第四十七話 鉱山の島へ
眼食者との戦いから、三日が過ぎた。
朝の町には、剣戟の代わりに金槌の音が響いていた。
崩れた露店へ新しい柱が立てられ、破れた大会の旗が次々と外されている。
砂に埋もれていた道も、人々の手で少しずつ元の姿へ戻り始めていた。
光留は宿の中庭で、父の刀をゆっくりと振り下ろした。
肩に痛みはない。
だが、二度目を振ろうとしたところで、腕に重さが残った。
「まだ完全じゃないな」
「だから休めって言われてるだろ」
縁側へ座っていた伊織が言った。
その手には、大きな焼き菓子が握られている。
「そう言いながら、お前は何してるんだ」
「朝飯の続き」
「さっき三枚食べてたよな」
「怪我を治すには、食べないと駄目なんだ」
「治してもらったのは指だろ」
伊織は聞こえないふりをして、焼き菓子へかじりついた。
その隣では、澪が水を張った器を両手で抱えている。
「光留さん、肩を見せて」
「もう塞がってるぞ」
「傷じゃなくて、治したあとの状態を確かめたいの」
光留が刀を置いて座る。
澪の右眼が青く光った。
器の水が細い帯となり、光留の肩へまとわりつく。
続いて、左眼へ淡い緑の光が宿った。
以前のように大きく揺れてはいない。
温かい水が肩を包み、筋肉の奥に残っていた鈍い痛みを和らげていく。
澪は一人ずつ治すことで、少しずつ力の使い方を覚え始めていた。
「どう?」
「軽くなった」
「よかった」
澪が笑った直後。
小さな音が鳴った。
全員の眼が、澪の腹へ向く。
澪の顔が赤くなった。
「今のは違うから」
「何が違うんだ」
岳が、大量のパンを抱えて中庭へ入ってきた。
「治癒の眼を使うと腹が減るんだろ。食え」
「さっき二つ食べたよ」
「なら、もう二つだ」
「そんなに食べられないってば」
「牢にいた分を取り戻すには足りない」
岳が澪の前へパンを積み上げる。
伊織がその一つへ手を伸ばした。
岳の手が、伊織の手首をつかむ。
「これは澪のだ」
「こんなにあるんだから、一つくらいいいだろ」
「自分の焼き菓子を食ってろ」
「もう最後の一枚だ」
「三枚も食っただろ」
「怪我を治すためだ」
「お前の指は、昨日治っていた」
少し離れた場所で帳簿を読んでいた蓮が、顔も上げずに言った。
「ばれてたか」
「見れば分かる」
澪が小さく笑う。
光留は、その笑い声を聞きながら刀を鞘へ戻した。
三日前まで、この町の地下へ閉じ込められていた声だった。
今は朝の光の下にいる。
それだけで、町を満たす金槌の音まで穏やかに聞こえた。
◇
昼前になると、五人は鉱山地帯へ向かう準備を始めた。
町の市場には、まだ空いていない店も多い。
それでも光留たちが通ると、店主たちは保存食や果物を次々と差し出してきた。
「町を取り戻してくれた礼だ」
「でも、俺たちだけで戦ったわけじゃ――」
「細かいことはいい。持っていけ」
光留の腕へ、乾燥させた果物の袋が押しつけられる。
隣では、伊織が干し肉の入った袋を受け取っていた。
「こっちもくれるのか?」
「それは売り物だ」
「光留はただなのに?」
「お前はさっき、試食を四つ食っただろ」
伊織は黙って代金を払った。
蓮は旅に必要な縄や油、海図を一つずつ確かめている。
その後ろを歩く岳は、両腕へ荷物を抱えていた。
水の入った革袋。
毛布。
薬。
保存食。
さらに、日差しを防ぐための大きな外套まで重ねられている。
「お兄ちゃん、買いすぎだよ」
「鉱山の島がどんな場所か分からないからな」
「船に乗るのに、水袋を六つも持っていくの?」
「お前は水を使う」
「自分でも出せるよ」
「眼力が切れたら出せないだろ」
澪は反論しようとして、岳の荷物をもう一度見た。
「それでも六つはいらない」
「四つにする」
「二つ」
「三つだ」
「……分かった」
交渉が終わると、岳は水袋を三つだけ残した。
