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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第五章 幻の島と還りし者

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第六十五話 器を懸けて



 七つの星の一つが、強く輝いた。


 星の眼の姿が消える。


 次の瞬間には、玄斎の頭上へ移動していた。


「星渡り!」


 踵が振り下ろされる。


 玄斎が片腕を上げ、黒い眼力で受け止めた。


 その足元へ、月の眼が滑り込む。


「そこだ!」


 三日月状の斬撃が、玄斎の胴体を横切った。


 古い隊羽織が裂ける。


 その下にある身体も、上下に分かれた。


「やったか?」


 しかし、血は流れなかった。


 切断された身体が黒い霧へ変わり、再び繋がっていく。


 裂けたはずの隊羽織まで、何事もなかったように元へ戻った。


「再生した……?」


「違う」


 御影宗十郎が綻びの眼を凝らす。


「最初から、あれは肉体じゃない」


 玄斎の輪郭が僅かに揺れる。


 その内側に、別の人間の姿が重なっていた。


「誰かいる……」


 御影が眼を細める。


「玄斎の中に、もう一人いるぞ」


 兄の胸が大きく鳴った。


 玄斎の奥に見えた輪郭。


 顔までは見えない。


 それでも、その身体を見間違えるはずがなかった。


「蓮次郎……?」


 玄斎の口元が歪んだ。


「ようやく気づいたか」


 月と星が同時に構え直す。


 だが、玄斎は二人を見ていなかった。


 その視線は、兄たちの背後を越え、島の北へ向けられている。


「私にばかり気を取られていていいのか?」


「何?」


「貴様ら――」


 玄斎が片手を上げた。


「何か忘れてはいないか?」


 直後。


 島全体が、大きく揺れた。


 遠くで何かが崩れる。


 地面に溜まっていた黒い水が波打ち、試合会場の壁から石が落ちてきた。


「今度は何だ!」


 再び、地面が揺れた。


 一度目よりも近い。


 規則的に繰り返される振動は、何か巨大なものが歩く音だった。


 北に広がる森から、鳥たちが一斉に飛び立つ。


 続いて、何十本もの木が横倒しになった。


 深い霧の向こうから、山のような影が持ち上がる。


 岩と焼けた肉が混ざり合った巨体。


 身体の亀裂からは、今も赤い炎が漏れている。


 崩れていたはずの右脚には、白い眼力が根のように絡みつき、失われた部分を繋ぎ直していた。


 巨体の中央で、一つの巨大な眼が開く。


「あれは……」


 三番隊長が息を呑んだ。


「山喰らい!」


 第一章で町へ下りようとしていた巨大眼獣。


 三番隊が総出で食い止めながら、倒すことのできなかった怪物だった。


「どうしてあいつが残っている!」


 玄斎が低く笑う。


「万屍冥還で還したのは、死した眼獣だけだ」


 山喰らいの巨大な眼が動く。


 試合会場には目も向けず、島の海岸を捉えた。


 蒼い雨を生み出した水城蒼華。


 傷ついた者たち。


 そして、全員の帰路となる船団。


「あれは、まだ生きている」


 山喰らいが一歩を踏み出した。


 向かう先は、船だった。


「まずい!」


 鳴神宗玄の全身から雷が弾ける。


「あいつに船を潰されたら、帰る手段がなくなる!」


「それだけじゃない」


 御影が呟く。


「船には蒼華と負傷者が残っている」


 鳴神は月と星へ振り返った。


「月! 星! 俺たちが先行するぞ!」


「分かった」


 星の眼が腕を振る。


 試合会場から海岸へ続く森の中に、次々と光点が現れた。


 星と星を結ぶ線が、一本の道となって伸びていく。


