第三十八話 嵐
三日後。
光留たちは、再びコロシアムへ来ていた。
試合のときとは違い、向かったのは砂に囲まれた闘技場ではない。
観客席のさらに上にある、大広間だった。
高い天井を、幾本もの白い柱が支えている。壁際には大会の旗が並び、開け放たれた窓から乾いた風が入ってきていた。
正面には、赤い布をかけられた台が置かれている。
あの下に、優勝賞品がある。
光留は右手を一度だけ握った。
包帯は外れていたが、指を深く曲げるとまだ痛む。胸と脇腹にも、鈍い痛みが残っていた。
隣の伊織も、歩くたびに腹をかばっている。
岳の右肩には、衣服の下から包帯の形が浮いていた。
「三人とも、立ってるだけで精いっぱいに見えるな」
伊織が小声で言った。
「お前が一番顔に出てるぞ」
光留が返す。
「俺は堂々としてるんだよ」
「腹を押さえながらか」
岳が言うと、伊織は口を閉じた。
ほんの少しだけ、三人の肩から力が抜けた。
だが、光留はすぐに広間の周囲へ眼を戻した。
入口に四人。
正面の台の左右に二人ずつ。
窓の外にも、外套を着た警備の姿が見える。
地下では、すでに蓮と御影たちが古い水路へ向かっている。
鳴神宗玄の率いる騎士団は、コロシアムの外で待機していた。
騎士団は、地下から合図が届くまで動かない。
光留たちの役目も、変わっていなかった。
受賞者としてここに立ち、大会側へ疑いを持っていることを悟らせない。
「始まるぞ」
岳が言った。
広間の扉が閉じた。
鐘の音が、一度だけ響いた。
◇
式は、決勝戦の振り返りから始まった。
司会役の男が光留と伊織の名を読み上げると、集まった者たちから拍手が起こる。
続いて、荒垣岳の名が呼ばれた。
三人が台の前へ進む。
光留は、向けられる眼を感じていた。
試合を見ていた商人。
町の有力者らしい男たち。
大会の印を胸につけた役人。
その中に、御影や宗玄の姿はない。
鐘が、二度目の音を鳴らした。
司会役が赤い布へ手をかける。
「今大会の優勝賞品を、お見せしよう」
布が取り払われた。
透明な箱の中に、一つの腕輪が置かれていた。
黒に近い青色の金属。
表面には、細い銀の筋が幾重にも走っている。
誰も触れていないのに、その筋の中を淡い光がゆっくりと巡っていた。
光留は、右眼を細めた。
腕輪の内側に、眼力が流れている。
人の身体から放たれたものとは違う。
道具の中に留まり、決められた道を何度も循環していた。
「眼装とは、眼力を内部へ流し、その力に一つの役目を持たせた道具の総称だ」
司会役の声が、静まった広間へ響いた。
「その役目は一つではない。刃の威力を高めるもの。身を守るもの。眼力を蓄えるもの。離れた眼力を探るもの。そして、使い手の眼を支えるものもある」
男が透明な箱を開いた。
「この腕輪は、その中でも器の補強を担う眼装だ。使い手の眼力を受け入れ、内側を巡る眼力とともに流れを整える。強い術を使った際、身体へかかる負担を軽くすることができる」
広間の奥で、誰かが息を呑んだ。
「ただし、眼そのものを一眼級へ変える道具ではない。これは、一眼級の力にも耐え得る眼装という意味だ」
一眼級。
その言葉だけで、腕輪へ向けられる視線が変わった。
司会役は箱から腕輪を取り出し、光留と伊織へ示した。
「今大会を制した二人へ、これを授ける」
伊織が光留を見た。
「お前がつけろ」
「でも、二人で勝った賞品だ」
「六式を一回撃っただけで、腕が動かなくなったのはどっちだ」
「それは……」
「必要な方が使えばいい。俺が必要になったら、そのとき貸せ」
伊織はそう言って、光留の背中を軽く押した。
光留は司会役から腕輪を受け取った。
