第五十八話 眼化
朝の鐘が、水の島全体へ響いた。
一度。
二度。
三度目の音が鳴り終わる前に、光留たちは中央塔へ入った。
塔の内部には、幾つもの水路が引かれている。
壁に刻まれた溝を透明な水が流れ、朝の光を受けて青く輝いていた。
「待って、風雅」
階段を上ろうとした風雅の肩を、澪がつかむ。
「何だ?」
「急がないで」
「急いでない。普通に上ってるだけだ」
「その普通で傷が開くんだよ」
風雅は胸元へ手を当てた。
衣服の下には、まだ厚い布が巻かれている。
「会議に遅れたら置いていかれるんだろ?」
「置いていかれた方がいいかもしれないな」
岳が言った。
「怪我人級は宿舎で寝てろ」
「その等級、まだ使うのか?」
「分かりやすい」
「俺以外に使うなよ」
蓮が先に階段を上っていく。
「静かにしろ。上まで聞こえている」
「お前も話してるだろ」
伊織が白い義手を手すりへ置いた。
指へ流す眼力を調整し、ゆっくりと身体を引き上げる。
船旅を始めた頃より、動きは滑らかになっていた。
それでも、何も考えずに動かせるほどではない。
白い指が僅かに滑る。
光留が腕を伸ばそうとした。
「触るな」
「まだ何もしてないだろ」
「しようとした」
「落ちそうだったからだ」
「落ちてない」
「その言い方、昨日も聞いたな」
「お前にだけは言われたくない」
六人が最上階へ着くと、大きな扉が開かれていた。
その先には円形の部屋がある。
中央には、浅い窪みのある巨大な石卓が置かれていた。
刃眼隊の三人の隊長。
騎士団長の鳴神宗玄。
両腕に布を巻いた時任清十郎。
黒い装束に身を包んだ月の眼の忍。
そのほかにも、騎士と刃眼隊の者たちが壁際へ並んでいる。
光留が部屋へ入ると、御影がこちらを見た。
「鐘が鳴り終わる前には来たようだな」
「遅れてないだろ」
「階段で騒ぐ必要はなかったがな」
「聞こえてたのか?」
「塔中に聞こえていた」
澪が風雅を見る。
「だから急がないでって言ったのに」
「俺だけのせいじゃないだろ」
光留は空いている場所へ進もうとして、足を止めた。
一番隊長の隣に、見慣れない二人が立っている。
一人は、灰色の髪を持つ大柄な獣人だった。
厚い外套の下から伸びる腕には、幾つもの古い傷が残っている。
もう一人は細身で、鋭い眼をした獣人だった。
肩には、羽根を縫い込んだ外套を掛けている。
「昨夜遅く着いた援軍だ」
一番隊長が言った。
「幻の島を脱出した後、俺たち一番隊の船は嵐に巻き込まれた。辿り着いた先が、こいつらの暮らす島だった」
「一番隊を助けたのが、この人たち?」
澪が尋ねる。
「ああ。食料を分けてもらい、負傷者も匿ってもらった」
「流れ着いた人間を拾っただけだ」
灰色の髪を持つ獣人が答える。
「だが、あのまま放っておけば、一番隊は全滅していた」
「素直じゃないな」
伊織が小声で言う。
「お前が言うのか」
光留も小さく返した。
灰色の獣人の眼が、二人へ向く。
「聞こえているぞ」
「耳も狼並みか」
伊織が尋ねる。
「鼻もな」
獣人は自分の右眼を指で示した。
「狼の眼を持っている」
隣の獣人も口を開く。
「こちらは鷹の眼だ。昨夜、幻の島の近くまで飛んだ」
部屋の空気が変わった。
「霧の中へ入ったのか?」
光留が尋ねる。
「端までだ。それより先へ進めば、翼を保てなくなる」
「その話は、地図を見ながら聞きましょう」
澄んだ女の声が響いた。
石卓の反対側に、一人の女が立っていた。
青みを帯びた黒髪を後ろで一つに束ね、白と紺の長衣を身にまとっている。
