第五十二話 切り離した炎
鉱山へ入ってから、朝の光はすぐに見えなくなった。
坑道の天井は低く、湿った岩肌から絶えず水が落ちている。
伊織の火が、濡れた壁を橙色に照らしていた。
揺れる光の外側には、闇が貼りついている。
足元の溝を流れる地下水は冷たく、鉱山の奥へ向かうほど勢いを増していた。
「源蔵の言ったとおりだな」
伊織が火を少し強くする。
「湿気で火が安定しない」
「消すなよ」
岳が後ろを振り返った。
「お前の火が消えたら、何も見えない」
「分かってる。それより澪、足元に気をつけろよ」
「それ、お兄ちゃんの台詞じゃない?」
澪の隣では、岳が何度も足元を確かめている。
「俺は言おうと思ってた」
「先に言われただけだよね」
二人の声が、狭い坑道へ響く。
すぐに、何重もの反響となって戻ってきた。
光留は立ち止まった。
「待て」
全員の足が止まる。
水の流れる音。
天井から落ちる雫。
その奥に、別の音が混じっている。
硬いものが岩を引っかく音だった。
伊織が火を前へ向ける。
光の端で、二つの眼が開いた。
続いて、右の壁際。
背後。
天井近くの横穴。
幾つもの眼が、暗闇の中から光留たちを見ている。
「囲まれてる」
蓮が短剣を抜いた。
眼獣が一頭、正面から姿を現した。
人の形を残している。
だが、背中は大きく曲がり、両腕から黒い刃が伸びていた。
破れた衣服の胸元には、鉱山の鎮圧隊が使っていた紋が残っている。
「元は人間か」
岳が澪の前へ出る。
人型の眼獣が顔を上げた。
額に埋まった眼が、細く光る。
右腕を振った。
「伏せろ!」
光留たちが頭を下げる。
何もない空間から、細い斬撃が生まれた。
頭上を走り、坑道の支柱へ深く食い込む。
「刃の眼だ」
蓮が切断された木片を見る。
「見えない刃を飛ばしてくる」
「なら、振る前に止める」
岳が地面を蹴った。
大剣を横へ振る。
人型の眼獣は岳を見ていなかった。
それでも攻撃が届く前に身体を沈め、大剣を避けた。
横穴から飛び出した別の眼獣が、岳の脇腹へ爪を伸ばす。
光留が間へ入った。
黒刀で爪を受け、黒を流し込む。
眼獣の前脚が崩れた。
その隙を狙い、蓮が人型の眼獣の背後へ回る。
短剣を首へ振った。
人型の眼獣が、振り返らないまま身を反らす。
刃は皮膚を浅く切っただけだった。
「また避けた」
蓮が距離を取る。
「こいつには見えてないはずだ」
光留は周囲を見た。
正面の眼獣。
横穴にいる眼獣。
背後を塞ぐ眼獣。
全ての瞳が、同じ瞬間に蓮へ向いていた。
人型の眼獣だけが背を向けている。
それでも、ほかの眼獣が蓮を見た瞬間に攻撃を避けた。
「眼がつながってる」
光留が言った。
「一頭が見たものを、全部が見てるんだ」
「群主の力か」
蓮が周囲の眼を見回す。
「この鉱山にいる眼獣は、視界を共有している」
「死角がないってことかよ」
伊織が剣へ火をまとわせた。
「だったら、全部まとめて焼く」
剣を振り下ろす。
炎が狭い坑道を走った。
人型の眼獣は逃げなかった。
額の刃の眼が強く光る。
何本もの斬撃が放たれ、迫る炎を切り裂いた。
炎が左右へ分かれる。
その間を、人型の眼獣が駆け抜けてきた。
「伊織!」
光留が叫ぶ。
黒い刃が、伊織の左腕をかすめた。
衣服が裂け、前腕に赤い線が走る。
伊織は右手の剣を返し、人型の眼獣の肩を斬った。
眼獣は反撃せず、すぐに闇の中へ退いた。
「平気か」
「これくらいなら――」
伊織の声が止まった。
左手から、剣が落ちた。
指が勝手に開いている。
「伊織?」
澪が近づこうとする。
「来るな」
伊織が鋭く言った。
左腕の傷口から、黒い筋が伸びていた。
血管に沿うように手首へ広がり、反対側は肘へ向かって上がっていく。
傷の中央で、皮膚が小さく盛り上がった。
細い裂け目ができる。
その奥から、黒い眼が開いた。
光留の頭に、昨夜の声がよみがえる。
次は、誰の中からお前を見ようか。
「寄生の眼だ」
伊織の左腕が持ち上がった。
本人の意思とは関係なく、掌が澪へ向く。
指先に火が集まり始める。
「止まれ……!」
伊織が歯を食いしばる。
左腕を下げようとしている。
だが、腕は動きを止めない。
炎が大きくなった。
「伊織、眼力を切れ!」
「切ってる!」
額から汗が落ちる。
「俺が出してるんじゃない!」
傷口の眼が、笑うように細くなった。
黒い筋は、もう肘を越えようとしている。
「次は、お前だ」
伊織の腕から、寄生の眼の声がした。
澪が水を集める。
「私が治す!」
「触るな!」
伊織が後ろへ下がった。
澪が触れれば、寄生の眼が水を通して移るかもしれない。
確かめている時間はなかった。
左手の炎が、澪へ放たれようとしている。
伊織は自分の左腕を、坑道の支柱へ押しつけた。
右手で剣を握る。
刃へ、赤い火が集まった。
光留は、伊織が何をしようとしているのか気づいた。
「待て!」
