第二十六話 三秒先の勝者
鉄の眼と針の眼との試合を終えた光留と伊織は、闘技場の脇に設けられた簡易治療所へ運ばれた。
光留の右肩には針の眼が放った針が深く刺さり、伊織の左脚にも細い針が残っていた。
「動くなよ」
治療師が光留の肩から針を引き抜く。
針の先端には、わずかに返しがついていた。抜ける瞬間に傷口が広がり、光留の肩から新たな血が流れる。
「思ったより痛いな……」
「お前でも痛いって言うんだな」
隣で脚の手当てを受けていた伊織が笑った。
「当たり前だ」
「黒の眼なら痛みも吸えるんじゃないのか?」
「吸えるのは眼力だ。痛みまで消せたら苦労しない」
軽口を交わしながらも、光留は自分の右手を見つめていた。
忍術と黒の眼。
どちらも自分の力でありながら、同時に扱おうとすれば互いの形を崩してしまう。鉄の眼との戦いでは、黒の力を切り離したことで勝利できた。
だが、いつまでも別々に使っているだけでは、さらに上の相手へ届かない。
「考えるのはあとにしろ」
伊織が立ち上がった。
「次の試合が始まるぞ」
二人が選手用の観覧席へ戻ると、白髪の老人と若い男が闘技場へ入ってくるところだった。
『続いて第六試合! 未来を見通す白髪の老兵――未来の眼! そして、触れたものへ灼熱を与える若き闘士――熱の眼!』
白髪の老人は、長い杖を手に砂の上を歩いていた。
その足取りは遅い。
隣を歩く熱の眼の若者が老人へ速度を合わせているため、二人が入場するまでに少し時間がかかった。
しかし、老人に焦りはない。
観客の声にも相手の姿にも反応せず、これから起きることをすでに知っているように、静かに中央へ進んでいく。
『対するは、目にも留まらぬ速さで敵を打つ速の眼! その身体を大地へ縫い止める重の眼!』
反対側から二人の男が現れた。
速の眼は小柄で、身体の余分な肉を極限まで削ぎ落としている。踵を何度も浮かせ、開始の合図を待ち切れない様子だった。
重の眼は大柄だが、鉄の眼ほど筋肉質ではない。黒い布で覆った両腕を胸の前で組み、熱の眼の若者だけを見つめていた。
「速さで老人を狙い、重さで若い方を止めるつもりか」
伊織が言った。
「分かりやすいけど、効きそうだな」
未来の眼が攻撃を予測できても、本人の身体は年齢相応に衰えている。避けられない速度で攻め続ければ、いずれ捕まえられる。
その間、攻撃役である熱の眼を動けなくしておけばいい。
速の眼と重の眼は、老人の弱点を正確に狙った組み合わせだった。
「どう思う?」
伊織が尋ねる。
「まだ分からない」
光留は老人から眼を離さなかった。
「ただ、あの老人も同じことは分かっているはずだ」
開始を告げる太鼓が鳴る。
『始め!』
重の眼が真っ先に右手を開いた。
「重の眼――重圧!」
熱の眼の若者を、黒い眼力が包み込む。
若者の両脚が砂へ沈んだ。
「ぐっ……!」
突然、体重が何倍にも増えたように膝が曲がる。踏ん張ろうとした足がさらに沈み、腰の辺りまで砂が盛り上がった。
「まず一人!」
同時に、速の眼が地面を蹴った。
姿が消える。
次に見えたときには、すでに老人の眼前へ迫っていた。
速の眼の右拳が、老人の顔へ伸びる。
しかし、老人は攻撃が始まる前から左へ身体を傾けていた。
拳が白髪を揺らし、空を切る。
老人は杖の先を、速の眼の前足へ軽く当てた。
「なっ――」
全速力で走っていた男の足が、わずかに外側へずれる。
それだけで十分だった。
速の眼は自らの勢いを制御できず、老人の横を通り過ぎて砂の上を転がった。
「遅い身体で速さに勝った……?」
伊織が身を乗り出す。
「違う」
光留には見えていた。
「あの老人は、相手が動くより前に避け始めていた」
速の眼が砂を蹴り、すぐに立ち上がる。
「偶然だ!」
再び姿が消えた。
今度は正面からではない。
老人の周囲を高速で走りながら、何度も方向を変える。砂煙によって円が描かれ、どこから攻撃するのか分からなくなる。
老人の右眼が、淡い銀色へ変わった。
瞳の奥に、細い輪が三つ浮かぶ。
「右後ろ」
老人が呟く。
振り向かずに杖を背中へ回す。
直後、速の眼が右後方から現れた。
突き出した拳が杖へ当たり、軌道を上へ逸らされる。
「左、低い」
老人が半歩下がる。
速の眼が姿勢を低くし、左側から足払いを放った。老人の足がそこにあったのは、ほんの一瞬前までだった。
「次は上じゃ」
速の眼自身が聞くより早く、老人の杖が持ち上がる。
振り下ろされた踵が杖へ受け止められた。
老人は速くない。
力も強くない。
それでも、すべての攻撃に間に合っていた。
攻撃が来る場所へ、来るより先に杖を置いている。
