第二十八話 砂都の休日
コロシアムを出た三人は、大通りから離れた小さな宿へ入った。
厚い石壁で造られた部屋は、外の熱を遮るため薄暗い。窓も人の顔ほどの大きさしかなく、乾いた風が細く流れ込んでいた。
蓮は扉へ鍵をかけ、さらに椅子を置いてから話し始めた。
「地下に捕まっていた者たちは、すぐには移されない」
「確かなのか?」
光留が尋ねる。
「ああ。見張りが話していた。大会が終わった夜、砂漠の地下水路を使って一斉に運び出すらしい」
蓮は机の上へ、地下で拾った古い木札を置いた。
表面には眼の種類と眼級、その下に売却先を示すらしい記号が刻まれている。
「大会の間は、買い手が出場者の眼を見定めている。だから捕らえた者を動かさない」
「なら、救い出すまで三日ある」
伊織が言った。
「三日しかない、の間違いだろ」
蓮は窓から外を確認した。
「それに、今すぐ地下へ戻れば俺が侵入したことに気づかれる。しばらくは何も知らない出場者のふりをした方がいい」
光留は納得できない気持ちを抑えながら、椅子へ腰を下ろした。
今すぐにでも地下へ向かいたい。
だが、自分たちが捕まれば、水の眼の少女もほかの囚人も救えなくなる。
「まず身体を休めろ」
蓮が光留の右肩を指さす。
「その状態で戦士の眼と戦えば、武器を一つ出される前に死ぬ」
「言い方ってものがあるだろ」
伊織が口を挟む。
「お前も脚を引きずってるぞ」
「俺は火の眼だからな。傷も気合いで燃やせる」
「できるなら治療所でやってるだろ」
蓮の返しに、伊織が黙る。
光留は思わず笑った。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
翌朝。
「町へ行くぞ!」
伊織の声で、光留は眼を覚ました。
窓の外では、まだ朝の鐘が鳴ったばかりだった。傷の痛みは昨日より軽くなっているが、右肩を大きく動かすと鈍い痛みが残っている。
「修行するんじゃないのか?」
光留が身体を起こす。
「修行は明日からだ。今日は大会側が決めた休養日だぞ」
「だからこそ時間を無駄にできない」
「蓮も町へ行くって言ってる」
部屋の隅を見ると、すでに外套を着た蓮が立っていた。
「地下水路の出口を探すには、町の地図が必要だ。食料と水も買うぞ」
「ほら、情報収集だ」
伊織が得意げに言う。
「お前は飯を食いたいだけだろ」
「それの何が悪い」
光留は諦めて寝台から降りた。
三人が宿を出ると、朝の砂漠とは思えないほど涼しい風が吹いていた。
夜の間に冷えた石畳にはまだ熱がなく、店主たちが軒先へ水をまいて砂埃を抑えている。町の向こうでは、昇ったばかりの太陽が砂丘を橙色に染めていた。
市場へ近づくにつれ、通りは色鮮やかになっていった。
建物の間には赤や青、黄色の大きな布が渡されている。布を通った日差しが石畳へ色の影を落とし、その下に無数の露店が並んでいた。
「昨日は気づかなかったけど、すごいな」
伊織が周囲を見回す。
香辛料、織物、装飾品、武器、果物。
店先には見たことのない品々が山のように積まれ、商人たちの呼び声が四方から飛んでくる。
「そこの三人! 朝一番の焼きたてだ!」
大きな鉄板を置いた店から、肉の焼ける音が聞こえた。
薄い生地の上に串から外した肉を載せ、細かく刻んだ野菜と赤い香辛料を包んでいる。
「うまそうだな」
伊織が迷わず近づく。
「赤、黄、黒。辛さは三つだ。どれにする?」
店主が三種類の壺を指さした。
「一番辛いのをくれ」
「黒か。本当にいいのか?」
「俺は火の眼だぞ。熱いものには慣れてる」
光留と蓮は顔を見合わせた。
「好きにしろ」
蓮が言う。
三人はそれぞれ肉を包んだ生地を受け取った。
光留は黄色、蓮は赤、伊織は黒い香辛料がたっぷり塗られたものを選んだ。
「うまい!」
最初に声を上げたのは伊織だった。
「辛さなんて全然――」
言葉が止まる。
伊織の顔がみるみる赤くなった。
