第二十九話 眼力を纏う
夜が明ける前、光留たちは町の東門を抜けた。
昼間は肌を焼く砂漠も、太陽が昇る前は驚くほど冷えている。薄暗い空の下、風に運ばれた砂が三人の足元を細く流れていた。
蓮が修行場所に選んだのは、町から離れた岩場だった。
三方を高い砂丘に囲まれ、中央には人の背丈を超える岩がいくつも並んでいる。大きな音を立てても町までは届かず、街道からも見えない。
「始めるぞ」
蓮は荷物を岩陰へ置いた。
光留も父の刀を外そうとする。
その瞬間、蓮の姿が眼前まで迫っていた。
「え――」
拳が光留の顔へ飛んでくる。
光留は反射的に左腕を上げた。
蓮の拳が前腕へ直撃する。
鈍い音とともに、光留の身体が砂の上を転がった。
「何するんだ!」
伊織が叫ぶ。
「修行だ」
「始めるぞとは言ったけど、殴るとは言ってないだろ!」
「敵が殴る前に教えてくれると思うか?」
蓮は倒れた光留へ近づいた。
「腕は折れてるか?」
光留は痛む左腕を動かした。
「いや……痛いけど、折れてない」
「なぜだ」
「腕で防いだからだろ」
「それだけじゃない」
蓮は自分の右腕を見せた。
皮膚の表面を、薄い赤色の眼力が覆っている。さらに腕の内側にも眼力が流れ、筋肉の形に沿って細い線を描いていた。
「眼力は、眼の能力を使うためだけにあるわけじゃない」
蓮が拳を握る。
赤い眼力が指先へ集まり、周囲の砂がわずかに震えた。
「身体の内側へ流せば、筋肉、骨、関節を強くできる。力も速さも上がる。これが内纏だ」
次に、眼力が腕の内側から皮膚の表面へ移動する。
「外側へ薄く纏えば、打撃や斬撃から身体を守れる。外纏」
「俺も使ってたのか?」
「無意識にな。殴られる瞬間、眼力を左腕へ集めた。だから骨が折れなかった」
光留は自分の腕を見つめた。
言われてみれば、拳が当たる直前、黒の眼とは違う力が左腕へ流れた感覚があった。
「能力を持つ者なら、誰でも多少はやっている」
蓮は闘技場がある方角へ眼を向けた。
「未来の眼の老人も、重さを受けた瞬間に脚と腰へ眼力を集めていた。戦士の眼は、鎚が当たる場所だけ外纏を厚くした。あれほど速く正確に眼力を移動できる者は少ない」
「それを先に教えてくれれば、昨日の試合でもっと楽に勝てたんじゃないか?」
伊織が言う。
「一日で覚えられると思ってるなら、今すぐ試してやる」
蓮が拳を構えた。
「いや、俺はもう使えてる気がする」
伊織が一歩下がる。
「都合のいい感覚だな」
蓮は光留へ向き直った。
「立て。まずは内纏からだ」
◇
「眼力を両脚だけへ流せ」
蓮が遠くの岩を指さした。
「あの岩まで走れ」
光留は両脚へ眼力を集める。
足の内側へ力が満ち、普段よりも身体が軽くなった。
砂を蹴る。
一歩目で、光留の身体は想像以上に前へ飛び出した。
「速い!」
伊織の声が背後から聞こえる。
だが、三歩目で右脚から眼力が抜けた。
「うわっ!」
踏み込む力が突然失われ、光留は頭から砂へ突っ込んだ。
「流し込むだけじゃ駄目だ」
蓮が歩いてくる。
「両脚へ同じ量を送り続けろ。強く踏み込む瞬間だけ増やし、足が地面から離れたら減らす」
「走りながら、そこまで考えるのか?」
「戦士の眼は武器を作り、身体を強化し、攻撃を受ける場所へ外纏を集めていた。それを同時にやっている」
光留は口の中へ入った砂を吐き出した。
今のままでは勝てない。
昨日感じた差が、さらに大きく見えた。
「もう一度だ」
光留は立ち上がった。
二度目は五歩。
三度目は十歩。
