第二十五話 鉄壁と針雨
『第一回戦、第五試合!』
太鼓の音が、コロシアム全体を震わせた。
『東門より、黒の眼――葛城光留! 火の眼――橘伊織!』
光留と伊織が闘技場へ足を踏み入れる。
頭上から降り注ぐ日差しは強く、砂は足裏を焼くほど熱せられていた。円形の観客席を埋め尽くした人々が、二人の眼を見て歓声を上げる。
『対する西門! あらゆる攻撃を阻む鉄の眼! その守りの陰より急所を射抜く針の眼!』
反対側の門から、巨漢と細身の男が現れた。
鉄の眼の男が一歩進むたび、砂の中へ深い足跡が刻まれる。その後ろを歩く針の眼の男は、すでに両手の指へ何本もの針を挟んでいた。
「黒の眼は俺が潰す」
鉄の眼が光留を指さした。
「火の眼は任せる」
針の眼が短く答える。
試合が始まる前から、二人は迷うことなく役割を決めていた。
「随分と慣れてるな」
伊織が刀の柄へ手をかける。
「あの二人は互いの動きを理解してる。別々に戦わされたら、相手の思うつぼだ」
「なら、離れないようにするか?」
「いや」
光留は鉄の眼と針の眼の位置を見た。
「離れても戦えるようにする」
伊織が一瞬だけ驚いたあと、笑った。
「分かった。合わせる」
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
開始を告げる太鼓が打ち鳴らされる。
『始め!』
最初に動いたのは、鉄の眼だった。
「鉄の眼――鉄殻!」
全身へ灰色の眼力が流れ、皮膚が鈍い金属の光沢を帯びる。男の身体は一回り大きくなったように見えた。
鉄の眼は砂を蹴り上げ、光留へ一直線に突進する。
速い。
重い身体からは想像できない速度だった。
「忍術――一式・壁!」
光留が両手を前へ出す。
眼力が面状に広がり、半透明の壁となって二人の前へ立ち上がった。
直後、鉄の肩が壁へ激突する。
轟音とともに壁全体へ亀裂が走った。
「軽い!」
鉄の眼がさらに踏み込む。
壁が砕け、光留の身体が後方へ押し飛ばされた。
その瞬間、鉄の眼の背後から針の眼が両腕を振り抜いた。
数十本の針が、砕けた壁の隙間を縫って飛来する。
「伊織!」
「分かってる――燃!」
伊織が刀を抜くと、刃を赤い炎が包んだ。
燃え上がった刀を回転させ、正面から迫った針を次々と弾き落とす。
だが、すべてではない。
「後ろだ!」
光留が叫ぶ。
正面を通り過ぎたはずの針が空中で向きを変え、伊織の背中へ迫っていた。
「炎!」
伊織が振り向きながら刀を横へ薙ぐ。
刃から放たれた扇状の炎が針を呑み込み、その軌道を逸らした。焼けた針が砂の上へ降り注ぐ。
「曲がるのかよ」
「俺の針は、狙った場所を外さない」
針の眼が次の針を構える。
その前へ鉄の眼が立った。
二人の姿が重なり、針の眼の手元が完全に隠れる。
光留から見えるのは、鉄に覆われた巨体だけだった。
「来るぞ」
鉄の眼が拳を振り上げる。
光留は横へ跳んだ。
拳が地面へ突き刺さり、大量の砂が巻き上がる。衝撃によって足元が揺れ、光留の体勢が崩れた。
そこへ鉄の肩越しから、三本の針が飛ぶ。
「二式・爪!」
光留の指先から短い眼力の爪が伸びた。
左右の爪を連続して振るい、二本の針を切り落とす。
残る一本が右肩へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
針は深くは入っていない。
だが、抜こうとした瞬間、右腕へ鋭い痺れが走った。
「ただ刺してるんじゃない」
光留は右腕を押さえた。
「筋の動きを狙ってる」
「一か所ずつ、動かなくしてやる」
針の眼が新たな針を作り出す。
「まず右腕。次は左脚。その次は眼だ」
再び無数の針が放たれた。
「煙!」
伊織が刀の炎を砂へ押しつける。
火が一瞬で黒い煙へ変わり、闘技場を広く覆った。観客席から二人の姿が見えなくなる。
「隠れたところで無駄だ!」
針の眼が煙の中へ針をばらまく。
針は適当に放たれているのではない。足音と砂が擦れる音を拾い、光留たちがいる場所へ正確に飛んでいた。