「……水」
「火の眼なら平気なんじゃなかったのか?」
光留が笑う。
「これは火じゃない! 痛みだ!」
伊織は通りの反対側にある飲み物の店へ駆け込んだ。壺から冷たい果実水を注いでもらい、一息で飲み干す。
「もう一杯!」
「一杯で銅貨三枚だよ」
「いくらでも払う!」
光留が笑っていると、隣で蓮も肩を揺らしていた。
「お前も笑ってるだろ!」
「笑ってない」
「眼を逸らしながら言うな!」
伊織の叫びに、周囲の客まで笑い始めた。
三人は食事を終えると、市場の奥へ進んだ。
砂除けの外套を扱う店では、伊織が赤、光留が黒に近い紺色の布を選んだ。
蓮は何も買うつもりがないと言っていたが、店主に勧められ、深い赤色の外套を肩へかける。
「似合うじゃないか」
光留が言う。
「血の眼だから赤って、安直すぎないか?」
「俺が選んだんじゃない」
「でも買うんだろ?」
「砂が入るよりはましだ」
蓮は代金を置き、そのまま外套を着て歩きだした。
次の通りには、砂硝子を使った装飾品が並んでいた。
砂漠へ落ちた雷の熱によって生まれる硝子らしく、一つとして同じ形のものはない。透明なもの、青く輝くもの、内部に金色の筋が走っているもの。
光留は、その中に小さな黒い硝子を見つけた。
丸い表面の中心に細い光が入り、眼のように見える。
「黒の眼だな」
伊織が横から覗き込む。
「別に、似てるから見てただけだ」
「父親の刀につければいいんじゃないか?」
店主が細い紐を通してくれた。
光留は少し迷ったあと、黒い砂硝子を買った。父から受け継いだ刀の柄尻へ結ぶと、歩くたびに小さな光を反射した。
「悪くないな」
蓮が言った。
「お前がそういうこと言うの、珍しいな」
「なら取り消す」
「遅い」
三人はさらに市場を歩いた。
通りの中央には人だかりができていた。
木の板に大小の的が取りつけられ、それぞれが違う速さで回転している。客は五本の細い鉄針を投げ、的の中心へ当てた数に応じて景品をもらえるらしい。
「蓮、あれ得意だろ」
伊織が言う。
「やらない」
「自信がないのか?」
蓮の足が止まった。
「安い挑発だな」
「効いてるじゃないか」
蓮は店主へ銅貨を渡し、五本の針を受け取った。
最初の的は左右へ動き、二つ目は回転している。三つ目は手前の板に隠れ、ほんの一瞬しか姿を見せない。
蓮は狙いを定める様子すら見せなかった。
一本目。
中心。
二本目も中心。
三本目、四本目も、吸い込まれるように同じ場所へ突き刺さる。
最後の的が板の陰から現れる。
蓮は後ろを向いたまま、手首だけで針を投げた。
鉄針が板の隙間を通り、的の中心へ突き刺さった。
周囲から歓声が上がる。
「今のは反則だろ!」
伊織が叫ぶ。
「どこがだ」
「忍びの技を遊びに使うな」
「使えと言ったのはお前だ」
店主は呆然としながら、一等と書かれた箱を差し出した。
中には高価そうな装飾品や小刀が入っている。
蓮はそれらを見たあと、端に積まれていた小さな袋を取った。
「それでいいのか? 中身は焼き菓子だぞ」
「ああ」
蓮は袋を受け取ると、何事もなかったように歩きだした。
「甘いものが好きなのか?」
伊織が追いかける。
「保存が利くから選んだだけだ」
蓮は袋から蜜のかかった焼き菓子を一つ取り出し、口へ入れる。
「食べるの早くないか?」
「味を確かめただけだ」
「もう二つ目を取ってるぞ」
光留が笑うと、蓮は無言で袋を閉じた。
昼を過ぎる頃には、三人の両手は買った物でふさがっていた。
水、干し肉、砂除けの布、地下水路を記した古い地図。必要な物だけを買うはずが、伊織の腕には香辛料の袋と、露店で見つけた妙な形の木彫りまで抱えられている。
「それは何に使うんだ?」
光留が木彫りを指さす。
「知らない。でも、この島の守り神らしい」
「店主は幸運を呼ぶ鳥だと言ってたぞ」
「鳥なのか、これ」
「お前、分からずに買ったのか」
