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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第五章 幻の島と還りし者

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第六十八話 神の裁き




「全部、貴様が始めたことだろう」


 玄斎の声が、暗闇の中へ響いた。


 光留の足元に広がる黒い水が、大きく波打つ。


「何を言ってるんだ」


 光留は玄斎を睨んだ。


「俺はお前なんか知らない」


「貴様が覚えていないだけだ」


 玄斎が一歩近づく。


「記憶を失おうと、姿が変わろうと、その眼は変わらん」


 玄斎の背後で開いていた巨大な黒い眼が、光留を見下ろす。


 その瞳が動いた瞬間、光留の胸が強く脈打った。


 ドクン。


 自分の鼓動ではない。


 もっと深い場所。


 光留自身も知らない何かが、玄斎の言葉に反応している。


「その身体を渡せ」


 玄斎が手を伸ばした。


「貴様の器があれば、私は全てを取り戻せる」


 黒い水面から無数の腕が現れ、光留の両脚を掴んだ。


「ぐっ……!」


 振りほどこうとしても、身体が動かない。


 腕は腰へ。


 胸へ。


 首へ。


 冷たい指が全身へ絡みつき、光留の意識を暗闇の奥へ引きずり込んでいく。


「受け入れろ」


 玄斎の姿が、目の前まで迫った。


「貴様の眼も、身体も、元より私が使うべきものだった」


「ふざけるな……!」


「蓮次郎よりも、貴様の方が遥かに優れた器だ」


 玄斎の手が、光留の胸へ触れる。


 指先が身体をすり抜け、心臓の奥へ入り込んできた。


 光留の視界が激しく乱れる。


     ◇


 白い光が、空から降り注いでいた。


 光が地面へ触れるたび、町が消える。


 建物も。


 人間も。


 眼獣も。


 焼け跡すら残らず、そこに存在していた全てが失われていく。


「逃げろ!」


 誰かが叫んでいた。


「霧の向こうへ行け!」


 若い頃の榊原玄斎だった。


 古い隊羽織を身にまとい、逃げ惑う人々を船へ乗せている。


 空には、巨大な眼のような亀裂が開いていた。


 亀裂の奥から幾つもの白い影が地上を見下ろしている。


 人の形をしている。


 だが、人間ではない。


 玄斎たちの抵抗など気にも留めず、白い光を降らせ続けていた。


「船を出せ!」


 玄斎の号令で、何艘もの船が霧の中へ進んでいく。


 老人。


 子供。


 傷ついた隊員。


 生き残った者たちは身を寄せ合い、消えていく故郷を見つめていた。


「これは……」


 光留は、その光景を見ていた。


 空から降り注ぐ白い光。


 逃げる人々。


 全てを覆い隠す深い霧。


 そして、船団が辿り着いた先に浮かぶ島。


 今、光留たちがいる幻の島だった。


「神の……裁き……」


 その言葉が、知らないはずの記憶から浮かんだ。


 次の瞬間。


 景色が黒く塗り潰された。


 島の中央に、一人の男が立っている。


 黒い眼。


 全身から溢れる、底の見えない眼力。


 男の顔は乱れた霧に覆われ、見えない。


 それでも、光留の身体はその存在を知っていた。


「俺じゃない……」


 光留が呟く。


「俺は、あいつじゃない」


 黒い眼を持つ男が振り返る。


 顔を見ようとした瞬間、景色が砕け散った。


     ◇


 光留は、再び暗闇の中へ戻っていた。


 玄斎の腕が、胸の奥まで入り込んでいる。


「見ただろう」


 玄斎の声が、すぐ傍から聞こえた。


「貴様が忘れても、失われた者たちは忘れぬ」


「今のは……誰の記憶だ」


「貴様自身に聞け」


「俺は、あの男じゃない!」


 光留が玄斎の腕を掴んだ。


「ならば、貴様は何者だ」


「葛城光留だ」


 足元から伸びていた腕が、僅かに緩む。


「蓮次郎の兄だ」


 胸へ入り込んでいた玄斎の手が止まった。


「それだけか?」


「それで十分だ!」


 光留が玄斎の腕を引き抜いた。


 黒い水面が大きく持ち上がる。


 玄斎を取り囲んでいた黒い眼力が、光留の身体へ向かって流れ始めた。


「何っ……!」


「過去の俺が何をしたのかなんて、今は分からない」


 光留の両眼が、黒く変化する。


「罪があるなら、俺が全部知る」


 黒い渦が玄斎の両脚へ絡みついた。


「だけど、そのために蓮次郎を使わせない!」


 玄斎の身体が、足元から崩れ始める。


 黒い霧となった眼力が、光留へ吸い込まれていく。


「やめろ!」


「この身体は俺のものだ」


 光留は玄斎の腕を離さない。


「蓮次郎の身体は、蓮次郎のものだ!」


 黒い渦が勢いを増した。


 玄斎の隊羽織が崩れる。


 両脚が消える。


 長い白髪も、先端から霧へ変わっていく。


「私は……まだ……!」


 玄斎の手が光留へ伸びる。


 しかし、その指は胸へ届く前に崩れた。


 巨大な黒い眼も、周囲から罅割れていく。


「貴様が……戻ったのなら……」


 玄斎の声に、先ほどまでの強さはなかった。


 怒りとも憎しみとも違う。


 長い間、答えを求め続けた者の声だった。


「私は、神の裁きから逃れるために……」


 玄斎の顔が、黒い粒へ変わっていく。


「皆を、ここまで逃がしたというのに……」


 残された片眼が、光留を見つめた。


