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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第一章 幻の島と失ったもの

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第三話 いつか、約束の先で

 襖の向こうは、母が死んだ日のままだった。


 畳の上には薄く埃が積もり、壁際には畳まれた布団と、蓋の閉じた桐箪笥が置かれている。月明かりが開いた隙間から差し込み、部屋を細長く二つに分けていた。


 人の姿はない。


「誰もいないぞ」


 光留はそう言ったが、蓮次郎は答えなかった。


 白く濁った目で、部屋の奥を見つめている。


「母さんだ」


 蓮次郎が一歩、部屋へ入った。


「いきなりどうしたんだよ」


 光留が腕をつかむ。


 触れた肌は、海水へ浸していたように冷たかった。


「聞こえないの?」


「何が?」


「呼んでるだろ」


 部屋の奥には、月明かりさえ届いていない。


 それでも蓮次郎は、誰かと目を合わせるように顔を上げた。


「母さんが、帰ってきたんだよ」


 冷気が光留の指へ入り込んだ。


 蓮次郎の腕から伝わり、手首を越え、肘へ向かって這い上がってくる。水ではない。目に見えない何かが、兄の身体を道にして外へ出ようとしていた。


 光留の瞳が黒く染まった。


 腕の中にあった冷たさが、不意に途切れる。


 何かが指先から吸い込まれたような感覚があった。


 部屋の暗がりが、わずかに揺れた。


 人の形に見えた。


 古びた隊羽織。その胸元から上は、夜の色に塗り潰されている。


 光留が目を凝らした瞬間、影は壁の黒ずみへ戻った。


「誰だ」


 返事はない。


 代わりに、部屋の中央で小さなものが光った。


 母が使っていた椿の櫛だった。


 死んだあと、箪笥の一番上へしまったはずの櫛が、畳の上に置かれている。


 蓮次郎が腕を振りほどこうとした。


「離して。母さんが待ってる」


「何言ってんだよ、母さんもういないんだぞ」


 口にした瞬間、自分の声が刃のように聞こえた。


 蓮次郎の動きが止まる。


「分かってるよ」


 その顔には、怒りも悲しみもなかった。


「だから、帰ってきたんだろ」


 遠くで鐘が鳴った。


 一度。


 間を置かず、二度、三度。


 低く激しい音が、眠った町を叩き起こした。


 眼獣を告げる警鐘だった。


 次の瞬間、止まっていた波が一斉に岸へ押し寄せた。


 ざああ、と島全体を囲む音が戻ってくる。


 襖が勢いよく閉じた。 


 蓮次郎の膝から力が抜けた。光留はその身体を抱き止め、その場へ座り込む。


「蓮次郎大丈夫か?」


「うん、大丈夫」


 弟は目元を押さえた。瞳はいつもの色へ戻りつつあった。


「母さん、祭りを見に来るって」


「……何があっても一人の時は、もうあの部屋へ入るなよ」


「兄ちゃんには聞こえなかっただけだよ」


「それでもだ」


 蓮次郎はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


 警鐘は鳴りやまない。

 

 坂の下から、人の叫び声が上がった。


「眼獣だ! 戸を閉めろ!」


 光留は蓮次郎を襖から離し、雨戸の隙間へ走った。


 眠っていた家々に灯りがつく。だが、外へ出る者はいない。島の子どもは、歩けるようになる前から教えられている。


 夜の警鐘を聞いたら、戸を閉める。


 それは刃眼隊が戦うための道を空ける、島の決まりだった。


 坂の下の石畳を、黒い塊が駆け上がってきた。


 牛ほどの大きさがある。四つ足に見えたが、腹の下から細い二本の脚が生え、濡れた石を引っかいていた。首の周りには大小の眼が輪のように並び、それぞれ別の方向を見ている。