夕方になると、市場の天幕が一枚ずつ外されていった。
傾いた太陽が通りへ差し込み、白い石壁を赤く染める。代わりに軒先へ小さな灯りがつるされ、町全体が昼とは違う色に変わり始めた。
三人は町の外れにある高台へ上った。
眼下には、砂色の建物と巨大なコロシアムが広がっている。その先には終わりの見えない砂丘が続き、夕日を受けて金色から赤紫へ色を変えていた。
「綺麗だな」
伊織が高台の縁へ腰を下ろす。
蓮も少し離れた場所へ座ろうとした。
「蓮、こっちで食べよう」
光留が呼ぶ。
蓮は一瞬だけ足を止めた。
血の眼でも、里の裏切り者でもない。
ただ名前を呼ばれたことに、わずかに戸惑ったようだった。
蓮は何も言わず、二人の隣へ腰を下ろした。
三人で残った焼き菓子を分ける。
「情報収集の割には、随分楽しんでたな」
光留が言う。
「町へ溶け込むのも潜入の一部だ」
蓮が答える。
「焼き菓子を五つ食べるのもか?」
伊織が聞く。
「数えてたのか」
「やっぱり五つ食べてたんだな」
蓮が伊織を睨む。
三人の笑い声が、夕方の風へ流れていった。
光留は笑いながらも、ふとコロシアムへ眼を向けた。
あの地下には、今も大勢の人が囚われている。
自分たちだけが楽しんでいることへ、わずかな罪悪感を覚えた。
「こんなことしていて、いいのかな」
光留の呟きに、伊織が横を向く。
「地下にいる人たちは、今も苦しんでる」
答えたのは蓮だった。
「だからこそ、今休んでおけ」
「でも――」
「焦って動いて捕まれば、救える者も救えない。疲れた身体で修行しても、覚えられるものは半分だ」
蓮は残った焼き菓子を光留へ投げる。
「休めるときに休み、食えるときに食う。それも戦うための準備だ。親父がよく言ってた」
光留は受け取った焼き菓子を見つめた。
「蓮の父親が?」
「ああ。六式を作ったくせに、甘い物ばかり食べてる変な人だった」
「お前が甘い物を好きなのも父親譲りか」
伊織が言う。
「違う」
蓮は即答した。
三人の前で、太陽が砂丘の向こうへ沈んでいく。
光留は腰から父の刀を外し、膝の上へ置いた。柄尻につけた黒い砂硝子が、最後の光を受けて輝く。
「戦士の眼が作った武器は、すべて眼力でできていた」
光留が言った。
「この刀へ黒の眼を流せれば、触れた武器を吸収できる」
「忍術へも乗せたいんだろ」
蓮が続ける。
光留はうなずいた。
「前の試合では失敗した。完成した縛へ黒を流した瞬間、術そのものが崩れた」
「当然だ」
蓮は自分の親指を噛んだ。
小さな傷から、血が流れ出す。
「お前は、完成した忍術の外側から黒を塗ろうとした。それじゃ二つの眼力がぶつかる」
蓮が右手を振る。
「忍術――四式・刃」
薄く長い眼力の刃が現れる。
指先から流れた血が、完成する前の刃の中心へ入り込んだ。透明だった刃に赤い筋が走り、全体が血のような色へ変わる。
「血刃」
蓮が軽く振るう。
赤い刃が高台の石へ触れた瞬間、その内部へ血が染み込んだ。次の瞬間、石の内側から無数の赤い刃が突き出す。
「能力は外へ乗せるんじゃない。忍術を作る最初から、中心に通り道を残す」
血刃が赤い霧となって消える。
「明日の夜明け、町の東門へ来い」
「教えてくれるのか?」
「まずは眼力を身体へ流すところからだ。それすら意識できていない奴に、黒を乗せた忍術は扱えない」
伊織が立ち上がる。
「俺も行く」
「当然だ」
蓮が答えた。
「お前には光留を攻撃してもらう」
「修行の手伝いって、そういうことか」
「火の技をたくさん使いたいんだろ」
伊織が楽しそうに笑った。
「任せろ。遠慮なく燃やしてやる」
「俺の修行だよな?」
光留の問いに、二人は答えなかった。
日が完全に沈み、町に無数の灯りがともる。
三人は買った荷物を持ち、高台から町へ戻った。
今度は蓮も少し離れて歩かず、光留と伊織の隣に並んでいた。
残された時間は、あと二日。
次の夜明けから、光留の新たな修行が始まる。




