第三十三話 大会の裏
匙が器の縁に当たり、小さな音を立てた。
伊織は粥をすくったまま、手を止めていた。
向かいでは、光留が背中へ布を挟んでもらい、ようやく上体を少し起こしている。器を持とうとすると右手が痛み、左手で支えようとすれば前腕の傷が引きつった。
蓮が黙って器を支えた。
「……悪い」
「冷めるぞ」
光留は一口だけ飲み込んだ。
医務室の外を、担架を運ぶ足音が通り過ぎる。
闘技場では、まだ戦いが続いていた。
「次に刀を持ったら」
伊織が、ぽつりと言った。
「また、あの拳が来る気がする」
光留は顔を上げた。
「受けても押される。避けても追ってくる。途中から、斬ることより、殴られないことばっかり考えてた」
伊織は匙を置いた。
光留にも覚えがあった。
景久が足を動かすだけで、身体が固くなった。防ぐ場所を考えるほど、別の場所を打たれた。
「俺も、またあの人の前に立つのが怖い」
口にすると、喉が詰まった。
蓮は笑わなかった。
「今日のうちに、もう一度戦う必要はない」
「でも、次の試合はある」
「ああ。だから今、傷を増やすな」
蓮の視線が、枕元の刀へ向いた。
光留は伸ばしかけていた手を、膝へ戻した。
使えるようになった技を、もう一度確かめたかった。何か一つでもうまくできれば、少しは落ち着ける気がした。
けれど、指を握るだけで痛む。
隣では伊織も、冷めた粥を見つめていた。
◇
新しい怪我人が運ばれてきたのは、その少しあとだった。
右脚に添え木を当てられた若い選手だった。担架が空いた寝台の横へ置かれると、帳面を持った男が近づいた。
男は傷を見なかった。
担架についた札を確かめ、選手の顔をのぞき込む。
「眼を開けろ」
選手がまぶたを上げる。
男はその眼を見て帳面へ何かを書きつけた。
「奥へ移す」
「待ってくれ。連れは……」
「あとで知らせる」
「宿に戻るって、言っておかないと」
「向こうで休んでいればいい」
運び手たちが担架を持ち上げた。
伊織が、顔だけをそちらへ向ける。
「どこへ運ぶんだ?」
「奥の療養室だ。ここは次の怪我人が来る」
男たちは、光留たちが入ってきた通路とは反対へ消えた。
蓮が食事の器を重ねる。
「返してくる」
歩き方は、いつもと変わらなかった。
光留はその背を見送った。
廊下の向こうへ遠ざかる足音が、妙にはっきり聞こえた。
自分たちがここへ来たのは、試合をするためだけではなかった。
消えた出場者。
地下に囚われた人たち。
戦士の眼を持つ男の妹。
伊織も同じことを考えたのか、上着の内側から騎士団の手紙を取り出しかけ、すぐに手を引っ込めた。
しばらくして戻った蓮は、新しい水差しを持っていた。
「通路の奥に格子戸があった」
器へ水を注ぎながら、声を落とす。
「担架はそこを通って、下へ運ばれた。戸を閉めたあと、鍵をかけていた」
「地下へ?」
光留が聞く。
「ああ。ただ、その先は見ていない。本当に療養室かどうかも、まだ分からない」
蓮は水差しを置いた。
「これまでのこともまとめて、向こうへ渡す」
伊織がうなずいた。
「二番隊の人たちにも、伝わるように頼もう」
蓮が紙を広げる。
地下に囚われた人々のこと。
手に入れた古い地下水路の地図。
大会が終わる夜に、囚われた人々が移されること。
そこへ、今見た選手と帳面の男について書き足した。
人から聞いた話と、自分たちで確かめたことを分ける。
蓮に聞き返されるたび、光留は急がずに思い出した。
刀を握ることはできなかった。
けれど、あの男の顔と、連れを呼んでいた選手の声は、まだ覚えていた。
◇
宿へ戻ったのは、日が傾いてからだった。
車輪が石畳の継ぎ目を越えるたびに傷が痛み、光留は部屋へ運ばれるなり寝床へ横になった。
伊織も、荷物を置いたあと、その場へ座り込んだ。
蓮は報告を懐へ収めた。
「届けてくる。二人とも、ここで休んでいろ」
光留はうなずいた。
扉が閉じる。
残された部屋には、通りの話し声が入り込んできた。
あの老人はなぜ降りたのか。
勝った二人は、次も戦えるのか。
窓を閉めても、声は少し聞こえた。
「……勝った二人、か」
伊織が呟く。
光留は返事をしなかった。
しばらくして伊織が寝床へ移り、二人とも黙ったまま天井を見ていた。
