第六十二話 蒼雨廻天
「さて、いつまで持つかな」
榊原玄斎が両腕を広げる。
その動きに合わせて、倒れていた死体眼獣たちが一斉に立ち上がった。
折れた骨が軋む。
切断された腕が泥を這う。
頭を失った身体までもが、兄たちのいる方向へ歩き始める。
「来るぞ!」
刃眼隊が残された槍を構えた。
しかし、最初に作った分厚い隊列はすでにない。
折れた槍を握る者。
片膝をつきながら立ち続ける者。
負傷した仲間を背負う者。
全員が限界へ近づいていた。
「放て!」
騎士団の矢が空へ放たれる。
翼を持つ死体眼獣の胸を貫き、地面へ叩き落とす。
だが、残された矢は少ない。
「次で最後です!」
「一射も無駄にするな!」
忍たちも観客席から押し寄せる死体眼獣を迎え撃つ。
「四式――刃!」
放たれた刃が、眼獣の両脚を切断した。
身体が泥の中へ倒れる。
それでも死体眼獣は両腕だけで地面を這い、忍の足へ噛みつこうとした。
「まだ動くのか!」
「頭や胸を狙っても意味がない! 動けなくなるまで身体を壊せ!」
御影宗十郎が叫ぶ。
しかし、死体眼獣を完全に動けなくするには、身体のほとんどを破壊しなければならない。
一体を止める間に、十体が迫ってくる。
「くそっ!」
伊織の周囲で炎が燃え上がった。
「まとめて灰にしてやる!」
炎が渦を巻き、押し寄せる死体眼獣たちを呑み込む。
黒く焼けた身体が次々と倒れた。
だが、伊織の炎はすぐに小さくなった。
「はあ……はあ……」
白い義手から、細い煙が上がる。
「もう眼力が……」
炎の中から、炭のようになった腕が伸びる。
伊織が反応するより先に、兄が黒刀を振り抜いた。
腕を切り落とし、伊織を後方へ引く。
「無理をするな!」
「お前にだけは言われたくねえよ」
兄の両腕を覆う黒い鱗も、ところどころ剥がれ落ちていた。
眼化を維持するだけで、眼力が削られていく。
呼吸をするたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
それでも死体眼獣は止まらない。
「戦士!」
「分かってる!」
戦士の眼が巨大な盾を作り出す。
迫ってきた死体眼獣の群れを、正面から受け止めた。
何十本もの爪が盾へ突き刺さる。
さらに上から、翼を持つ死体眼獣が次々と落下してきた。
「ぐっ……おおおおっ!」
戦士の眼の足元が沈む。
盾に亀裂が走った。
「長くは持たないぞ!」
鳴神宗玄が前へ出る。
全身を青白い雷が包んだ。
「全員、伏せろ!」
宗玄が両手を地面へ叩きつけた。
「雷界!」
凄まじい雷が、試合会場を駆け抜ける。
兄たちを取り囲んでいた死体眼獣が、一斉に吹き飛ばされた。
地面が抉れ、観客席の一部が崩れ落ちる。
焦げた臭いと白い煙が、会場全体を覆った。
「今だ! 陣形を立て直せ!」
隊員たちが動き始める。
だが、御影の表情は険しいままだった。
綻びの眼には、煙の向こうで動く無数の眼力が見えている。
「まだだ……」
焦げた指が、泥を掴んだ。
雷に焼かれた死体眼獣が起き上がる。
一体だけではない。
吹き飛ばされた全ての死体眼獣が、ゆっくりと身体を起こしていく。
「これでも止まらないのかよ……」
宗玄が片膝をついた。
今の一撃で、宗玄も大量の眼力を消耗している。
それに対し、中央舞台の玄斎には疲れが見えなかった。
「見事な雷だ」
玄斎が僅かに笑う。
「だが、死者を殺すには足りんな」
玄斎の指先が動く。
