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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第四章 鉱山の島と火を失った者

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第四十九話 帰れなかった者たち



「開けてくれ」


 錆びた鉄門の向こうから、男の声がした。


 低く、掠れている。


 その声は湿った坑道を伝い、何度も同じ言葉を繰り返した。


「俺だ。戻ってきた。門を開けてくれ」


 案内役の鉱山守が、鉄門へ近づく。


「その声……」


 伊織が腕をつかんだ。


「知ってる奴なのか」


「第三討伐隊の仁科だ」


 鉱山守は門の小窓を見つめた。


「俺と一緒に、ここへ入った」


 小窓の向こうは暗い。


 伊織が指先へ小さな火をともした。


 橙色の光が、鉄格子の隙間から奥へ差し込む。


 濡れた岩壁。


 天井から垂れ下がった木の根。


 黒い水の溜まった床。


 そこに、男が立っていた。


 破れた鉱山守の外套。


 泥にまみれた顔。


 胸元には、第三討伐隊の印が残っている。


「仁科……」


 鉱山守が名を呼んだ。


 男の顔が、ゆっくりと持ち上がる。


「遅かったな」


 暗がりの中で、右眼だけが光っていた。


 人の眼ではない。


 縦に細長く裂けた、濁った黄色の眼。


 頬にも小さな膨らみがあり、その中心から、もう一つの眼が開いた。


 続いて首。


 肩。


 外套の裂け目から見える胸。


 一つずつ、眼が開いていく。


「開けてくれ」


 口元は笑っていた。


 だが、幾つもの眼は笑っていない。


「寒いんだ」


 天井から落ちた雫が、男の肩へ当たった。


 反応はない。


 濡れた服から水が滴っているのに、身体は震えていなかった。


「仁科は、寒がりだった」


 鉱山守が呟いた。


「いつも焚き火のすぐ近くを陣取って、俺たちに暑いって追い払われてた」


「じゃあ、本当に覚えてるのか?」


 伊織が尋ねる。


「分からん」


 鉱山守は拳を握った。


「あいつが覚えているのか。それとも、中に残ったものを眼獣が使っているだけなのか」


「二歩下がれ」


 門の向こうから、仁科が言った。


 鉱山守の表情が変わる。


「右側を空けろ。俺が先に出る」


 それは、坑道で岩崩れが起きたときの合図だった。


 狭い場所から負傷者を運び出すために、第三討伐隊が使っていた言葉。


「そこまで覚えてるのか……」


 鉱山守の手が、門を閉じている横木へ伸びた。


「触るな」


 蓮の声が飛ぶ。


 細い血の糸が、蓮の指先から伸びていた。


 糸は鉄門の下を抜け、黒い水の表面を滑るように奥へ進んでいる。


「一人じゃない」


 蓮が眼を閉じた。


 血の糸が、微かに震える。


「門の左右に二人。天井近くに一人。奥にも何かいる」


 伊織が炎を少し大きくした。


 光が門の向こうへ広がる。


 仁科の後ろ。


 岩壁に張りつくように、三つの影があった。


 腕が不自然に長く伸びた者。


 背中から黒い殻を生やした者。


 首が横へ曲がったまま、天井の梁をつかんでいる者。


 全員が、討伐隊の衣服を身につけていた。


 光が触れた途端、その身体に浮かんだ眼が一斉に閉じる。


 闇へ紛れるためだった。


「待ち伏せか」


 岳が澪を背後へ下げた。


「人の言葉まで使って、門を開けさせるつもりだったんだ」


「違う」


 仁科が答えた。


「俺たちは帰ってきた」


 声だけは、人のものだった。


「仲間を連れてきた。門を開けてくれ」


 その直後。


 暗闇の奥で、幾つもの眼が開いた。


 四つではない。


 さらに奥。


 伊織の火が届かない場所に、大小の光が並んでいる。


