へ眼力を巡らせ続けた。
衝撃を一か所へ溜めない。
「何で倒れない!」
「九回倒されても立った日の方が、きつかったよ」
御影が見物台で、僅かに眉を上げた。
兵馬の攻撃が荒くなる。
焦るほど眼力の流れは太くなり、木片へ注がれる量が増えた。
だが、光留の左腕を縫う紫の眼力は、注がれた量に反して薄くなっていく。
兵馬の瞳から色が薄れた。
呼吸が乱れる。
四撃目が来る。
光留は左手を開いた。
指が動いた。
「二つ」
兵馬の木刀を、両手で受け止める。
次の瞬間、光留は木刀を滑らせた。
相手の鍔へ噛ませ、下から跳ね上げる。
兵馬の手から木刀が離れた。
光留は踏み込み、肩を胸へぶつける。
兵馬が砂の上を転がった。
柵の手前で止まり、すぐに起き上がろうとする。
その喉元へ、光留の木刀が突きつけられた。
「まだやるか」
兵馬は空になった右手と、光留の黒い眼を交互に見た。
「……降参だ」
「そこまで! 勝者、葛城光留!」
歓声は一回戦より大きかった。
だが、その中には戸惑いも混じっていた。
「九眼が六眼に勝ったぞ」
「また相手の眼力が切れた」
「黒の眼は、本当に何もできないんじゃないのか?」
光留は木刀を下ろした。
左腕にも右足にも、紫の縛りは残っていない。
代わりに、胸の奥が少しだけ熱かった。
御影の稽古で眼力を巡らせたときとは違う。
自分のものではない熱が、一滴だけ混ざったような感覚だった。
気のせいだと思うことにした。
見物台の御影は、光留ではなく自分の右手を見ていた。
綻びの眼を使った瞳には、光留へ流れ込んだ紫の眼力の最後の一筋が見えていた。
入ったはずの力に、出口がない。
「黒、か」
御影の呟きは、歓声に消えた。
◇
対戦表に、二本目の赤い印がつけられた。
葛城光留。
葛城蓮次郎。
兄弟の名から伸びる線は、あと一度ずつ勝てば、決勝の枠で重なる。
「あと二つだね」
蓮次郎が言った。
救護所での口論などなかったように、いつもの笑顔へ戻っている。
「その前に、白鷺先生の話を――」
「兄ちゃん」
蓮次郎が対戦表の一点を指した。
「準決勝、兄ちゃんが先だ」
光留の線の先には、次の相手の名が記されている。
「勝ったら、俺の試合まで少し空くね」
「話を逸らすな」
「木刀じゃなくて、本物の刀があれば、兄ちゃんはもっと強いのにな」
「本物で試合に出たら失格だ」
「試合のあとだよ。刃眼隊へ入ったら、必要になるだろ」
父は鍛冶屋だった。
家の裏にある鍛冶場は、父が島を出てから閉じたままになっている。
光留は幼い頃、父が一本だけ、誰にも触れさせなかった刀を思い出した。
鞘も柄もない、黒い布に巻かれた刀身。
――これは、いつかお前に渡す。
父はそう言って、いた。
だが、父がいなくなったあと、何度探しても見つからなかった。
「父さんの刀、まだどこかにあるのかな」
蓮次郎が小さく言った。
「急に何だよ」
「何となく、思い出しただけ」
そのとき、海の方から風が吹いた。
祭りの旗が一斉に陸側へ倒れる。
対戦表の紙がばたばたと鳴り、兄弟の名を結ぶ決勝の線へ影が落ちた。
ごおん。
南の鐘が、二度目を鳴らした。
見物台の御影が立ち上がる。
町の警鐘へ、隊士が飛びついた。
だが、鳴らす直前、一番隊長がその腕を止める。
「待て! 南から合図だ!」
屋根の上を、一人の隊士が走ってくる。
三番隊の羽織。
伊織ではない。
隊士は試合場へ飛び降りると、膝をついた。
「見張り舟を発見! 乗員は全員、命に別状はありません!」
張りつめていた空気が、僅かに緩んだ。
「ただし、全員が意識を失っています。呼びかけにも反応しません」
「では、なぜ二度鳴らした」
御影の問いに、隊士は顔を上げた。
「舟は、沖から戻ったのではありません」
息を整え、青ざめた唇を動かす。
「浜へ打ち上げられていました。島の内側から」
誰も意味を理解できなかった。
海に出た舟が、海とは反対の山側から見つかった。
「伊織は」
「跡を追っています。地面に、引きずった跡が続いていて……」
隊士が言葉を詰まらせた。
「何の跡だ」
「舟より大きな、裸足の跡です」
御影の顔から表情が消えた。
「大会を中断する。門を閉じろ」
今度は誰も異を唱えなかった。
町の警鐘が鳴り響く。
観客が立ち上がり、刃眼隊が避難路を開く。祭りの笛が止まり、屋台の火が次々と消されていく。
混乱の中で、蓮次郎だけが動かなかった。
対戦表の前に立ち、決勝へ続く二本の線を見つめている。
その背後へ、古い隊羽織の男が現れた。
今度は光留には見えなかった。
男は蓮次郎の耳元へ顔を寄せる。
白く濁った眼が、弟の瞳と重なった。
――やっとか。
蓮次郎の肩が震える。
「だれ、?」
周囲の喧騒の中、その声を聞いた者はいなかった。
男の手が、冷えた右肩を包む。
――お前の願いを、叶える者だ。
蓮次郎は決勝の枠へ指を置いた。
その爪の下で、紙が黒く濡れたように変色していった。
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