 月の眼が傷ついた肩を押さえながら、その軌道へ足を乗せた。


 鳴神も雷をまとい、地面へ低く腰を落とす。


「光留!」


 鳴神が兄を見る。


「船は俺たちが守る!」


 月の眼も短く告げる。


「必ず弟を連れて戻れ」


 星の眼は、いつもの僅かな笑みを浮かべた。


「戻ってきたとき、お前まで消えていたら承知しないぞ」


 兄は強く頷く。


「ああ!」


「それまで――」


 鳴神の周囲で雷が爆ぜた。


「何としても持ち堪えてくれ!」


 三つの影が同時に消えた。


 星の軌道を走る二つの光。


 森を一直線に貫く青白い雷。


 それらは山喰らいを追い、凄まじい速さで海岸へ向かっていった。


 玄斎は止めなかった。


 ただ、遠ざかる三人を見送りながら笑っていた。


「行かせてよかったのか?」


 伊織が白い義手へ炎を灯す。


「止める必要などない」


 玄斎の輪郭が大きく揺れた。


「山喰らいの餌が増えるだけだ」


 古びた隊羽織が、黒い霧へ変わる。


 長い白髪。


 青白い顔。


 初代隊長の姿を形作っていた全てが剥がれ落ちていく。


 その奥から、若い男の身体が現れた。


 泥で汚れた衣服。


 細くなった腕。


 長い間、光を浴びていなかったような白い肌。


「蓮次郎……!」


 兄の弟が、そこに立っていた。


 だが、その眼に蓮次郎の意思はない。


 色を失った瞳の奥で、黒い眼力が渦を巻いている。


 蓮次郎の背後には、玄斎の上半身が影のように重なっていた。


「返せ」


 兄が黒刀を握り締める。


「蓮次郎の身体を返せ!」


 蓮次郎の口が開く。


 そこから発せられたのは、玄斎の声だった。


「この身体は、私が選んだ器だ」


 蓮次郎が片腕を上げる。


「返す理由などない」


 霊の眼が、淡い光を放った。


 空中に白い靄が集まり始める。


 一つ一つが細長く伸び、武器の形へ変わっていく。


 剣。


 槍。


 斧。


 矢。


 数え切れないほどの半透明な武器が、試合会場の上空を埋め尽くした。


「全員、構えろ!」


 戦士の眼が巨大な盾を作り出す。


 刃眼隊は槍を並べる。


 騎士団も残された盾を持ち上げた。


 玄斎が指を振り下ろす。


 全ての霊の武器が、一斉に降り注いだ。


「防げ!」


 半透明の槍が、戦士の眼の盾へ突き刺さる。


 だが、衝突音は聞こえなかった。


 槍は盾の表面で止まらず、そのまますり抜けた。


「何っ――」


 戦士の眼の肩を、霊の槍が通過する。


 次の瞬間、肩から血が噴き出した。


 刃眼隊の槍も。


 騎士団の盾も。


 忍たちが作り出した壁も。


 霊の武器は、その全てを存在しないもののように通り抜けた。


 剣が腕を裂く。


 矢が脚を貫く。


 斧が鎧の内側にある身体だけを傷つける。


「ぐあっ!」


「盾が効かない!」


「防ぐな!」


 御影が叫んだ。


「これは霊の武器だ! 避けろ!」


 しかし、気づいたときには遅かった。


 あまりにも数が多い。


 試合会場の至るところで血が飛び散り、何人もの隊員が地面へ倒れた。


 兄の正面にも、一本の霊の槍が迫る。


 背後には、負傷して動けない騎士がいた。


 避ければ、その騎士に当たる。


 兄は黒刀ではなく、眼化した右腕を突き出した。


「光留、避けろ!」


 霊の槍が、黒い鱗へ触れた。


 その瞬間。


 槍の先端が大きく歪んだ。


「何だ?」


 半透明の槍が黒い渦へ変わり、兄の腕へ吸い込まれていく。


 指先。


 掌。


 肘。


 霊の槍を形作っていた全ての眼力が、黒い鱗の中へ消えた。


 兄の身体に傷はない。


「吸収した……?」


 御影が兄の腕を見る。


「霊の武器を、黒の眼が吸い取ったのか」