 濡れた岩壁に反射し、数え切れないほどの眼が浮かんで見えた。


 誰かの荒い呼吸が、坑道の奥から聞こえる。


 だが、それが一人分なのか、何十体もの音なのか分からない。


 水の落ちる音。


 岩の軋む音。


 遠くで何かを引きずる音。


 すべてが狭い坑道の中で重なり、近くから聞こえたかと思えば、次の瞬間には地の底へ遠ざかる。


「第一炭坑へ行くには、この門を通るしかないのか」


 光留が尋ねた。


「ああ」


 鉱山守が頷く。


「脇道は崩されている。この先が唯一の道だ」


「なら、開ける」


 光留は父の刀を抜いた。


「待て」


 鉱山守が伊織の火を指した。


「ここから先は炭坑だ。岩の隙間にも、梁の上にも、細かな石炭の粉が溜まっている」


「火を使ったら?」


「一気に燃える。最悪、坑道ごと吹き飛ぶ」


 伊織が指先の炎を小さくした。


「暗い、狭い、その上、火まで使えないのか」


「少しは使える。灯り程度ならな。だが、いつものように炎を広げるな」


「俺だけ厳しくないか、この鉱山」


「火の眼を持ってきたお前が悪い」


 蓮が言った。


「俺のせいなのか?」


 澪が濡れた床へ手を向けた。


 右眼が青く光る。


 坑道に溜まった水が、細かな粒となって浮かび上がった。


 薄い霧のように鉄門の隙間を抜け、向こう側の空気へ広がっていく。


 宙に漂っていた黒い粉が水を吸い、床へ落ちた。


「これなら、少しは燃えにくくなると思う」


「やりすぎるな」


 鉱山守が言った。


「床が泥になれば、足を取られる。古い梁へ水を集めすぎても崩れるぞ」


「分かった。空気の中だけ濡らす」


 澪は水の量を抑えた。


 冷たい霧が、一行の頬へ触れる。


 光留の髪にも小さな雫がついた。


 吐く息が、伊織の火の前で白く浮かぶ。


「門を開けたら、俺が前へ出る」


 岳が両腕へ眼力を集めた。


 黒い武装が、肩から拳までを覆っていく。


「この幅なら、二体までしか並べない。俺が止める」


「蓮は見えない場所の動きを教えてくれ」


 光留が続ける。


「澪は粉塵を抑える。伊織は灯りを消すな」


「戦えない役みたいに言うな」


「大きな火は使うなよ」


「分かってる!」


 伊織は火を掌へ移した。


 炎を広げるのではなく、細く引き伸ばして短刀の刃へまとわせる。


 小さな炎が、濡れた空気の中で不安定に揺れた。


「開けてくれ」


 仁科が、また言った。


「早く」


 光留たちは鉄門の両側へ分かれた。


 鉱山守が横木へ手をかける。


 深く息を吸った。


 そして、一気に引き抜く。


 錆びた蝶番が、耳障りな音を上げた。


 鉄門が、わずかに開く。


 その隙間へ、仁科の腕が飛び込んだ。


 人の腕ではない。


 皮膚の下で黒い筋が蠢き、肘から先が倍近く伸びていた。


「岳!」


「おう!」


 岳が鉄門へ肩をぶつける。


 開きかけた門を押し返し、仁科の腕を挟んだ。


 だが、仁科は痛がらない。


 腕の眼が開き、黄色い光を放つ。


 鉄門が内側から押され始めた。


「力まで残ってるのか!」


 岳の足元で、黒い泥が跳ねる。


 仁科の後ろから、殻を背負った眼獣がぶつかってきた。


 二体分の力に押され、鉄門が少しずつ開いていく。


「上だ」


 蓮が叫んだ。


 天井の梁にいた影が、門を越えて飛び下りた。


 光留が刀を振る。


 刃が腕へ当たった。


 硬い。


 人の皮膚ではなく、濡れた岩を斬ったような感触が手へ返ってくる。


 影は壁を蹴り、澪へ向かった。


「させるか!」


 伊織の短刀が、その進路を塞ぐ。


 刃を覆う細い炎が眼獣の肩を焼いた。


 濡れた衣服から白い蒸気が上がる。


 眼獣は身を捻り、燃え移る前に泥の中へ肩を押しつけた。


「火を知ってる……」


 伊織が眼を見開く。


 攻撃を避けただけではない。


 燃え広がらないよう、自分で火を消した。