地上の死体眼獣が二手に分かれた。
正面から刃眼隊を押さえながら、別の群れが負傷者のいる後方へ回り込む。
空を飛ぶ死体眼獣は、騎士団の射線を避けるように高度を変えた。
観客席にいる死体眼獣は、忍たちの退路を塞いでいる。
別々の場所。
別々の動き。
その全てを、玄斎一人が同時に操っていた。
「右を守れ!」
「無理です! 上からも来ます!」
「負傷者を中央へ!」
戦場の至るところから声が上がる。
一つの攻撃に対応すれば、別の場所が崩される。
死体眼獣は傷つくことも、命を失うことも恐れない。
仲間の死体を踏み台にし、自らの身体を盾にしながら進んでくる。
兄たちを囲む輪が、少しずつ狭くなっていった。
御影が綻びの眼で周囲を見回す。
玄斎まで続く道は、死体眼獣によって完全に塞がれている。
「このままじゃ全滅する……」
「まだだ!」
兄が黒刀を構え直す。
「まだ蓮次郎に会ってない!」
「気持ちだけでどうにかなる数じゃねえぞ!」
伊織が叫ぶ。
分かっている。
誰も諦めてはいない。
それでも、身体が動かない。
眼力が残っていない。
死体眼獣の群れが一斉に地面を蹴った。
「来るぞ!」
戦士の眼が盾を前へ出す。
しかし、亀裂の入った盾は、最初の一撃で砕け散った。
死体眼獣の爪が迫る。
兄が眼化した腕を上げる。
その黒い鱗も、今にも消えようとしていた。
◇
試合会場から遠く離れた海岸。
砂浜へ乗り上げた船の上にも、戦いの音は届いていた。
木々の向こうで雷が弾ける。
何かが崩れる音。
無数の眼獣の咆哮。
そのたびに、船体が僅かに震えた。
水城蒼華は甲板に横たわり、灰色の空を見上げていた。
荒れた海を押し分け、船団の道を作ったことで、眼力はほとんど残っていない。
両腕には力が入らず、指先も僅かに震えている。
「戦いが……始まったんですね」
蒼華は身体を起こそうとした。
「動いてはいけません!」
傍にいた隊員が、その肩を押さえる。
「もう眼力が残っていない。今は休んでください」
「でも、皆さんは戦っています」
「あなたは船団をここまで運んだ。それだけで十分です」
十分。
その言葉を聞いた瞬間、蒼華の中に古い記憶が蘇った。
あのときも、同じように言われた。
もう十分だ。
お前には何もできない。
ここから先は任せろ。
蒼華は、その言葉に従った。
自分には力がないと思い込み、最後まで手を伸ばさなかった。
そして全てが終わったあとに残ったのは、二度と取り戻せない後悔だった。
「十分なんかじゃ……ありません」
「蒼華さん?」
「私は、あのとき何もできなかったんじゃない」
蒼華は震える腕を甲板についた。
「できないと思って、諦めたんです」
何度も力が抜ける。
それでも歯を食いしばり、自分の足で立ち上がった。
「また何もできないまま、大切な人たちを失うのは嫌です」
「ですが、その身体では……」
「分かっています」
蒼華は船の先端へ向かって歩き始めた。
一歩進むたびに、膝が崩れそうになる。
手すりを掴み、辛うじて身体を支える。
「だから、これが最後です」
蒼華は船首に立った。
目の前には、荒れた海が広がっている。
その先には、深い霧に覆われた幻の島。
木々の向こうから、再び大きな衝撃音が響いた。
「これが今の私にできる、最後のことなら――」
蒼華は両腕を空へ伸ばした。
「私は、今ここで全てを使います」
風が止まった。
荒れていた海面が、一瞬だけ静まり返る。
