第三十話 二回戦、開幕
岩場を覆っていた黒い霧が、ゆっくりと薄れていった。
霧の中から、光留が姿を現す。
西へ傾いた日差しが、汗に濡れた額を照らした。両手を下ろすと、足元に残っていた黒も砂へ溶けるように消えていく。
岩と岩の間には、蓮が張った眼力の縄があった。
その中央だけが、なくなっていた。
「広げたときより、今の方がよく吸っていたな」
伊織が岩陰から立ち上がる。
「同じ量の黒を、狭い範囲へ集めたからだ」
蓮は途切れた縄を消した。
「遠くまで広げれば、その分だけ薄くなる。姿を隠すために使うのか、眼力の技を削るために使うのか。出す前に決めろ」
光留はうなずき、呼吸を整えた。
朝から続けていた修行で、二式から五式まで、ようやく黒を通せるようになった。
指先に短い爪を作る、二式・黒爪。
縄状の眼力で絡め取り、触れた部分の眼力を吸う、三式・黒縛。
長く薄い刃へ黒を通した、四式・黒刃。
そして今、五式・黒霧の形も保てた。
爪も縄も、初めは作ったそばから崩れた。刃を伸ばそうとすると黒の筋が途切れ、霧を広げれば、吸収できるほどの濃さを残せなかった。
そのたびに、眼力を流す量と、黒の通り道を作り直した。
昨日よりは、力の流れが分かる。
指先へ送った眼力が、どこで溜まり、どこから漏れているのか。崩れたあとで考えるだけでなく、崩れる前に気づけるようになっていた。
「残りは、一つだな」
伊織の言葉に、光留は岩場の奥へ眼を向けた。
砂丘を背にして、大きな岩が一つ立っている。
蓮が、その左右と背後を確かめた。
「射線の先には誰もいない。やってみろ」
光留は右腕を上げた。
人差し指を、岩の中央へ向ける。
六式・殲。
蓮の父が作った、防御の奥を貫くための術。
その形は、もう知っている。
右眼から肩へ、肘へ、手首へ。眼力を流し、指先の一点へ集めていく。同時に、その中心へ黒の通り道を残す。
指先に、小さな黒い光が生まれた。
光留は息を止めた。
爪や刃のように、形を伸ばすのではない。
集めた眼力を、さらに小さく、さらに密に押し込める。
黒い光が細くなった。
そこから先へ力を込めた瞬間、中心の黒が歪む。
「っ……!」
指先の光がほどけた。
黒い粒が手の周囲へ散り、その場で消える。
岩には、何も届かなかった。
光留は腕を下ろし、指の曲げ伸ばしをした。
「もう一度」
二度目は、黒を減らした。
眼力は先ほどより小さくまとまった。だが、圧縮するにつれて黒の筋が細くなり、最後には途切れてしまった。
光留は放つのをやめ、集めた力を解いた。
「黒が多いと、殲の形を保てない。少なくすると、今度は黒の方が切れる」
「そうだ」
蓮が答える。
「ほかの型より狭いところへ、二つの流れを収めなきゃならない。外側だけ縮めようとすれば、中の道が潰れる」
光留は指先を見た。
理屈は分かる。
だが、分かったとおりには動かせない。
三度目。
眼力と黒を、少しずつ同時に絞っていく。
先ほどより長く、形が残った。
光留が岩へ狙いを定める。
「六式――」
右眼の奥が、鋭く痛んだ。
集中が揺れる。
指先の黒が潰れ、また消えた。
光留は唇を結び、右手を下ろした。
岩は、最初と何も変わっていなかった。
「今日は終わりだ」
蓮が言った。
光留はもう一度だけ指を伸ばしかけ、やめた。
昨日火傷した手が、脈に合わせて疼いている。脚へ流していた内纏も、気づかないうちに薄くなっていた。
明日は二回戦だ。
ここで動けなくなれば、何のために修行したのか分からなくなる。
「……分かった」
光留は右眼の力を鎮めた。
「殲だけなら撃てるんだけどな」
「黒を通したまま放つのは、まだ無理だ。明日、それを当てにするな」
蓮が水袋を渡す。
光留は一口飲んでから、岩を見た。
黒殲。
名前をつけても、まだ放てない。
悔しさは残った。
それでも、腰には黒を通せるようになった父の刀がある。昨日までできなかった術が、今は指先に残っている。
