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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第五章 幻の島と還りし者

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第六十六話 全身眼化


 黒い鱗が、光留の足先まで覆った。


 最後に残されていた首元の皮膚も黒く染まり、その表面から硬い鱗が浮かび上がる。


 全身を流れていた眼力が、一度だけ大きく脈打った。


 ドクン。


 その瞬間。


 四方から殺到していた霊の武器が、一斉に歪んだ。


 剣が。


 槍が。


 斧が。


 矢が。


 光留の両腕だけではなく、胸や背中、両脚へ触れたものまで黒い渦へ変わっていく。


 何百もの霊の武器が、全身の鱗へ吸い込まれた。


「全身眼化……」


 狼の眼が息を呑む。


 試合会場を埋め尽くしていた霊の武器が、瞬く間に数を減らしていく。


 最後の一本が胸へ吸い込まれると、辺りには不自然な静けさが戻った。


「はあ……はあ……」


 光留は大きく息を吐いた。


 自分の呼吸が、ひどく遠くから聞こえる。


 足が地面へ触れている感覚も薄い。


 身体の内側には、吸収した膨大な眼力が流れ込んでいた。


 冷たい。


 熱い。


 痛い。


 苦しい。


 相反する感覚が、一度に全身を駆け巡る。


 それだけではない。


 死体眼獣の眼力に残っていた無数の思念が、光留の意識へ入り込んできた。


 助けてくれ。


 殺してくれ。


 寒い。


 暗い。


 帰りたい。


 幾つもの声が重なり、自分の考えさえ聞こえなくなっていく。


「光留!」


 誰かが名前を呼んだ。


 伊織の声だった。


 分かっているはずなのに、理解するまでに時間がかかる。


「聞こえてるか!」


「ああ……」


 光留は答えた。


 だが、自分の口から出た声には、人の声とは違う響きが混じっていた。


 低く。


 重く。


 獣の唸り声のように、喉の奥で震えている。


 玄斎は、蓮次郎の身体を使って光留を見つめていた。


「見事だ」


 蓮次郎の顔が、不自然に笑う。


「自ら人であることを捨てるとはな」


「まだ……捨ててない」


 光留は一歩を踏み出した。


 足元の石が砕ける。


 眼化した身体から溢れる眼力が、黒い霧となって周囲へ広がった。


「俺はまだ、俺だ」


「そうか」


 玄斎が片腕を上げる。


「ならば確かめてやろう」


 蓮次郎の背後に、再び霊の槍が作り出された。


 先ほどよりも太く、先端には濃密な眼力が集まっている。


 玄斎が指を向ける。


 巨大な霊の槍が放たれた。


 光留は避けなかった。


 槍が胸へ突き刺さる。


 だが、黒い鱗を貫くことはできない。


 槍の先端から輪郭が崩れ、凄まじい勢いで吸い込まれていく。


 光留は一歩も下がらない。


「効かないぞ」


 巨大な槍が、完全に消えた。


 玄斎の表情が僅かに強張る。


「これなら……」


 光留が拳を握る。


「お前の眼力を全部、吸い尽くせる」


 そのときだった。


「ぐっ……!」


 後方で、伊織が膝をついた。


 白い義手に灯していた炎が、大きく揺れる。


 炎の先端が細い糸のように伸び、光留の背中へ引き寄せられていた。


「何だ、これ……」


 赤い眼力が、少しずつ炎から抜き取られていく。


 伊織が眼化を解こうとしても、吸収は止まらない。


 御影宗十郎の綻びの眼からも、淡い光が流れ出していた。


「光留……!」


 御影が片眼を押さえる。


「吸収する対象を制御できていないぞ!」


 狼の眼の両腕を覆っていた灰色の毛も、少しずつ元へ戻り始めていた。


 鋭く伸びていた爪が縮んでいく。


 狼の眼はすぐに後方へ跳び、光留から距離を取った。


「全員、離れろ!」


「どうした!」


「こいつの身体全部が、眼力を吸うための口になっている!」