「忍術――五式・霧」
光留の眼力が、煙の内側へ薄く広がった。
伊織の煙が姿を隠し、光留の霧が気配を消す。
音だけを頼りに飛んでいた針が、二人のわずかに横を通過した。
「気配が消えた?」
針の眼の表情が初めて変わる。
「伊織、右へ回れ。俺が鉄を止める」
「ああ!」
二人は煙の中で左右へ分かれた。
鉄の眼が巨腕を振り回し、煙を吹き飛ばそうとする。
「小細工を!」
光留はその背後へ回り込み、両手を組んだ。
「三式・縛!」
縄状の眼力が砂の中から伸び、鉄の眼の両腕と両脚へ巻きついた。
光留は縛へ、黒の眼の力を流そうとする。
忍術へ黒水を重ねられれば、縛りながら鉄の眼の眼力を吸収できる。相手の硬化を内側から弱められるはずだった。
しかし、黒い眼力が縄へ触れた瞬間、整っていた形が大きく歪んだ。
縛の表面が黒く濁り、繊維のようにほどけ始める。
「まだ駄目か……!」
忍術と黒の眼。
光留は二つの力を使えても、それらを一つにはできない。
西島の上級忍者たちのように、眼の能力を忍術へ乗せることは、今の光留にはできなかった。
無理に黒の力を流せば、術そのものが崩れる。
光留はすぐに黒い眼力を切り離し、純粋な忍術だけで縛を維持した。
「そんな細い縄で、俺を止められるか!」
鉄の眼が全身へ力を込める。
縛が一本ずつ引きちぎられていく。
「止める必要はない」
光留が答える。
「一呼吸あれば十分だ」
煙の向こうから伊織が現れた。
すでに刀の切っ先を砂へ触れさせている。
「燎!」
伊織が鉄の眼の周囲を走りながら、刀で砂へ細い円を描いた。
赤い火線が鉄の眼を囲む。
縛を引きちぎった鉄の眼が一歩踏み出すと、円から炎が立ち上がった。
「この程度の火で!」
鉄の眼は構わず炎の輪を越える。
「なら、もっと熱くしてやる――熾!」
伊織が刀の柄を強く握る。
火の輪が赤から青白い色へ変わった。
熱波が闘技場を駆け抜け、観客席の最前列にいた者たちが顔を腕で覆う。鉄の眼の身体が熱せられ、灰色だった右脚が薄く赤みを帯びた。
「うおおおっ!」
それでも鉄の眼は止まらない。
伊織へ向かって拳を振り下ろす。
「一式・壁!」
光留が伊織との間へ壁を作る。
鉄の拳が激突し、壁が大きくへこんだ。
耐えられない。
光留は壁を正面から支えず、右側だけ眼力を薄くした。
鉄の拳が壁を突き破り、その勢いのまま右へ流れる。鉄の眼の身体が傾き、熱せられた右脚が砂へ深く沈んだ。
「今だ!」
「灼!」
伊織の刀を、一本の白い火線が走った。
広がる炎ではない。
すべての熱を刃の一点へ集中させた、細く鋭い火だった。
伊織が鉄の眼の右膝を斬り抜く。
甲高い金属音が響いた。
刃は完全には通らなかった。しかし、赤く熱せられていた鉄の表面へ、わずかな亀裂が生まれる。
「俺を忘れるな!」
針の眼が煙を抜けて姿を現す。
十本の針が、伊織の背中へ向けて放たれた。
「四式・刃!」
光留が左手を振るう。
薄く長い眼力の刃が空を走り、針の軌道を横から切り裂いた。七本が砂へ落ちる。
残り三本。
一本が伊織の左脚へ刺さり、二本目が脇腹をかすめた。
伊織の動きが鈍る。
三本目が首へ迫る。
「煌!」
伊織の全身から、太陽を直視したような閃光が放たれた。
針の眼が反射的に眼を閉じる。
光を受けた最後の針が軌道を失い、伊織の頬を浅く切って通り過ぎた。
「眼を閉じたな!」
伊織が負傷した脚で砂を蹴る。
「烽!」
刀を振り上げると、針の眼と鉄の眼の間から巨大な火柱が立ち上がった。
二人の視界と進路が、炎によって完全に分断される。
「離れるな!」
鉄の眼が叫ぶ。
だが、針の眼の前にはすでに光留がいた。
「二式・爪!」
左右から繰り出された短爪が、針の眼の手元を連続して襲う。
針の眼は後退しながら針で爪を受ける。一撃、二撃、三撃。細い針と眼力の爪がぶつかるたび、白い火花が飛び散った。
四撃目。
光留の右腕が、肩に刺さった針の痺れによって止まる。
「もらった」
針の眼が光留の顔へ針を突き出した。
光留は避けなかった。
左手だけで三式を組む。