「三秒か」
光留が呟いた。
「何が?」
「あの老人が見ている未来だ。動き出してから攻撃が届くまで、大体三秒。その間に立つ場所を変えている」
「三秒先が見えるだけでも十分厄介だぞ」
「ああ。普通に攻めるだけなら、触ることすらできない」
速の眼は攻撃を続けていた。
右、左、正面、背後。
拳、蹴り、砂を使った目潰し。
攻撃方法を変えるたび、老人の銀色の眼に浮かぶ輪が揺れる。
老人の動きは最小限だった。
首を傾ける。半歩ずれる。杖を置く。
そのわずかな動きだけで、速の眼の攻撃をすべて外していく。
だが光留は、老人が未来を視るたびに呼吸を一瞬止めていることに気づいた。
速の眼が攻撃を変化させるほど、老人が未来を視る時間も長くなっている。
「未来が一つじゃないからか」
相手が右から来ると決めていれば、未来は読みやすい。
しかし、右、左、上、下と選択肢が増えれば、その数だけ未来も枝分かれする。
すべてを同時に見ようとすれば、老人の眼と頭へ大きな負担がかかる。
「おい、爺さん!」
砂へ沈んだ熱の眼が叫んだ。
「そろそろ反撃していいか!」
老人は速の眼から攻撃を受け流しながら答えた。
「右の手のひらを、砂へつけろ」
「もうつけてる!」
「なら七つ数えろ。七つ目で、すべて放て」
「分かった!」
熱の眼は身体を持ち上げようとするのをやめた。
重さへ逆らわず、右手を砂の奥へ押し込む。
腕から赤い眼力が流れ出した。
砂の中へ熱が広がっていく。
表面に変化はない。
熱は地中へ蓄えられ、少しずつ闘技場の下を進んでいた。
「何をしている?」
重の眼が異変に気づく。
熱の眼へ向けていた力をさらに強めた。
若者の身体が肩まで沈む。
「一つ」
熱の眼は笑っていた。
「二つ」
老人へ攻撃を続けていた速の眼が苛立ちを見せる。
「避けてばかりで、勝てると思うな!」
速の眼が左右へ大きく動いた。
老人の未来を分岐させ、眼へ負担をかける。その狙い自体は正しかった。
銀色の瞳に浮かぶ輪が激しく揺れ、老人のこめかみを汗が伝う。
「四つ」
重の眼が老人の異変を見逃さなかった。
「そっちも動けなくしてやる!」
熱の眼へ向けていた右手を老人へ向け直す。
黒い眼力が老人を包む。
身体へ突然強い重さがかかり、老人の両脚が砂へ沈んだ。
「捕まえた!」
速の眼が正面から突進する。
今度こそ老人は動けない。
「六つ」
老人は杖を地面へ突き、倒れそうになる身体を支えた。
速の眼の拳が胸元へ迫る。
老人は避けなかった。
ただ、静かに告げた。
「七つじゃ」
「熱の眼――焦土!」
地中へ蓄えられていた熱が、一斉に解き放たれた。
闘技場の砂が赤く輝く。
強烈な熱気が足元から噴き上がり、速の眼の視界が大きく揺らいだ。踏み込んだ足の下で砂が崩れ、体勢が前へ傾く。
重の眼も足元の熱に耐えられず、集中を切らした。
老人へかかっていた重さが消える。
「未来どおりじゃ」
老人が身体を半歩だけ横へずらす。
速の眼の拳は老人を外れ、そのまま前へ伸びた。
老人は杖の先を男の腹へ当てる。
力は込めていない。
突進の方向を、ほんのわずかに外側へ変えただけだった。
速の眼は自らの勢いによって場外線を越え、闘技場の壁へ激突した。
『速の眼、場外!』
「くそっ!」
重の眼が熱の眼へ力をかけ直そうとする。
だが、もう遅い。
身体の重さから解放された若者が、熱せられた砂の中から飛び出していた。
一気に間合いを詰め、重の眼の右手首をつかむ。
「捕まえた」
熱の眼の腕が赤く輝く。
重の眼の手首から白い煙が上がった。
「あ、熱いっ……!」
「まだ皮膚だけだ。このまま続ければ、次は肉、その次は骨まで熱が届く」
若者がさらに温度を上げようとする。
「そこまでじゃ」
老人の声が飛ぶ。
熱の眼は不満そうにしながらも、それ以上は力を強めなかった。
「降参しろ。爺さんが止めろって言わなきゃ、もっと熱くしてるところだ」
「こ、降参だ!」
重の眼が叫んだ。
試合終了の太鼓が鳴り響く。
『勝者――未来の眼、熱の眼!』
大歓声の中、白髪の老人は杖をついてゆっくりと出口へ向かった。
試合時間は、わずか一分にも満たない。
「強いな」
伊織が素直に認めた。
「若い方だけじゃない。あの老人が全部動かしていた」
光留は老人の背中を見つめていた。
熱の眼が力を解放する場所も時機も、速の眼が踏み込む方向も、重の眼が狙いを変える瞬間も、老人はすべて先に見ていた。
「でも、限界はある」
「あの眼の負担か?」
「ああ。それに、見ていたのは三秒ほど先だけだ。未来の数を一度に増やせば、すべてを追い切れなくなる」