見た目よりも軽い。
左の手首へ近づけると、輪がわずかに広がった。
腕を通したあと、自ら狭まり、手首へ合う大きさで止まる。
淡い光が一周した。
腕輪の内側を流れていた眼力が、皮膚を通して身体へ触れた。
押し込んでくる力ではない。
乱れていた呼吸へ、外から静かな流れを重ねられたようだった。
右眼の奥に残っていた熱が、わずかに引く。
「どうだ?」
伊織が聞いた。
「眼力が流れてる。腕輪の中をずっと巡ってるんだ」
光留は左手を開いた。
「俺の眼力も、その流れに沿ってる。さっきより身体が軽い」
岳が腕輪を見る。
「それが、眼装……」
鐘が、三度目の音を鳴らした。
光留は顔を上げた。
決めていた時刻だった。
この鐘を合図に、蓮たちが古い水路へ入る。
表彰式が続く中、光留は腕輪から伝わる静かな流れを感じながら、何も知らない受賞者の顔を保った。
◇
式が終わり、広間の扉が開いた。
招待客たちが、順に外へ出ていく。
光留たちも歩きだそうとしたところで、大会の印をつけた男が近づいてきた。
「葛城光留殿、橘伊織殿、荒垣岳殿」
三人が足を止める。
「大会責任者が、お会いしたいと申しております」
光留は伊織と眼を合わせた。
「俺たち三人に?」
「はい。今大会で特に活躍した方々から、直接話を聞きたいと」
男の笑みは崩れなかった。
「賞品についての説明も、改めて責任者からさせていただきます」
岳が、わずかに顎を引いた。
妹を返すと約束した者が、大会の裏にいる。
その上に立つ人間が、今から会う責任者かもしれない。
「分かりました」
光留が答えた。
「案内してください」
◇
男は広間の脇にある細い廊下へ入った。
先ほどまで聞こえていた話し声が、扉を一つ越えるたびに遠ざかっていく。
窓はない。
壁には灯りが等間隔に並び、その間に閉じた扉が続いていた。
案内役の足音だけが、前から響く。
光留は左手首へ眼を落とした。
腕輪の光は、変わらず細い筋の中を巡っている。
伊織が、光留の隣へ半歩寄った。
「人が減ったな」
「ああ」
光留は短く答えた。
後ろを歩く岳が、壁の角へ眼を向ける。
「この先の階段だ」
声は、案内役へ届かないほど小さかった。
「妹に会わされたとき、ここを通った」
廊下の突き当たりに、下へ続く階段が見えた。
だが、案内役はその手前で左へ曲がった。
一番奥の扉を開く。
「こちらです」
中は、広い応接室だった。
長い机と椅子が並んでいる。
責任者の姿はない。
光留は部屋へ一歩入った。
「まだ来てないんですか」
返事はなかった。
背後で、扉が閉じる。
同時に、空気を切る音がした。
「後ろだ!」
岳の声。
光留が振り返るより早く、大きな盾が三人の背後に現れた。
眼力で作られた盾へ、鉄の棒が叩きつけられる。
重い音が、部屋を揺らした。
盾の向こうに、灰色の布で顔を隠した男たちがいた。
一人ではない。
廊下に四人。
部屋の左右の扉からも、三人ずつ入ってくる。
手にしているのは、刃のない棒と縄だった。
殺すためではない。
捕らえるための道具。
「最初から、これが目的か」
伊織が刀を抜いた。
刃に、赤い火がともる。
光留も父の刀を抜き、右眼から黒を通した。
「活躍した奴を呼び出して、捕まえるつもりだったんだ」
大会のあと、姿を消した選手たち。
治療へ運ばれたまま、戻らなかった者たち。
自分たちも、同じ場所へ送るつもりだった。
「岳、背中を頼む!」
「任せろ!」
盾が横へ動いた。
その陰から、伊織が刀を振るう。
「炎!」
広がった火が、廊下から入ってきた男たちを押し返した。
光留は右側へ踏み込む。
鉄の棒が、肩へ振り下ろされた。