「三式・縛!」
短い縛が針の眼の手首へ巻きついた。
針先が光留の左眼の直前で止まる。
光留は身体をひねり、縛った腕を引き寄せた。
「何っ――」
体勢を崩した針の眼の腹へ、光留の膝が入る。
男の身体が浮き、砂の上を転がった。
針の眼が離れたことで、鉄の眼の動きが一瞬止まった。
その右膝には、伊織がつけた小さな斬り傷が残っている。
伊織はさらに踏み込み、鉄の眼の右肩へ刀を滑らせた。
硬い表面を削り、浅い傷を刻む。
二つの傷へ、小さな火種が残った。
「何度やっても同じだ! そんな傷では俺は倒せん!」
「傷の深さは関係ない」
伊織が刀を納め、右手を握った。
「火種さえ残ればな」
右膝と右肩の亀裂が、内側から赤く輝く。
「刻まれし傷よ、焔となれ――烙!」
二つの傷から同時に炎が噴き出した。
「ぐああああっ!」
鉄の眼が叫ぶ。
外側の鉄を焼いたのではない。
亀裂へ残された火種が、硬化の内側で燃え上がっていた。
右膝の硬化が解け、巨体が砂へ沈む。右腕も動かなくなり、鉄の拳が地面へ落ちた。
「光留!」
「ああ!」
光留が両手を砂へ向ける。
「三式・縛!」
今度は黒の力を混ぜない。
純粋な眼力だけで作られた縄が、鉄の眼の両腕と胴へ幾重にも巻きついた。
鉄の眼は力を込める。
一本目が軋み、二本目へ亀裂が入る。
だが、右肩と右膝の硬化を失った状態では、すぐに引きちぎれない。
伊織が刀を鉄の眼の首へ突きつけた。
「まだやるか?」
鉄の眼は歯を食いしばった。
その視線の先では、針の眼も光留の縛によって両手を封じられている。
二人は初めて、互いに離れた状態で動きを止められていた。
「……降参だ」
鉄の眼の言葉と同時に、試合終了の太鼓が鳴った。
『勝者――葛城光留、橘伊織!』
大歓声がコロシアムを包み込んだ。
伊織は刀を下ろした直後、その場へ片膝をついた。
「さすがに……使いすぎたな」
燃、炎、煙、燎、熾、灼、煌、烽、そして烙。
短い試合の中で火の技を連続して使った代償に、伊織の呼吸は乱れ、刀を握る手も震えていた。
「でも勝った」
光留も右肩へ刺さった針を抜き、伊織の隣へ立つ。
忍術へ黒の眼を乗せることはできなかった。
それでも、一式から五式までを正しく使い分ければ戦える。光留は勝利の喜びと同時に、自分に足りないものを改めて理解していた。
観客席の上段では、熱の眼の若者が腕を組んで二人を見下ろしていた。
「爺さん。黒い眼は最後まで黒の力を使わなかったぞ」
「使わなかったのではない」
白髪の老人が答える。
「使えなかったのじゃ。あの少年の中では、黒の眼と忍術がまだ別々に流れてると見た」
「なら、大したことないな」
「そう思うか?」
未来の眼の老人は細い眼をさらに細めた。
「混ぜられぬと分かった瞬間、あの少年は迷わず二つを切り離した。できぬことに執着せず、今できることで勝つ道を選んだ」
老人は立ち上がり、杖を手にした。
「未完成な者は、未来が変わりやすい。だから面白いのじゃ」
その頃、係員たちが敗北した鉄の眼と針の眼を担架へ乗せていた。
試合中の傷だけを見れば、二人とも意識はあり、自力で歩くこともできる。
それでも係員たちは二人の身体を革帯で担架へ固定した。
「おい、何をしている!」
鉄の眼が身体を起こそうとする。
「治療所へ運ぶだけだ」
「この程度の傷で治療など――」
係員が鉄の眼の口元へ白い布を押し当てる。
巨漢の身体から力が抜けた。
針の眼も同じように意識を失い、二人を乗せた担架が観客から見えない通路へ運ばれていく。
地下通路の暗がりから、その様子を蓮が見ていた。
担架が向かう先は治療所ではない。
さらに地下へ続く、鍵のかかった鉄扉だった。
「勝者だけじゃないのか」
蓮は小さく呟く。
この大会で選別されているのは、優勝者だけではなかった。
敗北しても価値のある眼を持つ者は、誰にも知られず地下へ運ばれている。
鉄扉が開く。
その奥から、生温かい風と濃い血の匂いが流れ出した。
二台の担架を追って暗闇の中へ進んだ。