腰に武器はない。
代わりに、両手首へ水晶を連ねた細い腕輪がつけられていた。
「紹介しよう」
鳴神が言う。
「水の島の水路と、今回の船団を預かる者だ」
女の右眼に、深い青の光が宿った。
「水城蒼華」
女が名乗る。
「この島から出る船は、全て私の流れに乗ってもらいます」
蒼華が石卓の縁へ指を置いた。
卓の窪みへ、透明な水が流れ込む。
水は渦を巻きながら盛り上がり、少しずつ形を変えていった。
海岸。
川。
崖。
中央にそびえる山。
やがて水は、一つの島を作り上げた。
光留は息を呑む。
「幻の島……」
水で作られた故郷が、石卓の上に浮かんでいた。
島を囲む海まで、細かな水の流れで再現されている。
さらに、その周囲を白く濁った水の膜が覆っていた。
「この白い水が霧か」
蓮が尋ねる。
「ええ」
蒼華が指先を動かす。
島を囲む白い水が、ゆっくりと回り始めた。
「霧は風だけで動いているのではありません。潮の流れにも引かれている。だから、濃さが変わる場所と時間をある程度は予測できます」
「海底まで作ってあるな」
岳が水の地図を見つめる。
「水の流れを読めば、海底の高低も分かる」
蒼華が答えた。
「ただし、幻の島の周囲は以前より複雑になっています。普段なら存在しない渦も生まれている」
蒼華が鷹の眼を持つ獣人を見る。
「昨夜、見たものを」
鷹の眼の獣人が、幻の島の南西を指した。
「霧は一日中、同じ濃さではない。潮が東へ向きを変える時、この辺りだけ霧が上へ持ち上がる」
指先が示したのは、小さな入り江だった。
「旧船着き場……」
光留が呟く。
「知っているのか?」
鳴神が尋ねる。
「ああ。昔は漁船が使ってた。大きな船は入れないけど、海岸までの岩は少ない」
一番隊長が頷く。
「俺たちが幻の島から脱出した場所でもある。港を眼獣に塞がれ、最後に残った船をあそこから出した」
「霧が持ち上がる時間は?」
御影が尋ねた。
「今の潮なら半刻ほどだ」
鷹の眼の獣人が答える。
「短いな」
三番隊長が腕を組む。
「全ての船を通すのは難しい」
「普通に進めばね」
蒼華の右眼が強く光った。
水で作られた海へ、新しい流れが生まれる。
水の島から幻の島まで、一本の青い道が伸びた。
青い水流が白い霧を左右へ押し分ける。
「水の島を巡る水路を海へ開き、東向きの流れを強めます」
「霧を消せるのか?」
伊織が尋ねる。
「消すことはできません。けれど、船が通る間だけ持ち上げることはできる」
蒼華の指が動くたび、青い道が太くなった。
「半刻を一刻近くまで延ばせるはずです。ただし、私が作った流れから外れた船までは戻せません」
「帆は使わないのか?」
「霧へ近づいてからは畳んでもらいます。風に任せれば、船団が分かれる」
風雅が水の地図を見る。
「俺の風なら、進む方向を揃えられるかもしれない」
「今のあなたが?」
澪がすぐに尋ね返す。
「治れば、という話だ」
「明日までには治らないよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に出てる」
蒼華が風雅へ視線を向ける。
「海上では、許可するまで嵐の眼を使わないでください」
「霧を押し退けられても?」
「あなたの風で私の流れが乱れれば、後ろの船が岩礁へ乗り上げる」
「分かった」
風雅は素直に答えた。
澪が驚いたように顔を向ける。
「私が言っても聞かないのに」
「初対面の相手には、少しくらい従う」
「私にも従ってよ」
「それは難しいな」
澪の手が、風雅の胸元へ伸びる。