何度も転びながら、少しずつ眼力を流す量を調整する。
太陽が砂丘の向こうから姿を現した頃、光留は岩まで速度を落とさず走り切った。
「次は外纏だ」
蓮が言った。
伊織が嬉しそうに前へ出る。
「待ってました」
「何でそんなに楽しそうなんだ」
「昨日の仕返しができるからな」
「仕返しされるようなことしたか?」
「俺より先に串肉の辛さを笑った」
「自分で選んだんだろ」
「構えろ」
伊織の右眼が赤く光った。
「燃!」
手のひらから、小さな火球が放たれる。
光留は両腕を交差させ、全身へ外纏を広げた。
火球が腕へ当たる。
爆ぜた火が身体を包んだ。
外纏によって炎の勢いは弱まったが、全身を守ろうとしたことで眼力が一気に減っていく。
「広げすぎだ!」
蓮の声が飛ぶ。
「当たる場所だけへ集めろ!」
二つ目の火球が光留の右脇腹へ向かう。
光留は外纏を腕から脇腹へ移そうとする。
間に合わない。
「熱っ!」
火球が衣服を焦がし、光留は砂の上を転がって火を消した。
「遅い」
「分かってる!」
「分かっていて燃えてるなら、もっと悪いな」
伊織が三つ目の火球を作る。
「少し休ませろ!」
「敵は休ませてくれないんだろ?」
「蓮の言葉を都合よく使うな!」
火球が次々と飛んでくる。
腕、脚、胸、肩。
光留は攻撃の位置を見極め、その場所へ外纏を移動させる。
最初は間に合わず、何度も火を受けた。
しかし、攻撃が十を超えた頃から、眼力の移動が少しずつ速くなっていく。
左肩へ火球。
外纏を集中させる。
炎が弾けても、衣服は焦げない。
直後に右脚。
肩から脚へ外纏を移す。
火球が当たり、熱だけが皮膚へ伝わった。
「今度は俺だ」
蓮が足元の小石を拾った。
伊織の火球に混ぜ、小石を投げる。
光留は黒の眼を開きかけた。
「黒は使うな!」
蓮の声に、光留は眼力を額へ集めた。
小石が直撃する。
外纏が衝撃を受け止め、小石は横へ弾かれた。
「火は眼力で作られている。だが石は物だ。黒の眼で消せるものだけが飛んでくるとは限らない」
蓮は二つ目の石を拾う。
「能力、忍術、内纏、外纏。全部に使う眼力は同じ器から出ている。何かへ使いすぎれば、ほかが足りなくなる」
石が光留の腹へ飛んだ。
光留は腹だけへ外纏を集中させ、受け止める。
「ようやく見られるようになったな」
蓮はそう言いながら、さらに三つの石を拾った。
「まだやるのか?」
「今のは一つだっただろ」
伊織も新しい火球を作る。
「二人とも、少し楽しんでないか?」
答える代わりに、火球と石が同時に飛んできた。
◇
太陽が頭上へ昇った頃、三人は岩陰で休んでいた。
光留の衣服は何か所も焦げ、腕や脚には石が当たった痣が残っている。
「次は刀だ」
蓮の言葉に、光留は父の刀を手にした。
柄尻につけた黒い砂硝子が、日差しを受けて輝く。
「内纏と同じように、眼力を腕から刀へ流せ」
光留は刀を抜いた。
使い慣れた重さが手の中へ収まる。
黒の眼を開き、刀身の表面へ黒水を広げた。
液体のような黒い眼力が刃へまとわりつく。
一瞬、刀身が黒く染まった。
だが、次の瞬間には黒い力が刃から剥がれ、地面へ落ちる前に消えた。
「駄目だ」
「今までと同じだな」
蓮が言う。
「お前は外から黒を塗っているんだ」
「刀の中へ、どうやって眼力を流すんだ」
「刀を物だと思うな。握った瞬間から、自分の腕の続きだと思え」
蓮は光留の手首をつかんだ。
「眼から肩、肘、手首、柄。そこから刀の芯を通って切っ先まで、一本の道を作れ」
「刀の芯……」
