第三十六話 根性
男の拳が、父の刀を横から打った。
光留は柄を握り込もうとした。
だが、六式を放った指に、力が戻りきっていなかった。
手の中で、柄が滑る。
刀が宙を回った。
黒が抜けた刃が日差しを弾き、遠くの砂へ突き刺さる。柄尻の砂硝子が、小さく揺れた。
追いかける暇はなかった。
男の左拳が、腹へ入った。
「ぐっ……!」
外纏の上から、身体の奥まで衝撃が抜ける。
光留は背を丸めた。
口から、息と唾がこぼれた。
続く拳へ、左腕を上げる。
防いだ腕ごと顔を打たれ、視界が白く弾けた。
「光留!」
伊織の刀が、横から入った。
男が上体を引く。
炎をまとった刃が、胸の前を通り過ぎた。
そのわずかな間に、光留は足を踏み直した。
刀は、遠い。
男はもう、次の拳を振り上げている。
光留は、空の右手を握った。
右眼から、黒を通す。
爪も、刃も伸ばさない。
拳だけを、薄く覆った。
◇
男の左拳が来た。
光留は顔を傾けた。
避けきれず、頬が裂ける。
そのまま、右足を前へ置いた。
黒い拳を、男の腹へ叩き込む。
硬い。
鎧がなくても、男の身体には厚い外纏が残っていた。
光留は拳を引かなかった。
触れた場所から、黒を押し流した。
外纏へ食い込ませ、その奥で身体を支える眼力まで、黒を届かせる。
男の腹に、黒い筋が一瞬広がった。
息が漏れる。
身体を固めていた力が、わずかに緩んだ。
それでも、男の拳は止まらなかった。
右拳が、光留の脇腹を打つ。
光留の身体が横へ流れた。
踏ん張った足が、砂を掘る。
「……それで」
男が、血を吐き捨てた。
「倒れるかよ!」
左拳が、光留の胸を打った。
足が地面を離れた。
背中から落ちかけ、光留は片膝をつく。
胸が、動かない。
息を吸おうとしても、喉からかすれた音しか出なかった。
男が、追ってくる。
その前へ、伊織が入った。
「こっちだ!」
刀が斜めに走った。
男の腕をかすめ、血を散らす。
伊織は刃を返した。
男は下がらなかった。
刀が振り切られる前に懐へ入り、伊織の手首をつかんだ。
引きつけられる。
傷ついた男の右腕が、伊織の肘を押さえた。
「離せ……!」
伊織は柄を握り直そうとした。
その手が、腕ごとねじられる。
指が開いた。
刀の炎が消えた。
次の瞬間、柄を握っていたのは、男の左手だった。
「伊織、退け!」
光留が、膝を上げた。
男が奪った刀を引く。
伊織は腹へ外纏を寄せながら、身をひねった。
切っ先が、左の脇腹へ突き立った。
伊織の口が開いた。
声は出なかった。
自分の刀を、見下ろしていた。
男が刃を抜く。
伊織の手が、傷口へ向かった。
そこへ、右の拳が飛んだ。
顔が、横へ振られた。
伊織の膝が崩れる。
砂へ落ちるとき、手は出なかった。
「伊織!」
呼びかけても、返事はなかった。
眼を閉じたまま、動かない。
意識を失っていた。
男が、光留へ刀を向け直す。
光留は、その手元へ飛び込んだ。
黒い拳で、刀を持つ手首を打つ。
男の指が緩んだ。
刀がこぼれ、倒れた伊織のそばへ落ちた。
男は拾わなかった。
空いた手を握り、光留を殴った。
◇
歯が鳴った。
光留の口の中に、血が広がる。
後ろへ傾いた身体を、脚の内纏で支えた。
男の左腕が戻る前に、光留は右拳を振った。
肋の下へ、黒を打ち込む。
殴った場所から、相手の身体へ流し込む。
黒が、男の眼力へ食いついた。
腕を振り上げる動きが、一瞬だけ鈍る。
光留は左でも殴った。
男の顎が、わずかに上がった。
だが、下がらない。
男の右拳が、光留の肩を打った。
腕から力が抜けた。
それでも光留は、右拳を戻さず、男の腹へ押しつけた。
もっと、奥へ。
身体を動かしている力へ、黒を流す。
男が、光留の腕を払いのけた。
離れた瞬間、皮膚に浮かんだ黒が薄れた。
消える前に、光留はもう一度殴った。
拳を当てる。
黒を通す。
そのたびに、男の身体を巡る眼力が削れていく。
光留の右眼へも、重い熱が返ってきた。
目尻から流れた血が、頬の血と混ざる。
次の拳を防ぐために外纏を寄せる。
黒を保つ。
脚へ力を送る。
どれか一つをやめれば、倒れる。
「しつこい……!」
男の拳が、額を打った。
光留の顔が上を向いた。
空が、白かった。
足の裏から、砂の感触が消えかける。
光留は男の衣服をつかんだ。
引き寄せる。
相手の胸へ、額をぶつけるように身体を預けた。
男が、その背を殴った。