 兄自身も、右腕を見つめていた。


 吸収した眼力が、黒い鱗の下を熱となって流れている。


 玄斎の笑みが消えた。


「その眼……」


 上空に、再び霊の武器が作り出される。


 一度目よりも多い。


「もう一度来るぞ!」


 一番隊長が脇腹の傷を押さえながら立ち上がる。


 周囲には、戦える状態ではない者が多すぎた。


 このまま次の攻撃を受ければ、今度こそ死者が出る。


「負傷者を海岸へ運べ!」


 一番隊長が叫ぶ。


「動ける者は肩を貸せ! 鳴神たちが山喰らいを止めている間に船へ退くんだ!」


「ですが、ここは!」


「残っても戦力にならない者は撤退しろ!」


 三番隊長も武器を担ぎ直す。


「山喰らいは俺たち三番隊を中心に対応するぞ! 動ける者は海岸で俺たちに続け!」


 戦士の眼が傷ついた肩を押さえながら、片手を地面へ向ける。


 負傷者を守るように、何枚もの盾が作り出された。


「ここじゃ俺の盾は役に立たない」


 戦士の眼が光留を見る。


「だが、山喰らいの攻撃なら防げる。こいつらは俺が船まで運ぶ」


「頼む」


「そっちも死ぬなよ」


 刃眼隊と騎士団が、次々と負傷者を担ぎ上げる。


 忍たちは周囲を警戒しながら、撤退する者たちを囲んだ。


 上空の霊の武器が、海岸へ向かう一行へ狙いを変える。


「行かせると思うか?」


 玄斎が腕を振り下ろした。


 兄が両腕を広げ、撤退する者たちの前へ出る。


「させるか!」


 霊の剣と槍が、次々と黒い腕へ突き刺さる。


 一つ。


 二つ。


 十を超える霊の武器が、渦を巻きながら吸い込まれていく。


 黒い鱗が脈打つ。


 これまで黒刀を通して吸収していたときとは、速度が違った。


 眼化した両腕は、触れた眼力を以前の数倍の速さで呑み込んでいる。


 だが、全ては防ぎ切れない。


 一本の霊の斧が兄の横を抜け、負傷者を背負った隊員へ迫った。


「危ない!」


 灰色の影が、横から隊員を突き飛ばした。


 霊の斧が地面を通り抜ける。


 着地した男の両脚は獣のものへ変わり、両腕には灰色の毛と鋭い爪が生えていた。


「狼の眼!」


「遅くなったな」


 狼の眼は鼻を動かし、上空を見上げる。


 新たな霊の矢が放たれた。


 狼の眼は矢が動き出すより先に、地面を蹴った。


 身体を捻り、見えにくい軌道を正確に避ける。


「見えているのか?」


「見えなくても分かる」


 狼の眼が答える。


「武器を作る直前に、眼力の臭いが変わる」


 後方では、負傷者たちが試合会場を離れていく。


「必ず戻ってくる!」


「それまで持ち堪えてくれ!」


「光留! 弟を連れて帰れよ!」


 仲間たちの声が、次第に遠ざかっていった。


 試合会場に残ったのは、兄、伊織、御影、狼の眼。


 そして、蓮次郎の身体を使う玄斎だけだった。


 狼の眼が玄斎へ鼻を向ける。


 その表情が険しくなった。


「やっぱりな」


「何が分かった?」


 兄が尋ねる。


「あの身体から、二人分の臭いがする」


 狼の眼が低く構える。


「一つは生きている。お前の弟の臭いだ」


 鋭い爪が地面を掴む。


「もう一つは、死んだ人間の臭いだ」


 兄は蓮次郎を見つめた。


 まだいる。


 玄斎に身体を奪われても、蓮次郎は消えていない。


「助けられる」


 兄が呟く。


「蓮次郎は、まだ助けられる」


 玄斎の背後に、無数の霊の剣が現れた。


「希望を持ったか」


 蓮次郎の顔が、不自然に笑う。


「ならば、その希望ごと斬り刻んでやろう」


 霊の剣が放たれる。


「右から三本!」


 狼の眼が叫ぶ。


 兄と伊織が同時に横へ跳ぶ。


 御影も身体を沈め、頭上を通過する剣を避けた。


「伊織!」


「分かってる!」


