第五十四話 六式・殲
風雅の周囲で、風が渦を巻いていた。
倒れた群主から剥がれ落ちた眼鉄が浮かび上がり、黒い亀裂の周囲を回っている。
風雅自身は動いていない。
それでも、光留たちは一歩も近づけなかった。
前へ出ようとするだけで、風に身体を押し戻される。
「風雅から出てこい」
光留は父の刀を向けた。
風雅の口元が歪む。
「せっかく、ここまで馴染んだ器だ」
声は寄生の眼のものだった。
「簡単に捨てると思うか?」
風雅が両腕を広げた。
黒い亀裂が頬から胸元へ広がっていく。
嵐の眼が強く光った。
「嵐界」
風が止まった。
一瞬だけ、大採掘場から全ての音が消える。
次の瞬間。
大採掘場全体が、巨大な嵐へ変わった。
折れた支柱。
錆びた採掘道具。
群主の外殻から落ちた眼鉄。
あらゆるものが宙へ巻き上げられる。
伊織の剣に残っていた火が消えた。
足元を流れていた地下水まで浮かび上がり、風の中へ引き込まれていく。
「全員、伏せろ!」
岳が大剣を地面へ突き立てた。
全身を覆う外纏を広げ、四人を守ろうとする。
風雅が右手を握った。
「嵐圧」
周囲の空気が、一斉に押し潰された。
轟音。
岳の外纏に亀裂が走る。
大剣が地面から抜け、岳の巨体が後ろへ吹き飛んだ。
光留も床から引き剥がされ、背中から岩壁へ叩きつけられた。
息が止まる。
蓮は受け身を取ったが、そのまま地面を転がった。
澪が水を伸ばし、伊織の身体を引き寄せる。
だが、二人まとめて風にさらわれた。
岳が倒れたまま腕を伸ばし、どうにか受け止める。
「伊織!」
「生きてる……」
伊織は答えたが、顔からさらに血の気が失われていた。
切断された左腕の傷口は塞がっている。
それでも、失った血と眼力は戻っていない。
光留は刀を支えにして立ち上がった。
たった一つの技で、全員が地面へ倒されていた。
風雅の足元だけは静かなままだった。
「群主より上だ」
蓮もゆっくりと起き上がる。
「風雅自身の力じゃない。寄生の眼が、身体を壊しながら限界以上の眼力を引き出している」
「どれくらいだ」
「二眼級相当」
蓮が短剣を構え直す。
「今の俺たちが、正面から勝てる相手じゃない」
「でも、やるしかないだろ」
光留の右眼へ黒が集まる。
「黒霧!」
黒い霧が大採掘場へ広がった。
風雅の姿を覆うより早く、渦巻く風が黒霧を巻き上げる。
霧は細かく引き裂かれ、天井近くへ吹き散らされた。
「黒霧が……」
「嵐界の中では、全ての流れがあいつのものだ」
蓮が言った。
岳が地面を蹴る。
低く身体を沈め、正面から風雅へ向かった。
「流れごと叩き潰す!」
外纏を両脚へ集中させる。
一歩。
続けて、もう一歩。
押し寄せる風を踏み越え、大剣の間合いへ近づいていく。
風雅の左眼が光った。
「風牢」
四本の竜巻が、地面から立ち上がった。
風の壁が光留たちの間を走る。
岳が一人だけ向こう側へ切り離された。
光留と蓮。
澪と伊織。
それぞれの間にも、回転する風が立ちはだかる。
「岳!」
澪の声は風に呑まれた。
岳が大剣を竜巻へ叩きつける。
刃が風の中へ入った途端、横へ強く引かれた。
両手で押さえても、振り抜けない。
風雅が岳へ手を向ける。
「まずは、盾から壊すか」
群主の周囲に落ちていた眼鉄と岩片が、一斉に浮かんだ。
「鉄礫嵐」
無数の破片が、岳へ降り注いだ。
岳は大剣を盾のように構える。
眼鉄が刃へぶつかり、火花を散らす。
岩片が外纏へ突き刺さる。
一つ。
二つ。
衝撃が重なるたび、岳の外纏に穴が開いていく。
「岳、下がれ!」
光留が叫ぶ。
「下がれるなら、とっくに下がってる!」
岳は大剣を手放さなかった。
澪が両手を上げる。
風に巻き上げられた地下水を集め、岳の前へ水の壁を作ろうとする。
だが、水は形になる前に風へ砕かれた。
細かな水滴となり、大採掘場へ広がっていく。
「無駄だ」
寄生の眼が笑う。
「水も、火も、霧も、この嵐の中では私のものだ」
風雅が指先を岳へ向けた。