黒刀で受ける。
触れた場所から、棒を覆っていた眼力が削れた。
男の握りが緩む。
光留は空いた左手を向けた。
「三式・黒縛!」
黒い縄が男の腕へ巻きつく。
そのまま引き、隣から迫っていた一人へぶつけた。
二人が床へ倒れる。
左手首の腕輪が光った。
黒刀を残しながら黒縛を保っても、眼力の流れが乱れない。
傷の残る身体へかかる重さも、これまでより小さかった。
だが、敵は止まらない。
倒れた者を越え、次の男が縄を投げる。
輪が光留の刀へ絡みついた。
横から、別の棒が脇腹を狙う。
光留は刀を引きながら、左足へ内纏を流した。
身体を沈める。
棒が頭上を通った。
黒をまとった柄尻を、男の腹へ打ち込む。
男が息を詰まらせた。
「右から来るぞ!」
伊織の声。
岳の右手に、幅広の剣が生まれた。
振り下ろされた棒を、剣の腹で受ける。
肩の傷が痛んだのか、岳の顔が歪んだ。
それでも足を止めず、盾で相手を押し返す。
「妹を返してもらうまで、倒れるわけにはいかない!」
伊織がその脇を抜けた。
刀の火を細く絞り、敵の持つ縄だけを焼き切る。
「だったら無理するな! また肩を開くぞ!」
「お前も腹を押さえてるだろ!」
「俺は堂々としてるんだよ!」
伊織が刀の峰で一人を打ち倒した。
◇
光留は、頬に冷たいものを感じた。
風だった。
窓のない部屋で、細い風が流れている。
最初は、伊織の炎が動かした空気だと思った。
だが、違う。
炎は前へ伸びているのに、風は光留の周りを円を描くように巡っていた。
床の砂埃が、足元で渦を作る。
「伊織、火を止めろ!」
伊織が刀を引いた。
炎が消えても、風は止まらなかった。
むしろ、強くなる。
光留の外套が持ち上がった。
左腕が、横へ引かれる。
「何だ、これ……!」
腕輪の銀の筋が、強く光った。
手首を回る風が細くなり、留め具の隙間へ入り込む。
腕輪が広がった。
光留は右手を伸ばした。
指先が触れる直前、風が弾ける。
身体が後ろへ押された。
腕輪が左手から抜け、宙へ飛ぶ。
「眼装が!」
伊織が手を伸ばす。
腕輪はその上を越え、部屋の入口へ吸い寄せられていった。
光留は左手から黒い爪を伸ばした。
届く。
そう思った瞬間、横から吹いた風が黒爪の軌道を外した。
腕輪が、一人の男の手へ収まった。
先ほどの案内役ではない。
紺色の長い外套を着た、細身の男だった。
後ろへ流した髪が、風もない場所でゆっくりと揺れている。
右眼の中では、灰色の光が渦を巻いていた。
男は奪った腕輪を指先にかけ、光留たちを見た。
「返せ!」
光留が黒刀を向ける。
男は動かなかった。
「責任者に会いたいのだろう」
静かな声だった。
「なら、名乗っておこう」
外套の裾が持ち上がる。
男を中心に風が巡り、床の砂埃が輪になった。
「雨宮風雅。この大会の責任者だ」
灰色の眼が、さらに強く光る。
「そして、嵐の眼を持つ者でもある」
◇
風雅が腕輪を握る。
内側を巡っていた淡い光が、指の隙間から漏れた。
「表で渡し、裏で取り戻す。それが、この大会の終わり方か」
伊織が刀を構えた。
「優れた眼を持つ者は、賞品に釣られて最後まで残る」
風雅は悪びれずに答えた。
「最後まで残れなかった者も、役に立つ眼なら拾い上げる。呼び出す理由など、いくらでも作れる」
岳の剣が、音を立てて大きくなった。
「妹はどこだ」
「地下だ」
風雅の眼が岳へ移る。
「お前は、勝てば返すと言われていた。だが、お前は負けた」
岳が踏み込んだ。
剣が横へ振り抜かれる。
風雅は避けなかった。
二人の間で、空気が壁のように膨らんだ。
剣が止まる。
次の瞬間、逆向きの風が爆発した。