「この刀を作ったのは、お前の父親だろ」
「ああ」
「なら、眼力が通らないような刀を、お前へ残すと思うか?」
光留は刀を見つめた。
父がこの刀を打ったとき、自分がどのような眼を持つのか知っていたのか。それとも、いつか眼力を刀へ流す日が来ると信じていたのか。
答えは分からない。
それでも、刀を握ると父の手の温かさが残っているように感じた。
光留は眼を閉じる。
黒の眼から流れ出そうとする力を、すぐには刀へ送らない。
まず肩へ。
次に肘、手首、指先。
黒い眼力が腕の内側を通り、柄へ入る。
刀が小さく震えた。
力を表面へ広げず、刀身の中央を通す。
柄から鍔。
鍔から刃元。
切っ先へ向けて、細い黒の線が少しずつ伸びていく。
半分まで進んだところで、黒い線が歪んだ。
「ぐっ……!」
行き場を失った眼力が腕へ逆流する。
光留の右眼から血が流れた。
「止めろ!」
蓮が刀をつかみ、黒の流れを切った。
光留は右腕を押さえて膝をつく。指先まで鋭い痺れが走っていた。
「流しすぎだ」
「でも、半分までは通った」
「一度失敗するたびに眼を潰すつもりか?」
「残り二日しかない」
「だから焦って失敗していい理由にはならない」
蓮の声は厳しかった。
だが、その手は光留の眼から流れた血を拭っていた。
「もう一度やる」
光留は立ち上がった。
二度目。
黒い線は刀身の三分の二で途切れた。
三度目。
切っ先へ届く直前で力が漏れた。
四度目には、刀身全体が黒く染まったものの、一呼吸も維持できず消えた。
太陽が西へ傾き始める。
光留は何度失敗しても刀を置かなかった。
五度目。
肩から手首へ流す量を減らす。
刀へ入ったあとも、無理に押し込まない。
細い水が溝を流れるように、父の刀が持つ道へ黒の眼を委ねる。
柄尻の黒い砂硝子が光った。
刀の中心を、一本の黒い筋が走る。
刃元から切っ先まで到達しても、今度は崩れない。
黒い筋から薄い闇が広がり、銀色だった刀身を染めていく。
光留が眼を開いた。
「できた……」
父の刀が、光を吸い込むような黒色へ変わっていた。
「伊織」
蓮が呼ぶ。
「試せ」
「いきなりか?」
「実際に眼力を吸えなければ、黒く塗っただけだ」
伊織は立ち上がり、刀を抜いた。
「手加減は?」
「いらない」
答えたのは光留だった。
「じゃあ、遠慮なく――炎!」
伊織が刀を横へ振るう。
刃から大きな炎の斬撃が放たれ、光留へ迫る。
光留は黒く染まった父の刀を振り抜いた。
黒刀と炎が交わる。
炎の斬撃へ、中央から黒い亀裂が走った。
火を形作っていた眼力が刀へ吸い込まれ、炎が左右へ崩れていく。
「消えた!」
伊織が声を上げる。
しかし、眼力を失った炎が残した熱までは消えていない。
熱風が光留の身体へ襲いかかる。
「外纏!」
光留は眼力を両腕と顔へ集めた。
熱を完全には防げない。
袖が焦げ、刀を握る右手へ火傷の痛みが走る。それでも黒刀の形は崩さなかった。
次の瞬間、蓮が小刀を投げた。
黒刀なら消せる。
そう考えかけた光留は、すぐに思い直す。
飛んでくるのは眼力ではない。
実物の鉄だ。
光留は刀身を返し、小刀を正面から受けた。
甲高い金属音が響く。
小刀は吸収されず、黒刀へ弾かれて砂へ落ちた。
「黒は眼力しか喰わない」
蓮が言う。
「炎を消しても熱は残る。眼力で作られた刀を消しても、振り下ろした腕の勢いまでは消えない」
光留は黒刀を見つめた。
強い。
だが、何でも消せるわけではない。
使い方を間違えれば、力を過信した瞬間に殺される。
「黒刀」
伊織が呟く。
