第四十五話 八呼吸
「終相――皆既月蝕」
銀の輪が、闇に沈んだ月を覆った。
広間から、すべての光が消える。
光留の右眼から黒が抜けた。
伊織の刀を覆っていた炎が消え、蓮の血刃が赤い雫へ戻る。
岳の鎧と大盾が崩れ、澪が操っていた水も床へ落ちた。
鳴神の身体から雷が消える。
眼食者の五つの眼も、同時に閉じた。
広間を押し潰していた圧が消失する。
月の眼の忍へ伸ばされていた右手が、わずかに止まった。
「一つ」
静かな声が響く。
月の眼の忍は半歩だけ身体をずらした。
眼食者の指先が、顔のすぐ横を通り過ぎる。
抜かれた短刀が、右腕を浅く裂いた。
眼食者が振り返る。
そこへ鳴神の刀が迫った。
雷はない。
それでも、振り下ろされた刃は速かった。
眼食者は左腕を上げて受ける。
刃が皮膚を切り、血が飛んだ。
眼力で守られていない身体には、刀が届く。
「二つ」
岳が床を蹴った。
鎧も、盾も、剣もない。
何もまとわない身体で、眼食者の腰へ組みつく。
「今だ!」
眼食者の足が止まった。
伊織が右から斬り込む。
左からは、蓮が忍具袋から抜いた苦無を突き出した。
眼食者は伊織の刀を手のひらで外し、蓮の手首をつかむ。
その背後へ、光留が入った。
父の刀は消えていない。
眼力で作られたものではない、本物の刀だった。
銀の眼装へ刃を振り下ろす。
眼食者が岳を振りほどき、身をひねった。
切っ先が眼装の表面をかすめる。
銀色の火花が散った。
「三つ」
その瞬間。
眼食者の右手の甲が、内側から膨らんだ。
閉じていた線が、無理やり開いていく。
皮膚が裂け、血に濡れた眼が現れた。
月の眼の忍の表情が、初めて変わる。
「月蝕の中で、眼を開いたか」
「私は、幾つの眼を喰らったと思っている」
右手の甲から、衝撃が弾けた。
光留たちの身体がまとめて吹き飛ぶ。
岳が背中から石床へ落ちた。
伊織と蓮も、砕けた石の上を転がる。
光留は父の刀を床へ突き立て、どうにか身体を止めた。
月の眼の忍も、石柱へ背中を打ちつける。
皆既月蝕は破られていない。
開いているのは、右手の甲にある一つだけ。
眼食者は自分の力だけで、封じられた眼をこじ開けていた。
◇
「四つ」
月の眼の忍は、途切れずに数え続ける。
眼食者が短刀を持つ腕をつかもうとした。
その間へ、鳴神が入る。
眼食者の右拳と、刀の腹がぶつかった。
衝撃の眼が光る。
鳴神の身体が押し返された。
靴底が長く床を削る。
雷神天臨を失った身体では、受けきれない。
それでも、刀は手放さなかった。
「光留!」
鳴神が叫ぶ。
「眼装を見ろ!」
光留は眼食者の左腕へ視線を向けた。
右手の眼が力を放った瞬間、銀の腕輪に入ったひびが大きく揺れていた。
眼装も、皆既月蝕の封印へ抗っている。
無理に眼を使うたび、ひびが深くなっていた。
「あいつが眼を使うほど、腕輪が壊れる!」
伊織が立ち上がる。
「なら、もう一度使わせるぞ」
「五つ」
伊織が眼食者へ走った。
炎は出ない。
両手で握った刀を、右肩へ振り下ろす。
眼食者が右手を向けた。
手の甲の眼が光る。
放たれる直前、蓮が横から腕へ飛びついた。
狙いがずれる。
衝撃は伊織の肩をかすめ、背後の石柱を砕いた。
伊織は倒れない。
眼食者の懐へ踏み込み、刀の柄頭を胸へ叩き込んだ。
眼食者が一歩下がる。
銀の腕輪から、乾いた音が響いた。
ひびが、反対側まで伸びる。
「六つ」
岳が再び組みついた。
今度は左腕を両手で抱え込む。
「離さないぞ!」
眼食者が肘を振り上げる。
蓮の苦無が、その袖を石床へ縫い止めた。
眼食者の動きが一瞬止まる。
鳴神が踏み込んだ。
刃が右手の甲を横切る。
開いていた眼から血が噴き出した。