「待て。ここで包帯を締めるな」
「作戦の続きだ」
岳が二人を止めた。
鳴神が石卓へ手を置く。
「霧を抜けた後、船団は三つに分かれる」
蒼華が水を動かし、海上へ三本の線を作った。
「一番隊と獣人たちが先行する」
鳴神が続ける。
「鷹の眼が上空から周囲を探り、狼の眼が上陸地点の安全を確認する。旧船着き場を確保した後、合図を送れ」
「残っている人間がいれば、匂いで探す」
狼の眼を持つ獣人が言った。
「霧の中でも分かるのか?」
伊織が尋ねる。
「眼で見るよりは確かだ。血の匂いなら、海風に混じっても分かる」
「眼獣との違いは?」
「人間と眼獣を間違えるほど鈍くない」
蒼華が中央の水路を指す。
「一番隊に続いて、騎士団と二番隊が上陸。町の中央へ向かいます」
「三番隊は上陸地点を守る」
三番隊長が言った。
「後続の船を誘導し、負傷者と生存者を運ぶ道を確保する」
「俺は三番隊へ戻るのか?」
伊織が尋ねる。
三番隊長の視線が、白い義手へ向く。
「戻りたいなら歓迎する」
「なら――」
「だが、お前は光留たちと動け」
「何でだ」
「今のお前の戦い方を、隊の者たちは知らない。義手を動かすための眼力と、火に使う眼力の配分も安定していない」
「俺が合わせる」
「七日で杯を五つ壊した奴が?」
光留が言った。
「二つは落としただけだ」
「どちらでも同じだ」
三番隊長が小さく息を吐く。
「お前が弱くなったと言っているわけではない。今のお前を最も理解している者たちと動けということだ」
伊織は白い義手を見た。
一本ずつ指を開き、再び閉じる。
「分かった」
「随分と素直だな」
光留が言う。
「隊長の命令だからな」
「俺たちが言っても聞かないのに」
「お前は隊長じゃないだろ」
御影が石卓の中央を指した。
「光留たち六人は、俺とともに中央へ進む。強い眼獣が現れた場合は、隊列を離れて対処する」
「六人?」
澪が風雅を見る。
「こいつも数に入ってる」
「当然だろ」
「戦える状態じゃないって言ったよね?」
「歩くことはできる」
「歩けることと戦えることは別だよ」
鳴神が風雅へ視線を向ける。
「船へ乗ることは許す。ただし、自分から前へ出るな」
「敵が襲ってきたら?」
「その時は生き残れ」
「随分と曖昧な命令だな」
「お前にはそのくらいがちょうどいい」
風雅の口元が僅かに上がる。
「分かった」
澪は納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
「時任」
鳴神が呼ぶ。
「ああ」
時任が布の巻かれた両腕を石卓の縁へ置いた。
「俺は霧の外へ残る。輸送船と治療船を守り、海中から近づく眼獣を探る」
「一緒に入らないのか?」
光留が尋ねる。
「退路まで霧へ入れれば、何かあった時に全員が戻れなくなる」
時任は船団の最後尾を指した。
「俺の振動なら、霧越しでも船の位置をある程度は探れる。お前たちが帰るまで、道を残す」
「腕は大丈夫なのか?」
「長く使えば、また壊れる」
時任は隠さずに答えた。
「だから長引かせるな」
「無茶を言うな」
「お前たちにだけは言われたくない」
蒼華が水で作られた旧船着き場を指す。
「上陸後、町へ入る道は一本だけ?」
「表から見ればな」
光留が地図へ近づいた。
「船着き場の奥に、荷を運ぶための細い道がある。崖沿いを通って、町の裏側へ出られる」
「大人数でも通れるか?」
「二人並ぶのが限界だ。昔のまま残っていればだけど」
「敵に塞がれていた場合は?」
「表の坂を上るしかない」
光留が水の町を指でなぞる。