一度。
二度。
膝が折れかけた。
光留はつかんだ手を離さず、右拳を男の脇腹へねじ込んだ。
「っ……!」
男の息が詰まった。
光留も、息を吸った。
痛い。
吸うだけで、胸の奥が痛む。
それでも、もう一度、拳を引いた。
黒をまとわせ、打ち込む。
男の足が、半歩下がった。
光留は、そこへ足を入れた。
◇
観客席では、蓮が手すりを握りしめていた。
伊織は、倒れたままだった。
脇腹の下に、血が広がっている。
審判がその胸の上下を確かめ、砂の外へ控えた医務係へ手を上げた。
担架を持つ者たちが、入口へ並ぶ。
まだ、光留が戦っていた。
二人一組の試合は、一人が倒れただけでは終わらなかった。
男の拳が、光留を打つ。
光留の拳も、男へ届く。
どちらも、もう大きく避けていなかった。
腕を上げる。
受ける。
受けきれなかった拳が、顔や腹へ入る。
それでも、足を前へ出す。
男の右肩から、血が流れ続けていた。
光留も、左腕が上がりきらなくなっていた。
ぶつかるたびに、黒が男の身体へ潜った。
最初は光留を吹き飛ばしていた拳が、今はその場で受け止められている。
男の息が荒くなっていた。
胸を覆う外纏も、もう薄い。
それでも、肉と骨の重さまでは消えなかった。
男の左拳が、光留の腹へ沈む。
光留は折れた身体を起こし、右拳を返した。
男の口から、血が散った。
「……まだだ」
男が言った。
光留も、拳を上げた。
返事をする息は、残っていなかった。
男の向こうに、伊織が見えた。
顔を砂へ向けたまま、動いていない。
光留は足を踏み出した。
男が、同じように前へ出る。
「俺は……迎えに行くんだ」
血に濡れた口が、そう動いた。
光留は、うなずかなかった。
自分にも、迎えに行く相手がいる。
握りしめた右拳へ、残る黒を集めた。
◇
男の左肩が引かれた。
光留は、その拳を見ていた。
こちらも、右拳を引いた。
防ぐために残しておく力は、もうなかった。
最後の一歩。
二人が、同時に踏み込んだ。
光留の右拳が、男の顔へ入った。
黒が弾けた。
同じ瞬間、男の左拳が、光留の頬を捉えた。
音が、途切れた。
男の顔が横へ向いた。
光留の視界も、大きく傾いた。
握っていた拳が離れる。
二人の身体が、反対側へ倒れた。
砂が跳ねた。
光留は、仰向けになっていた。
空が見えた。
起きろ。
そう思った。
だが、腕は動かなかった。
脚を曲げようとしても、踵が少し砂を削るだけだった。
横で、男も倒れていた。
片手を砂へつく。
身体を持ち上げようとして、その肘が折れた。
また、砂へ落ちた。
闘技場に、立っている出場者はいなかった。
「一!」
審判の声がした。
数え始めていた。
「二!」
光留は、横を向こうとした。
唇が動く。
伊織の名前を呼びたかった。
声にならなかった。
「三!」
男が、指を握った。
砂をつかみ、腕を引きつける。
肩がわずかに浮いた。
だが、それ以上は上がらなかった。
「四!」
光留の耳に、何かを引きずる音が届いた。
男ではなかった。
もっと、離れた場所。
「五!」
伊織の指が、刀の柄にかかっていた。
砂に伏せた顔が、少しだけ上がる。
眼が、開いていた。
「六!」
伊織は左手を脇腹へ押し当てた。
右手で刀を引き寄せる。
刃先を砂へ立てた。
腕に力を入れると、傷口を押さえた指の間から血がにじんだ。
口が開いた。
息が、かすれた。
「七!」
片膝が、身体の下へ入った。
刀に預けた体重が揺れる。
一度、肘が沈んだ。
伊織は額を柄へ近づけたまま、もう一度、押した。
「八!」
光留は、伊織を見ていた。
やめろとも、立てとも言えなかった。
伊織の足が、砂を踏んだ。
膝が、ゆっくりと伸びる。
「九!」
伊織が、立った。
身体は傾いていた。
片手は脇腹を押さえ、もう片方の手は刀から離せない。
それでも、両膝は砂から離れていた。
伊織は顔を上げた。
「……俺も、いる」
審判を見た。
倒れている光留を見た。
「二人……だろ」
男が、身体を起こそうとした。
腕が震えた。
砂をつかんでいた手が、ほどける。
「十!」
審判の腕が上がった。
「勝者――光留・伊織組!」
声が、闘技場を渡った。
光留は、伊織から眼を離せなかった。
伊織の唇が、わずかに動いた。
「……勝ったぞ」
刀を支えにした脚は、今にも折れそうに震えていた。
それでも伊織は、まだ立っていた。




