第四十一話 眼を喰らう者
「ようやく来たか」
乾いた声が、石柱の間を反響した。
伊織が刀の炎を大きくする。
照らし出された広間の奥に、一人の男が立っていた。
痩せた身体に、灰色の長衣。色の抜けた長い髪が、肩から胸へ垂れている。
武器はない。
構えてすらいない。
男は祭壇の前に立ったまま、光留たちを眺めていた。
「黒の眼。そして、水と治癒を宿す二眼持ち」
その視線が、光留から澪へ移る。
「待っていたぞ」
岳が澪の前へ出た。
右手に幅広の剣を、左腕に大盾を作り出す。眼力の鎧が肩と胸を覆った。
「こいつが、眼食者か」
男の横に、別の人影が降り立った。
雨宮風雅だった。
裂けた衣服を嵐が揺らしている。その右手には、銀色の腕輪が握られていた。
光留の眼が細くなる。
「俺の眼装……」
風雅は祭壇の前へ片膝をついた。
「お持ちしました」
眼食者は腕輪を受け取った。
一眼級の眼装。
本来なら、闘技大会の優勝者へ与えられるはずだったもの。
それが、眼食者の左腕にはめられた。
銀の輪が縮まり、皮膚へ食い込む。
眼食者の身体が、わずかに震えた。
腕輪から伸びた光が、血管のように腕を這い、肩を通って首へ昇っていく。
長衣の下で、幾つもの膨らみが動いた。
やがて左の前腕に、閉じた眼のような線が浮かび上がる。
「これが、一眼級の眼装か」
眼食者は左手を握った。
広間の空気が、低く鳴った。
それだけで、光留の右眼が痛んだ。
「風雅。下がっていろ」
「しかし――」
「新しい器を試す」
風雅は口を閉じ、石柱の陰へ退いた。
眼食者は一度も足を動かしていない。
岳が剣を消した。
代わりに、両手で握る大きな戦鎚が生まれる。
「澪をさらったのは、お前か」
「命じたのは私だ」
眼食者はあっさりと認めた。
「お前たち兄妹が闘技場へ来たのも、予定どおりだった」
岳の鎧が厚みを増した。
「それだけ聞ければ十分だ!」
床を蹴る。
重装の身体が、一直線に眼食者へ迫った。
振り上げられた戦鎚が、眼力をまとって膨らんでいく。
眼食者の左前腕で、最初の眼が開いた。
黄色く濁った瞳。
視線が岳を捉える。
次の瞬間、岳の身体が床へ落ちた。
「ぐっ……!」
膝が石へめり込む。
振り上げた戦鎚は、見えない巨岩を載せられたように下がらない。
鎧が軋み、大盾の表面へ亀裂が走った。
「お兄ちゃん!」
「来るな!」
岳は歯を食いしばり、脚へ眼力を送り込んだ。
片膝を床から引き抜く。
さらに一歩。
眼食者へ近づくたび、身体へかかる重さが増した。
眼食者が人差し指をわずかに下げる。
戦鎚が岳の手から落ちた。
床へぶつかる前に、眼力の武器が砕け散る。
続いて、岳の鎧が肩から押し潰された。
「岳!」
光留が父の刀へ黒を通した。
「三式・黒縛!」
黒い縄が床を走る。
伊織がその上を跳び越え、炎をまとった刀を振り抜いた。
「炎!」
右から炎。
左からは、蓮が放った細い血の刃が迫る。
黒縛が足元へ届く直前、眼食者の首筋に二つ目の眼が開いた。
透明な瞳だった。
空気が膨らんだ。
黒い縄が床から剝がれる。
炎も血刃も、眼食者の身体へ届く寸前で向きを変えた。
「戻るぞ!」
蓮の声と同時に、三つの攻撃が逆流した。
光留は黒刀を立てる。
伊織は自分の炎を斬り、蓮は血刃を解いた。
防ぎ切れなかった衝撃が、三人をまとめて吹き飛ばす。
光留の背中が石柱へ迫った。
その間へ、水が流れ込む。
厚い水の塊が背中を受け止め、衝撃を散らした。
伊織と蓮の後ろにも、水の壁が立っている。
澪の右眼が、青く光っていた。
「止めた……!」
だが、澪の声には苦しさが混じっていた。
三人を受け止めた水が、床へ落ちる。
眼食者が初めて、わずかに口元を緩めた。
「水を三つに分け、離れた者を守る。それだけではないのだろう」
澪の左眼を見る。
「傷を負えば、もう一つの眼が開く」
澪は一歩下がった。
岳が潰れかけた大盾を床へ突き立て、妹との間を塞ぐ。
「澪を見るな」