 生きていたころの戦い方が、身体に残っている。


「右から来る!」


 蓮の血糸が強く震えた。


 鉄門の隙間から、二本の槍が突き出される。


 岳が腕の武装で受け止めた。


 火花が散る。


 槍の穂先は欠け、錆びついている。


 それでも狭い坑道の中では、十分な脅威だった。


「前衛を下げろ!」


 仁科が叫んだ。


「火の眼を先に潰せ!」


 眼獣たちが、一斉に動きを変えた。


 岳とぶつかっていた二体が左右へ分かれる。


 天井から下りた一体が、再び伊織へ飛びかかった。


 言葉で命じたのではない。


 仁科の胸にある眼が光った瞬間、ほかの眼獣も同時に反応していた。


「群主につながってる」


 光留は、眼獣たちの動きを見た。


「こいつらの眼を通して、奥から戦いを見てるんだ」


「だったら、こいつを止めればいい!」


 伊織が短刀を突き出す。


 眼獣は刃を避けなかった。


 肩へ受けながら、伊織の手首をつかむ。


 焼けた皮膚の臭いが、湿った空気へ混じった。


 それでも指の力は緩まない。


「離せ!」


 伊織は炎を強めかけた。


 頭上から、ぱらぱらと黒い粉が落ちてくる。


 火が触れた粉が、一瞬だけ青白く燃えた。


 伊織は歯を食いしばり、炎を抑える。


 その隙に、眼獣の爪が胸元へ伸びた。


 水の帯が、横から腕へ絡みついた。


「伊織!」


 澪が腕を引く。


 眼獣の身体がわずかに傾いた。


 光留が踏み込み、その胸を刀の柄で突き飛ばす。


 眼獣は黒い水の中へ倒れた。


 胸から肩まで、大きな傷が開いている。


「待って!」


 澪が眼獣へ駆け寄った。


「まだ人の身体が残ってる。傷を塞げば――」


 左眼に、淡い緑の光が宿る。


 水が眼獣の傷へ集まった。


 柔らかな光が、裂けた皮膚へ流れ込もうとする。


 だが、入っていかない。


 光は表面で揺れ、冷たい水へ溶けて消えた。


「どうして……」


 澪が眼獣の手首へ触れる。


 脈がない。


 傷から血も流れていなかった。


 濡れた皮膚は、洞窟の岩と同じほど冷たい。


「この人……」


 澪の声が震えた。


「もう、生きてない」


 倒れていた眼獣の眼が開く。


 身体を起こさないまま、爪だけが澪へ伸びた。


 岳が間へ入り、その腕をつかむ。


「触るな!」


 力任せに眼獣を引き離す。


 澪は泥の上へ尻もちをついた。


「でも、動いてる」


「身体を動かしてるのは命じゃない」


 蓮が言った。


「残った眼力だ」


 仁科たちも同じだった。


 呼吸をしているように胸は動く。


 言葉も話す。


 生きていたころの記憶も残っている。


 それでも、その身体には熱がなかった。


 眼力だけが、冷え切った肉体を動かしている。


「治せないのか」


 鉱山守が尋ねた。


 澪は唇を噛んだ。


「傷なら治せる。でも……死んだ人を、生き返らせることはできない」


「そうか」


 鉱山守は、それだけ答えた。


 その手が、腰の剣へ伸びる。


 だが、剣は半ばから折れていた。


 何度も研ぎ直され、刃も薄くなっている。


 仁科が鉄門を押し広げた。


「右を空けろ」


 生きていたころの合図を、もう一度口にする。


「俺が先に出る」


 光留の右眼が、黒く染まった。


 仁科の身体に満ちる眼力が見える。


 胸の眼から黒い筋が伸び、首、肩、腕の眼へつながっている。


 さらに細い筋が、暗闇の奥へ続いていた。


 群主へつながる糸。


 仁科自身の眼力。


 死体へ染みついた残滓。


 幾つもの力が絡み合い、身体を無理やり立たせている。


 光留は刀へ黒を流した。


 刀身が、火の光さえ吸い込むように暗くなる。


「岳、門を開けてくれ」


「正気か?」


「一瞬でいい」


 岳は光留の眼を見た。


 鉄門から肩を離す。


 押し返していた力が消え、門が一気に開いた。


