第二話 たったひとりのための世界 Ⅱ
町の中央には、組み上げ途中の試合場と向かい合うように、白い幕を張った小屋が建っていた。
眼判所。
武闘大会へ出る者は、三日前までに眼と器の状態を調べてもらわなければならない。
勝敗を予想するためではない。試合の最中に器が割れないことを確かめるためだ。
小屋へ入ると、薬草を煮た苦い匂いが鼻を刺した。
壁には一から九までの数字を彫った木札と、人の身体を盃に見立てた古い絵が並んでいる。
帳面を前に座っていたのは、白鷺道伯しらさぎ・どうはくという老人だった。
この島でただ一人の眼判定士であり、他者の能力を見定める「鑑定の眼」を持っている。
そして、語尾が「ぞい」で多いことでぞい爺なんて呼ばれている。
兄弟の前では、まだ幼い少年が母親に手を引かれていた。
「眼獣って、生まれたときから眼獣なの?」
少年が壁の絵を指差す。人の形が、次の絵では四つ足の黒い獣へ変わっていた。
母親が慌てて黙らせようとしたが、白鷺は小さな盃を机へ置いた。
「眼力は水。身体は、それを受ける器だぞい」
細い急須から、盃へ水を注ぐ。
「器に収まっているうちは、眼力はおぬしの力になるぞいが、力を欲しがって注ぎ続ければ――」
水が縁を越え、机へ零れた。
「器はひび割れ、やがて眼に身体を食われるぞい。人であれ獣であれ、その果てに残るものを眼獣と呼ぶぞい」
幼い少年は母親の手を握り直した。
生き物の内には、誰にでも眼力が流れている。その眼力が炎や獣、刃や霊といった固有の性質を持って瞳へ現れたものが「眼」だった。
その強さは九眼級から一眼級までに分けられる。数字が小さくなるほど、眼力も能力も強くなる。
だが、強い眼ほど器を壊したときの被害も大きい。
白鷺は盃を拭くと、兄弟へ顔を向けた。
「次。葛城蓮次郎くん」
「はい」
蓮次郎が椅子へ座る。
白鷺の瞳から色が抜けた。乳白色の虹彩へ、細い輪が三重に浮かび上がる。
鑑定の眼。
他者の眼を覗き、その眼力が何へ姿を変えるのか、器にどれほど収められるのかを見る眼だ。ただし、まだ本人さえ目覚めさせていない技や、将来の強さまでは見ることができない。
白鷺が蓮次郎の目を覗き込む。
その背後で、薄い人影が一つ浮かんだ。
二つ。
三つ。
輪郭のない死者たちが、小屋の壁を埋めるように立っている。
さらに、その奥。
古い隊羽織を着た大柄な男の影が、ほかの霊を押し分けるようにして顔を上げた。
白鷺の眉が動く。
「どうかしました?」
蓮次郎が尋ねた瞬間、男の影は消えた。
「……霊の眼。六眼級」
小屋の中がざわめいた。
「去年は八眼級だったよね」
「そうだ。一年で二つも上がる者など、わしは見たことがないぞい」
蓮次郎の顔が明るくなる。
「じゃあ、すごく強くなったってこと?」
「成長と呼ぶには、少し早すぎるぞいな」
白鷺は蓮次郎の瞼を指で持ち上げ、もう一度奥を覗いた。
「器も広がっている。だが、自分で広げたというより、内側から何かに押し広げられたように見える。大会では、呼び出す霊は無理してはいけんぞい」
「二体でも平気です」
「平気かどうかを決めるのは、おぬしではなく器だぞい」
蓮次郎は不満そうに口を尖らせたが、光留には、弟が膝の上で指を強く組んだのが見えた。
「次。葛城光留くん」
椅子を交代する。
周囲の視線が、蓮次郎のときとは違う意味で集まった。
「今年も黒いだけじゃないか」
「九眼から上がれるのかな?」
背後の囁きを無視し、光留は白鷺と向き合った。
「始めるぞい」
乳白色の瞳が、光留の眼を覗く。
白鷺の視界で、最初に黒くなったのは光留の瞳だった。
次に白目が消えた。
顔が消え、椅子が消え、壁も、窓から差し込む夕日も、すべてが黒に呑まれていく。
炎の形もない。