「最初から三つにするつもりだったんじゃないか?」
伊織が言う。
「違う」
「だったら、その後ろに隠してる二つは何だ」
岳は無言で、残りの水袋を店へ返した。
光留たちは港へ向かった。
砂の町の先に、青い海が広がっている。
桟橋には、騎士団の旗を掲げた中型船が一隻、出航の準備を整えていた。
元は闇市が密輸に使っていた船だった。
船体は古いが、風雅の嵐に合わせて造られていたため、通常の船より速く海を渡れるらしい。
甲板では、騎士団から選ばれた船乗りたちが帆を確かめている。
「遅かったな」
桟橋の前で、鳴神が腕を組んでいた。
「岳の荷物が多くて」
伊織が答える。
「必要なものしか持っていない」
「水袋を六つ買おうとしてたぞ」
「三つに減らした」
「三つでも多いだろ」
鳴神は岳の荷物を見たが、何も言わなかった。
「鉱山の島までは、風がよければ三日だ。調査隊は昨日、別の船で出した」
鳴神が海図を広げる。
「調査隊は島の北側へ回る。お前たちは南の港から入れ。帳簿に記されていた荷の多くは、その港へ運び込まれている」
「風雅もそこにいるのか」
光留が尋ねる。
「可能性はある。だが、嵐の眼を見つけても勝手に追うな。先に島の様子を調べろ」
「分かった」
「本当に分かってる顔じゃないな」
鳴神は懐から、小さな金属箱を取り出した。
蓋には、眼力を封じる札が貼られている。
「腕輪の欠片だ。刻印が残っている部分だけ持っていけ。ほかの欠片は騎士団で保管する」
光留は両手で箱を受け取った。
「いいのか」
「作った職人を捜すには、現物があった方が早い。壊れていても一眼級の眼装だ。なくすなよ」
「ああ」
箱の中には、父の刀と同じ印が残っている。
その先に父がいるとは限らない。
それでも、確かめるための道は見つかった。
「帳簿の写しは蓮に渡してある」
鳴神は五人を見回した。
「俺たちは、この町に残る闇市の連中を洗い出す。眼食者と捕らえた者たちも、騎士団の本部へ送らなきゃならない」
「月の眼は?」
伊織が周囲を見る。
「さっきまでいたんだが――」
「ここだ」
船の陰から、月の眼の忍が姿を現した。
片手には、紙に包まれた焼き菓子が握られている。
「それ、俺が食べてた店のだろ」
「出航する前に食え」
「俺にくれるのか?」
「自分の分は別にある」
月の眼の忍は、伊織へ包みを渡した。
伊織が中を確かめる。
「一枚しか入ってない」
「十分だ」
「光留たちは鉱山へ行くんだぞ。あんたは来ないのか?」
「別の密輸船を追う」
月の眼の忍は、海の西へ顔を向けた。
「帳簿にない船が一隻、この町を出ている。風雅とは別の闇市の仲間が乗っているはずだ」
「一人で大丈夫なのか」
光留が尋ねる。
「心配されるほど弱くなった覚えはない」
月の眼の忍の口元が、わずかに上がる。
「お前たちこそ、怪我が治ったからといって無茶をするな。傷が塞がることと、強くなることは別だ」
「分かってる」
「その返事は鳴神より信用できないな」
「どういう意味だ」
鳴神が睨む。
月の眼の忍は懐から一枚の紙を取り出し、鳴神へ差し出した。
「昨日の食事代だ」
「ようやく払う気になったか」
「違う。団長の署名が必要らしい」
「なんで俺が署名するんだ」
「団長の奢りだからだ」
「追加で三枚食った分は自分で払え!」
港に伊織の笑い声が響いた。
澪も笑い、岳と蓮の表情も少しだけ緩む。
「そろそろ出るぞ!」
船長が甲板から声を上げた。
五人は船へ乗り込んだ。
船乗りたちが綱を外す。
大きな帆が風を受け、船体がゆっくりと桟橋を離れた。
光留は甲板の後ろへ立った。
砂の町が、少しずつ遠ざかっていく。
鳴神は腕を組んだまま、桟橋に残っている。
その隣で、月の眼の忍が片手を上げた。
伊織も大きく手を振り返す。
「次に会ったときは、肉代を払ってもらえよ!」
「お前が言うな!」
