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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第一章 幻の島と失ったもの

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第一話 たったひとりのための世界 Ⅰ

 砂には、海の味がした。


 頬から落ちた汗が唇へ入り、舌の上で砂粒と混じった。吐き出そうと舌を動かすほど、細かな砂が歯の裏まで広がっていく。


 仰向けになった視界の中で、夏の空が白く滲んでいた。


 ざあ、と波が崩れる。


 少し遅れて、手から離れた木刀が砂へ落ちた。


「八度目だ」


 頭の上から声がした。


 少年は胸を押さえたまま、どうにか首だけを上げた。逆光の中に、紺色の隊羽織を着て腕を組んだ、いかにも偉そうな男が立っている。潮風を受けた裾が、乾いた音を立ててはためいていた。


 御影宗十郎《みかげそうじゅうろう。


 刃眼隊二番隊の隊長であり、この一年、少年を飽きもせず砂へ転がし続けてきた男だ。


「何回だって立ち上がってやりますよ」


「まだ余裕があるな。続けるぞ」


 御影は肩に担いでいた木刀を下ろした。切っ先が少年の胸の中央へ、ぴたりと止まる。


「早く立て、光留(みつる)」


 葛城光留は、奥歯に残った砂を噛み砕くようにして身体を起こした。


 祭りまで、あと三日。


 町の中央では、刃眼隊への入隊者を選ぶ武闘大会の試合場が組まれている。毎年この時期になると、島じゅうから腕に覚えのある者が集まった。


 光留が大会へ出るのは、今年が初めてではない。


 そして、負けるのも初めてではなかった。


 砂へ手をつく。右肩に鋭い痛みが走り、肋骨の奥が熱を持っていた。全身は打ち身だらけだった。それでも木刀を拾い、両足を砂へ埋めるようにして立ち上がる。


「今年こそ、勝ちます」


「その言葉は去年も聞いた」


「去年より強くなりました」


「それも去年聞いた」


 御影は笑わなかった。


 木刀を構える。その動きはゆっくりだったのに、構え終わった瞬間、海の音が遠くなった。


 隙がない。


 どこへ踏み込んでも、先に打たれる。何度倒されても、その確信だけは薄れなかった。


「来い」


 光留は息を吸った。


 目の奥へ意識を沈める。


 暗い水の底へ手を伸ばすような感覚があった。黒の眼。その名のとおり、力を込めると瞳の奥が墨を落としたように黒く染まる。だが、何ができる眼なのかは、光自身にも分かっていない。