「坂を越えれば、刃眼隊の本部まで真っすぐだ。途中に広場があるから、そこで一度隊を分けられる」
蒼華が光留の指に合わせて水を動かす。
旧船着き場から町まで、二本の細い道が生まれた。
「この道も作戦へ加えます」
「俺たちは、どっちを通る?」
伊織が尋ねる。
「上陸してから決める」
御影が答えた。
「島が以前と同じ状態とは限らない。道が残っていても、眼獣が待ち伏せている可能性がある」
「なら、着いてから斬ればいい」
「お前はまず、義手で剣を抜く時に隣の者を斬らないようにしろ」
「一度も斬ってない」
「船の柱には二度当ててたよ」
澪が言う。
「あれは船が揺れたからだ」
「また船のせいにしてる」
蒼華が両手を重ねた。
石卓の上に広がっていた水路が、ゆっくりと一つになる。
「出航は明日の夜明け前」
幻の島へ、一本の青い道が伸びる。
「最初の鐘で全員乗船。二度目の鐘で港を出ます。三度目が鳴る頃には、幻の島へ続く流れに乗せる」
「霧へ入るのは?」
蓮が尋ねる。
「日の出と同時です」
蒼華は全員を見回した。
「それまでに準備を終えてください。遅れた者のために、流れを戻すことはできません」
鳴神が頷く。
「各隊へ伝えろ。今日中に船と武器の確認を終える」
騎士と刃眼隊の者たちが、一斉に部屋を出ていく。
光留も石卓から離れようとした。
その時、水で作られた幻の島の一部が僅かに崩れた。
澪が反射的に手を伸ばす。
指先から細い水の帯が伸び、崩れかけた海岸を支えた。
蒼華の眼が、その動きを捉える。
「今の水、あなたね」
「すみません。崩れると思って」
澪が慌てて眼力を止める。
「勝手に触って、ごめんなさい」
「怒ってはいません」
蒼華が澪の前へ立つ。
「あなたも水を操えるのね」
「少しだけです」
「少しだけの者は、他人の水へあれほど自然に眼力を重ねられない」
蒼華の視線が、澪の両眼へ向く。
「治癒の眼も持っていると聞きました」
「はい」
「水を動かしながら、治癒も使える?」
「必要なら」
蒼華が小さな水の球を作り、澪の掌へ置いた。
「形を保ってみて」
澪の眼に淡い光が宿る。
揺れていた水が丸く固まり、動きを止めた。
「流れを止める癖がある」
蒼華が言った。
「傷口を塞ぐ時は、それでいい。けれど海の水は止められない」
「どうすればいいの?」
「止めるのではなく、行き先を変える」
蒼華が指を回す。
澪の掌にある水が、形を崩さずに動き始めた。
「明日は私の船をよく見ていて。水路が乱れた時には、手を貸してもらうかもしれません」
「私にできますか?」
「今できるかどうかは聞いていません」
蒼華が水の球を石卓へ戻す。
「流れを見る眼はある。あとは使い方です」
澪は自分の掌を見つめた。
「分かりました」
「いい返事ね」
蒼華は僅かに笑った。
◇
その日は、島中が出航の準備に追われた。
船へ食料と水が積み込まれ、眼鉄で補強された盾が甲板へ並べられる。
刃眼隊は隊ごとに武器を確かめ、騎士たちは霧の中で離れないよう、互いの腰へ結ぶ縄を用意していた。
光留も父の刀を抜く。
刃こぼれはない。
左手首の腕輪には、修復された跡と細い亀裂が残っている。
「殲を使うのは、俺が命じた時だけだ」
隣に立つ御影が言った。
「分かってる」
「本当に分かっているか?」
「昨日から、そればかりだな」
「お前の返事が信用できないからだ」
御影の視線が、刀と腕輪へ向く。
「霧の中で眼力を使えば、普段より消耗が早くなる可能性がある。最初から殲を撃てば、必要な時に立てなくなる」