 伊織の白い義手から炎が噴き出す。


 炎は霊の武器を止められない。


 だが、蓮次郎の周囲を囲み、その逃げ道を奪うことはできる。


「弟ごと焼くつもりか?」


「当てる場所くらい選べる!」


 炎が蓮次郎の足元を走った。


 玄斎が身体を横へ動かす。


 その瞬間、狼の眼が背後へ回り込んだ。


 爪を振るう。


 玄斎は蓮次郎の腕で受け止めた。


 狼の眼は爪を止め、代わりに肩を掴んで身体を捻る。


 蓮次郎の体勢が崩れた。


「御影!」


「見えている!」


 御影の綻びの眼が、蓮次郎の身体を覆う二つの眼力を追う。


 内側にある淡い眼力。


 その外側へ絡みつき、身体の動きを支配する黒い眼力。


 玄斎が霊の武器を作るたび、二つの眼力の間に僅かな隙間が生まれていた。


「首の後ろだ!」


 御影が指を向ける。


「武器を放つ瞬間だけ、玄斎の眼力が蓮次郎から離れる!」


 兄が地面を蹴った。


 玄斎が振り返り、霊の槍を作り出す。


 避けない。


 兄は左腕で霊の槍を受け止めた。


 槍を吸収しながら、右手を蓮次郎の首の後ろへ伸ばす。


「捕まえた!」


 黒い指が、蓮次郎の肌へ触れた。


 強い衝撃が兄の腕を駆け抜ける。


 蓮次郎の背後に重なっていた玄斎の影が、大きく揺れた。


 黒い眼力が細い糸となり、兄の掌へ吸い込まれ始める。


「ぬっ……!」


 玄斎の口から、初めて苦しげな声が漏れた。


 蓮次郎の指先が僅かに動く。


 色を失っていた眼に、一瞬だけ光が戻った。


「効いている!」


 御影が叫ぶ。


「玄斎の眼力だけが、蓮次郎から剥がれている!」


 兄は手を離さない。


「ずっと考えてきたんだ」


 黒い眼力が、腕の中へ流れ込んでくる。


「蓮次郎を斬らずに、助ける方法を」


「貴様……」


「お前の身体は斬らない」


 兄は蓮次郎の奥にいる玄斎を睨む。


「お前の中にいるこいつだけを――俺の眼で喰い尽くす!」


 玄斎の表情から、笑みが消えた。


 次の瞬間、蓮次郎の身体から凄まじい眼力が噴き出した。


 兄の右手が弾かれる。


 衝撃で身体が吹き飛び、地面を転がった。


「光留!」


「来るな!」


 兄はすぐに立ち上がる。


 確かに吸収できた。


 蓮次郎を傷つけず、玄斎の眼力だけを奪うことができた。


 方法は間違っていない。


 玄斎は、自分の首の後ろへ触れた。


 その輪郭の一部が欠け、黒い霧となって兄の腕に残っている。


「面白い」


 蓮次郎の顔に、再び笑みが戻る。


「それほど喰いたいのなら、望みを叶えてやろう」


 玄斎が両腕を広げる。


 試合会場を覆っていた黒い霧が、一斉に集まり始めた。


 万屍冥還によって得た、無数の死体眼獣の眼力。


 濃密な黒い塊が、何百本もの霊の武器へ変わっていく。


 空が埋まる。


 兄たちの逃げ場を奪うように、全ての切っ先が中央へ向いた。


「吸収できるのだろう?」


 玄斎が両手を合わせる。


「ならば、全て喰らってみせろ」


 霊の武器が、四方から兄へ殺到した。


「光留、避けろ!」


 避ければ、後ろにいる三人へ届く。


 それ以上に、ここで逃げれば玄斎を吸収する機会を失う。


 兄は両腕を突き出した。


「うおおおおおっ!」


 無数の霊の武器が、黒い鱗へ突き刺さる。


 剣が歪む。


 槍が崩れる。


 斧も矢も黒い渦へ変わり、兄の両腕へ吸い込まれていく。


 身体の内側へ、冷たい眼力が流れ込む。


 一体分ではない。


 十体。


 百体。


 死体眼獣たちが持っていた眼力と、その中に残された感情までが押し寄せる。


 怒り。


 恐怖。


 苦しみ。


 数え切れない声が、兄の頭の中で叫んだ。


「ぐっ……!」


 右腕の鱗に、亀裂が入る。


 続いて左腕。