 眼獣だった。


 海水をまとった身体から、腐った磯の臭いが立ち上っている。


「三番隊、道を塞げ! 町中へ入れるな!」


 紺色の羽織が二つ、屋根から降りた。


 先頭の隊士が刀で牙を受ける。火花が散り、足元の石畳が割れた。別の隊士が横から後脚を斬ったが、傷口から糸のような眼力が伸び、裂けた肉を縫い合わせていく。


「再生するぞ!」


「眼を潰せ。首の下だ!」


 眼獣が身体を振り回した。


 尾が一人の隊士を捉え、向かいの壁へ叩きつける。


 光留の手が、壁へ立てかけた木刀へ伸びた。


 その前で、蓮次郎が兄の袖をつかむ。


「木刀で行くつもり?」


「見てるだけには――」


「出るな、光留!」


 通りから声が飛んだ。


 橘伊織が、眼獣と兄弟の家の間へ着地した。


 抜かれた刀の刃へ、赤い火が細くまとわりつく。炎は闇雲に広がらず、刃文に沿って呼吸するように光っていた。


 眼獣が六本の脚で地面を蹴る。


 伊織は正面から動かなかった。


 牙が胸へ届く寸前、半身になってかわす。同時に刀を下から斬り上げた。


 燃える刃が前脚を断つ。


 糸が傷口へ集まったが、切断面に残った火が内側へ燃え移り、再生を止めた。


「今だ!」


 倒れていた隊士が起き上がり、眼獣の横腹へ刀を突き立てる。もう一人が背後から首へ飛び乗り、輪のように並んだ眼を斬り払った。


 眼獣が吠える。


 伊織は一歩で懐へ入り、首の下に隠れていた最も大きな眼へ切っ先を突き込んだ。


 火が眼獣の内側から噴き上がった。


 巨体が石畳へ倒れる。


 六本の脚がしばらく痙攣し、やがて動かなくなった。


 警鐘が止まった。


 静かになった通りに、隊士たちの荒い呼吸と、脂の焦げる音だけが残った。


「負傷者を運べ。死骸は海側の詰所へ回す」


 伊織は刀についた火を消し、雨戸の隙間を見上げた。


「戸を閉めろ。1体とは限らない」


 隊士の命令だった。


 けれど、その目は光留だけを見ていた。


 眼獣が運ばれていく直前、首に残った小さな眼の一つが動いた。


 雨戸の陰にいる蓮次郎へ、ぴたりと向く。


 白く濁った弟の瞳が、同じ角度へ僅かに傾いた。


「蓮次郎?」


「何でもない」


 弟は自分から雨戸を閉めた。


 二人は夜が明けるまで、閉じた襖と雨戸の間で眠らずに過ごした。


 朝になって部屋を調べると、椿の櫛は箪笥の中へ戻っていた。


 昨夜の出来事が夢だったように、畳の埃には誰の足跡も残っていなかった。


     ◇


 二日後、祭りの朝は何事もなかったようにやって来た。


 空は青く、海には波が戻っている。


 ただし、海鳥は一羽もいなかった。


 夜の眼獣は「海から迷い込んだ一体だけだった」と発表された。それでも夜明け前から刃眼隊が海へ続く道を封鎖し、町には「祭りが終わるまで海岸へ近づくな」という触れが出された。理由を尋ねても、返ってくるのは決まって同じ答えだった。