岳の大きな身体が、盾ごと後ろへ飛ばされる。
「岳!」
光留は黒壁を立てた。
岳の背中がぶつかる。
壁に亀裂が走ったが、倒れる勢いは止まった。
伊織が前へ出る。
「灼!」
白い火線が走った。
風雅の前で、風が渦を巻く。
火線は細くほどけ、天井へ散った。
火の粉が雨のように落ちる。
「その傷で、よくここまで動ける」
風雅が言った。
「だからこそ、お前たちは選ばれた」
背後で、倒したはずの男たちが立ち上がっていた。
出口は風雅に塞がれている。
左右から、棒と縄が再び迫る。
光留は黒刀を握り直した。
眼装を外された途端、右眼から腕へ流す黒が重くなっていた。
それでも、刀身から黒を抜かなかった。
「俺たちを捕まえて、地下の人たちと一緒に運ぶつもりか」
「その予定だった」
風雅が、わずかに眼を細めた。
「だった?」
部屋の下から、低い音が響いた。
一度。
間を置いて、二度。
そして、三度。
太い水管を叩いた音が、床と壁を伝ってきた。
光留は、その合図を知っていた。
地下の扉へ到達した合図。
蓮たちが、囚われた者たちのいる場所までたどり着いた。
「……始まった」
光留が呟く。
風雅の表情から、初めて笑みが消えた。
◇
地下では、御影が鉄の扉へ手を触れていた。
片眼の奥に、細い光が走る。
扉を支える蝶番。
何度も開閉され、わずかに削れた留め具。
力の逃げる場所が、一本の綻びとして見えていた。
「そこだ」
御影の刀が、短く振られた。
金属の裂ける音。
厚い蝶番が外れ、扉が内側へ傾く。
向こう側で、見張りが声を上げた。
蓮の右眼が赤く染まる。
指先から流れた血が固まり、細い刃を作った。
「血刃」
赤い刃が走る。
見張りの武器が、握る手のすぐ前で切断された。
二番隊の隊士たちが、傾いた扉を押し倒す。
その先には、さらに下へ続く通路があった。
湿った空気。
鉄格子。
奥から聞こえる、大勢の息遣い。
蓮は壁を通る太い水管を、刀の柄で三度叩いた。
地上へ送る合図だった。
「行くぞ」
御影が先頭へ立つ。
「ここから先にいる者を、一人残らず連れ出す」
蓮と二番隊が、その後ろへ続いた。
◇
コロシアムの外で、鳴神宗玄が顔を上げた。
排水口のそばに伏せていた騎士が駆け寄る。
「地下から、三度の合図です」
宗玄は、閉ざされた正門を見た。
門の上で、大会の警備兵たちがこちらに気づき始めている。
「全員、紋章を出せ」
騎士たちが外套を外した。
胸と肩に、騎士団の紋章が現れる。
宗玄の眼に、白い雷が走った。
「コロシアムを封鎖する。地下の者を逃がすな。」
右手が、正門へ向けられる。
空気が震えた。
「雷衝!」
白い雷が、砂の上を一直線に走った。
正門の中央へぶつかる。
轟音。
分厚い門が内側へ弾け、砂煙が噴き上がった。
宗玄が、その中へ踏み込む。
「突入!」
騎士たちが一斉に走りだした。
◇
遠い雷鳴が、上階の部屋まで届いた。
風雅が、閉じた扉の向こうへ眼を向ける。
「騎士団か」
その一瞬だけ、光留から視線が外れた。
「伊織!」
「分かってる!」
炎が、床を横へ走る。
男たちが足を止めた。
岳が立ち上がり、光留たちの前へ盾を置く。
「ここを抜けるぞ」
光留は黒刀を構えた。
風雅の手には、奪われた眼装がある。
その下には、助けを待つ人たちがいる。
どちらも、置いてはいけない。
「眼装も、岳の妹も取り返す」
伊織が刃へ火をともす。
岳の右手に、もう一度大剣が生まれる。
「ああ」
三人が、同時に前へ出た。
地下から、二番隊が。
正門から、騎士団が。
そして内側から、光留たちが。
三つの場所で、戦いが始まった。