「ああ」
「お前の役目は、目の前の敵を全て倒すことではない」
「ほかの奴じゃ破れないものを斬ることだろ」
「分かっているなら、眼力を残せ」
御影は積み込まれていく盾を見る。
「それまでは、守られていろ」
光留は顔をしかめた。
「その言い方は嫌だな」
「事実だ」
「自分の身くらい、自分で守れる」
「鉱山で岳が何度、お前の代わりに攻撃を受けた?」
光留は答えられなかった。
「風雅と戦った時も同じだ。お前が殲を撃つまで、全員がお前を守った」
「分かってる」
「なら、意地を張るな」
御影はそれだけ言い残し、二番隊の方へ歩いていった。
光留は積み込まれていく盾を見た。
全員の力を借りることが、間違いだとは思わない。
一人では届かなかった相手へ、仲間とともに届いた。
それでも、自分へ向けられた一撃くらいは、自分で受けたかった。
殲を放つまで。
そして、放った後も。
自分の足で立っていたい。
光留は父の刀を鞘へ戻し、自分の両腕へ眼を落とした。
◇
夜が訪れた。
島の明かりが消えた後も、港からは船を直す槌の音が聞こえている。
光留は宿舎の裏にある石の広場へ出た。
父の刀を抜き、右眼へ眼力を集める。
刀身へ黒が流れた。
刃を覆った黒を腕へ戻そうとする。
だが、眼力は指先から霧となって散った。
「何をしている?」
背後から声がした。
光留が振り返る。
水路の向こうに、狼の眼を持つ獣人が立っていた。
「少し試してただけだ」
「明日は戦いだぞ」
「だから今、確かめてる」
「人間は、前の日になってから新しいことを始めるのか?」
「始めたわけじゃない」
光留は刀を下ろした。
「眠れなかっただけだ」
「同じだな」
狼の眼の獣人が水路を飛び越える。
音もなく、光留の前へ降りた。
「獣人も緊張するのか?」
「知らない島へ行く前に、眠れる者の方が少ない」
獣人は光留の周囲をゆっくりと歩いた。
鼻を動かし、何かの匂いを確かめている。
「昼間から気になってたんだけど」
光留が言う。
「何の匂いを嗅いでる?」
「お前の眼だ」
「眼力に匂いがあるのか?」
「眼力そのものにはない」
狼の眼を持つ獣人が答える。
「だが、眼力を使えば血と肉の匂いが変わる。火の眼なら熱が混じる。水の眼なら湿り気が残る」
「黒の眼は?」
「分からない」
「分からないのかよ」
「今まで嗅いだことがない」
獣人が光留の右腕へ眼を向ける。
「一番隊から、お前の話を聞いた」
「どんな話だ?」
「随分と昔の話だ」
「戦うたびに、新しい使い方を覚えた」
獣人が、光留の腰にある刀を見る。
「一つだった型が増え、今は六つ。お前の黒の眼は戦いの中で成長していると、一番隊の者たちは話していた」
「成長してるかどうかなんて、匂いで分かるのか?」
「何となくだ」
「何となくかよ」
「獣の感覚を言葉で説明するのは難しい」
狼の眼を持つ獣人が、もう一度匂いを嗅ぐ。
「今のお前からは、刀へ流した黒とは別の匂いがする。外へ出た眼力の一部が、身体の中へ戻っている」
「戻ってる?」
「ああ」
獣人が光留の両腕を見る。
「お前、眼化は使えないのか?」
「昼間も聞いた言葉だな」
光留は刀を鞘へ戻した。
「何なんだ、眼化って」
「眼の性質を身体へ映す技だ」
「外纏とは違うのか?」
「外纏は、眼力を身体の外へ纏う。眼化は逆だ」
獣人は自分の胸へ手を置いた。
「眼力を血と肉と骨へ流し、身体そのものを眼へ近づける」
獣人の右眼が金色に光った。
黒い瞳孔が細く変わる。
肩と背中の筋肉が膨らみ、腕へ灰色の毛が広がっていく。
