第五十一話 崩れる笑み
光留は、背中の痛みで眼を覚ました。
鉱夫たちが使っていた寝台は狭く、薄い敷布の下から木板の硬さがそのまま伝わってくる。
身体を横へ向けると、寝台が大きく軋んだ。
「……寝心地、悪すぎるだろ」
隣の寝台では、伊織が毛布へくるまっている。
蓮も眠っていたが、枕元には短剣が置かれていた。
戦いが続いたせいか、二人とも武器から手の届く場所を選んでいる。
窓の外は、まだ暗い。
戸の隙間から入り込む風には、湿った土と石炭の匂いが混じっていた。
鍛冶場から聞こえていた槌の音も止まっている。
源蔵たちも、ようやく休んだのだろう。
何もおかしくない。
それなのに、光留の胸から嫌な感覚が消えなかった。
静かすぎる。
昼間まで聞こえていた眼獣の遠吠えも、見張りの歩く音も聞こえない。
町全体が、息を潜めているようだった。
光留は父の刀を腰へ差した。
卓には、源蔵が修復した腕輪が置かれている。
砕けた箇所には眼鉄が埋め込まれ、三本の線を束ねた刻印も残されていた。
腕輪を左手首へつける。
冷たい金属が肌へ触れた直後、内側から小さく震えた。
「何か、来てるのか……?」
伊織たちを起こすべきか迷った。
だが、気配はまだ遠い。
全員で動けば、町の者まで不安にさせる。
まず自分の眼で確かめる。
光留は音を立てないよう、休憩小屋の外へ出た。
◇
夜の町には、鍛冶場の炉だけが赤く残っていた。
煙突から昇る細い煙が、鉱山から流れてくる霧へ溶けている。
通りには修理を終えた剣や槍が並べられ、濡れないよう布がかけられていた。
武器は戻り始めた。
だが、それを使う者たちの多くは、まだ傷を抱えている。
ここで再び眼獣が押し寄せれば、町は耐えられない。
光留は鉱山へ続く道を見た。
入口の前では、二人の見張りが槍を握っている。
眠ってはいない。
それでも二人とも、同じ場所を見つめたまま動かなかった。
「どうした?」
光留が声をかける。
一人が震える指で、道の先を示した。
「あれは……何だ」
霧の中から、黒い影が歩いてくる。
一歩ごとに、湿った地面が沈む。
岩のような皮膚。
曲がった四肢。
体表に並ぶ幾つもの眼。
大きさも、放つ眼力も、これまで戦った眼獣とは違っていた。
周囲には、一回り小さな眼獣が三頭つき従っている。
どの獣も頭を低くし、黒い影へ逆らおうとしない。
見張りが槍を構えた。
「群主だ……」
鉱山の眼獣をまとめ、死んだ者まで従わせる存在。
町の者から聞いた特徴と重なる。
光留は二人の前へ出た。
「鐘を鳴らせ」
「でも、お前一人じゃ――」
「皆を起こせ。ここは俺が見る」
刀を抜く。
刃に、炉の赤い光が映った。
黒い巨体が、道の中央で立ち止まる。
体表に並んだ眼が、一つずつ閉じていった。
最後に、額の眼だけが残る。
「やっと出てきたな」
眼獣が笑った。
獣の喉から出たとは思えない声。
低い声の奥へ、別の声が重なっている。
光留は、その話し方を知っていた。
「寄生の眼……」
「覚えていてくれたか」
眼獣の口が歪む。
笑みに合わせて、頬の皮膚へ細い亀裂が走った。
「風雅はどこだ」
「奥だ」
「お前がここにいるなら、風雅も近くにいるのか」
「私がいる?」
眼獣は喉を鳴らした。
「違う。私は、ここにはいない」
右の前脚が崩れた。
黒い肉が泥のように落ち、その中から細かな眼鉄がこぼれる。
それでも眼獣は倒れない。
残った三本の脚で身体を支え、笑い続けている。
「こいつは群主ではない。群主につながる、ただの一体だ」
光留は刀を握り直した。
本物ではない。
群主の力を帯びた眼獣を、寄生の眼が遠くから動かしている。
「そんなことまで、できるようになったのか」
「人の眼から、人の身体へ。今度は群主の眼力を通り、獣の身体へ」
額の眼が細くなる。
「寄生の眼は、成長している」
見張りが鐘を鳴らした。
甲高い音が、眠っていた町を揺らす。
戸が開き、武器を持った者たちが通りへ飛び出してくる。
伊織たちの足音も近づいていた。
眼獣は逃げなかった。
光留だけを見ている。
「何のために来た」
「確かめるためだ」
「何を」
「この身体が、どこまで動くか」
眼獣が一歩踏み出す。
左脚も崩れた。
巨体が傾き、肩が地面へ落ちる。
周囲の三頭が低く唸ったが、襲ってはこなかった。
崩れていく身体を、怯えたように見ている。
「まだ長くはもたないか」
その声に、残念そうな響きはなかった。
むしろ、次の試みを待ち望んでいる。
「だが、次はもっと遠くへ行ける。もっと長く動かせる」