 黒い霧は、光留を中心に広がり続けていた。


 地面へ染み込んでいた眼力。


 空中に残っていた蒼い雨の眼力。


 玄斎が放った霊の武器の残滓。


 敵も味方も関係なく、周囲にある全ての眼力が光留へ引き寄せられていく。


「止まれ……!」


 光留は自分の身体へ命じた。


「そいつらの眼力は、吸うな……!」


 だが、黒の眼は止まらない。


 全身を覆う鱗が脈打つたび、吸収する力が強くなっていく。


 伊織の炎が、さらに小さくなった。


 御影の眼から光が失われていく。


 狼の眼も獣化を維持できず、人の姿へ戻り始めていた。


「光留、眼化を解け!」


 狼の眼が叫ぶ。


「このままでは玄斎を吸い切る前に、お前の器が壊れる!」


「解き方が……分からない」


「何?」


「もう、止められないんだ……!」


 全身へ広げることしか考えていなかった。


 一度広がった眼化を、腕へ戻す方法など知らない。


 吸収した眼力が、身体の中で行き場を失っている。


 胸の奥。


 腹。


 両脚。


 全身の至るところから、小さな亀裂の音が聞こえていた。


 伊織が立ち上がる。


「だったら、俺たちがこいつを押さえる!」


「来るな!」


 光留の叫びと同時に、黒い霧が大きく膨れ上がった。


 伊織の身体から赤い眼力が引き抜かれる。


「ぐっ……!」


 力を失った伊織が、再び膝をついた。


 光留の眼には、伊織の身体が人間ではなく、赤い光の塊に見えていた。


 御影は細い白い光。


 狼の眼は灰色の光。


 美しく。


 温かく。


 そして、堪え難いほどに空腹を刺激する。


 喰らいたい。


 もっと眼力が欲しい。


 身体の奥から、自分ではない衝動が湧き上がった。


「違う……」


 光留は頭を押さえる。


「こいつらは、仲間だ」


 それでも、黒い眼力は三人へ向かって伸びていく。


 細い触手のような霧が、伊織の足元へ迫った。


「離れてくれ」


「一人で戦うつもりか!」


「ここにいたら――」


 光留が伊織を見る。


 黒い鱗に覆われた顔から、人間の表情が失われ始めていた。


「玄斎より先に、俺がお前たちを喰ってしまう」


 伊織が言葉を失う。


「頼む。離れてくれ」


「でも、お前はどうするんだよ!」


「蓮次郎を助ける」


「そうじゃねえ! お前は戻ってこられるのかって聞いてるんだ!」


 光留は答えられなかった。


 戻れる保証などない。


 玄斎を吸収できたとしても、その眼力に器が耐えられるかは分からない。


 全身眼化を解けるかどうかさえ、分からない。


 狼の眼が伊織の肩を掴んだ。


「行くぞ」


「ふざけるな! こいつを置いていけるか!」


「俺たちがここにいれば、こいつの器が早く壊れる!」


 狼の眼が光留を見る。


「今は離れることが、こいつを助けることになる」


 伊織が歯を食いしばった。


 御影も光留から距離を取りながら、綻びの眼を開き続けていた。


 眼力を奪われ、片眼から血が流れている。


「光留!」


 御影が蓮次郎を指差した。


「あの身体の内側にある、淡い眼力は蓮次郎のものだ!」


 玄斎の黒い眼力に覆われた奥。


 小さく、消えかけている淡い光が見えた。


「それは絶対に吸うな!」


「分かってる」


「狙うのは、その外側に絡みついている黒い眼力だけだ!」


「ああ……!」


 玄斎が三人へ視線を向けた。


「逃がすと思うか?」


 蓮次郎の周囲に、無数の霊の矢が現れる。


 切っ先が、撤退しようとする三人へ向けられた。


「まずい!」


 玄斎が腕を振り下ろす。


 霊の矢が一斉に放たれた。


 光留の姿が消える。


 次の瞬間、三人と矢の間に立っていた。


 全身眼化によって高められた脚力は、光留自身の感覚さえ追いつかないほどだった。


 背中へ霊の矢が突き刺さる。


 一本。


 十本。


 数え切れないほどの矢が、黒い鱗へ吸い込まれていく。


「行け!」