光留は水袋を伊織へ渡した。
「明日は、使える技で組み立てる」
「俺の火も入れとけよ」
伊織が言う。
「分かってる」
「お前、修行してる間はずっと自分の指ばっかり見てたからな」
「見ないでできるなら、苦労しないだろ」
伊織は笑って水を飲んだ。
蓮が荷物をまとめ始める。
光留も砂の上に置いた鞘を拾い、腰へ差した。
帰る前に、もう一度だけ岩へ眼を向ける。
今度は右手を上げず、そのまま二人を追った。
◇
宿へ戻る頃には、町の灯りがともっていた。
光留は身体の砂を落とし、傷んだ手の布を巻き直した。
机の上には、水の入った器と、三人分の食事が並んでいる。伊織は席につくなり肉へ手を伸ばしたが、隣の赤い香辛料には触れなかった。
「今日はかけないのか」
光留が聞く。
「明日のために、余計な勝負はしない」
「市場で負けたのが、そんなに悔しかったか」
「食い物に勝ち負けはないだろ」
「勝負と言ったのはお前だ」
蓮に返され、伊織は黙って肉を口へ入れた。
食事が進むと、自然に明日の話になった。
二回戦の相手は、未来の眼と熱の眼。
一回戦で、速の眼と重の眼を破った二人だ。
光留たちは、その試合を見ていた。
老人の眼と、若者の熱。
どちらも、手の内をすべて見せたとは限らない。
「未来が見える相手に、修行したから速く動けます、だけじゃ通じないよな」
伊織が言った。
「どこまで先が見えるのかも、まだ分からない」
光留は答える。
「老人ばかり追えば、熱の眼に動きを制限される。二人の間に入れられたくない」
「なら、最初は離れすぎない方がいい」
「ああ。相手が分かれたときも、追う前に声をかけよう」
蓮は二人の話を聞きながら、水を飲んでいた。
「熱は忘れるな」
短く言う。
「黒で眼力を吸えても、すでに熱くなったものまで冷えるわけじゃない」
光留は布を巻いた右手を見た。
「昨日、よく分かった」
「俺の火でな」
「そこは自慢するところじゃない」
伊織が肩をすくめる。
笑いが途切れたあと、窓の外から町のざわめきが聞こえた。
明日の試合を待つ人々の声。
その向こうに、コロシアムの大きな影がある。
あの地下には、人が囚われている。
戦士の眼の妹も、そこにいる。
大会が終わる夜には、囚人たちが移される。
光留は窓から眼を戻した。
明日の相手を越えなければ、その先には進めない。
父の刀を手元へ寄せ、布で柄の砂を拭った。柄尻の黒い砂硝子が、灯りを小さく映している。
「光留」
伊織が呼んだ。
「明日、お前が何か見つけたら言えよ。俺も言うから」
「ああ」
「勝手に一人で答えを出すなよ」
光留は伊織を見て、うなずいた。
「二人で決めよう」
蓮が空になった器を重ねた。
「決まったなら、寝ろ」
その夜、光留は刀を枕元へ置いた。
指先に黒を集め直すことはせず、灯りを消した。
◇
翌朝の町は、修行へ出た二日間とは違う騒がしさに包まれていた。
露店の前で人が立ち止まり、対戦表を囲んで言い合っている。焼いた肉の匂いが通りへ流れ、コロシアムへ向かう人々の足音が途切れない。
光留たちも、その流れに交じって歩いた。
「あの二人だ」
すれ違った男が、隣の友人へ言った。
「一回戦で、鉄の眼と針の眼を倒した――」
続きは、人混みの声に紛れた。
伊織が光留へ顔を寄せる。
「覚えられてるな」
「試合を見てたんだろ」
「もう少し嬉しそうにしてもいいだろ」
「お前は十分、嬉しそうだ」
伊織は否定しなかった。
コロシアムが近づくにつれ、周囲の人が増えていく。
高い外壁の内側から、観客の声が響いていた。見上げると、空へ向かって張り出した旗が、乾いた風を受けて鳴っている。
選手用の入口で、三人は足を止めた。
「俺は上から見る」
蓮が観客席へ続く方を示す。
光留はうなずいた。
「終わったら、ここで」
「ああ」
蓮は光留の右手へ眼を落とした。
「握れるか」
光留は刀の柄を握った。
布の下に、まだ少し痛みがある。