 仁科が踏み込んでくる。


 槍が、光留の胸へ向かう。


 光留は避けなかった。


 半歩だけ前へ出る。


 槍の穂先が衣服を裂いた。


 同時に、黒い刀身を仁科の胸の眼へ重ねる。


 黒が触れた。


 仁科の身体を走っていた眼力が、消える。


 ほんの一瞬。


 幾つもの眼から光が失われた。


 槍が止まる。


 仁科の顔から、作られた笑みが消えた。


 濁っていた左眼に、人の色が戻る。


「……戻ったのか」


 小さな声だった。


 誰へ尋ねたのかも分からない。


 光留は刀を返した。


 胸の眼だけを、真っすぐに斬る。


 硬い感触。


 次いで、薄い殻が砕れる音。


 仁科の全身から力が抜けた。


 光留は倒れかけた身体を受け止める。


 黒く変色していた皮膚が、少しずつ元の色へ戻っていく。


 開いていた眼は乾いた灰となり、濡れた床へ落ちた。


「仁科!」


 鉱山守が駆け寄る。


 返事はない。


 だが、その顔は先ほどまでより穏やかだった。


「黒で、残った眼力を消したのか」


 蓮が尋ねた。


「全部は消せない」


 光留は荒く息を吐いた。


 右眼の奥が、焼けるように痛む。


「直接、眼へ触れている間だけだ。止められるのは、一息くらいしかない」


「それで十分だ」


 岳が前へ出る。


 仁科の後ろから、残る三体が迫っていた。


「止めろ。俺たちが眼を砕く」


 光留は頷いた。


 眼獣の一体が、壁を蹴る。


「左上!」


 蓮の声。


 血糸が眼獣の足へ巻きつき、進路をずらす。


 伊織が身体を沈めた。


 短刀へまとわせた細い炎を、足元の眼へ突き立てる。


 眼が焼け、眼獣の動きが一瞬だけ鈍った。


 そこへ光留の黒い刀が触れる。


 全身の眼が消える。


「今だ!」


 岳の拳が、胸の眼を打ち砕いた。


 別の一体が背後から槍を突き出す。


 澪の水が槍の柄へ絡み、穂先を逸らした。


 蓮の血糸が腕を縛る。


 光留が懐へ潜り込み、首元の眼へ刀を当てる。


 黒が広がる。


 動きが止まった瞬間、伊織の短刀が眼を貫いた。


 最後の一体が、後ろへ跳んだ。


 逃げるのではない。


 暗闇の奥へ声を届けるように、大きく口を開く。


「侵入者――」


 言葉が終わる前に、岳が距離を詰めた。


 狭い坑道いっぱいに広がる身体で、眼獣を壁へ押しつける。


「光留!」


 光留は走った。


 足が黒い泥へ沈む。


 天井から落ちた冷たい雫が、右眼へ流れ込む。


 視界が一瞬揺れた。


 それでも刀を伸ばす。


 刃先が、額の眼へ触れた。


 黒。


 眼力が消える。


 岳の拳が、最後の眼を砕いた。


 坑道に、静けさが戻った。


 伊織の小さな炎が、濡れた壁を照らしている。


 水滴が落ちる。


 ぽつり。


 ぽつり。


 先ほどまでの叫びが嘘だったように、その音だけが続いた。


     ◇


 鉱山守は、四人の身体を壁際へ並べた。


 一人ずつ顔の泥を拭い、開いたままの瞼を閉じる。


 仁科が持っていた槍も、その隣へ置いた。


「連れ帰りたいが、今は無理だ」


「戻るときに、必ず運ぼう」


 光留が言った。


 鉱山守は頷いた。


「俺たちは、こいつらを助けられなかった」


 掠れた声が、坑道へ落ちる。


「その上、もう一度殺すことまで、お前たちに任せてしまった」


「殺したんじゃない」


 光留は灰になった眼を見る。


「やっと、帰れるようにしたんだ」


 鉱山守は何も答えなかった。


 ただ、仁科の肩へ手を置く。


 しばらくして立ち上がり、第一炭坑へ続く暗闇を見た。


「行こう」


     ◇


 鉄門の先は、さらに狭くなっていた。


 壁と天井が低く、岳は何度も頭をぶつけそうになる。


 木の梁は水を吸って黒ずみ、ところどころへ白い茸が生えていた。


 岩壁を伝う水が細い筋となり、床の窪みへ溜まっている。