「水と治癒。異なる二つの眼力が、一つの身体で拒み合わずに存在している」
眼食者は岳の言葉を無視した。
「私はこれまで、幾つもの眼を喰らった。だが、眼は増えるほど互いを拒む。強い眼ほど、同じ器の中にある別の眼を押し出そうとする」
眼装へ光が集まる。
左前腕の眼が、さらに大きく開いた。
「この眼装は器を広げる。だが、それだけでは足りない」
今度は、光留へ視線が向いた。
「お前の黒は、眼力を吸い、消す。眼同士の拒絶さえ消せるなら、器に限界はなくなる」
光留は刀の柄を握り直した。
「そのために、俺と澪を待っていたのか」
「お前の眼で拒絶を消し、その娘の身体から共存の仕組みを得る」
眼食者が左手を伸ばした。
「私は、すべての眼を宿す」
澪の身体が前へ引かれた。
「きゃっ――!」
岳が腕をつかむ。
大盾を床へ深く突き立てても、二人の足が少しずつ滑った。
「澪は渡さない!」
光留は低く身を沈めた。
眼食者の意識は、澪へ向いている。
右眼から、残る力を父の刀へ注いだ。
「五式・黒霧!」
黒い霧が床を這う。
眼食者の視界を覆うためではない。
自分の姿を隠し、近づく一瞬を作るため。
光留は霧の中を駆けた。
眼食者の左前腕へ、黒刀を振り下ろす。
刃が、開いていた眼へ触れた。
黄色い瞳が揺れる。
岳と澪を引いていた力が消えた。
二人の身体が床へ倒れる。
「触れた……!」
伊織が立ち上がる。
黒刀に触れた眼が、端から崩れ始めていた。
眼食者は自分の腕を見下ろした。
「やはり」
驚きではない。
声に混じっていたのは、喜びだった。
「その黒の眼が必要だ」
眼装が強く輝く。
銀の輪から新しい眼力が流れ込み、崩れていた瞳を満たしていく。
閉じかけた眼が、再び開いた。
「そんな……」
光留が刀を引くより早く、眼食者の指が刀身へ触れた。
ただ、それだけだった。
黒刀を通して、巨大な衝撃が腕へ突き抜けた。
光留の身体が宙へ浮く。
黒霧を突き破り、広間の入口まで飛ばされた。
父の刀が手から離れ、石床を滑った。
「光留!」
伊織が駆け寄ろうとする。
眼食者の首筋にある眼が、伊織を見た。
空気が弾ける。
伊織は刀で受けたが、両腕ごと押し込まれ、床を転がった。
蓮の血刃も、届く前に砕けた。
岳が新しい鎧を作ろうとする。
形になる前に重圧がかかり、肩から崩れ落ちた。
五人が攻撃を重ねても、眼食者は動かない。
一歩も。
光留は父の刀へ手を伸ばした。
指先が、柄へ届かない。
眼食者が澪へ向け、もう一度手を伸ばす。
その手に触れられれば、連れていかれる。
岳は立ち上がろうとしたが、潰れた鎧が身体を支えなかった。
「澪……!」
白い光が、広間を裂いた。
直後に、雷鳴が轟く。
眼食者と澪の間へ、太い雷が落ちた。
石床が割れ、破片が天井近くまで吹き上がる。
入口側の石門を、二本目の雷が貫いた。
崩れた岩の向こうから、鳴神宗玄が歩いてくる。
刀身を、青白い雷が走っていた。
「子供に手を伸ばすとは、随分と見下げた男じゃのう」
その後ろに、御影宗十郎。
さらに刃眼隊の隊士と、盾を構えた騎士たちが続く。
豪志と智瀬の監視に必要な人数だけを地上へ残し、戦える者たちが集まっていた。
「遅くなった」
御影が光留の前へ立ち、父の刀を拾って渡した。
「地上は押さえた。ここからは全員でやる」
光留は柄を握った。
右腕が痺れている。
それでも、立ち上がった。
伊織と蓮も左右へ並ぶ。
岳は澪を背後へ下げ、新しい大盾を作った。
眼食者は、増えた人数を見回した。
「これで全員か」
宗玄が刀を向ける。
眼食者の横で、風雅が嵐をまとった。
だが、眼食者が手で制する。
「手を出すな」
「しかし、あれだけの人数を――」
「眼装の具合を見るには、ちょうどいい」
風雅の表情が強張った。
御影の眼が光る。
綻びの眼。
眼食者の身体を巡る眼力の流れが、細い線となって見える。
左の腕輪。
肩。
首筋の眼。
幾つもの流れが交わり、そのたびに小さな乱れが生まれていた。