だが、指は閉じた。力も抜けない。
「大丈夫だ」
「痛みが変わったら、伊織に伝えろ。隠して動きが遅れる方が困る」
「聞いてなかった、はなしだからな」
伊織が続ける。
「お前もだぞ」
光留が返すと、伊織は片手を上げた。
蓮と別れ、二人は石造りの通路へ入った。
外の熱気が遠ざかる。
壁際は冷たく、空気には砂と汗の匂いが混じっていた。
光留は通路の奥へ眼を向けた。
曲がり角の先には、下へ続く場所もあるのだろう。
今は、そちらへ行くことはできない。
前を歩く係員の背を追った。
案内された控えの場所で、伊織が肩を回す。
光留も膝を曲げ、足首の具合を確かめた。
全身へ一度に力を込めず、動かす部分へ少しずつ眼力を流す。脚から腰、肩、右手。昨日より落ち着いて、その位置を確かめられた。
伊織が横からのぞき込む。
「いけそうか?」
「手の具合を確かめてただけだ」
「ならいい」
伊織はそれ以上、何も言わなかった。
しばらくして、重い扉の向こうから歓声が押し寄せた。
係員が二人を呼ぶ。
「光留、伊織。出番だ」
光留は顔を上げた。
伊織と眼が合う。
「行くか」
「ああ」
二人で立ち上がった。
◇
通路の先に、白い光があふれていた。
一歩進むごとに、歓声が大きくなる。
光留は出口の段差を越えた。
熱い風が頬へ当たる。
見上げた先を、幾重もの観客席が埋めていた。石の壁を巡るように人が並び、立ち上がった者たちが二人へ声を飛ばしている。
足元には、踏み固められた砂。
一回戦でも歩いた場所だ。
光留はその感触を確かめながら、中央へ進んだ。
向かい側の入口からも、二人の男が現れた。
一人は老人だった。
周囲の歓声を気にした様子もなく、ゆっくりと歩いてくる。
隣にいる若者は、左右の観客席へ一度ずつ眼を向けたあと、光留と伊織を見た。
未来の眼。
熱の眼。
観客席から見ていた二人が、今度は同じ砂の上に立っている。
光留は無意識に、老人の足元へ眼を落とした。
歩幅は小さい。
だが、身体が揺れない。止まったあとも、どちらの足へ体重を預けているのか読み取りにくかった。
若者は少しだけ横へずれた。
老人の肩越しではなく、光留と伊織の両方を見られる位置。
それだけで、二人の間に入り込みにくくなった。
老人は足を止め、光留と伊織を順に見た。
「俺たちが相手になるのも、見えてたのか?」
伊織が聞く。
老人は片方の眉を上げた。
「第五試合の勝者と第六試合の勝者が当たる。対戦表に書いてあったじゃろう」
隣の若者が笑った。
伊織が口を閉じる。
光留も、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、老人から眼を離すことはしなかった。
どこまで見えているのか。
その答えは、何一つ教えてもらっていない。
「話はそこまでだ。双方、位置へ」
審判の声が飛んだ。
四人が、それぞれの側へ下がる。
光留は観客席を一度だけ見上げた。
大勢の顔の中に、蓮がいた。
席に座り、こちらを見ている。
声を張ることも、手を振ることもない。
それでも、眼が合ったのは分かった。
光留は小さくうなずき、正面へ向き直った。
「最初は離れすぎない」
伊織が低く言った。
「分かってる。見つけたことは、すぐ言う」
光留は父の刀を抜いた。
日差しが、銀色の刀身を走る。
柄から切っ先まで、黒を通す道を思い浮かべた。
だが、まだ流さない。
始まってもいないうちに、力を使う必要はなかった。
隣で伊織も刀を構えた。
向こうでは、老人が静かに腰を落とす。
若者が両手を開き、こちらへ向けた。
観客の声が重なっている。
光留には、自分の呼吸だけが近く聞こえた。
指先に集まっては崩れた黒が、一瞬、頭をよぎる。
光留はそれを追わず、刀の重さを手の中で確かめた。
今、使えるものは分かっている。
横には、伊織がいる。
審判が腕を高く上げた。
光留は前を見据えた。
「二回戦、試合開始!」