 炎も出ない。雷も落ちない。刃が伸びることもない。


 感じられるのは、身体の内側を巡る微かな熱――眼力だけだった。


 光留はその熱を右腕へ押し込んだ。


 砂を蹴る。


 一歩で間合いへ入り、木刀を振り下ろす。


 御影の瞳に、糸がほつれたような細い線が走った。


 姿が消える。


 次の瞬間、左の脇腹へ硬いものがめり込んだ。


「がっ……!」


 肺から空気が押し出される。身体が横向きに折れ、そのまま砂へ膝をついた。


「腕だけへ集めるなと言ったはずだ」


 御影の木刀が、光留の右腕を軽く叩いた。


「ここへ力を集めた瞬間、胴と足が空になった。どれだけ重い一撃でも、振る前に倒されれば意味がない」


 脇腹を押さえ、歯を食いしばる。


「足から腰。腰から背。背から肩。最後に腕だ。力を一か所へ溜めるな。水のように全身へ通せ」


「……水」


「お前の中に流れているものを、自分でせき止めるなということだ」


 御影が一歩離れた。


「もう一度」


 光留は目を閉じた。


 波が寄せ、引いていく。


 足の裏で砂が沈む感触。潮の匂い。痛む脇腹。額から顎へ伝う汗。その全部を一つ一つ感じる。


 眼の奥にある熱を、今度は腕へ急がせなかった。


 息を吸うと、足先が温かくなる。


 吐くと、その熱が膝を越えた。


 腰で一度つかえた。無理に押し出さず、もう一度呼吸する。背骨に沿って熱が上がり、肩から両腕へ分かれていく。


「行きます」


 踏み込んだ。


 木刀と木刀がぶつかる。


 乾いた音が、海沿いの稽古場を突き抜けた。


 衝撃が手首から肩へ入り、背を通り、足元へ抜ける。指は痺れた。それでも今度は、膝が折れなかった。


 御影の足が砂を擦った。


 半歩。


 たった半歩だけ、後ろへ動いた。


 光留の胸の奥で、痛みとは違う熱が弾けた。


「今――」


 言い終える前に、額を木刀で小突かれた。


「喜ぶのが早い」


 御影は木刀を肩へ戻した。


「だが、その感覚は忘れるな。能力を出す前の土台だ。全身へ通せない眼力は、強ければ強いほど自分の器を壊す」


 稽古場の柵の向こうから、ぱちぱちと拍手が聞こえた。


「おお。兄ちゃんが隊長さんを半歩も動かしたじゃないか」


 弟の蓮次郎(れんじろう)が、木の柵へ顎を載せていた。


「いつから見てたんだよ」


「兄ちゃんが七回目に倒されたところ」


「九回だ」


「そんなに?」


 本気で驚いた顔をされ、光留は木刀を投げつけたくなった。だが腕を上げただけで肩が痛み、諦めた。


 蓮次郎は柵を軽々と越え、砂の上へ降りた。兄の袖についた砂を払うふりをして、わざと傷のある肩を叩く。


「痛っ」


「大会までに治る?」


「今のがなければな」


「治るならよかった」


 口では笑っていたが、蓮次郎の指は兄の肩からすぐに離れた。腫れ方を確かめていたらしい。


「蓮次郎」


 呼ばれて振り向いた弟へ、御影が木刀を放った。


 蓮次郎は慌てた様子もなく柄をつかむ。


 次の瞬間、御影が踏み込んだ。


 一撃目を受ける。


 二撃目を流す。


 三撃目。蓮次郎の足が砂を滑った。


 四撃目が横腹へ迫った瞬間、蓮次郎は誰かに背中を引かれたように、身体を半歩だけ後ろへ逃がした。木刀の先が着物を掠める。


 光留には、弟が御影の動きを見て避けたようには思えなかった。


 その視線は、御影の肩越し――誰もいない場所へ向いていた。


 五撃目で、蓮次郎の木刀が宙を舞った。


「痛いなあ。いきなり何するんですか」


「三か月前は一撃目で落としていたが、成長したな」


 御影は砂へ刺さった木刀を顎で示した。


「伸びるのが早すぎる。今日は白鷺に器まで診てもらえ」


「強くなったのに?」


「早く育つことと、正しく育つことは違う」


 蓮次郎の笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。


 御影は二人の間へ木刀を差し入れた。


「今日は終わりだ。帰れ」


「俺はまだできます」


「お前はできても、大会の前に潰れたら、ここまで付き合った俺が馬鹿みたいだろう」


 御影は海へ目を向けた。


 沖には何もない。空と海の境目が、陽炎の中で溶けているだけだった。


 それでも、その目はしばらく水平線から動かなかった。


「今日は海岸を通らず、町中から帰れ」


 光留は眉を寄せた。


「何かあったんですか」


「何もない。だから帰れと言っている」


 聞き返す前に、御影は背を向けた。


 紺の羽織の背に染め抜かれた「刃眼」の二文字が、強い潮風の中で揺れていた。


     ◇


 海沿いの稽古場を離れると、潮騒は家々の向こうへ隠れた。


 代わりに町の音が押し寄せてくる。


 石畳を転がる荷車。包丁がまな板を叩く音。軒下へ祭りの飾りを吊るす男たちの掛け声。遠くでは、試合場を組む槌の音が、一定の間隔で響いていた。