 一歩進むたび、靴が泥へ沈んだ。


 引き抜けば、粘ついた音がする。


 伊織の火は、掌に収まるほど小さい。


 湿気を吸った空気の中で、炎は絶えず細くなった。


 少し離れれば、仲間の背中すら輪郭しか見えない。


 その外側には、何もない。


 闇があるのではない。


 光の届く先から、世界そのものが途切れているようだった。


「火が消えそうだ」


 伊織が掌を覆う。


「大きくするなよ」


 鉱山守が振り返らずに言う。


「してない。湿気が多すぎるんだ」


 澪が天井を見上げた。


 雫が額へ落ちる。


「島の外から見たときは、山が燃えてたよね」


「深い場所で石炭が燃え続けている」


 鉱山守が答えた。


「だが、ここは地下水が集まる。熱い場所と冷たい場所が、坑道の中で複雑につながっているんだ」


「火と水が同じ山にあるのか」


「だから鉱山は怖い。昨日まで安全だった道が、今日は毒煙に満ちることもある」


 風が吹いた。


 冷たく、湿った風。


 だが、その中に僅かな熱が混じっている。


 腐った木。


 濡れた石炭。


 錆びた鉄。


 さらに奥から、焦げたような臭いが流れてきた。


 蓮が指先から血糸を伸ばす。


 壁。


 梁。


 使われなくなった荷車の車輪。


 何本もの糸が、暗闇の中へ広がっていく。


「この先で、道が二つに分かれてる」


「右が第一炭坑だ」


 鉱山守が地図を確かめる。


「左は?」


 岳が尋ねる。


「下層へ続く道だ。群主がいるとすれば、そっちだろう」


 左の道から、ぬるい風が吹いている。


 闇の奥に、赤黒い光が微かに揺れていた。


 山の内部で燃え続ける石炭の火。


 そのさらに向こうから、獣の低い唸り声が聞こえた。


「今は行くな」


 鉱山守が言う。


「武器を直すための石炭と眼鉄鉱が先だ」


 光留たちは右の道へ進んだ。


 天井はさらに低くなり、光留も身を屈めなければならない。


 濡れた壁が肩へ触れる。


 冷たさが衣服を通り抜け、肌へ染み込んできた。


 やがて、何かを叩く音が聞こえた。


 カン。


 しばらくして、もう一度。


 カン。


 金属が岩へ当たる音。


 誰かが、鶴嘴を振るっている。


「人がいるのか?」


 伊織が囁く。


 鉱山守は首を横へ振った。


「第一炭坑に、生き残りはいない」


 カン。


 カン。


 今度は二つ。


 少し離れた場所から、別の音も重なる。


 カン。


 カン。


 カン。


 規則正しい音が、薄暗い坑道の奥から響いてくる。


 鉱夫たちが働いている音だった。


 何十年も続けてきた仕事を、今日も変わらず繰り返しているような音。


 光留たちは、広い採掘場へ出た。


 伊織の火が、ゆっくりと闇を押し広げる。


 黒い岩壁。


 放置された荷車。


 天井から垂れ下がる切れた縄。


 その間に、幾つもの人影が立っていた。


 破れた作業着をまとい、鶴嘴を振り上げている。


 岩を叩く。


 欠けた石炭を拾う。


 荷車へ運ぶ。


 誰も言葉を交わさない。


 誰も休まない。


 死んだあとも、生きていたころの仕事だけを繰り返している。


「みんな、鉱夫なの……?」


 澪の声が震えた。


 その一言で、鶴嘴の音が止まった。


 一人ではない。


 採掘場にいたすべての鉱夫が、同時に動きを止めた。


 静寂。


 天井から落ちた雫が、空の荷車へ当たる。


 高い音が一つだけ響いた。


 人影が、ゆっくりと振り返る。


 額。


 頬。


 首。


 胸。


 黒い作業着の下で、無数の眼が開いていく。


 伊織の小さな炎を映し、濡れた坑道の奥まで黄色い光が並んだ。


 第一炭坑は、今も動いていた。


 死んだ者たちだけで。



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