 念のためだ。


 その言葉だけで納得した者はいなかった。それでも刃眼隊を信じるしかなく、祭りも中止にならなかった。


 町の者はいつもより大きな声で客を呼び、いつもより多くの飾りを軒下へ吊るした。不安を隠すには、静かにしているより騒ぐ方が都合がよかった。


 兄弟は木刀を背負い、家を出た。


 坂の途中にある小さな地蔵の前で、蓮次郎が足を止める。日に焼けた赤い前掛けが、朝風に揺れていた。


 母が生きていた頃、遠出をするたびに手を合わせた地蔵だった。


 蓮次郎が先にしゃがむ。


「何を願ったんだよ」


「言ったら叶わないじゃないか」


「どうせ優勝だろ」


「兄ちゃんこそ」


 光留も地蔵の前へ膝をついた。


 願うことは三つあった。


 自分が勝つこと。


 蓮次郎も勝つこと。


 そして今夜も、いつも通り幸せに過ごせること。


 立ち上がった蓮次郎が、兄へ拳を差し出した。


「決勝で会おう」


「お前、俺と当たるまで残れるのか」


「九眼級の人に言われたくないな」


「眼級だけで勝負は決まらないからな」


「まあ、全力で頑張ろ!」


 光留は弟の拳へ自分の拳を当てた。


「負けるなよ」


「兄ちゃんも」


 二人の拳の間で、朝日が細く弾けた。


     ◇


 町の中央は、人の熱で海辺より暑かった。


 通りの上を紅白の布が渡り、屋台から焼いた魚と甘い餡の匂いが流れてくる。笛と太鼓の音に、試合場を囲む観客の声が重なっていた。


 武闘大会の試合場は、厚い板を円形に組み、その上へ砂を敷いて造られている。周囲には腰ほどの柵があり、その外側を刃眼隊の隊士が固めていた。


 受付の横には、大きな対戦表が立てられていた。


 光留は上から順に名前を追う。


「あった」


 蓮次郎が右端を指差した。


 葛城蓮次郎――霊の眼、六眼。


 周囲から声が上がる。


「あれが一年で二つ上がった子か」


「六眼なら、もう隊士の候補だろう」


「霊を呼ぶ眼だってよ」


 蓮次郎は聞こえていないふりをしていたが、口元は隠せていなかった。


「兄ちゃんもあるよ」


 弟が、対戦表の反対側を指す。


 葛城光留――黒の眼、九眼。


 こちらを見た者たちの声は小さかった。


「黒の眼って、何をするんだ」


「何もできないから九眼なんだろ」


「去年、一回戦で転がされてたやつだ」


「おい、聞こえてるぞ」


 光留が振り返ると、囁いていた男たちは慌てて視線を外した。


 蓮次郎は対戦表を下までたどり、中央にある決勝の枠を指で叩いた。


「俺たち、反対側だな」


 勝ち続ければ、当たるのは最後の一試合だけだった。


「よかったな」


「何が?」


「一回戦で優勝候補の俺と当たらなくて良かったな」


「もしかして兄ちゃんのこと?」


 蓮次郎が笑った。


 その笑顔を見て、光留はようやく肩の力を抜いた。


 昨夜――いや、二日前の夜から、蓮次郎は母の部屋について一度も口にしていない。光留も尋ねなかった。


 忘れたのではない。


 二人とも、祭りが終わるまで触れないことにしただけだった。


「出場者は集まれ!」


 試合場から声が飛ぶ。


 受付の前に、十六人の出場者が並んだ。年齢も体格も違う。まだ背の低い子どもから、腕に古傷を持つ漁師までいる。


 試合場の正面には、一段高い見物台が設けられていた。


 中央に御影宗十郎が座っている。いつもの紺色の隊羽織を着ていたが、木刀ではなく本物の刀を腰へ差していた。


 その左右には、一番隊と三番隊の隊長がいる。三人の背後には、島の外へ向けられた警鐘が吊られていた。


 祭りの見物に、本物の刀も警鐘も必要ない。


 光留が海側の警備へ目を向けると、橘伊織が柵の外に立っていた。


 三番隊の羽織。腰には火の眼で焦げ跡のついた刀。


 目が合った。


 伊織は何も言わず、顎をわずかに上げた。


 勝ち残れ。


 そう言われた気がした。


「大会の決まりを告げる!」


 試合場に立った審判が声を張った。


「勝敗は降参、場外、戦闘不能のいずれか。殺傷を目的とする技と、観客席へ届く能力の使用は禁止する。器に異常を感じた者は、直ちに試合を止めろ。勝つために眼獣へ成り果てるような愚か者を、刃眼隊は求めていない!」