獣も、刃も、霊もない。
何もないのではない。
何があるのかを見分けるための光さえ届かない。
真っ黒だった。
白鷺は椅子を鳴らして身を引いた。額に薄い汗が浮かんでいる。
「どうでした?」
光留が尋ねる。
老人はすぐには答えなかった。
「……去年と同じだぞい。見えるのは黒だけ。性質も、器の底も判別できんぞい」
「なら、何もないってことだろ」
後ろで誰かが笑った。
「御影隊長も気の毒にな。能力もない九眼を、毎日鍛えてやって」
蓮次郎が立ち上がろうとする。
光留は振り返らず、その腕を押さえた。
「三日後に黙らせる。今は座ってろ」
声は平静だったが、膝の上で握った拳に爪が食い込んでいた。
白鷺は新しい木札へ筆を走らせる。
「名称は暫定のまま、黒の眼。能力は不詳。眼級は、確認できる力を基準に九眼級とする」
黒い墨で書かれた「九」の字が、光留の前へ置かれた。
笑い声の中
白鷺は光留だけを見て続ける。
「御影が何を見つけたのか、わしにもまだ分からんぞい。おぬし自身の手で確かめるんだぞい」
光留は木札を受け取った。
「頑張ります」
◇
眼判所を出ると、夕方の風が薬草の匂いを身体から剥がしていった。
町の中心へ近づくほど、人の数が増えていく。通りの上には紅白の布が何本も渡され、風が吹くたび波のようにうねった。子どもたちは木の枝を刀代わりにして、刃眼隊ごっこをしている。
「一番隊長だぞ!」
「じゃあ俺は眼獣!」
「眼獣が喋るな!」
笑い声が路地へ響く。
そのすぐ先、海へ続く道の入口には、太い注連縄が張られていた。
縄の向こうの石畳には、黒く焼け焦げた跡が残っている。家一軒ほどの大きさがあり、中心には獣の爪を思わせる三本の溝が深く刻まれていた。
数日前、夜の海から眼獣が上がった場所だった。
刃眼隊が夜明け前に討ち取ったと聞いている。死骸はすでに片づけられていたが、焦げた磯の臭いだけは、まだ石の隙間に残っていた。
さっき眼判所で見た、人が獣へ変わっていく絵が頭に浮かぶ。
あれも、最初から獣だったとは限らない。
蓮次郎が足を止めた。
焼け跡ではなく、その向こうの海を見ている。
「どうした」
「……いや」
蓮次郎は誰もいない場所へ道を譲るように、半歩横へずれた。
そこには潮風が吹いているだけだった。
「何かいたか?」
光留が声を落として尋ねると、蓮次郎は少し間を置いて首を振った。
「いや、なんでもないよ」
海の方から風が吹き抜け、注連縄についた白い紙を一斉に鳴らした。
島の子どもは、言葉を覚えるのと同じ頃から、三つのことを教えられる。
夜の鐘を聞いたら、家に帰り戸を閉めること。
海から来たものへ、決して近づかないこと。
そして――海の向こうを知ろうとしないこと。
外の世界は危険だ。
島の大人は皆、同じ言葉を口にした。何があるのかと聞いても、返ってくる答えまで同じだった。
危険だから、危険なのだ。
道端で、小さな女の子が水平線を指差した。
「ねえ、海の向こうにも町があるの?」
母親はその手を慌てて下ろさせた。
「見ちゃいけません」
「どうして?」
「外から来るものに、見つかるでしょう」
母親は娘を抱き上げ、兄弟と目を合わせないまま足早に去っていった。
蓮次郎が小さく呟く。
「見ただけで見つかるなら、とっくに見つかってるよね」
「聞こえるぞ」
「兄ちゃんは、海の向こうに何があると思う」
「まあ、危険なものだな」
「それは皆が言ってることだろ」
「じゃあ、眼獣」
「それも皆が言ってることだろ」
蓮次郎は納得しなかった。
光留も、本当は納得していなかった。
それでも海の向こうについて考えると、胸の奥に冷たいものが生まれた。幼い頃から何度も聞かされた言葉が、見えない柵になって心の中へ立っている。
外は危険だ。
近づくな。
知ろうとするな。