伊織は答えなかった。
黒い筋が肩へ届くより早く。
炎が澪へ向けて放たれるより早く。
自分の剣を振り下ろした。
左前腕が、肘の下から切り離された。
腕が濡れた地面へ落ちる。
「伊織!」
光留が身体を支えた。
伊織は声を上げず、剣を握ったまま膝をついた。
顔から血の気が引いている。
切り離された腕は、地面で指を動かしていた。
傷口に開いた黒い眼が、光留へ向く。
「惜しい」
寄生の眼が笑った。
「もう少しだった」
「俺の腕で、勝手に喋るな」
伊織の右眼が赤く光った。
地面へ落ちた左腕を、炎が包む。
黒い眼が閉じる前に、腕ごと焼き尽くしていく。
寄生の眼の笑い声が、火の中で途切れた。
◇
「動かないで!」
澪が伊織の隣へ膝をついた。
右眼から水を出し、切断された左腕を包む。
水が血を洗い流す。
続いて左眼に淡い緑の光が宿った。
開いていた傷口が、ゆっくりと塞がっていく。
流れ出ていた血が止まった。
それでも、失われた腕は戻らない。
「ごめん……」
澪の声が震える。
「傷は塞げる。でも、腕を生やすことは……」
「謝るなよ」
伊織が荒い息を吐く。
「お前がいなかったら、腕だけじゃ済まなかった」
澪は唇を噛み、治癒を続けた。
光留は、燃え尽きた左腕を見る。
伊織が迷っていたら、寄生の眼は肩へ届いていた。
あのまま身体を奪われていたかもしれない。
正しい判断だった。
そう分かっていても、胸の奥が重い。
「戻ろう」
光留が言った。
「伊織を町まで運ぶ。群主はそのあとだ」
「戻らない」
「何言ってるんだ。腕を失ったんだぞ」
「見れば分かる」
伊織は右手の剣を杖にして立ち上がった。
足元が揺れたが、岳が肩を支える。
「無理をするな」
「無理はしてる。けど、戻らない」
伊織は光留を見た。
「寄生の眼が俺を狙ったのは、俺たちが近づいてるからだ。ここで戻ったら、次に来るときはもっと強くなってる」
「でも――」
「腕はなくなった」
伊織が左側へ眼を向ける。
そこには、澪が水で包んだ傷口しかない。
「戻ったって生えてこない。なら、今できることをやる」
光留は言葉を失った。
伊織の顔は青い。
剣を握る右手も震えている。
それでも眼だけは、鉱山の奥へ向いていた。
「……澪」
光留が尋ねる。
「動けるのか」
「失った血までは戻せない。でも、傷口は塞いだ」
澪は伊織の身体へ腕を回した。
「戦わせるのは危険。でも、歩くことはできる」
「だってよ」
伊織が小さく笑う。
「勝手に決めるな」
光留は父の刀を握った。
「次に倒れたら、何を言っても連れて帰る」
「分かった」
「本当に分かってるのか」
「片腕でも担がれるくらいなら抵抗できる」
「そういう意味じゃない」
短いやり取りの間にも、周囲の眼獣は距離を縮めている。
人型の眼獣が、再び刃の眼を光らせた。
「来るぞ」
蓮が短剣を構える。
光留は眼獣たちの配置を見た。
前。
後ろ。
横穴。
天井。
どこから攻撃しても、別の眼に見られる。
だから、全ての視界を同時に塞ぐ。
「伊織。火を消せるか」
「ああ」
伊織の右眼から光が消えた。
坑道が暗闇に沈む。
敵の瞳だけが、幾つも浮かび上がった。
光留の右眼へ黒が集まる。
「黒霧」
黒い霧が坑道を満たした。
眼獣たちの光が、一つずつ見えなくなる。
光留たちの姿も消えた。
刃の眼が放たれる。
だが、斬撃は誰もいない壁へ突き刺さった。
共有する視界が、黒霧に遮られている。
「今だ!」
岳が気配だけを頼りに前へ出た。
大剣が地面を叩き、衝撃で眼獣たちの足を止める。
蓮が横穴へ短剣を放った。
潜んでいた眼獣の眼へ突き刺さる。
光留は黒霧の中を走った。
人型の眼獣が腕の刃を振り回す。
見えていない。
斬撃が光留の頬をかすめた。
そのまま懐へ入る。
父の刀へ黒をまとわせ、額の刃の眼を貫いた。
人型の眼獣が動きを止める。
光留が刀を引き抜くと、身体は黒い塵となって崩れた。
周囲の眼獣たちも動きを止めた。
黒霧が薄れていく。
だが、眼獣たちは襲ってこなかった。
一頭ずつ、坑道の左右へ下がっていく。
「逃げるのか?」
伊織が右手の剣を構える。
「違う」
蓮が奥を見る。
「道を開けてる」
眼獣たちが頭を垂れた。
その全てが、坑道の先へ身体を向けている。
地の底から、重い音が響いた。
岩が擦れる。
天井から水と小石が降り、足元の地下水へ幾つもの波紋が広がった。
「何か来る」
岳が澪を背後へ置く。
坑道の奥にあった岩壁が動いた。
壁ではない。
黒い巨体の一部だった。
厚い外殻には眼鉄が食い込み、その隙間を無数の眼が埋めている。
一つ。
二つ。
闇の中で、眼が次々と開いていく。
修復された腕輪が、光留の左手首を強く締めつけた。
昨夜現れた偽物とは違う。
眼力の重さだけで、坑道全体が軋んでいる。
巨大な頭部が持ち上がった。
中央にある眼が開き、五人を見下ろす。
群主の本体が、姿を現した。