「いい名前じゃないか」
「まだ一度成功しただけだ」
蓮はそう言いながらも、黒く染まった刀から眼を離さなかった。
◇
最後の修行は、一式・壁だった。
日はすでに傾き、岩場には長い影が伸びている。
「完成した壁へ黒を流すな」
蓮が言う。
「壁を作る最初から、中心に黒を通す道を残せ」
光留は両手を前へ出す。
「忍術――一式・壁!」
半透明の壁が立ち上がる。
その中心へ黒の眼を流した瞬間、壁全体が濁り、崩れ落ちた。
「今のは壁を作ってから流した」
「同時にやるのが難しいんだよ」
「敵は待ってくれない」
「今日、それ何回言うんだ」
二度目。
今度は最初から黒を流したが、黒の力が強すぎて壁の形にならない。
三度目は壁だけが完成し、黒い筋が途中で途切れた。
四度目には、黒の眼から血が流れた。
それでも光留は両手を下ろさなかった。
「もう一度」
透明な壁を作る眼力。
その中心へ流す黒の眼。
二つを混ぜるのではない。
壁の形を作りながら、その中に一本だけ別の道を通す。
「一式――黒壁!」
光留の前へ、新たな壁が立ち上がった。
半透明の壁の中央を、太い黒の筋が縦に走っている。
先ほどまでとは違い、二つの眼力が互いを壊していない。
「伊織」
「待ってました」
伊織の右眼が燃える。
「灼!」
刀を伝った白い火線が、黒壁へ一直線に放たれた。
同時に、蓮が大きな石を投げる。
眼力の火線と、実物の石。
二つが同時に迫る。
白い火線が黒壁へ触れた。
中央の黒い筋が広がり、火線を吸い込んでいく。
白い光が黒へ呑まれ、壁の手前で消えた。
直後、石が壁へ激突する。
黒の力は反応しない。
通常の壁として衝撃を受け、表面へ亀裂が走った。
「耐えろ!」
光留は壁を作る眼力を増やす。
吸収した火の眼力が黒の眼へ流れ込み、右眼の奥で暴れ始める。そこへ石の衝撃が加わり、壁全体が大きく揺れた。
すべての眼力を壁へ回せば、自分の身体を守る外纏が消える。
光留は壁を支えながら、残った眼力を両腕へ流した。
吸収し切れなかった熱が壁を抜ける。
熱風が身体を襲う。
両腕の外纏が熱を受け止めた。
壁の亀裂が広がる。
黒い筋も膨らみ、形を崩そうとする。
「まだだ……!」
光留は歯を食いしばった。
壁、黒の眼、そして自分の身体。
三つへ流す眼力を、一つずつ調整する。
石が砂へ落ちた。
白い火線も完全に消える。
黒壁は亀裂だらけになりながらも、最後まで残っていた。
光留が両手を下ろす。
壁が黒い粒となって消えた。
同時に力が抜け、光留はその場へ膝をついた。
「できた……」
伊織が駆け寄る。
「本当に一日でやったな」
蓮は光留の前へ立った。
褒めるでもなく、笑うでもなく、消えた黒壁の跡を見つめている。
「ようやく入口だ」
蓮が言った。
「明日は二式・黒爪、三式・黒縛、四式・黒刃、五式・黒霧。残りすべてへ黒を通す」
「六式は?」
光留が顔を上げる。
蓮の表情が変わった。
「六式・殲は、ほかの術とは違う」
蓮は岩場の向こうに連なる砂丘を見た。
「あれは防御を壊す技じゃない。奥にいる者を貫くための必殺だ」
「黒を乗せたら、どうなる」
「俺にも分からない」
蓮は光留の黒い眼を見つめた。
「だから明日は、必ず俺の指示に従え。射線の先に誰もいないことを確認するまで、絶対に放つな」
太陽が砂丘の向こうへ沈んでいく。
修行に残された時間は、あと一日。
光留は火傷した右手で、父の刀を握り直した。
黒い砂硝子が夕日の最後の光を受け、静かに揺れていた。