周囲の風が、一点へ集まり始める。
広い大採掘場を満たしていた風が、細い一本の線へ圧縮されていく。
蓮の表情が変わった。
「岳、避けろ!」
「風穿」
空気が撃ち出された。
岳が大剣を正面へ構える。
圧縮された風は刃へ衝突し、そのまま外纏を貫いた。
岳の肩から血が飛ぶ。
背後にあった岩壁へ、深い穴が開いた。
「お兄ちゃん!」
澪が風の壁へ水をぶつける。
竜巻の形が一瞬だけ崩れた。
その隙に岳が横へ転がり、二発目の風穿を避ける。
光留は風雅を見た。
強い。
群主は巨大だった。
幾つもの眼を使い、圧倒的な眼力で押し潰してきた。
だが、攻撃の前には必ず中央の眼が動いていた。
狙いも、次に使う力も読むことができた。
今の風雅には、その隙がない。
大採掘場そのものが、風雅の身体になっている。
どこから近づいても風に見つかる。
どこへ逃げても攻撃が届く。
「どうした、光留」
寄生の眼が尋ねる。
「群主を倒した技は使わないのか?」
風雅の胸元で、黒い亀裂が脈打った。
亀裂の中心。
左の鎖骨に近い場所で、皮膚の下から黒い眼が浮かび上がっている。
寄生の眼。
風雅の身体を支配している核。
光留は父の刀を握り直した。
普通に斬れば、風雅の身体まで傷つける。
黒で崩そうとしても、近づく前に吹き飛ばされる。
ならば、届かせる。
どれだけ厚い壁があっても、その先へ通すための忍術。
西の島で知った、六つ目の型。
刀身を覆っていた黒が、切先へ集まり始める。
広がる力を、細く。
さらに細く。
一本の線へ圧縮する。
左手首の腕輪が震えた。
金属が熱を持ち、流れ込む眼力をどうにか刀へつないでいる。
蓮が光留の刀を見る。
「その技は……」
「風雅の身体ごと斬る必要はない」
光留は切先を、胸元の黒い眼へ向けた。
「向こう側まで、これで貫く」
寄生の眼が笑みを消した。
風雅の周囲へ、幾重もの風の壁が重なる。
「やってみろ」
光留が地面を蹴った。
黒い眼力が、刀の先で細く伸びる。
「六式――」
風雅の周囲で、嵐が膨れ上がった。
「殲!」
光留が刀を突き出した。
切先から、一本の黒い線が放たれた。
風の壁へ触れる。
黒は止まらなかった。
一枚目を貫く。
二枚目。
三枚目。
防ごうとする全ての風を突き抜け、寄生の眼へ伸びていく。
届く。
そう思った瞬間、黒い線が横へ曲がった。
「なっ――」
風の壁は、殲を防いでいなかった。
流れを変えていた。
黒い線は寄生の眼の横を通り過ぎ、背後の岩壁へ突き刺さった。
何層もの岩を貫き、見えない奥まで穴を穿つ。
風雅には届いていない。
「防げない技なら、当てさせなければいい」
寄生の眼が笑った。
「真っすぐ飛ばすだけの力など、嵐の前では無意味だ」
光留の右眼から光が薄れる。
一度の殲で、大量の眼力を失っていた。
左手首の腕輪も熱い。
すぐに同じ技を放てる状態ではない。
「光留!」
風牢が崩れ、蓮が駆け寄ってくる。
光留を支えようとした瞬間、風が二人をまとめて押し戻した。
風雅が両腕を上げる。
嵐界が、さらに狭まった。
大採掘場を回っていた風が、光留たちを中心に集まってくる。
息を吸おうとしても、空気が肺へ入らない。
立っているだけで、皮膚が切れていく。
「終わりだ」
寄生の眼の声が響く。
風雅の頬から、血が流れた。
胸元まで広がった黒い亀裂が、さらに腹へ向かって伸びている。
右腕の皮膚も裂け始めていた。
それでも寄生の眼は、力を緩めようとしない。
「やめろ……」
光留が顔を上げる。
「それ以上使えば、風雅の身体が壊れる」
「だから何だ」
「お前の身体じゃないだろ!」
「器は、壊れるまで使うものだ」
風雅の顔が笑う。
「壊れれば、次へ移ればいい」
伊織が剣を支えにして立っていた。
右眼へ小さな火が宿る。
「聞いてるだけで、腹が立つな」
「伊織、眼力を使わないで!」
澪が止める。
「攻撃するわけじゃない」
伊織は剣先に、小さな炎を灯した。
風に触れた炎が細く伸びる。
