第二十二話 月夜の約束
光留たちが鞍馬兵馬を連れて里へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
瀕死の兵馬を見た門番たちは武器へ手をかけたが、光留が事情を話すと、すぐに治療班を呼んだ。
兵馬の右眼から、寄生の眼の気配は消えている。
その報せを聞いた霧生朔兵衛は、驚くより先に蓮を見た。
「兵馬を殺さず、寄生の眼だけを撃ち抜いたのか」
「父の術を、父が作った通りに使っただけだ」
蓮はそれ以上答えず、治療所へ運ばれる兵馬の後を歩いた。
夕刻、里中に鐘が鳴った。
任務に出ている者を除き、すべての忍びが広場へ集められた。見習いも、長く第一線を退いていた老人もいる。
石段の上には朔兵衛と兵馬が並び、その少し離れた場所に蓮が立っていた。
ざわめきが収まるまで待ち、朔兵衛は口を開いた。
「長として、皆に伝えねばならぬ真実がある」
朔兵衛は、朱堂要が六式・殲を作ったことを話した。
殲は人を殺すためではなく、人の内に潜む寄生の眼だけを撃ち抜くための術だったこと。
寄生の眼に身体を奪われた自分が、三人の上級忍へ要の殺害を命じたこと。
そして正気へ戻ったあとも、里の混乱と自らの失脚を恐れ、真実を隠し続けたことを。
「朱堂要は罪人ではない」
朔兵衛の声が広場へ響く。
「寄生された者を救うために戦い、そのために命を奪われた忍びだ。要の名を記録から消した責任は、わしにある」
広場が大きく揺れた。
信じられないと声を上げる者。朔兵衛を責める者。蓮へ恐れるような視線を向ける者。
兵馬が、石段の前へ進んだ。
「要を処刑したのは私だ」
治療を終えたばかりの身体は、立っているだけでも震えていた。
「命令が偽りだと疑いながら、長に逆らうことを恐れた。寄生の眼に恐怖を煽られていたとしても、この足で要を囲み、この手で縛ったことは変わらない」
兵馬は蓮へ向き直り、深く頭を下げる。
「私は生きて裁きを受ける。何度でも、自分のしたことを話す」
蓮は何も答えなかった。
許したわけではない。
だが、血刃を出すこともなかった。
朔兵衛は手にしていた杖を石段へ置いた。
「この告白をもって、わしは長の座を――」
「辞めて逃げるのか」
蓮の声が遮った。
広場にいる全員の眼が、蓮へ集まる。
「父の名を消した奴が、真実を一度話しただけで役目を捨てるな」
「蓮……」
「名前を戻して終わりじゃない。なぜ父が殺され、なぜ里の全員がそれを信じたのか、お前が生きて伝え続けろ」
蓮は朔兵衛をまっすぐ見据えた。
「父の名が二度と消えない里にするまで、長でいろ。そのあとで、逃げずに裁かれろ」
長い沈黙のあと、朔兵衛は杖を拾った。
「……承知した」
朔兵衛は長としてではなく、一人の罪人として蓮へ頭を下げた。
◇
その日のうちに、封印書庫から六式の記録が運び出された。
記録役が里の歴史を刻む石板の前へ座り、削り取られていた一行へ鑿を入れる。
石を打つ音が、夜まで続いた。
『六式・殲 考案者 朱堂要』
新しく刻まれた文字を、蓮は一人で見つめていた。
光留は少し離れた場所で待った。
「名前が戻っても、父は帰ってこない」
「うん」
「こんな石で、全部が終わったことにもならない」
「うん」
蓮が振り返る。
「さっきから、それしか言えないのか」
「他に何を言っても、違う気がする」
蓮はもう一度、父の名を見る。
「……それでいい」
石板へ伸ばした指が、刻まれた三文字をゆっくりとなぞった。
「もう誰にも、父を名のない者とは呼ばせない」
そこへ伊織が駆けてきた。
「今夜、南へ出る商船がある。八雲鉄心が乗った船と同じ航路を通るらしい」
八雲は、要の殺害に関わった最後の一人。
そして寄生の眼が、新たな器にしたと告げた男だった。
「乗るぞ」
蓮は迷わなかった。
「お前も来るのか」
伊織が問う。
「寄生の眼を倒す。それまでは、誰にも俺を裁かせない」
「倒したあとは?」
「戻ってくる。宗玄を殺した罪から逃げるつもりはない」
伊織はしばらく蓮を見たあと、船札を一枚差し出した。
「なら、戻るところまで見張る」
三人分の船札が、月明かりの下で重なった。
◇
南行きの商船は、夜の満ち潮に合わせて出ることになっていた。