蒼華の足元から、水色の眼力が広がっていく。
船。
砂浜。
海。
周囲に存在する全ての水が、蒼華の呼吸に合わせて震え始めた。
青い光が、彼女の瞳へ集まる。
「――開眼」
水城蒼華の瞳が変化した。
瞳の奥に水面のような波紋が現れ、幾重にも広がっていく。
海面から無数の水滴が浮かび上がった。
一滴。
百滴。
やがて数え切れないほどの水が空へ昇っていく。
幻の島の上空へ集まり、巨大な蒼い雨雲へと変わった。
蒼華は島へ向けて、両手を振り下ろす。
「奥義――」
蒼い瞳から、一筋の涙が流れた。
「蒼雨廻天」
◇
死体眼獣の爪が、兄の黒い腕へ触れる寸前だった。
ぽつり。
一滴の雨が、黒い鱗の上に落ちた。
「雨……?」
続いて、二滴。
三滴。
瞬く間に雨脚が強くなり、試合会場全体へ降り注ぐ。
ただの雨ではなかった。
一粒一粒が、淡い蒼色の光を放っている。
雨を浴びた死体眼獣の身体が、不自然に止まった。
兄へ爪を伸ばしていた腕が震え、そのまま地面へ落ちる。
「何が起きてる?」
中央舞台に立つ玄斎の指が僅かに乱れた。
動かそうとした死体眼獣が、命令とは違う方向へ首を曲げる。
「これは……」
玄斎が初めて空を見上げた。
御影には、雨の正体が見えていた。
玄斎から死体眼獣へ伸びる、無数の眼力の流れ。
蒼い雨粒が触れるたび、その流れに波紋が生まれている。
「雨が、玄斎の眼力を乱している……!」
一本の流れが途切れる。
続いて、二本。
地上や空にいた死体眼獣が、次々と動きを止めていった。
それだけではない。
兄は、自分の中に温かなものが流れ込んでくるのを感じた。
空になりかけていた器へ、雨粒を通して眼力が注がれていく。
消えかけていた黒い鱗が、再び両腕を覆った。
「眼力が……戻ってくる」
伊織の白い義手に、再び炎が灯る。
雨の中にもかかわらず、その炎は先ほどよりも激しく燃え上がった。
戦士の眼が手を開く。
砕けた盾に代わり、新しい巨大な盾が作り出された。
鳴神宗玄の周囲にも、青白い雷が戻ってくる。
「この雨……俺たちに眼力を与えているのか」
「傷は治っていない」
御影が立ち上がる。
「これは治癒じゃない。水城蒼華が、自分の眼力を雨に乗せて俺たちへ送っているんだ」
雨は敵の眼力を乱し、味方の眼力を満たしていく。
崩れかけていた戦場そのものが、ゆっくりと反転し始めた。
玄斎が強く指を握る。
動きを止めていた死体眼獣が、再び立ち上がろうとする。
だが、その動きは先ほどまでのように揃っていない。
「小娘が……!」
初めて玄斎の表情から笑みが消えた。
船上の蒼華は、震える両腕を下ろさなかった。
唇から血が流れ、足元がふらついている。
「届け……」
意識が遠のいても、開眼を解かない。
「皆さんに……私の力を……!」
蒼い雨が、さらに強くなった。
死体眼獣の包囲に、初めて隙間が生まれる。
鳴神宗玄はゆっくりと立ち上がった。
周囲を見れば、刃眼隊も、騎士団も、忍たちも武器を握り直している。
眼には、再び戦う光が宿っていた。
「全員、まだ動けるな」
宗玄の問いに、誰も言葉では答えなかった。
槍を構える。
弓を引く。
刃を作る。
炎を灯す。
それが全員の答えだった。
宗玄が雷をまとった腕を、玄斎へ向ける。
「今度こそ――」
死体眼獣の向こうに、島の奥へ続く道が見える。
「あいつらの道を開けるぞ!」
蒼い雨の中。
止まることを知らなかった死の軍勢が、初めて一歩後ろへ退いた。