すぐに消えると思われた。
だが、伊織は次の火を出す。
一つ。
また一つ。
小さな炎が風へ流され、大採掘場の中へ赤い線を描いていく。
「澪の水が、風を見せてる」
伊織が言った。
先ほど砕かれた澪の水は、細かな霧となって大採掘場へ残っていた。
霧が風に沿って流れている。
伊織の火が、その流れを赤く照らしていた。
無数の風が、風雅の周囲を回っている。
だが、全てが同じ速さではない。
風穿を放った直後。
風雅の右側だけ、僅かに流れが弱くなる。
蓮が眼を細めた。
「風を一点へ集めるたび、別の場所が薄くなる」
「どれくらいだ」
岳が傷ついた肩を押さえながら立ち上がる。
「長くて二呼吸」
「十分だ」
岳が大剣を持ち上げた。
「俺が風を引きつける」
「その肩で何をする気だ」
「動く方は残ってる」
岳の外纏が、再び全身を覆う。
先ほど開いた穴は塞がっていない。
それでも残った眼力を、正面へ集めていく。
「澪。もう一度、水を広げられるか」
蓮が尋ねる。
「できる。でも、また風に散らされるよ」
「散らしていい。流れが見えれば、それで十分だ」
澪が頷く。
右眼から水があふれ出す。
大きな壁にはしない。
細かな水滴へ変え、風の中へ放つ。
大採掘場を巡る流れが、さらに鮮明になった。
「行くぞ!」
岳が大剣を振り下ろした。
地面が砕ける。
衝撃で大量の岩片が浮かび、風へ呑み込まれた。
寄生の眼が岳へ視線を向ける。
「同じことを繰り返すだけか」
風雅の周囲へ風が集まる。
「風穿」
岳へ向け、圧縮された風が放たれた。
岳は避けなかった。
大剣を斜めに構え、風穿を受け流す。
刃の一部が砕けた。
外纏がさらに裂ける。
それでも、岳は倒れなかった。
「今だ!」
蓮が叫ぶ。
風雅の右側。
風穿へ流れが集まったことで生まれた、二呼吸だけの空白。
光留は走った。
風の隙間へ身体を滑り込ませる。
残った風が服と皮膚を切る。
黒を刀へまとわせ、流れを削りながら前へ進む。
一呼吸。
風雅まで、あと数歩。
二呼吸。
嵐界の風が戻り始める。
「届かせない」
寄生の眼が光った。
風が横から押し寄せる。
その前へ、蓮の短剣が飛んだ。
風を止めることはできない。
だが、刃に触れた流れが僅かに分かれる。
光留はその間を抜けた。
風雅の懐へ入る。
父の刀を振ることはしなかった。
左手を、風雅の胸元へ押し当てる。
修復された腕輪が、黒い亀裂へ触れた。
「捕まえた」
光留の右眼から、黒が流れ込む。
寄生の眼が開いた。
風雅の胸元で、皮膚を押し上げるように黒い瞳が現れる。
「離れろ!」
寄生の眼が叫ぶ。
周囲の風が光留の背中へぶつかる。
身体が引き剥がされそうになる。
それでも光留は左手を離さなかった。
腕輪が熱を持つ。
黒い亀裂から、細い根のような眼力が浮かび上がった。
風雅の身体と、寄生の眼をつないでいる。
光留の黒が、その一本一本へ噛みついていく。
「風雅!」
光留が叫ぶ。
「いつまで身体を貸してる!」
返事はない。
風雅の顔には、寄生の眼の笑みが残っている。
「お前の身体だろ!」
光留はさらに黒を流し込んだ。
「自分で取り戻せ!」
風雅の指が動いた。
寄生の眼のものではない。
右手が、光留の左腕をつかむ。
「無駄だ」
寄生の眼が言った。
「この男の意識は、もう沈んでいる」
風雅の口元が震えた。
「……うるせえ」
寄生の眼の笑みが止まる。
風雅の右眼から、黒とは違う灰色の光が戻った。
「俺の身体で……」
風が大きく揺らぐ。
「好き勝手しやがって」
大採掘場を満たしていた嵐が、二つに割れた。
光留を吹き飛ばそうとしていた風が止まる。
風雅の胸元から、寄生の眼が半分ほど押し出された。
黒い根が身体へ食い込み、戻ろうと蠢いている。
「風雅!」
「長くは……もたない」
風雅が息を吐く。
口元から血が落ちた。
「さっきの技を、もう一度撃て」
「殲は風に流された」
「なら――」
風雅の嵐の眼が光る。
「俺の風に重ねろ」