その柵の向こうに父がいることを、二人とも口にはしなかった。
◇
家へ着く頃には、空が茜色に染まっていた。
坂の途中にある小さな地蔵の前を通る。日に焼けた赤い前掛けが、夕風に揺れていた。母が生きていた頃は、遠出をするたび、ここで必ず手を合わせた。
蓮次郎は一度だけ地蔵を振り返ったが、足は止めなかった。
木戸を開ける。
薄暗い土間から、昼間の熱と乾いた木の匂いが流れ出した。
「ただいま」
蓮次郎が言った。
返事はない。
分かっているのに、弟は毎日そう言う。
母が死んでからも。
父が島を出てからも。
光留も草履を脱ぎ、誰もいない家へ向かって言った。
「ただいま」
二人で火を起こし、米を炊いた。昼に干しておいた魚を焼くと、脂が炭へ落ちて青い煙が上がった。
蓮次郎が焦げた方を兄の皿へ置く。
「兄ちゃんは身体を鍛えてるから、固い方がいいだろ」
「お前は刃眼隊に入ったら、炊事当番から外してもらえよ」
「入れたら考える」
「さっきは入ったあとの話ばかりしてたくせに」
二人の笑い声が、狭い家の壁へ当たって返ってきた。
それが消えると、家は急に広くなった。
食事を終え、蓮次郎は居間で木刀の手入れを始めた。乾いた布で、同じ場所を何度も拭いている。
「緊張してるのか」
「してない」
「そこ、さっきから十回は拭いてるぞ」
「兄ちゃんに言われたくない」
蓮次郎は木刀を灯りへかざした。
「兄ちゃん」
「何だよ」
「刃眼隊に入ったら、父さんを捜しに行けるかな」
炭の爆ぜる音がした。
光留は答えを探したが、どれも嘘になりそうだった。
刃眼隊が島の外へどこまで行くのか、島民には知らされていない。父がどこへ行ったのかも、なぜ帰らないのかも分からない。
「まず、大会で勝たないとな」
結局、そう答えた。
「勝つよ」
蓮次郎は迷わなかった。
「俺も兄ちゃんも勝つ。二人で刃眼隊に入る。そうすれば、母さんも安心できるよね」
そう言って、部屋の隅へ視線を向けた。
誰もいない、暗い場所だった。
光留は気づかないふりをした。
◇
夜更けまで、町の中央から槌の音が聞こえていた。
祭りの試合場を組む音だ。
隣では蓮次郎が眠っている。昼間の強気が嘘のように、膝を抱えるような格好で布団にくるまっていた。
光留は痛む肩を下にしないよう、何度も寝返りを打った。
やがて槌の音が止んだ。
静かになったはずなのに、眠れなかった。
何かが足りない。
光留は目を開けた。
波の音が、聞こえない。
布団を抜け、雨戸を少し開ける。夜気が細い刃のように入り込み、汗の乾いた首筋を撫でた。
坂の下に、眠った町の屋根が重なっている。その先には、月の光を鈍く返す海があった。
海は凪いでいた。
波が消えたのではない。沖へ向かうはずの風が止まり、島全体が息を潜めているようだった。
屋根の上を、黒い影が横切った。
一羽。二羽。十羽。
海鳥の群れだった。
鳥たちは海へ戻らず、町の上を何度も旋回している。月を隠すほど集まり、互いにぶつかりそうになりながら、島の内側へ、内側へと逃げていた。
昼間、水平線を見つめていた御影の顔が浮かんだ。
――今日は海岸を通らず、町中から帰れ。
背後で、布の擦れる音がした。
蓮次郎が布団の上へ起き上がっていた。
白く濁った目で、開いた雨戸ではなく、兄のすぐ後ろを見ている。
「兄ちゃん」
声が震えていた。
「今、誰か帰ってきた?」
光留は振り返った。
暗い家の中には、誰もいない。
入口の戸も、閉じたままだった。
ただ、母が亡くなってから使われていない部屋の襖が、潮風もないのに、ゆっくりと開いていった。
その夜、海鳥は一羽も海へ戻らなかった。
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