鳴神の声が、海の上まで届いた。
◇
出航して半日。
海は穏やかだった。
空には薄い雲が流れ、風も船を進めるのにちょうどいい。
「船の旅って、こんなに静かなものだったんだな」
伊織が甲板の手すりへ寄りかかる。
「前は嵐に巻き込まれたからな」
光留が答える。
「このまま何も起きずに着いてほしい」
「お前が言うと、何か起きそうだ」
「どういう意味だよ」
船が小さな波を越えた。
甲板がゆっくりと傾く。
伊織の顔から、わずかに血の気が引いた。
「どうした」
「何でもない」
「顔色が悪いぞ」
「焼き菓子を食べすぎただけだ」
もう一度、船が揺れる。
伊織は口元を押さえ、慌てて手すりの向こうへ顔を向けた。
「船酔いか」
蓮が言った。
「違う……これは、海との相性が少し悪いだけだ」
「それを船酔いと言うんだ」
澪が、伊織の背中へ水の入った器を当てる。
「冷たい水を飲む?」
「頼む……治癒の眼で何とかならないか」
「怪我じゃないから無理だと思う」
「そんな……」
岳は揺れる甲板の上でも、まったく姿勢を崩していない。
「鍛え方が足りない」
「船に乗るための鍛え方って何だよ」
「足腰だ」
「絶対に違うだろ……」
光留が笑いながら海へ眼を向ける。
戦いのない時間は、随分久しぶりだった。
誰かの眼力を警戒する必要もない。
刀へ手をかけず、ただ波の音を聞いていられる。
澪は手すりにつかまり、初めて見る広い海を眺めていた。
「きれい……」
太陽の光が、波の一つ一つで砕けている。
澪が右手を伸ばすと、船の横で海水が小さく跳ねた。
青い水が魚の形を作り、甲板の横を泳ぐように進んでいく。
「そんなこともできるのか」
光留が尋ねる。
「水を動かしてるだけだよ。牢の中では、こんなにたくさんの水を見たことがなかったから」
水でできた魚が、一度高く跳ねる。
その直後。
本物の魚も海面から飛び出した。
魚の尾が岳の顔へ水を浴びせる。
澪が眼を丸くする。
伊織が手すりへ寄りかかったまま笑った。
「本物に負けてるぞ」
岳は濡れた顔を拭った。
「今の魚を捕まえる」
「どうやって?」
「釣る」
岳は船乗りから竿を借りた。
それを見た伊織も、船酔いを忘れたように立ち上がる。
「勝負だ」
「寝ていた方がいいんじゃないか」
「魚を見たら治った」
「さっき治癒の眼でも無理だと言ってたよな」
光留と蓮も竿を借りる。
四人が甲板へ並んだ。
最初に魚を釣り上げたのは、蓮だった。
「どうしてだ!」
伊織が叫ぶ。
「糸の動きを見ていただけだ」
蓮が二匹目の餌をつける。
続いて、光留の竿にも小さな魚がかかった。
岳の竿には大きな引きが来た。
太い竿が大きくしなる。
「お兄ちゃん、頑張って!」
澪が応援する。
岳が力任せに竿を引いた。
巨大な魚が海面から姿を現す。
だが、魚は空中で大きく身体をひねった。
糸が切れる。
魚は岳へ海水を浴びせ、海の中へ逃げていった。
岳は、濡れたまま動かなかった。
「今のは竿が悪い」
「力を入れすぎたんだろ」
伊織が笑った直後、船が揺れた。
伊織は再び口元を押さえた。
「やっぱり駄目だ……」
結局、その日の夕食になったのは蓮と光留が釣った魚だった。
伊織が火の眼で焼き、澪が水で塩を洗い流す。
岳は切れた釣り糸を直しながら、次は必ず釣ると呟いていた。
◇
二日目の夕方。
光留と澪は、船首に並んで座っていた。
海は夕日の色に染まり、遠くまで赤く輝いている。
澪の手には、光留の父の刀があった。
鞘からは抜かず、鍔の近くへ刻まれた印を見つめている。
「この刀、お父さんが作ったの?」
「ああ」
「光留さんのために?」
「多分な。でも、初めて持ったときは重すぎて、まともに振れなかった」
「今は普通に使ってる」
「少しは成長したってことだ」
澪は刀を光留へ返した。
「会えるといいね」
