第六十話 亡霊の号令
霧の向こうに姿を現した試合会場。
一行はすぐには近づかず、周囲を警戒しながら崩れた道を進んだ。
島の空気は異様に湿っていた。
雨は降っていない。
それなのに衣服は水分を吸って重くなり、髪の先からは雫が落ちてくる。
地面には黒く濁った水が溜まり、踏み出すたびに泥が靴へまとわりついた。
湿った土。
腐った木。
古い苔。
いくつもの臭いが混ざり、息を吸うだけで喉の奥が重くなる。
「島全体が腐っているみたいだな……」
伊織が顔をしかめた。
周囲に生えた木々は、太い蔓に締めつけられている。
葉から落ちた雫が、一定の間隔で水溜まりを叩いていた。
ぽつり。
ぽつり。
その音だけが、人の消えた島に響いている。
やがて一行は、試合会場へ続く坂道へ差しかかった。
兄の足が止まる。
道の端に、小さな石像があった。
「これは……」
兄と弟が何度も手を合わせた地蔵だった。
しかし、かつての姿は残っていない。
頭から縦に割れ、片方は泥の中へ沈んでいる。
石の表面は濃い緑色の苔に覆われ、割れ目からは小さな茸が生えていた。
かつて鮮やかだった赤い前掛けも、今では泥と雨水を吸って黒ずんでいる。
千切れかけた布が湿った風に揺れるたび、細い水滴が落ちた。
地蔵の顔を伝うその雫は、まるで涙のように見えた。
兄の脳裏に、幼い頃の光景が蘇る。
この場所で弟と並び、決勝で会おうと約束した。
二人で同じ場所を目指せると、疑いもしなかった。
兄は地蔵の前にしゃがみ、泥に埋もれた前掛けへ触れた。
「帰ってきたぞ」
返事はない。
「今度こそ、蓮次郎を連れて帰る」
兄は立ち上がり、再び試合会場へ向かった。
◇
試合会場の門は、半分ほど崩れ落ちていた。
折れた柱には蔓が絡みつき、その隙間から濁った水が流れている。
隊員たちは武器を構えたまま、慎重に門をくぐった。
内部は、不自然なほど静かだった。
中央には、兄たちがかつて戦った舞台が残っている。
地面には亀裂が走り、その隙間から黒い草が伸びていた。
「誰もいないのか?」
一人の騎士が呟く。
「いや……」
兄は観客席を見上げた。
「何かいる」
霧に覆われた観客席。
そこには黒い塊が、隙間なく並んでいた。
初めは崩れた座席かと思った。
だが、そのうちの一つが僅かに動いた。
赤い眼が開く。
その隣で、黄色い眼が開いた。
さらに奥でも。
右でも。
左でも。
次々と眼が開いていく。
「眼獣……!」
無数の眼獣が、観客のように座っていた。
獣に近いもの。
人の形を歪めたもの。
何本もの腕を持つもの。
身体のほとんどが巨大な眼になっているもの。
数百――いや、それ以上。
観客席を埋め尽くした眼獣たちは襲いかかってこない。
ただ黙ったまま、一行を見下ろしている。
眼だけが一斉に動き、兄たちの動きを追っていた。
「俺たちを……見ている?」
「試合が始まるのを待っているみたいに……」
湿った風が、会場内を通り抜けた。
何百もの眼獣の身体から水滴が落ち、不規則な音を立てる。
そのとき、中央舞台の上で霧が渦を巻いた。
白い霧の中から、一人の男が姿を現す。
古びた隊羽織。
長く伸びた白髪。
血の気を失った顔。
その身体は僅かに透け、背後にある観客席が見えていた。
足元に影はなく、霧が男の身体をすり抜けている。
幽霊としか思えない姿だった。
兄は、どこかでその男を見た記憶があった。
蓮次郎の背後。
ほんの一瞬だけ現れた、古い隊羽織の男。
「こいつは……」
刃眼隊の三人の隊長が同時に足を止めた。
一番隊長の顔から、余裕が消える。
御影宗十郎は目を細め、男の羽織に残された古い紋を見つめた。
三番隊長が、信じられないというように首を振る。
「まさか……本当にあいつかよ」
「知っているのか?」
鳴神宗玄が尋ねた。
御影は中央舞台から目を離さない。
「あの男は、榊原玄斎」
その名を口にした瞬間、三人の隊長に緊張が走った。
「俺たち三人が隊長になるよりも前、刃眼隊を率いていた男だ」
「昔の刃眼隊長……」
「いや、それだけではない」
御影が低い声で続ける。
「刃眼隊を最初にまとめ上げた、初代隊長だ」
その言葉を聞いた隊員たちがざわついた。
亡くなったはずの初代隊長が、眼獣たちを従えて目の前に立っている。
玄斎は俯いたまま動かない。
まるで生きている者たちの言葉が、聞こえていないかのようだった。
三番隊長が武器を握り締める。
「何であんたが、眼獣なんかを率いてるんだよ」
答えはない。
「何とか言え、玄斎!」
会場に声が響く。
しかし、返ってきたのは観客席に座る眼獣たちの湿った呼吸だけだった。
鳴神宗玄が一歩前へ出た。
「相手が元隊長だろうと、死者だろうと関係ない」
宗玄の瞳に、雷の光が宿る。
「俺たちは、この島にいる者を救いに来た。その目的は変わらない」
騎士団が弓を構える。
刃眼隊が槍を並べる。
忍たちはいつでも動けるよう、低く腰を落とした。
宗玄は中央舞台に立つ玄斎を睨む。
「全員――気合い入れていくぞ!」
「おお!」
その声に反応するように、玄斎の首がゆっくりと持ち上がった。
落ち窪んだ両眼が、兄たちを捉える。
その口元が不自然に吊り上がった。
「よく来たな」
低い声が、試合会場全体から聞こえた。
「随分と待ったぞ」
玄斎が片腕を上げる。
瞬間、地面の下から無数の音が響いた。
ゴボッ。
ゴボゴボッ。
泥が泡立ち、亀裂の入った地面が盛り上がる。
「下だ!」
舞台の周囲が一斉に割れた。
土の中から、眼獣の腕が突き出す。
腐った根を引き千切り、全身を泥に覆われた眼獣たちが次々と這い出してきた。
一頭。
十頭。
数え切れないほどの眼獣が、地面の下から姿を現す。
同時に、空を覆っていた霧が大きく渦巻いた。
霧の中で無数の翼音が重なる。
「上にもいるぞ!」
巨大な翼を持つ眼獣が、空から次々と降下してきた。
翼の裏側には無数の眼が並び、そのすべてが兄たちを見つめている。
さらに、観客席に座っていた眼獣たちも立ち上がった。
地上。
空。
観客席。
一行は、あらゆる方向から眼獣に囲まれていた。
玄斎が上げていた腕を振り下ろす。
無数の眼獣が一斉に咆哮した。
その声で試合会場が震え、崩れかけた壁から水と土が降り注ぐ。
「慌てるな! これは想定していた包囲だ!」
刃眼隊が前へ出て、槍の壁を作る。
騎士団はその後方で弓を引く。
忍たちは壁や柱を駆け上がり、観客席と空にいる眼獣へ狙いを定めた。
兄たちも黒刀を抜き、中央を突破するための位置へつく。
鳴神の全身から雷が弾けた。
「作戦通りに行くぞ!!」
止まっていた試合会場で、再び戦いの幕が上がった。