 瓦屋根の間から白い煙が立ちのぼっている。焼いた魚の脂と、炊きたての米と、濡れた木の匂い。団子屋の前を通ると、焦げた醤油の甘い香りが鼻へまとわりついた。


 蓮次郎の腹が、ぐう、と鳴った。


「今のは違うから」


「何も言ってないんだけど、」


「兄ちゃんの腹だ」


「俺は殴られすぎて、腹の音も出ないから、お前だろ」


 二人が言い合っていると、団子屋の老婆が店先から顔を出した。


「また御影さんに転がされたのかい、光留」


 稽古帰りの姿は、町ではすっかり見慣れたものになっているらしい。


「今日は半歩、動かしました」


「御影さんをかい?」


 老婆が目を丸くする。


「隊長の方から下がってくれたんじゃない?」


 蓮次郎が横から言い、老婆は声を上げて笑った。


 皿に残っていた端の欠けた団子を一本ずつ渡される。まだ温かい。歯を立てると表面の焦げが薄く割れ、中の柔らかな餅が伸びた。


「大会、二人とも出るんだろう」


「もちろん」


 蓮次郎が即答した。


「決勝まで行けば、刃眼隊に覚えてもらえる。そうしたら推薦で入隊できるかもしれない」


「勝つ前から入ったあとの話をするな」


「兄ちゃんは勝ったあとのこと、考えてないの?」


 光留は答えなかった。


 考えていないわけではない。


 紺の羽織を着て、腰に刀を差し、夜の警鐘とともに海岸へ走る自分。隣には同じ羽織を着た蓮次郎がいる。


 何度も思い描いた光景だった。


 通りの向こうから、刃眼隊の巡回が歩いてきた。 


 先頭にいた若い隊士が、団子を頬張る兄弟へ目を留める。


 橘伊織(たちばな・いおり)。


 光留と同い年で、三番隊に所属する火の眼の使い手だった。腰の刀には、火で焼いたような黒い紋が残っている。


 去年の祭りまでは、光留の隣にいるのは蓮次郎か伊織のどちらかだった。海岸で拾った流木を刀にして、日が沈むまで打ち合った。刃眼隊へ入るときも一緒だと、言葉にするまでもなく思っていた。


 だが、去年の入隊試合で伊織だけが実力を認められ、三番隊へ入った。


 それから二人で木刀を振ることはなくなった。町ですれ違っても、伊織は隊務の途中に短く目を合わせるだけだった。


「御影隊長、またあの黒い眼を鍛えてたらしいぞ」


 伊織の後ろを歩く隊士が、光留に聞こえる声で言った。


「何もできない、ただ黒いだけの九眼級だろ。御影隊長も自分の眼の能力が弱いから、同情してるんじゃないか」


 団子の串が、光留の指の中で僅かに軋んだ。


「兄ちゃんの眼は――」


 言い返そうとした蓮次郎の肩を、光留がつかんだ。


「いい。」


 伊織が足を止めた。


「馬鹿言え」


 後ろの隊士を振り返り、親指で海岸の方を示す。


「二番隊長の御影さんが、同情だけで一年も稽古を見ると思うか。あの人が目をつけたんだぜ。笑っていられるのも今のうちかもしれねえぞ」


「まだそいつに肩入れしてるのか、伊織。それより自分の心配をしろよ。次の昇級で四眼級になれば、隊長の候補に上がるって噂だろ」


「まだ五眼級だ。噂で勝手に先へ行かせるな」


 入隊して一年で五眼級まで上がった伊織は、島で次の隊長に近い若者だと言われている。


 伊織はしばらく黙って光留を見た。


「光留」


 名前を呼ばれたのは、いつ以来だろう。


「今年は、俺が見る前に負けるなよ」


「お前に言われなくても分かってる」


「そうか」


 昔なら、そこでもう一言返してきたはずだった。


 だが伊織は隊列へ戻り、肩越しに告げる。


「眼判定は今日の夜までだ。忘れて失格になるなよ」


 伊織たちは、そのまま人混みの中へ消えていった。


「伊織と話したの、いつ以来?」


 蓮次郎が尋ねた。


「春に一度」


「あれは『道を空けろ』って言われただけだよ」


「話したことには変わりない」


 蓮次郎は呆れたように息を吐き、人混みの向こうを見た。


「伊織、本当に隊長になるのかな」


「なるだろ。昔から、何をやらせても俺より先にできたし」


「隊長になったら、島を出るのかな」


「……たぶんな」


「もっと遠くなっちゃうね」


 光留は手の中の串を見た。力を抜くと、折れかけた竹がゆっくり元へ戻った。


「だから、追いつかなきゃならない」


「伊織に?」


「ああ。あいつが本当に隊長になる前に」


 老婆は隊士たちの背を見送り、目尻の皺を深くした。 


「強いから、刃眼隊が偉いんじゃないよ」


 兄弟は老婆を見る。


「ほら。暗くなる前に判定を済ませておいで」


 老婆はそれ以上何も言わず、空になった皿を持って店の奥へ戻った。


物語が面白くなるアドバイスや、読みやすくなるような工夫、誤字があれば気軽にコメントお願いします!

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