「光留!」


「早く!」


 吸収するたびに、意識が遠のく。


 伊織たちの声も、次第に聞こえなくなっていった。


 それでも光留は、三人の前から動かなかった。


 玄斎が剣を作る。


 斧を作る。


 槍を作る。


 撤退する三人へ放たれた霊の武器を、光留は全身で受け止め続けた。


 胸で吸う。


 腕で吸う。


 背中で吸う。


 全ての武器を喰らいながら、一歩ずつ玄斎へ近づいていく。


「伊織、行くぞ!」


 御影が伊織の腕を引いた。


「くそっ……!」


 伊織は光留へ振り返る。


「絶対に二人で戻ってこい!」


 光留は答えなかった。


 答えるための言葉が、すぐには思い出せなかった。


「死んだら許さねえからな!」


 伊織たちは崩れた門へ向かって走り出した。


 狼の眼が最後尾で足を止める。


「光留!」


 黒い霧が狼の眼へ伸びる。


 それでも狼の眼は、ぎりぎりまでその場を離れなかった。


「死者の臭いだけを追え!」


 狼の眼が蓮次郎を指差す。


「弟の臭いを見失うな!」


 光留は小さく頷いた。


 狼の眼も踵を返す。


 三人が門を越え、試合会場から離れていく。


 光留と三人を繋いでいた眼力の糸が、一本ずつ千切れた。


 赤。


 白。


 灰。


 三つの光が見えなくなる。


 試合会場に、再び静寂が訪れた。


 残されたのは二人だけ。


 全身を黒い鱗に覆われた葛城光留。


 そして、蓮次郎の身体を奪った榊原玄斎。


「とうとう一人になったな」


 玄斎が笑う。


「違う」


 光留は蓮次郎を見つめる。


「蓮次郎がいる」


「その弟も、貴様にとっては眼力の塊にしか見えていないのではないか?」


 玄斎の言葉に、光留の身体が僅かに揺れた。


 否定できなかった。


 蓮次郎の身体からも、淡い眼力が引き寄せられている。


 その外側には玄斎の黒い眼力が絡みつき、二つの力が複雑に混ざり合っていた。


「その状態で、いつまで見分けられる?」


 玄斎が一歩前へ出る。


「やがて貴様は、弟も私も分からなくなる」


 光留の頭の中で、再び無数の声が響いた。


 喰らえ。


 奪え。


 全て自分のものにしろ。


「最後には、その身体ごと弟を喰らうことになる」


「黙れ……」


 視界が暗くなる。


 自分が立っている場所が分からない。


 何のために戦っていたのか。


 目の前にいる男が誰なのか。


 自分の名前さえ、思い出せなくなりそうになる。


 光留は胸へ手を当てた。


 心臓の音は聞こえない。


 代わりに、壊れかけた地蔵の姿が脳裏へ浮かんだ。


 二人で並んで手を合わせた。


 同じ場所を目指した。


 決勝で会おうと約束した。


「俺は……」


 光留が呟く。


「葛城光留だ」


 意識の奥へ、自分の名前を刻み込む。


「蓮次郎の兄だ」


 黒い霧の中で、淡い光だけを見つめる。


「弟を、連れて帰る」


 光留は腰に差していた黒刀へ手を伸ばした。


 ゆっくりと鞘から抜く。


 玄斎が構えた。


「ようやく斬る覚悟を決めたか」


「違う」


 光留は黒刀を地面へ突き立てた。


 その手を離す。


「刀は使わない」


「何?」


「蓮次郎の身体には、傷一つつけない」


 光留は何も持たず、両手を下ろした。


 黒い鱗の隙間から、濃密な眼力が溢れ出す。


「この手でお前を捕まえて――」


 一歩を踏み出す。


 周囲の黒い霧が、光留を中心に渦を巻いた。


「玄斎だけを喰い尽くす」


 玄斎の背後に、無数の霊の武器が並ぶ。


「その名を、いつまで覚えていられるかな」


 光留は黒い拳を握った。


「忘れる前に終わらせてやる」


 全身眼化した兄と、弟の身体を奪った亡霊。


 誰もいなくなった試合会場で、二人は向かい合う。


「ここからは――」


 光留が地面を蹴った。


「俺とお前の一対一だ」


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