 黒い鱗の隙間から血が溢れ、指先から地面へ落ちた。


 それでも霊の武器は止まらない。


「もう限界だ!」


 狼の眼が叫ぶ。


「腕の器が持たない! 吸収を止めろ!」


「まだだ……!」


 兄は歯を食いしばる。


 しかし、両腕の感覚が失われていく。


 黒い鱗が一枚ずつ剥がれ、地面へ落ちる前に霧となって消えた。


 御影が眼を見開く。


「これ以上続ければ、両腕が壊れるぞ!」


 兄にも分かっていた。


 腕だけでは足りない。


 玄斎が集めた眼力は、あまりにも多すぎる。


 だが、眼化した両腕は、これまでより数倍の眼力を吸収できていた。


 黒刀を通したときよりも。


 眼化する前の手で触れたときよりも。


 眼化した部分そのものが、眼力を呑み込むための器となっている。


 兄は自分の胸へ視線を落とした。


 両腕だけで足りないのなら。


 眼化する場所を、増やせばいい。


「まさか……」


 狼の眼が兄の考えに気づいた。


「やめろ」


 兄が両腕へ集めていた眼力を、肩へ流し始める。


「光留、やめろ!」


 狼の眼が兄の肩を掴んだ。


「全身眼化は、今のお前には早すぎる!」


「でも、腕だけじゃ吸い切れない」


「眼化は身体を強くするだけの技じゃない!」


 狼の眼の爪が、兄の装束へ食い込む。


「肉体そのものを、眼へ近づける技だ!」


「だから使うしか、」


「今のお前の器では耐えられない!」


 狼の眼が声を荒らげた。


「吸収した眼力が全身へ流れ込めば、器が内側から割れる! 眼力が溢れれば、お前まで眼獣になるぞ!」


 兄の脳裏に、これまで見てきた眼獣たちの姿が浮かぶ。


 壊れた器。


 溢れ出す眼力。


 人の形を失い、自分の意思さえなくした者たち。


 全身を眼化すれば、自分も同じものになるかもしれない。


 それでも、兄は蓮次郎を見た。


 色を失った眼。


 玄斎の意思で動かされる手足。


 弟の口から発せられる、別人の声。


 あの日から、何度も考えてきた。


 どうすれば蓮次郎を止められるのか。


 どうすれば弟を斬らずに済むのか。


 ようやく、その方法を見つけた。


 ここで諦めることなどできない。


「他に方法はあるのか?」


 狼の眼は答えられなかった。


「このまま蓮次郎を助ける方法が、他にあるのか?」


「それは……」


「ないなら、やる」


 伊織が兄を見る。


「本当に戻れなくなるかもしれないぞ」


「分かってる」


「死ぬかもしれない」


「それも分かってる」


 兄は一度だけ眼を閉じた。


 壊れた地蔵の前で誓った言葉を思い出す。


 今度こそ、蓮次郎を連れて帰る。


 眼を開く。


 瞳の奥で、黒い眼力が激しく渦を巻いた。


「蓮次郎を連れて帰る」


 兄は狼の眼の手を外す。


「そう決めて、ここまで来たんだ」


 両腕を覆っていた黒い鱗が動き始めた。


 肩へ。


 胸へ。


 背中へ。


 黒い眼力が血管を辿るように、全身へ広がっていく。


 装束の下で皮膚が黒く染まり、その表面から新たな鱗が生まれた。


「光留!」


 狼の眼には聞こえていた。


 兄の身体の内側で、何かに亀裂が入る音が。


 それでも、黒い鱗は止まらない。


 首筋を這い、頬へ届く。


 腰から両脚へ流れ、足先まで覆っていく。


 玄斎が初めて表情を強張らせた。


 兄は痛みに耐えながら、蓮次郎へ向かって一歩を踏み出す。


「俺の器が壊れるのが先か」


 さらに一歩。


「お前を全部吸い尽くすのが先か」


 黒い眼力が、兄の全身から溢れ出す。


「勝負だ、玄斎」


 葛城光留は、自らの全身を黒の眼へ変え始めた。

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