寄生の眼が、風雅の顔を再び歪める。
「黙れ!」
黒い亀裂が風雅の右眼へ伸びる。
風雅は自分の胸元を右手でつかみ、寄生の眼を身体の外へ押し出した。
黒い瞳が露出する。
「今だ、やれ!」
光留は後ろへ跳び、父の刀を構えた。
右眼へ、残っていた全ての黒を集める。
腕輪が激しく震えた。
熱が左腕を焼く。
それでも、流れは途切れなかった。
寄生の眼が周囲の嵐を奪い返そうとする。
幾つもの風が、光留と風雅の間でぶつかり合う。
風雅が右手を光留へ向けた。
光留の背後から、風が集まる。
曲がる風ではない。
揺れる風でもない。
風雅から寄生の眼までを貫く、一本の真っすぐな流れ。
「外すなよ」
「当たり前だ」
風雅が眼を開いた。
「風穿!」
圧縮された風が、光留の背後から撃ち出された。
光留は、その流れへ刀の切先を重ねる。
黒い眼力を、一本の線へ絞り込む。
「六式――」
寄生の眼が大きく開いた。
周囲の嵐が、二人の技を横へ流そうと押し寄せる。
「殲!」
黒い線が放たれた。
風雅の風穿と重なる。
真っすぐな風が黒を包み、その軌道を固定する。
横から襲う嵐がぶつかる。
だが、今度は曲がらない。
黒と風。
二つの眼力が、一つの槍となって大採掘場を走った。
寄生の眼を撃ち抜く。
黒い瞳の中央へ、小さな穴が開いた。
その穴から亀裂が広がっていく。
「馬鹿な……」
寄生の眼が風雅の身体へ戻ろうとする。
黒い根が蠢く。
だが、風雅が自分の身体から風を噴き出し、その全てを外へ押し返した。
「俺の身体だ」
風雅が言った。
「二度と入ってくるな」
寄生の眼が砕け始める。
黒い根が、端から灰へ変わっていく。
それでも寄生の眼は、苦しむ声を上げなかった。
砕けていく瞳が、笑うように細くなる。
「見事だ……」
黒い亀裂が、さらに広がった。
「はは……」
笑い声が、大採掘場へ響く。
「ははははは!」
最後まで笑いながら、寄生の眼は黒と風の中で砕け散った。
黒い灰が舞う。
風が止まった。
宙に浮かんでいた眼鉄と岩片が、一斉に床へ落ちる。
大採掘場へ、静けさが戻った。
光留は刀を下ろした。
右眼の黒が消える。
全身から力が抜け、その場へ膝をついた。
「光留!」
蓮が駆け寄る。
「大丈夫だ……」
「二度も撃っておいて、大丈夫なわけがない」
「倒れてない」
「その台詞、さっきも聞いたな」
伊織が澪に支えられながら歩いてきた。
風雅の身体が前へ傾く。
光留が立ち上がろうとしたが、間に合わない。
岳が片腕で受け止めた。
「重いな」
「聞こえてるぞ……」
風雅が掠れた声で答えた。
今度は、間違いなく風雅自身の声だった。
澪が風雅の胸元へ手を当てる。
寄生の眼があった場所には、深い傷が残っている。
左眼に淡い緑の光を宿し、治癒を始めた。
「動かないで。傷が深い」
「寄生の眼は?」
風雅が尋ねる。
蓮が周囲へ視線を走らせる。
黒い眼力は残っていない。
風雅の身体に広がっていた亀裂も、少しずつ薄れている。
「消えた」
光留が答えた。
「俺たちで倒した」
「そうか」
風雅は短く答え、眼を閉じた。
「おい、寝るな」
伊織が声をかける。
「お前に言われたくない……」
「俺は起きてる」
「立ててもいないだろ」
「こいつ、助けられた直後に口だけは元気だな」
伊織が顔をしかめる。
そのとき。
地の奥から、低い音が響いた。
天井に走っていた亀裂が広がる。
小石が次々と落ち、倒れた群主の身体が地面へ沈み始めた。
蓮が上を見る。
「嵐と震動で、坑道がもたない」
「どれくらいだ」
岳が尋ねる。
「今すぐ出た方がいい」
「分かりやすくて助かる」
岳は風雅を背負った。
澪が伊織の身体を支える。
光留は父の刀を鞘へ戻し、立ち上がった。
足元は揺れている。
右眼にも、ほとんど力は残っていない。
それでも、全員が生きていた。
「帰ろう」
光留が来た道を見る。
「今度こそ、全員で」
五人は崩れ始めた大採掘場を走り出した。




