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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第三章 砂漠の島と力の世界

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第三十六話 根性



 男の拳が、父の刀を横から打った。


 光留は柄を握り込もうとした。


 だが、六式を放った指に、力が戻りきっていなかった。


 手の中で、柄が滑る。


 刀が宙を回った。


 黒が抜けた刃が日差しを弾き、遠くの砂へ突き刺さる。柄尻の砂硝子が、小さく揺れた。


 追いかける暇はなかった。


 男の左拳が、腹へ入った。


「ぐっ……!」


 外纏の上から、身体の奥まで衝撃が抜ける。


 光留は背を丸めた。


 口から、息と唾がこぼれた。


 続く拳へ、左腕を上げる。


 防いだ腕ごと顔を打たれ、視界が白く弾けた。


「光留!」


 伊織の刀が、横から入った。


 男が上体を引く。


 炎をまとった刃が、胸の前を通り過ぎた。


 そのわずかな間に、光留は足を踏み直した。


 刀は、遠い。


 男はもう、次の拳を振り上げている。


 光留は、空の右手を握った。


 右眼から、黒を通す。


 爪も、刃も伸ばさない。


 拳だけを、薄く覆った。


     ◇


 男の左拳が来た。


 光留は顔を傾けた。


 避けきれず、頬が裂ける。


 そのまま、右足を前へ置いた。


 黒い拳を、男の腹へ叩き込む。


 硬い。


 鎧がなくても、男の身体には厚い外纏が残っていた。


 光留は拳を引かなかった。


 触れた場所から、黒を押し流した。


 外纏へ食い込ませ、その奥で身体を支える眼力まで、黒を届かせる。


 男の腹に、黒い筋が一瞬広がった。


 息が漏れる。


 身体を固めていた力が、わずかに緩んだ。


 それでも、男の拳は止まらなかった。


 右拳が、光留の脇腹を打つ。


 光留の身体が横へ流れた。


 踏ん張った足が、砂を掘る。


「……それで」


 男が、血を吐き捨てた。


「倒れるかよ!」


 左拳が、光留の胸を打った。


 足が地面を離れた。


 背中から落ちかけ、光留は片膝をつく。


 胸が、動かない。


 息を吸おうとしても、喉からかすれた音しか出なかった。


 男が、追ってくる。


 その前へ、伊織が入った。


「こっちだ!」


 刀が斜めに走った。


 男の腕をかすめ、血を散らす。


 伊織は刃を返した。


 男は下がらなかった。


 刀が振り切られる前に懐へ入り、伊織の手首をつかんだ。


 引きつけられる。


 傷ついた男の右腕が、伊織の肘を押さえた。


「離せ……!」


 伊織は柄を握り直そうとした。


 その手が、腕ごとねじられる。


 指が開いた。


 刀の炎が消えた。


 次の瞬間、柄を握っていたのは、男の左手だった。


「伊織、退け!」


 光留が、膝を上げた。


 男が奪った刀を引く。


 伊織は腹へ外纏を寄せながら、身をひねった。


 切っ先が、左の脇腹へ突き立った。


 伊織の口が開いた。


 声は出なかった。


 自分の刀を、見下ろしていた。


 男が刃を抜く。


 伊織の手が、傷口へ向かった。


 そこへ、右の拳が飛んだ。


 顔が、横へ振られた。


 伊織の膝が崩れる。


 砂へ落ちるとき、手は出なかった。


「伊織!」


 呼びかけても、返事はなかった。


 眼を閉じたまま、動かない。


 意識を失っていた。


 男が、光留へ刀を向け直す。


 光留は、その手元へ飛び込んだ。


 黒い拳で、刀を持つ手首を打つ。


 男の指が緩んだ。


 刀がこぼれ、倒れた伊織のそばへ落ちた。


 男は拾わなかった。


 空いた手を握り、光留を殴った。


     ◇


 歯が鳴った。


 光留の口の中に、血が広がる。


 後ろへ傾いた身体を、脚の内纏で支えた。


 男の左腕が戻る前に、光留は右拳を振った。


 肋の下へ、黒を打ち込む。


 殴った場所から、相手の身体へ流し込む。


 黒が、男の眼力へ食いついた。


 腕を振り上げる動きが、一瞬だけ鈍る。


 光留は左でも殴った。


 男の顎が、わずかに上がった。


 だが、下がらない。


 男の右拳が、光留の肩を打った。


 腕から力が抜けた。


 それでも光留は、右拳を戻さず、男の腹へ押しつけた。


 もっと、奥へ。


 身体を動かしている力へ、黒を流す。


 男が、光留の腕を払いのけた。


 離れた瞬間、皮膚に浮かんだ黒が薄れた。


 消える前に、光留はもう一度殴った。


 拳を当てる。


 黒を通す。


 そのたびに、男の身体を巡る眼力が削れていく。


 光留の右眼へも、重い熱が返ってきた。


 目尻から流れた血が、頬の血と混ざる。


 次の拳を防ぐために外纏を寄せる。


 黒を保つ。


 脚へ力を送る。


 どれか一つをやめれば、倒れる。


「しつこい……!」


 男の拳が、額を打った。


 光留の顔が上を向いた。


 空が、白かった。


 足の裏から、砂の感触が消えかける。


 光留は男の衣服をつかんだ。