 光留ではない。


 その奥にいる誰かへ、最後の問いを向けていた。


「なぜ……」


 答えを聞くことなく、榊原玄斎の姿は消えた。


 黒い眼力が全て光留へ吸い込まれる。


 巨大な眼が砕け、暗闇そのものが崩れ始めた。


     ◇


「――っ!」


 光留は眼を開いた。


 試合会場へ戻っている。


 両腕には、誰かの身体を抱えていた。


「蓮次郎!」


 玄斎の姿はない。


 古びた隊羽織も。


 長い白髪も。


 蓮次郎の背後に重なっていた死者の影は、完全に消えていた。


「蓮次郎、聞こえるか!」


 閉じられていた瞼が、僅かに震える。


 ゆっくりと眼が開いた。


 色を失っていた瞳に、淡い光が戻っている。


「兄……さん……?」


 玄斎ではない。


 蓮次郎の声だった。


「ああ、俺だ!」


 光留は蓮次郎の身体を強く抱き締める。


「終わった。もう玄斎はいない」


「そう……」


 蓮次郎の口元に、小さな笑みが浮かんだ。


「やっと……戻れたんだ」


「ああ。一緒に帰るぞ」


 光留が蓮次郎を抱き上げようとした。


 その瞬間、身体から力が抜けた。


「ぐっ……!」


 片膝をつく。


 全身を覆う黒い鱗は、まだ消えていなかった。


 吸収した玄斎の眼力。


 死体眼獣に残っていた無数の思念。


 それらが光留の器の中で暴れ続けている。


 黒い鱗の隙間から、眼力が噴き出した。


「兄さん……」


「大丈夫だ」


 光留は立ち上がろうとする。


「これくらい、どうってこと――」


 突然、頭の中で何百もの声が叫んだ。


 光留の意識が揺れる。


 黒い鱗が顔を覆い、その隙間から新たな眼が開こうとしていた。


「兄さんも……眼獣に……」


「まだ、抑えられる」


「嘘だ」


 蓮次郎が震える腕を持ち上げる。


「ずっと中にいたから分かる」


 淡い光を宿した手が、光留の胸へ触れた。


「何をする気だ?」


「今度は、俺が助ける」


「やめろ! お前には眼力が残ってない!」


 蓮次郎は眼を閉じた。


 瞳の奥から、白い光が広がっていく。


「霊の眼……」


 光留の身体から、半透明の腕が現れた。


 一つ。


 十。


 数え切れないほどの腕が、黒い鱗の内側から伸びていく。


 死体眼獣に残っていた思念。


 玄斎が抱えていた死者たちの記憶。


 光留の器へ詰め込まれていたものが、霊の眼によって引き出されていく。


「寒い……」


「帰りたい……」


「やっと……」


 無数の声が空へ昇る。


 人の形。


 獣の形。


 かつて眼獣だった者たちの魂が、淡い光となって霧の中へ消えていった。


 光留の頭から、死者たちの声が消えていく。


 全身を覆っていた黒い鱗も、一枚ずつ剥がれ始めた。


 頬。


 首。


 胸。


 両脚。


 黒い鱗は霧へ変わり、光留の身体が人の姿へ戻っていく。


「蓮次郎、もういい!」


「あと……少し……」


 蓮次郎は手を離さない。


 最後に残っていた玄斎の思念が、光留の胸から引き抜かれた。


 白い光となり、空へ消える。


 同時に、光留を覆っていた最後の鱗が剥がれ落ちた。


「できた……」


 蓮次郎の腕が落ちる。


 光留はその身体を受け止めた。


「馬鹿! どうしてこんな無茶を!」


「兄さんに……言われたくないよ」


 蓮次郎が弱く笑う。


 そのとき。


 パキッ。


 小さな音が聞こえた。


 蓮次郎の胸元に、細い亀裂のような模様が走っている。


「何だ……?」


 亀裂は首へ向かって伸びた。


 淡い眼力が、傷口のような隙間から溢れ出してくる。


 蓮次郎が苦しそうに胸を押さえた。


「やっぱり……もう持たないか」


「何を言ってる」


 光留が蓮次郎の身体を支える。


「玄斎は消えた。もうお前を縛るものはない!」


「玄斎の眼力が……壊れた器を繋いでたんだ」


 長い間、玄斎に使われ続けた身体。


 限界を超える眼力。


 霊の武器。


 万屍冥還。


 蓮次郎の器は、とっくに壊れていた。


 玄斎の眼力が、亀裂へ入り込むことで辛うじて人の形を保っていた。


 その玄斎が消えた今、器を繋ぎ止めるものはない。


 蓮次郎の右腕が、不自然に膨れ上がった。


 皮膚の下で骨が軋む。


 肩に走った亀裂の中から、一つの眼が開いた。


「蓮次郎……!」


 指先が長く伸びる。


 皮膚が黒く硬化し、人間とは違う形へ変わり始めた。


「離れろ!」


 光留は蓮次郎から溢れる眼力を吸収しようとする。


 だが、蓮次郎がその手を掴んだ。


「待って」


「待てるか! このままじゃお前は眼獣になる!」


「だから、お願いがある」


 蓮次郎の瞳は、まだ人間のままだった。


「眼獣になったら、また誰かを傷つける」


「させない。俺が止める!」


「止めるだけじゃ駄目なんだ」


 蓮次郎の頬にも、細い亀裂が走った。


「もう一度、自分じゃなくなるのは嫌だ」


「蓮次郎……」


「最後くらい、自分で決めたい、」


 蓮次郎は兄の腕を掴み、黒の眼を持つ手を自分の胸へ導いた。


「兄さん……」


 震える声で、最後の願いを口にする。


「俺を、人間のまま死なせてくれ」


 光留の眼が大きく見開かれた。


「眼獣じゃなく――」


 蓮次郎は、兄を見つめた。


「兄さんの弟として」


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