入口を叩く音がしたのは、部屋へ灯りをともした頃だった。
「俺だ」
蓮の声だった。
扉が開いた。
だが、入ってきたのは蓮だけではなかった。
砂色の外套をまとった男が、深くかぶっていたフードを上げる。
光留は、その顔を見て上体を起こしかけた。
「御影さん……」
「立たなくていい」
御影宗十郎が、寝床のそばへ歩いてきた。
光留を一年間鍛えた、二番隊の隊長。
見慣れた隊羽織は着ていなかった。腰の刀も外套の内側へ隠している。
入口の向こうには、二番隊の隊士が二人いた。
さらにもう一人、背の高い男が部屋へ入り、蓮が扉を閉めた。
御影は光留の包帯を見て、次に伊織の肩へ眼を向けた。
「散々やられたな」
伊織がうつむいた。
「……見てたんですか」
「ああ」
「なら、分かりますよね」
伊織の指が、寝床の縁をつかむ。
「あれ、俺たちの負けです」
御影は否定しなかった。
「そうだな。続けていれば、二人とも立てなくなっていた」
光留は膝へ眼を落とした。
慰められても、うまく受け取れなかったと思う。
けれど、師の口から聞くと、胸の奥が重くなった。
「一度も、当たりませんでした」
声が小さくなる。
「刀も、忍術も。できることは増えたのに、何を使っても……」
「見ていた」
御影が椅子を引いた。
「以前のお前にはできなかった動きも、いくつもあった」
光留は顔を上げなかった。
「それでも、届かなかったんです」
「ああ」
御影は、少し間を置いた。
「その話も聞く。どこで動けなくなったのか、あとで一つずつ教えろ」
隣の伊織が、ゆっくりと顔を上げる。
「俺も、いいですか」
「二人の試合だろう」
伊織は小さくうなずき、寝床の縁から手を離した。
◇
御影が、背後の男へ眼を向けた。
「先に紹介しておこう。騎士団長の鳴神宗玄殿だ」
男が外套の留め具を外した。
短く整えた髪に、日に焼けた顔。
鎧も紋章も身につけていなかったが、腰には長い剣がある。
鳴神宗玄――なるかみ、そうげん。
南の島の騎士団を率いる、雷の眼の持ち主だった。
「西島へ手紙を送ったのは俺だ」
宗玄は、光留と伊織へ順に顔を向けた。
「引き受けてくれたこと、礼を言う」
「騎士団長が、ここまで来て大丈夫なんですか」
伊織が声を抑える。
「俺たちとの関わりは、伏せておくんじゃ……」
「だから、この格好で来た。外は二番隊が見ている。長居はしない」
宗玄は蓮へうなずき、机の前へ腰を下ろした。
「報告書を読んだ。医務室から運ばれた選手のこともな」
光留は身体の向きを変えた。
脇腹が痛み、息が止まる。
蓮が背中へ畳んだ布を差し込んだ。
「そのままで話せ」
宗玄が言う。
「こちらでも、分かったことがある」
外套の内側から、数枚の紙を取り出した。
机へ広げられたのは、人の名と数字が並ぶ記録だった。
「こちらは、過去の大会の出場者名簿。もう一つは、二番隊が闇市の仲介人の帳面から写してきたものだ」
御影が、二枚の紙の同じ名前を指した。
「この男は、大会では途中棄権になっている。宿には戻っていない」
指が別の名前へ移る。
「こいつも、その次もだ」
「失踪した出場者……」
伊織が呟いた。
「闇市の帳面には、眼の種類と、引き渡す日が書かれていた」
御影の指が、数字の並ぶ欄で止まる。
「代金の一部が、大会の始まる前に払われている者もいた」
光留は顔を上げた。
「試合をする前から、売るつもりだったんですか」
「そう考えている」
宗玄が答えた。
「大会へ来た強者を、たまたま攫っているだけではなさそうだ。欲しい眼を持つ者を選び、戦わせ、その力を確かめている」
光留は、上段の席からこちらを見下ろしていた者たちを思い出した。
勝敗より、眼を見ていた。
医務室へ来た男も、傷には触れなかった。
「じゃあ、大会を開いている連中が……」
「関わっている。だが、そいつらだけで決めているわけではない」
宗玄は、もう一枚の紙を広げた。
短い文章がいくつか書かれていた。
選ぶ眼の条件と、人数。引き渡しに間に合わせるよう求める言葉。
「会場へ持ち込まれた指示書の写しだ。闇市の取引記録と、条件が一致していた」
「外から、命令している奴がいるのか」