 出場者たちの返事が重なった。


 開始を告げる太鼓が、腹の底まで震わせた。


     ◇


 先に呼ばれたのは蓮次郎だった。


「第一試合、葛城蓮次郎。新田源八。前へ!」


「行ってくる」


「無理すんなよ」


「分かってる」


「ぞい爺にも言われただろ」


「兄ちゃんは母さんかよ」


 その言葉を口にしたあと、蓮次郎の笑顔が一瞬だけ固まった。


 だが、すぐに背を向けて試合場へ上がった。


 対戦相手の新田源八は、蓮次郎より頭一つ大きかった。日に焼けた両腕へ布を巻き、太い木刀を肩に担いでいる。


「六眼級だか何だか知らねえが、霊に守ってもらうだけの子どもだろ」


「そう思うなら、最初に俺を狙えばいいじゃないか」


「言われなくてもそうするさ」


 源八の瞳が赤褐色へ変わった。


 剛腕の眼。


 両腕の筋肉が膨らみ、握られた木刀が軋む。七眼級でありながら、一撃の重さだけなら上の眼級にも劣らないと、周囲の者が話していた。


 開始の板が鳴る。


 源八が一直線に踏み込んだ。


 蓮次郎は動かない。


「何してる、避けろ!」


 光留が叫ぶ。


 太い木刀が弟の頭へ落ちる直前、試合場の空気が白く曇った。


 半透明の男が、蓮次郎の前へ現れる。


 古い鎧を身につけた、名もない足軽の霊だった。


 霊の槍が横から伸び、源八の木刀を受け止める。


 激突した場所から冷たい風が広がった。


「くっ……!」


 源八の腕が止まる。


 蓮次郎は霊の陰から滑り込み、木刀で相手の右手首を打った。


 源八は木刀を落とさない。左腕だけで振り払い、蓮次郎を追う。


 霊の槍が二撃目を逸らす。


 蓮次郎は三撃目の下をくぐり、源八の脇腹へ打ち込んだ。


「まだだ!」


 源八が力任せに身体を回す。


 霊が間に合わない角度だった。


 光留の足が、思わず柵を越えかけた。


 その瞬間、白い手が地面から現れた。


 源八の足首をつかむ。


 大きな身体が傾いた。


 蓮次郎はその隙を逃さず、胸へ木刀を突きつける。


「そこまで! 勝者、葛城蓮次郎!」


 歓声が試合場を揺らした。


 具現化した足軽は、役目を終えると白い粒になって消えていく。


 地面から伸びたもう一本の手も、いつの間にか消えていた。


「今の……二体じゃないのか」


 光留が呟く。


 見物台の御影も、笑っていなかった。


 蓮次郎は試合場を降りると、観客から差し出される手へ得意げに触れて回った。


「人気者だな」


「今の見た? 一撃ももらわなかったぞ」


「最後の手は何だ」


「手?」


「足をつかんだだろ」


 蓮次郎は眉を寄せた。


「何もしてないよ。兄ちゃんの見間違いじゃない?」


「御影隊長も見てたぞ」


「隊長が何か言ったの?」


「いや」


「じゃあ一体だよ」


 蓮次郎は笑ったが、鼻の下に細い赤い線が流れていた。


 光留が指で示すと、弟は慌てて袖で拭う。


「これは暑いから」


「あんまり無理するなよ、」


 問い詰める前に、次の名が呼ばれた。


「第四試合、葛城光留。富樫弥吉。前へ!」


「ほら、兄ちゃんの番だよ」


 蓮次郎が光留の背を押す。


「去年みたいに、すぐ負けないでよ」


「お前こそ、鼻血で倒れるなよ」


 光留は木刀を握り直し、試合場へ上がった。


     ◇


 富樫弥吉は、小柄な男だった。


 背丈は光留より低く、身体も細い。だが、木刀を持つ右手だけが不釣り合いに太かった。


「黒の眼か」


 弥吉は光留の目を覗き込み、露骨に肩を落とした。


「九眼級の相手じゃ、勝っても自慢にならんな」


「よかったな。負けたらみっともないぞ」


 観客席の一部から笑いが起きる。


 弥吉の目が細くなった。


「その口ごと、地面へ沈めてやる」


 開始の板が鳴った。


 弥吉は低く踏み込み、木刀の先を光留の木刀へ触れさせた。


 瞳に、灰色の輪が浮かぶ。


 重しの眼。


 触れたものの重さを増す眼だった。


 光留は眼を凝らした。


 眼を扱う者は、意識を瞳へ集めることで、相手の眼力が巡る大まかな道筋を見ることができる。


 見えるのは、光や熱に似た流れだけだ。眼の名も、能力のすべても、器の深さも分からない。どこへ力を集め、いつ放とうとしているのか。その兆しを読むための、眼使いにとっての基礎だった。