「腕輪の内側に綻びがある」
御影が言った。
「首と右肩にも一瞬、流れが薄くなる。だが、場所が動いている」
「ならば、すべて同時に叩く」
宗玄が刀を掲げた。
騎士たちが盾を組み、前へ出る。
その隙間から、刃眼隊の隊士たちが各々の眼力を集めた。
風の刃。
岩の槍。
火の矢。
幾つもの力が、暗い広間を照らしていく。
「光留、足を止めろ!」
宗玄の声が飛ぶ。
「分かった!」
光留は左手を床へ向けた。
「三式・黒縛!」
何本もの黒い縄が、眼食者の両脚と左腕へ絡みつく。
続けて黒霧を広げ、身体を包んだ。
眼力を吸い上げる黒が、眼食者の周囲を埋めていく。
蓮が腕の傷から流れた血を集めた。
「血刃!」
赤い刃が、黒霧の外側を囲む。
伊織の刀へ、炎が幾重にも重なった。
「轟炎!」
巨大な炎の渦が放たれる。
岳は大盾を消し、両腕に戦鎚を作った。
澪を騎士たちへ預け、眼力を脚へ流す。
「うおおおっ!」
重い一撃が、黒霧の中心へ振り下ろされた。
同時に、隊士たちの眼力が殺到する。
風が裂き、岩が突き刺さり、光が貫く。
御影の眼が、眼装の綻びを捉えた。
「今だ、宗玄!」
「雷光――天墜!」
宗玄の刀から、天井を覆うほどの雷が落ちた。
すべての攻撃が、一点で重なる。
音が消えた。
一瞬遅れて、広間そのものが跳ね上がった。
石柱が折れる。
床が波打ち、壁へ刻まれていた眼が次々と崩れ落ちた。
爆風が入口まで押し寄せる。
騎士たちは盾を重ね、澪を守った。
光留も黒壁を作ったが、衝撃を受けた表面が大きく歪んだ。
長い轟音が、ようやく遠ざかる。
誰も動かなかった。
広間の中央には、土煙が立ち込めている。
「これで……」
伊織が肩で息をする。
御影は眼を閉じなかった。
土煙の向こうへ、綻びの眼を向け続けている。
その表情が、ゆっくりと変わった。
「まだだ」
煙の中で、五つの光がともった。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
離れた位置で、異なる色の瞳が開いていく。
土煙が、内側から押し退けられた。
眼食者が立っていた。
長衣の肩が少し裂けている。
それだけだった。
血は流れていない。
足元の石だけが円形に残り、周囲は深く抉れている。
黒縛も、黒霧も消えていた。
眼食者は、最初と同じ場所に立っていた。
左の前腕。
右の手の甲。
首筋。
額。
そして、裂けた長衣の下の胸元。
五つの眼が、同時に開いている。
それぞれの瞳から伸びた光が、左腕の眼装へつながっていた。
御影が息を呑む。
「綻びが……ない」
一つの流れが乱れれば、別の眼力が埋める。
一つを弱めれば、残る四つが支える。
五つの眼が互いの欠けた場所を覆い、弱点そのものを消していた。
「一眼級の眼装で、五つまで同時に開けるか」
眼食者が自分の左腕を眺めた。
「悪くない」
五つの眼が、光留たちへ向いた。
眼力が放たれる。
技ではなかった。
ただ、五つの眼を開いただけだった。
それだけで、広間の全員が床へ押しつけられた。
隊士たちが倒れる。
騎士の盾が石床へぶつかり、次々と亀裂が入った。
伊織の刀から炎が消える。
蓮の血刃は形を保てず、赤い滴へ戻った。
岳が澪をかばうように大盾を出したが、その場で押し潰された。
澪の水も、床から一滴たりとも浮かばない。
光留は黒刀を杖にして耐えた。
両膝が震える。
刃を床へ突き立てても、身体が少しずつ沈んでいく。
宗玄だけが立っていた。
全身へ雷をまとい、刀を床へ刺して眼圧に抗っている。
眼食者の額の眼が、宗玄を見た。
圧力が増した。
石床が砕ける。
宗玄の片膝が、初めて地面へついた。
「団長……」
騎士の誰かが、掠れた声を漏らした。
眼食者は、全員を見下ろした。
「揃ったか」
五つの瞳が、歓喜するように細められる。
「ならば、まとめて喰らってやろう」
眼を喰らう者は、まだ一歩も動いていなかった。