指先の爪が伸び、湾曲した黒い鉤爪へ変わった。
口元から鋭い牙が覗く。
両脚の形まで変わり、地面をつかむように深く沈んだ。
人の形を残しながら、その身体は狼へ近づいていた。
「これが眼化だ」
獣人が地面を蹴った。
姿が一瞬で消える。
「なっ――」
光留が振り返る。
獣人は既に、十歩以上離れた場所へ立っていた。
石の地面には、深い爪痕が残っている。
「速さだけじゃないな」
「力も、爪も、牙も、皮膚の強さも変わる」
「鷹の眼は?」
「背中に翼が生える。眼も高い場所から遠くを見られるようになる」
獣人の身体が元へ戻っていく。
灰色の毛が消え、爪と牙が短くなった。
「黒の眼なら、何になる?」
「知らん」
「教えられないのか?」
「黒の眼を見たことがない」
狼の眼を持つ獣人は、光留の右眼を見た。
「だから、できるかどうかを聞いている」
「やり方も分からない」
「今見せた」
「あれで分かるわけないだろ」
「外へ出さず、内側へ流せ」
「大雑把すぎる」
「獣は言葉で狩りを覚えない」
「俺は獣じゃない」
「なら、人間のやり方で考えろ」
光留は両腕を見る。
眼力を刀へ流す感覚なら分かる。
腕輪を通し、掌から柄へ。
そこから刀身へ黒を送り込む。
それを途中で止め、身体へ残せばいい。
光留が右眼へ意識を集める。
黒い眼力が肩から腕へ流れた。
掌まで届いた瞬間、指先から黒い霧が漏れる。
「違う」
獣人が言った。
「外へ出ている」
「どうすれば中に残る?」
「皮膚と骨の間へ流せ」
「簡単に言うな」
「眼を使おうとするな」
「眼化なのに?」
「眼に身体を貸せ」
意味の分からない言葉だった。
それでも光留は、もう一度右眼へ意識を向けた。
今度は黒を動かそうとしない。
眼の奥にある力が、何へ変わろうとしているのかを探る。
暗い。
どこまでも底が見えない。
刀へ黒を流す時とは違う。
眼の奥から、何かがこちらを見返しているような感覚があった。
黒が右肩へ落ちる。
血の流れに沿って、ゆっくりと腕へ広がっていく。
皮膚の下へ、焼けたような痛みが走った。
「っ……」
光留が右腕を押さえる。
指先から肘まで、黒い筋が浮かび上がっている。
だが、それだけだった。
「止めたな」
「痛かったんだよ」
「身体が変わるんだ。痛みくらいはある」
「先に言え」
「言えばやめたか?」
「やめない」
「なら言う必要はない」
光留は獣人を睨んだ。
「御影と似てるな、お前」
「誰だ」
「知らなくていい」
光留は息を整える。
もう一度、眼の奥へ触れた。
黒は何になろうとしている。
刀ではない。
刃でもない。
敵を斬るために、外へ出す力ではない。
光留は昼間に見た盾を思い出した。
殲を撃つまで、仲間に守られる。
撃った後も、誰かに支えられる。
仲間の力を借りることは受け入れた。
だが、自分で受けられる一撃まで、全て任せる必要はない。
「両腕だ」
光留が呟いた。
「何?」
「全身はいらない。まずは両腕だけでいい」
「なぜ腕だ」
「攻撃を受けられるようにする」
光留は両腕を前へ出した。
「斬る力はある。今の俺に足りないのは、防ぐ力だ」
眼力を胸の前で二つへ分ける。
左右の肩から、同時に腕へ流した。
熱い。
皮膚の下へ、無数の針を刺されたような痛みが走る。
それでも止めない。
「外へ出すな」
獣人の声が聞こえる。
「皮膚の下へ押し込め」
光留の右眼が漆黒へ染まった。
両手の指先が黒くなる。
最初は、煤が付着したように見えた。
だが、黒は皮膚の表面で硬く隆起する。
一枚。