 引き寄せる。


 相手の胸へ、額をぶつけるように身体を預けた。


 男が、その背を殴った。


 一度。


 二度。


 膝が折れかけた。


 光留はつかんだ手を離さず、右拳を男の脇腹へねじ込んだ。


「っ……!」


 男の息が詰まった。


 光留も、息を吸った。


 痛い。


 吸うだけで、胸の奥が痛む。


 それでも、もう一度、拳を引いた。


 黒をまとわせ、打ち込む。


 男の足が、半歩下がった。


 光留は、そこへ足を入れた。


     ◇


 観客席では、蓮が手すりを握りしめていた。


 伊織は、倒れたままだった。


 脇腹の下に、血が広がっている。


 審判がその胸の上下を確かめ、砂の外へ控えた医務係へ手を上げた。


 担架を持つ者たちが、入口へ並ぶ。


 まだ、光留が戦っていた。


 二人一組の試合は、一人が倒れただけでは終わらなかった。


 男の拳が、光留を打つ。


 光留の拳も、男へ届く。


 どちらも、もう大きく避けていなかった。


 腕を上げる。


 受ける。


 受けきれなかった拳が、顔や腹へ入る。


 それでも、足を前へ出す。


 男の右肩から、血が流れ続けていた。


 光留も、左腕が上がりきらなくなっていた。


 ぶつかるたびに、黒が男の身体へ潜った。


 最初は光留を吹き飛ばしていた拳が、今はその場で受け止められている。


 男の息が荒くなっていた。


 胸を覆う外纏も、もう薄い。


 それでも、肉と骨の重さまでは消えなかった。


 男の左拳が、光留の腹へ沈む。


 光留は折れた身体を起こし、右拳を返した。


 男の口から、血が散った。


「……まだだ」


 男が言った。


 光留も、拳を上げた。


 返事をする息は、残っていなかった。


 男の向こうに、伊織が見えた。


 顔を砂へ向けたまま、動いていない。


 光留は足を踏み出した。


 男が、同じように前へ出る。


「俺は……迎えに行くんだ」


 血に濡れた口が、そう動いた。


 光留は、うなずかなかった。


 自分にも、迎えに行く相手がいる。


 握りしめた右拳へ、残る黒を集めた。


     ◇


 男の左肩が引かれた。


 光留は、その拳を見ていた。


 こちらも、右拳を引いた。


 防ぐために残しておく力は、もうなかった。


 最後の一歩。


 二人が、同時に踏み込んだ。


 光留の右拳が、男の顔へ入った。


 黒が弾けた。


 同じ瞬間、男の左拳が、光留の頬を捉えた。


 音が、途切れた。


 男の顔が横へ向いた。


 光留の視界も、大きく傾いた。


 握っていた拳が離れる。


 二人の身体が、反対側へ倒れた。


 砂が跳ねた。


 光留は、仰向けになっていた。


 空が見えた。


 起きろ。


 そう思った。


 だが、腕は動かなかった。


 脚を曲げようとしても、踵が少し砂を削るだけだった。


 横で、男も倒れていた。


 片手を砂へつく。


 身体を持ち上げようとして、その肘が折れた。


 また、砂へ落ちた。


 闘技場に、立っている出場者はいなかった。


「一!」


 審判の声がした。


 数え始めていた。


「二!」


 光留は、横を向こうとした。


 唇が動く。


 伊織の名前を呼びたかった。


 声にならなかった。


「三!」


 男が、指を握った。


 砂をつかみ、腕を引きつける。


 肩がわずかに浮いた。


 だが、それ以上は上がらなかった。


「四!」


 光留の耳に、何かを引きずる音が届いた。


 男ではなかった。


 もっと、離れた場所。


「五!」


 伊織の指が、刀の柄にかかっていた。


 砂に伏せた顔が、少しだけ上がる。


 眼が、開いていた。


「六!」


 伊織は左手を脇腹へ押し当てた。


 右手で刀を引き寄せる。


 刃先を砂へ立てた。


 腕に力を入れると、傷口を押さえた指の間から血がにじんだ。


 口が開いた。


 息が、かすれた。


「七!」


 片膝が、身体の下へ入った。


 刀に預けた体重が揺れる。


 一度、肘が沈んだ。


 伊織は額を柄へ近づけたまま、もう一度、押した。


「八!」


 光留は、伊織を見ていた。


 やめろとも、立てとも言えなかった。


 伊織の足が、砂を踏んだ。


 膝が、ゆっくりと伸びる。


「九!」


 伊織が、立った。


 身体は傾いていた。


 片手は脇腹を押さえ、もう片方の手は刀から離せない。


 それでも、両膝は砂から離れていた。


 伊織は顔を上げた。


「……俺も、いる」


 審判を見た。


 倒れている光留を見た。


「二人……だろ」


 男が、身体を起こそうとした。


 腕が震えた。


 砂をつかんでいた手が、ほどける。


「十!」


 審判の腕が上がった。


「勝者――光留・伊織組!」


 声が、闘技場を渡った。


 光留は、伊織から眼を離せなかった。


 伊織の唇が、わずかに動いた。


「……勝ったぞ」


 刀を支えにした脚は、今にも折れそうに震えていた。


 それでも伊織は、まだ立っていた。


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