蓮の問いに、宗玄はうなずいた。
「出場者を選ばせ、金を渡し、人を運ばせている者がいる。大会の責任者も、その指示を受けて動いていた」
「そいつが、この大会の黒幕……」
伊織が言った。
宗玄は紙から手を離した。
「そこまで追っている」
◇
窓の外で、荷車の車輪が鳴った。
光留は机の紙を見つめた。
出場者の名前の横に、眼の種類と金額が並んでいる。
「誰なんですか」
「まだ、顔と名を結びつけられていない」
宗玄は答えた。
「命令は使いを通して届く。こちらが押さえたのは、会場へ出入りしている者たちと、その途中の受け渡し先までだ」
「じゃあ、その使いを追えば」
「二番隊が、すでについている」
御影が言った。
「こちらの顔は、この島では知られていないからな。騎士団が動けない場所は、俺たちが見ている」
伊織が、閉じた扉へ眼を向けた。
その向こうに立っている者たちも、同じ仕事をしていたのだろう。
宗玄が、光留たちの報告を机へ置いた。
「お前たちが調べた、大会の終わる夜の移送。その前に、運び先を決める最後の指示が届く」
「それも、分かったんですか」
「ああ。使いに渡された文面を確かめた。次は、誰のところでその指示を受け取るのかを押さえる」
宗玄の指が、紙の端をそろえた。
「人を集める側と、運ぶ側はつながった。あとは、命令を出している者だ」
光留は息を吸った。
「もうすぐ、全部分かるんですね」
「あと少しで、全部つながる。そう見ている」
宗玄は、そこで言葉を切った。
「ただ、調べがつくまで、囚われた者を放っておくつもりはない。移送に関わる出入口は見張らせている。予定を早めて運び始めたら、こちらも動く」
「地下に、妹を捕まってる人がいます」
光留は言った。
言ってから、報告にも書いたことを思い出す。
それでも、もう一度伝えておきたかった。
「その人は、妹がいるから逆らえない。試合にも出ていて……」
「読んだ」
宗玄は、光留の言葉を聞き終えてから答えた。
「その妹も、救出するつもりで準備している。地下の見取りと、見張りの位置を、もう少し詳しく聞かせてほしい」
光留はうなずいた。
隣で、伊織が肩の布を押さえる。
「俺たちは、次の試合に出た方がいいんですか」
「まず、傷の具合を見てもらえ」
宗玄は二人の寝床へ眼を向けた。
「出られるなら、これまでどおりに振る舞ってくれればいい。調査のために勝ち続けろとは言わない。難しければ、こちらで手を変える」
伊織の手が、肩から下りた。
「お前たちの報告がなければ、移送の時機も、地下への道も、ここまで絞れなかった」
宗玄が、古い地下水路の地図を広げた。
「よく調べてくれた」
光留は、すぐには言葉を返せなかった。
父の刀は枕元にあった。
景久へ一度も届かなかった刃も、まともに握れない右手も、さっきと何も変わっていない。
だが、自分たちが見てきたことを頼りに、もう動いている者たちがいた。
◇
蓮が机を寝床の近くへ寄せた。
御影は椅子をずらし、光留にも地図が見えるようにした。
伊織も、腹をかばいながら少しだけ近づく。
「無理に寄らなくていい。こっちで広げる」
御影が紙の端を押さえた。
光留は、地図へ眼を落とした。
古い水路が、いくつも枝分かれしている。
弟を救うために、力と仲間を求めてこの島へ来た。
その途中で、同じように家族を奪われた男と出会った。
助けたいと思った。
けれど今日、目の前の相手に刃を届かせることさえできなかった。
その悔しさが、消えたわけではない。
「御影さん」
「何だ」
「あとで、試合のことも聞いてください」
「さっき、そう言っただろう」
いつもの声だった。
伊織がわずかに口元を動かし、切れた唇が痛んだのか、すぐに表情を戻した。
光留は左手を伸ばした。
指先が、地図の入口を示す。
「先に、こっちを話します」
御影も宗玄も、急かさなかった。
光留は覚えている限りのことを、順番に話した。人から聞いた話になると、そのことも添えた。
途中で言葉に詰まると、伊織が続きを補い、蓮が紙へ書き足した。
窓の外からは、まだ大会の話をする声が聞こえていた。
部屋の中では、一枚の地図を囲んで、囚われた人々を助け出すための話が続いていた。