「だったら、俺が百個くらい技を出せばいいな」
「その前にお前が倒れる」
「さっきは九つ使っても勝っただろ」
「今、脚を引きずってるけどな」
伊織が言い返そうとしたとき、退場口へ向かっていた未来の眼の老人が足を止めた。
ゆっくりと振り返り、遠く離れた光留と眼を合わせる。
老人の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
まるで、自分の能力の限界へ光留が気づいたことまで、見通していたかのようだった。
◇
その頃、蓮はコロシアムの地下を進んでいた。
「忍術――五式・霧」
身体を薄い眼力の霧で覆い、気配と足音を消す。
忍術だけでも見張りの眼を避けることはできた。
前方では、鉄の眼と針の眼を乗せた担架が運ばれている。
地下通路の壁には、地上のコロシアムとは異なる古い石が使われていた。所々に細い水路の跡が残っているが、水は完全に枯れ、底には乾いた砂が積もっている。
通路はコロシアムの真下だけでは終わっていなかった。
さらに島の内陸へ向かって伸びている。
「鉄の眼、硬化強度は高。針の眼、精密操作に優れる」
担架の横を歩く男が、手元の板へ文字を書き込んでいる。
「二人とも一回戦敗退だぞ。買い手がつくのか?」
もう一人の男が尋ねる。
「勝敗は関係ない。必要なのは眼の価値だ」
「鉄の眼は兵士用、針の眼は暗殺用と言ったところか」
「上へ送って判断させる。値がつかなければ、眼だけ抜けばいい」
蓮の表情から笑みが消えた。
やはり、ここは治療所ではない。
大会そのものが、価値ある眼を探し出すための選別場になっている。
男たちは鉄の扉を開き、担架を奥へ運び込んだ。
蓮も霧で気配を消したまま、その隙間を抜ける。
扉の先には、広い地下空間があった。
左右の壁に鉄格子が並び、その中には何人もの人間が閉じ込められている。腕や脚に包帯を巻いた者、眼を布で覆われた者、薬によって意識を失っている者。
試合で敗北した者だけではない。
子供や老人、明らかに戦士ではない者まで囚われていた。
格子の前にはそれぞれ木札が掛けられている。
眼の種類。
推定される眼級。
用途。
そして売却先。
「胸くそ悪い場所だな」
蓮は声を殺して呟いた。
鉄の眼と針の眼が別々の牢へ入れられる。
二人はまだ意識を失ったままだった。
「次の試合で、また二人増える」
「今夜中に奥へ運ぶぞ。砂漠の水路を使えば、人目につかずに済む」
「優勝者は?」
「優勝者には、あの御方が直接会う」
男たちの声が遠ざかっていく。
蓮はさらに奥へ進もうとした。
そのとき、足元へ一滴の水が転がってきた。
地下に残る水路は枯れている。
天井にも、水が染み出した跡はない。
それでも透明な水滴は、砂の傾きに逆らって蓮の足へ近づいてきた。
「こっち……」
かすかな声が聞こえる。
蓮が振り向く。
一番奥の牢に、一人の少女が座っていた。
長い髪は砂と埃で汚れ、細い両腕には黒い枷がはめられている。顔を上げた少女の右眼は、透き通った水のような青色をしていた。
水滴は少女の指先へ戻り、空中で小さく震えた。
「水の眼か」
蓮が牢へ近づく。
砂漠では、水は命そのものだ。
その水を生み、操る眼がどれほどの価値を持つのか、考えるまでもない。
「声を出すな。見張りに気づかれる」
蓮が言うと、少女は小さくうなずいた。
「助けに来た人ですか?」
「今のところは、ただの侵入者だ」
「それでも……お願いします」
少女は鉄格子へ手をかけた。
「兄を止めてください」
「兄?」
「兄は、私を助けるために大会へ出ています」
少女の眼から一筋の涙が流れた。
その涙は頬から落ちず、指先へ集まって小さな水の球になる。
「あの人たちは、兄に言いました。大会で勝ち続ければ、私を解放するって。でも、嘘なんです」
「どうして分かる?」
「聞いたんです。兄が優勝したら、兄の眼も奪うって。私と一緒に、砂漠の奥へ運ぶって……」
少女が鉄格子を握る手へ力を込める。
「兄は、私が殺されると思っているから降参できません。相手が倒れても、動かなくなるまで戦い続けます」
地上から、次の試合を告げる太鼓が鳴った。
地下空間の天井から砂が落ちる。
続いて、観客の歓声と拡声器を通した男の声が、細い通気口から響いてきた。
『次なる試合! その身一つで百の武器を打ち砕く男!』
少女の顔から血の気が引く。
『南の島が誇る、戦士の眼!』
「兄……」
少女が震える声で呟いた。
地上から、獣の咆哮にも似た雄叫びが響き渡る。
蓮は頭上を見上げた。
戦士の眼の試合が、始まろうとしていた。