「お前の好きにはさせない」
光留の右眼へ、黒い光が集まる。
「風雅も、群主も止める」
「そうか」
眼獣の胸が崩れた。
空洞になった身体の奥で、黒い眼力だけが脈打っている。
「楽しみだな」
額の眼が笑うように細くなった。
「次は、誰の中からお前を見ようか」
頭部が砕けた。
黒い泥と灰が地面へ広がり、残っていた眼も潰れていく。
最後まで、笑い声だけが町に残った。
◇
「光留!」
伊織が火をまとったまま駆けてきた。
その後ろから、蓮、岳、澪も続く。
「怪我は?」
澪が光留の腕へ触れる。
「大丈夫だ。戦ってない」
「じゃあ、これは何だよ」
伊織が崩れた眼獣を見る。
地面には黒い泥と、細かな眼鉄だけが残っていた。
付き従っていた三頭の眼獣は、群主の圧力が消えた途端、鉱山へ逃げ帰っている。
蓮が泥の前へしゃがんだ。
短剣の先で触れ、崩れた皮膚を確かめる。
「身体の中に、寄生の眼はない」
「離れた場所から動かしていたと言ってた」
光留は、眼獣が残した言葉を伝えた。
群主につながる眼力。
獣を借りて動かしたこと。
風雅も、本物の群主も鉱山の奥にいること。
岳の表情が険しくなる。
「人間だけじゃなく、眼獣まで操るようになったのか」
「自由に操れるわけじゃない」
蓮が崩れた脚を見る。
「この眼獣は、ここへ来るだけで壊れた。群主から離れるほど、眼力を保てなくなるのかもしれない」
「それなら、まだ限界があるってことか?」
伊織が尋ねる。
「ああ。どんな身体でも奪えるなら、こんな使い捨ての眼獣を送る必要はない」
澪は鉱山の入口へ眼を向けた。
霧の奥には、何も見えない。
それでも今は、暗闇の向こうから無数の眼に見られている気がした。
「でも、待っていたら、その限界もなくなる」
光留は頷いた。
寄生の眼は、自分の成長を隠そうとしなかった。
こちらを怯えさせるため。
鉱山へ誘い込むため。
おそらく、どちらも正しい。
罠だと分かっていても、放ってはおけない。
「夜が明けたら、奥へ行く」
光留が言った。
「本物の群主を倒す。風雅から寄生の眼を引き離す方法も探す」
「決まりだな」
伊織が火を消した。
「せっかく起こされたんだ。このまま準備するか」
「お前はもう少し寝ておけ」
蓮が言う。
「その眼で鉱山へ入れば、怪我をするかもしれない」
岳は澪を見る。
「お前は残ってもいいんだぞ」
「またその話?」
「聞くだけ聞いてみた」
「行くよ」
澪の返事に迷いはなかった。
岳は何も言わず、自分の武器を取りに戻った。
◇
夜明けとともに、源蔵が鍛冶場の扉を開いた。
炉の火は消えていない。
赤い光の前には、修理を終えた剣と槍が並んでいた。
源蔵は話を聞き終えると、太い腕を組んだ。
「向こうから町まで出てきたか」
「偽物だった」
光留が答える。
「寄生の眼が、群主につながる眼獣を動かしていた」
「偽物でも、町まで来られたことが問題だ」
源蔵は壁へ広げた坑道図を指した。
「昨日運び出した石炭の跡は、ここから奥へ続いていた。昔の大採掘場だ。群主がいるなら、この辺りだろう」
入口からは、二本の道が伸びている。
一方は崩落している。
残る道は狭く、地下水が流れ込んでいた。
「湿気で足場が悪い。松明も消えやすい。壁際の溝から離れるな」
源蔵が光留たちへ武器を渡していく。
伊織の剣。
蓮の短剣。
岳の大剣。
刃には研ぎ直された光が戻っていた。
「町の者たちは上の坑道を取り戻す。お前たちは奥へ行け」
光留は父の刀へ手を置いた。
左手首には、修復された腕輪がある。
武器はそろった。
進む道も分かった。
寄生の眼が成長しているなら、こちらも止まってはいられない。
「行こう」
五人は鉱山へ入った。
数歩進むだけで、朝の光は背後へ遠ざかった。
湿った壁を水が流れ、足元の溝から冷たい空気が吹き上がってくる。
伊織の火が、狭い坑道を橙色に照らした。
その先には、眼獣が引きずった幾つもの跡が残っている。
全てが、同じ奥へ向かっていた。
◇
大採掘場の底で、風雅が眼を開いた。
頬の皮膚には黒い亀裂が広がり、呼吸も浅い。
その背後で、巨大な何かが身じろぎした。
闇の中へ、数え切れないほどの眼が浮かぶ。
群主。
その足元では、町へ送った眼獣の身体が、同じように崩れていた。
「まだ短いな」
風雅の口が、笑みを作る。
「だが、次はもう少し長く使える」
声は風雅のものではなかった。
鉱山へ入った五つの足音が、遠くから響いてくる。
寄生の眼は、それを聞きながら笑った。
「楽しみだな、光留」