また一枚。
薄い黒の欠片が重なり、指先から手の甲へ広がっていく。
鱗だった。
黒い鱗が隙間なく重なり、光留の両手を覆う。
手首。
前腕。
肘。
さらに上腕へ達し、両肩まで広がっていった。
袖の縫い目が耐えきれず、小さな音を立てて裂ける。
光留の両腕だけが、黒い鱗に覆われていた。
月の光を受けても輝かない。
光さえ呑み込むような、深い黒だった。
「できた……」
光留は両手を開く。
指は動く。
感覚も残っている。
だが、皮膚の上へ厚い鎧を重ねたように、腕全体が重い。
拳を握る。
黒い鱗同士が擦れ、硬い音を立てた。
狼の眼を持つ獣人が近づく。
黒い鱗へ顔を寄せ、匂いを確かめた。
「狼じゃない」
「見れば分かる」
獣人が爪の先で鱗を叩く。
眼鉄の板を叩いたような音がした。
「鷹でもない。ほかの獣とも違う」
「何の鱗だ?」
「知らん」
「また分からないのか」
「我らの島にも、こんな鱗を持つ獣はいない」
獣人が一歩下がった。
右眼に金色の光が宿る。
右腕へ灰色の毛が広がり、指先から黒い爪が伸びた。
「試すぞ」
「何を――」
「受けろ」
獣人が踏み込む。
速い。
光留は刀を抜く暇もなく、両腕を顔の前で交差させた。
黒い爪が振り下ろされる。
硬い衝突音が、夜の広場へ響いた。
光留の身体が後ろへ押される。
靴底が石を擦り、三歩下がったところで止まった。
両腕が痺れている。
だが、血は出ていない。
黒い鱗にも、細い傷が残っただけだった。
「いきなり攻撃するなよ!」
「受けろと言った」
「言った直後に攻撃しただろ!」
「敵は待ってくれない」
「本気でやったのか?」
「本気なら、宿舎の壁まで飛んでいる」
「じゃあ手加減したんだろ」
「爪は止めていない」
獣人が眼化を解く。
「普通の刃なら防げる。強い眼力を纏った攻撃までは分からん」
光留は交差させていた腕を下ろした。
岳の外纏ほど強くはない。
群主の一撃まで防げるとも思えない。
それでも、今までのように斬られるだけではない。
「もう一度だ」
光留が言った。
「やめておけ」
「まだ使える」
「眼力を見ろ」
言われた直後、右眼の奥に痛みが走った。
黒い鱗が指先から薄くなる。
一枚ずつ黒い塵へ変わり、夜風の中へ消えていった。
肩。
肘。
手首。
最後に、両手の鱗が消える。
元へ戻った皮膚には傷こそないが、強い熱が残っていた。
「短いな」
「最初なら十分だ」
「これを使いながら、殲を撃てると思うか?」
「撃つだけならできるだろう」
獣人が答える。
「その後に立っていられるかは知らん」
「眼力を使いすぎるのか」
「眼化は身体を変えている間、眼力を消費し続ける。殲と同時に使えば、今まで以上に早く空になる」
光留は熱の残る両腕を見た。
「なら、攻撃を受ける瞬間だけ使う」
「できればな」
「できるようにする」
「明日までに?」
「ああ」
「人間は気が長いのか短いのか分からんな」
獣人が、鱗の消えた光留の腕を見る。
「狼の眼は、狼の形へ近づく。鷹の眼は、鷹の形へ近づく」
「黒の眼は、鱗を持つ何かに近づくってことか?」
「そうなる」
「何に?」
「分からん」
獣人は鼻を動かし、もう一度光留の匂いを確かめた。
「ただ、お前の眼はまだ形を決めていない」
「どういう意味だ?」
「一番隊から聞いた昔のお前と、今のお前では匂いが違う」
狼の眼を持つ獣人が、光留の右眼を見据える。
「戦うたびに、黒の眼そのものが変わっている。今もまだ、成長の途中だ」
光留は右眼へ触れた。
「完成してないのか」