港では船員たちが最後の荷を積み、帆柱へ縄を結んでいる。
光留は船着き場を何度も振り返った。
「来ないんじゃないか」
伊織が言う。
「誰が」
「何度も後ろを見てる奴が、それを聞くのか」
「里に忘れ物がないか見てただけだ」
「お前の荷物は、もう船の中だ」
そのとき、暗闇から五つの小石が飛んできた。
光留は反射的に両手を上げる。
「一式――壁!」
薄い黒の壁が広がった。
五つの石が別々の場所へ当たり、乾いた音が一つに重なる。壁は崩れず、小石だけが足元へ落ちた。
「一度だけです」
懐かしい声がした。
倉の屋根から、月白小夜が下りてくる。
「一度はできた」
光留が笑うと、小夜はいつものように表情を変えなかった。
ただ、その手には小さな包みが抱えられていた。
「船で食べてください」
受け取った包みは、まだ温かい。
「団子?」
「二皿分あります。一人で食べないでくださいね」
「小夜が二皿とも譲るなんて、明日は嵐かもしれないな」
「じゃあ、返してください」
「冗談だって」
伊織が小さく笑い、蓮の背中を押した。
「俺たちは先に乗るぞ」
「なぜ俺まで気を遣う」
二人が船へ上がり、船着き場には光留と小夜だけが残った。
波が岸壁へ当たる音が、短い沈黙を埋める。
「一緒に来ないのか」
光留が尋ねた。
「私は里に残ります」
小夜は、背後に広がる忍びの町を見た。
「真実が明らかになったからといって、里がすぐ元へ戻るわけではありません。朔兵衛様を信じられなくなった者も、蓮を恐れる者もいる。これからの方が大変です」
「だから残るのか」
「それに、見習いたちへ五式を教える者も必要です」
「また石を投げるのか」
「あなたより素直な弟子を選びます」
「俺は結構、言うことを聞いてたと思うけどな」
「黒水を使うなと言われた翌日に、使おうとしたのは誰ですか」
光留は答えられなかった。
小夜の視線が、町の中央に立つ三つの印の石碑へ向く。
「私はここで、一級忍を目指します。その先にある三光忍も」
いつもの冷静な声だった。
だが、そこに迷いはなかった。
「里が揺れた今、自分の里から逃げて得られる名ではありませんから」
「そうか」
光留は団子の包みを抱え直した。
「小夜のおかげで、強くなれた」
小夜の眼が、僅かに見開かれる。
「石をぶつけられたことも、毒を飲まされたことも、全部含めて」
「毒を使ったのは私ではありませんからね、」
「でも、止めなかった」
「修行でしたから」
二人は顔を見合わせた。
先に笑ったのは、光留だった。
小夜もほんの少しだけ、口元を緩める。
「私が教えたのは、五つの形だけです」
小夜は静かに言った。
「何度倒されても、自分で失敗の理由を探して立ち上がった。だから、あなたの術になったのです」
足元へ落ちた小石を一つ拾い、光留の手へ載せる。
「これは、次に会うまで預けます」
「返すときも、また投げるのか」
「五つ同時に。今度は壁を壊さず、百回続けて防いでください」
「百回か」
「できないのですか?」
「できる。次に会う頃には、小夜の壁だって壊せるようになってる」
「追いついてもいないのに、もう追い越す話ですか」
「遠いから、目指すんだろ」
それは、三光忍の石碑の前で小夜が言った言葉だった。
小夜は一瞬だけ言葉を失い、やがて頷いた。
「では次に会うとき、私は三光忍になっています」
「俺は、三光忍でも驚くくらい強くなってる」
「約束できますか」
「ああ」
船の鐘が鳴った。
出航の合図だった。
光留は船へ続く板へ片足をかける。
「光留」
呼び止められ、振り返った。
小夜は何かを言おうとして、一度口を閉じた。
「……帰ってきてください」
命令ではなかった。
修行を始めてから初めて聞く、僅かに震えた声だった。
「弟を助けて、寄生の眼を倒す。それから、必ずこの島へ戻る」
「そのとき、石を返してもらいます」
「忘れない」
光留は船へ乗った。
縄が解かれ、岸壁と船の間に黒い海が広がっていく。
伊織が手を上げる。小夜もそれに応えたあと、最後に光留を見た。
月明かりが海の上へ、一本の白い道を作っていた。
その道の端で、小夜は船が見えなくなるまで立ち続けていた。
光留は掌の小石を握る。
これは別れではない。
次に会う日までの、約束だった。