衝撃の光が揺らぐ。
「こんな封印で……!」
眼食者が右手を握り込む。
傷ついた瞳が、もう一度開いた。
至近距離で衝撃が放たれる。
岳と蓮が弾き飛ばされた。
鳴神も片膝をつく。
眼食者の左腕が自由になる。
腕輪は、辛うじて形を保っていた。
「七つ」
眼食者が月の眼の忍へ迫った。
皆既月蝕を終わらせるため、その眼へ右手を伸ばす。
月の眼の忍は短刀を上げた。
だが、先ほど石柱へ打ちつけた右腕に力が入らない。
短刀が弾き落とされた。
眼食者の指が、顔へ迫る。
その手首を、二本の刀が挟んだ。
光留と伊織だった。
二人は刃の腹を重ね、眼食者の右腕を押し返す。
「お前の眼は、もう終わりだ!」
光留が叫ぶ。
「終わるのは、お前たちだ」
右手の甲の眼が開く。
血を流しながら、最後の衝撃を放とうとする。
鳴神が背後から眼食者の右腕をつかんだ。
「光留、左だ!」
岳が、もう一度左腕へしがみつく。
銀の眼装が、光留の正面へさらされた。
光留は父の刀を振り上げた。
黒の力は使えない。
それでも、眼装には皆で広げたひびがある。
「八つ」
刀が振り下ろされた。
刃は、銀の輪を走るひびへ正確に入った。
高い音が、広間を貫く。
眼装が二つに割れた。
◇
銀の欠片が、石床へ落ちた。
同時に、闇に沈んでいた月の輪が消える。
皆既月蝕が終わった。
光留の右眼へ、黒が戻る。
伊織の刀に火がともり、鳴神の身体にも小さな雷が走った。
月の眼の忍は、急に身体を傾けた。
鳴神が片腕で受け止める。
「見えてないな」
「一時的なものだ」
「なら、今は休んでろ」
眼食者の身体で、五つの眼が一斉に開いた。
だが、それらをつないでいた眼装はもうない。
左前腕から圧が漏れる。
首筋の反発が、その力を押し返す。
右手の衝撃が身体の内側で弾け、額の増幅がすべてを強める。
胸元の再生は、どの傷から塞げばいいのか定まらない。
五つの眼力が、互いを拒み始めた。
「私の……眼が……!」
眼食者の膝が落ちる。
それでも、床へ落ちた眼装へ手を伸ばした。
光留がその前へ立つ。
父の刀へ、黒を通した。
「それは、お前の眼じゃない」
黒刀が、眼食者の左腕へ触れる。
身体からあふれていた眼力が、黒へ吸い込まれていく。
額の眼が閉じた。
続いて、首筋。
右手、左前腕、胸元。
五つの眼から、光が消えた。
眼食者の身体が、石床へ倒れる。
御影がすぐに近づき、首元へ指を当てた。
「生きている。だが、もう眼力は巡っていない」
騎士たちが眼食者の両腕を取り、鎖を巻きつける。
眼を喰らう者は、ついに動かなくなった。
◇
風が鳴った。
石柱の陰にいた風雅の眼へ、青い光が戻っている。
嵐が身体を包み始めた。
「風雅……」
捕らえられた眼食者が、かすかに顔を上げた。
「行け」
風雅の表情が歪む。
「ですが――」
「これは命令だ」
御影が刀を向けた。
「逃がすな!」
刃眼隊の隊士たちが走る。
風雅が両手を広げた。
「嵐門!」
巨大な風が、広間を横切った。
隊士たちの身体が押し戻される。
光留は黒縛を伸ばした。
黒い縄が風雅の足元へ迫る。
だが、触れる直前に身体が嵐へ溶けた。
風が石柱の間を抜け、開いた石門へ向かう。
「必ず、戻ります」
声だけが、遠ざかっていく。
鳴神が追おうとした。
足を踏み出した瞬間、雷神天臨の反動が戻り、膝が揺れる。
「今は追うな」
月の眼の忍が、鳴神の腕をつかんだ。
「眼食者を確実に押さえる方が先だ」
鳴神は短く息を吐き、刀を下ろした。
広間に残っていた風が、ゆっくりと止まる。
逃げたのは、風雅一人だけだった。
砕けた銀の眼装と、眼を失った眼食者は、光留たちの前に残されていた。