光留は、刻印へ親指を重ねる。
「まだ、父さんが鉱山の島にいると決まったわけじゃない」
「それでも、手がかりは見つかったんでしょ」
「ああ」
「だったら、確かめに行かないと」
澪が笑う。
「私も手伝うよ」
「澪は、どうして一緒に来ようと思ったんだ」
「前にも言ったよ。今度は私も、誰かを守りたいから」
澪は少しだけ視線を落とした。
「それに、船の下にあった檻を見たから」
船倉には、大きな鉄の檻が幾つも残されていた。
曲がった鉄格子。
鎖でつながれた首輪。
床へ深く刻まれた爪の跡。
この船で、何頭もの眼獣が運ばれていた証拠だった。
「帳簿に書かれていた十二頭は、鉱山の島へ送られてる」
澪が続ける。
「まだ生きてるなら、助けたい」
「危険な眼獣かもしれないぞ」
「分かってる。でも、好きで捕まったわけじゃない」
光留は頷いた。
「俺も同じだ」
「俺もだぞ」
後ろから岳の声がした。
両手には、毛布が抱えられている。
「夜は冷える。中へ戻れ」
「まだ寒くないよ」
「暗くなってからでは遅い」
「お兄ちゃんは心配しすぎ」
「普通だ」
岳が澪の肩へ毛布をかける。
その毛布は、身体がすべて隠れるほど大きかった。
「前が見えない」
「風が入らない方がいい」
毛布の中から澪の声がする。
光留が笑いをこらえていると、見張り台から船乗りの声が響いた。
「島が見えたぞ!」
全員が船首へ集まった。
水平線の向こうに、大きな島が浮かんでいる。
幾つもの山が連なり、その斜面は階段のように削られていた。
山の間から、黒い煙が何本も空へ昇っている。
海沿いには高い煙突と、荷を運ぶための巨大な塔が並んでいた。
夕日の中でも、島の一部は赤く光っている。
「あれが鉱山の島か」
伊織が言った。
「帳簿の地形と一致している」
蓮が海図を閉じる。
光留は腰の刀へ手を添えた。
父へつながる刻印。
風雅の行方。
密輸された眼獣。
それらすべてが、あの島にあるかもしれない。
「明日の朝には港へ着く」
船長が告げた。
海はまだ穏やかだった。
五人を乗せた船は、黒い煙を吐く島へ向かって進んでいった。
◇
同じころ。
鉱山の島の反対側にある、使われなくなった桟橋。
風雅は一人、黒い海を見つめていた。
周囲を覆っていた嵐が、少しずつ弱まっていく。
右肩から血が流れている。
呼吸も乱れ、指先は小さく震えていた。
それでも風雅の口元には、薄い笑みが浮かんでいる。
「あいつら、成長してるな」
風雅の口から、静かな声が漏れた。
「初めて会ったときとは、まるで別人だ」
声は風雅のものだった。
だが、その笑みは風雅のものではない。
風雅の右手が、自分の喉をつかもうとする。
途中で動きが止まった。
指が意思に逆らうように開き、ゆっくりと自分の頬へ触れる。
「この身体も、もう少ししたら取り替えるかな」
風雅の首筋には、黒い筋が浮かんでいた。
「嵐の眼は便利だが、器の方が保たなくなってきた」
風雅の眼の中で、瞳とは別の何かが動く。
細い根のような模様が白眼へ広がり、すぐに消えた。
以前は、一人の身体へしがみつくだけで精一杯だった。
宿主の意識を押さえ込み、その眼を使う。
それだけで、すべての力を使い果たしていた。
だが、今は違う。
この身体を動かしたまま、さらに別の二人へ根を伸ばせる。
「寄生の眼も、随分育ってきたな」
風雅の口元が、さらに大きく歪む。
「今なら、三人まで同時に使える」
光留。
伊織。
蓮。
岳。
そして、二つの眼を持つ澪。
五人の姿が、風雅の記憶の中に浮かんだ。
「次の身体は、あいつらの中から選ぶのも悪くない」
風雅の背後で、風が渦を巻く。
「一人だけに決める必要も、もうないからな」
風が桟橋を覆った。
嵐が消えたあと、そこに風雅の姿は残っていなかった。
黒い海の向こうから、一隻の船が鉱山の島へ近づいていた。