 弥吉の眼から灰色の眼力が流れ出し、右肩を通って木刀の先へ集まっている。二本の木刀が触れた瞬間、その流れが光留の木刀へ入り込んだ。


 光留の両腕が一気に下がった。


 木刀が、丸太にでも変わったように重い。切っ先が砂へ食い込み、引き抜こうとしても肩が上がらない。


「終わりだ」


 弥吉の木刀が横から迫る。


 光留は自分の木刀を捨て、砂へ伏せた。


 頭上を一撃が通過する。


 そのまま前へ転がり、弥吉の背後へ抜けた。


「逃げるだけか!」


 弥吉が追う。


 光留は重くなった木刀へ戻り、柄を両手でつかんだ。


 腕だけで持ち上げようとするな。


 御影の声が頭に浮かぶ。


 足から腰。腰から背。背から肩。最後に腕。


 光留は息を吸った。


 眼の奥にある熱を、足裏へ落とす。


 重さを腕だけで受けず、身体の中心を通して地面へ逃がす。両足が砂へ沈んだ。それでも木刀は、少しずつ持ち上がった。


「そんな馬鹿な」


 弥吉がもう一度、木刀を重ねる。


 さらに重さが増した。


 肩の骨が軋む。


 光留は歯を食いしばり、木刀を立てた。


 弥吉の打撃を受ける。


 衝撃が腕から背へ、腰から足元へ抜けた。砂が踵の後ろで弾ける。


 膝は折れない。


 もう一撃。


 さらに一撃。


 受けるたび、光留の手は痺れた。


 だが、弥吉の呼吸も荒くなっていく。


 光留はもう一度、眼を凝らした。


 弥吉の瞳から腕へ向かう灰色の流れが、最初より細くなっている。木刀へ送り込まれた眼力の一部が、弥吉の身体へ戻らず、光留の黒い瞳へ近づくほど色を失っていた。


 使った眼力が散っているだけなのか。それとも別の何かなのか、光留には分からない。


「何でだ」


 四度目に木刀が触れたとき、弥吉の灰色の瞳が揺らいだ。


「重くしてるのは、お前の方だろ」


 光留は息の合間に言った。


「どうして、こっちの眼力ばかり減る……」


 弥吉が呟く。


「知るか。普段から鍛えてないんじゃないか」


「ふざけるな!」


 弥吉は残った眼力を一度に注ぎ込んだ。


 光留の木刀が、さらに砂へ沈む。


 弥吉は動けない光留へ向かって、正面から踏み込んだ。


 光留は木刀から手を離した。


 急に支えを失った弥吉の身体が、前へ流れる。


 光留は半歩だけ横へずれ、相手の手首をつかんだ。流れてきた勢いを殺さず、そのまま腰を入れて投げる。


 弥吉の身体が宙を回った。


 背中から柵の外へ落ちる。


「場外! 勝者、葛城光留!」


 一瞬遅れて、歓声が起きた。


 光留は砂へ刺さった木刀を引き抜こうとした。


 能力が切れた木刀は、驚くほど軽かった。


 勢い余って尻餅をつく。


 観客席から笑いが降った。


「最後まで格好つかないなあ!」


 蓮次郎の声が一番大きかった。


 光留は立ち上がり、木刀の先を弟へ向けた。


「決勝で待ってろよ!」


「来られたらね」


 笑い声の中、見物台の御影だけが弥吉を見ていた。


 正確には、弥吉の瞳から消えた眼力の量を。


     ◇


 試合場を降りると、橘伊織が通路を塞いでいた。


「勝ったな」


「見れば分かるだろ」


「何をしたんだ?」


「全力で戦っただけだ」


「相手の眼力が、妙な減り方をしてた」


 光留は肩を回した。重さは消えたが、骨の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。


「あいつが力を使いすぎただけだろ」


「本当にそう思ってるのか」


「ほかに何があるかよ」


 伊織は答えなかった。


 腰の刀へ手を置き、光留の黒い瞳を見つめる。


「昔から、お前と打ち合ったあとは妙に疲れた」


「お前が体力なかっただけだろ」


「俺が?」


 伊織の片眉が上がる。


 昔なら、そのまま木刀を取りに走った顔だった。


 だが今の伊織は隊士で、光留は大会の出場者だった。


 二人の間を、負傷者を運ぶ担架が横切る。


 伊織は道を空けると、すぐに隊士の顔へ戻った。


「次も勝てよ」


「うるせーな」


「忠告だ。俺が見てる前で負けるな」


「一回戦は見たんだから、もういいだろ」


「よくないさ」


 伊織はそれだけ言い、警備へ戻っていった。


 光留が対戦表の前へ戻ると、自分と蓮次郎の名前には勝者を示す赤い印がついていた。


 二本の線は、まだ遠く離れている。


 けれど勝ち続ければ、最後の枠で一つになる。


「一回戦突破」


 隣へ来た蓮次郎が、赤い印へ触れた。


「あと三つだ」


「先に負けた方が、夕飯を作るでいいな」


「じゃあ兄ちゃんだね」


「決勝でお前を倒してから作らせることにするか」


 蓮次郎は笑い、もう一度拳を差し出した。


 光留も拳を上げる。


 二人の拳が触れる、その直前だった。


 蓮次郎の背後に、誰かが立っていた。


 古びた隊羽織を着た、大柄な男。


 顔は影に沈んでいる。


 二日前、母の部屋で見た影と同じだった。


 男の両手が、蓮次郎の肩へゆっくりと置かれる。


「蓮次郎!」


 光留が弟の腕を引いた。


「何?」


 影は消えていた。


 周囲には祭りの客が行き交っている。誰も足を止めていない。


「……いや」


 光留は弟の背後を見つめた。


「何でもない」


 二回戦を告げる太鼓が鳴った。


 その音に混じって、海の方からもう一つ、低い鐘の音が返ってきた。

あったら面白そうな眼の能力があれば気軽にコメントしてください!!

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