「だからこそ、何になるか分からん」
水路を流れる音が、夜の静けさへ響く。
「なら、これから確かめる」
光留は父の刀へ手を置いた。
「故郷へ戻れば、黒の眼のことも分かるかもしれない」
「戻れればな」
「戻る」
「随分と簡単に言う」
「そのために、みんな集まったんだ」
背後から足音が近づいた。
「探したぞ」
伊織が白い義手を下げ、広場へ入ってくる。
「明日は出発だっていうのに、何してるんだ」
「少し練習してた」
「少しで袖が破れるのか?」
伊織が光留の両腕を見る。
「何をした?」
「眼化だ」
「眼化?」
「眼の力を身体へ――」
「もう一度やってみろ」
「説明を最後まで聞けよ」
「見た方が早い」
「眼力を使うから、もうやらない」
「できないのか?」
「できる」
「なら見せろ」
「お前、俺を乗せるのが上手くなったな」
光留は小さく息を吐く。
右眼へ残った眼力を僅かに集めた。
両腕全体は無理だ。
右手の指先だけへ黒を流す。
皮膚が硬く隆起する。
黒い鱗が指先から手の甲へ広がった。
伊織の眼が僅かに見開かれる。
「本当に変わったな」
白い義手が、黒い鱗へ触れる。
伊織が指の関節で軽く叩くと、硬い音が鳴った。
「急に俺より眼立つ腕になったな」
「競ってない」
「俺は片腕だけだぞ。お前は両腕なんだろ」
「だから競ってないって言ってるだろ」
「感覚はあるのか?」
「ああ。触られてるのも分かる」
伊織の白い指が止まった。
僅かな沈黙の後、自分の義手へ視線を落とす。
「そうか」
短い声だった。
光留は黒い右手を開いた。
「お前の義手みたいに細かく眼力を分ける必要はない。ただ、長く使うと眼力がなくなる」
「殲と一緒には使えるのか?」
「使えても、一度だけだと思う」
「また倒れるのか」
「倒れないように練習する」
「明日までに?」
「同じことを言われた」
伊織が白い義手で、光留の右肩を軽く叩く。
今度は力を入れすぎなかった。
「なら、殲を撃つ時は俺が前に立つ」
「眼化を覚えた意味がないだろ」
「全部防げるわけじゃないんだろ」
「だからって、お前が全部受ける必要もない」
「それはお前も同じだ」
光留は言葉を返せなかった。
伊織の口元が僅かに上がる。
「自分で言ったことを忘れるなよ」
「忘れてない」
「なら、使えるものは全部使え」
伊織が白い拳を上げた。
「俺の火も」
光留も黒い拳を上げる。
「俺の眼化も」
二つの拳が、軽くぶつかった。
白い眼鉄と黒い鱗が重なり、硬い音を立てる。
「二人とも、いつまで起きてるの!」
宿舎の窓が開き、澪の声が飛んできた。
「明日は日の出前に出るんだよ!」
「今戻る!」
光留が答える。
「俺は迎えに来ただけだ!」
伊織も続けた。
「迎えに行った人まで一緒に話し込まないで!」
窓が強く閉じられた。
伊織が光留を見る。
「怒ってるな」
「お前が遅いからだ」
「迎えに来た俺のせいにするな」
狼の眼を持つ獣人は、二人のやり取りを見ながら鼻を鳴らした。
「明日、霧の中でお前たちを見失ったら、その変わった匂いを探す」
「そんなに変な匂いなのか?」
「一度嗅げば忘れない」
「それ、褒めてないだろ」
「獣人にとっては褒め言葉だ」
獣人は港へ向かって歩き始めた。
光留も刀を鞘へ戻す。
右手を覆っていた黒い鱗が、塵となって消えていく。
水路の向こうには、出航を待つ船が並んでいる。
さらに遠く。
夜の海の先で、幻の島を覆う霧が黒く揺れていた。
故郷へ向かう前の、最後の夜。
黒の眼は初めて、刃ではなく光留自身の身体へ形を与えた。




