第二十一話 父の術
夜明け前、里の門に三つの影が並んだ。
黒の眼を持つ葛城光留。火の眼の橘伊織。そして、血の眼を宿す朱堂蓮。
霧生朔兵衛は三人の前に一枚の古びた地図を広げた。赤い印がついているのは、里から半日ほど南へ下った山中にある廃社だった。
「鞍馬兵馬の足取りが、そこで途絶えている」
朱堂要の殺害に関わった五人のうち、いまだ行方の知れない男。元上級忍者にして、鎖の眼の使い手だったという。
「生死を確かめろ。もし寄生の眼に取りつかれているなら――」
朔兵衛の言葉が止まる。
「連れ戻す」
光留が代わりに言った。
蓮は腕を組んだまま、朔兵衛を見ようともしない。
「俺が兵馬を殺すと思って、こいつらを見張りにつけたのか」
「半分はそうだ」
朔兵衛は言い訳をしなかった。
「もう半分は、お前一人では寄生の眼を追いきれぬと判断したからだ」
「……気に入らねえ」
「仲良くする必要はない」
伊織が門の外へ踏み出した。
「同じ敵を見失わなければ、それでいい」
三人は朝霧の中を南へ走った。
廃社に近づくにつれ、鳥の声が消えていった。折れた竹が道を塞ぎ、土の上には何かを引きずった跡が続いている。光留が黒の眼を開くと、草木の間を細い眼力の残滓が這っていた。
「黒い筋がある。蛇みたいに社へ集まってる」
「見えるのか」
蓮がわずかに目を細めた。
「輪郭だけだ。中に何がいるかまでは分からない」
「十分だ。先頭は俺が行く」
「待て」
伊織が二人を止め、小石を一つ拾って参道へ放った。
次の瞬間、地面から無数の鎖が噴き出した。小石を打ち砕き、周囲の木々を締め上げる。鎖は本物ではない。眼力を連ね、硬い輪に変えた忍術だった。
「鎖の眼……兵馬は生きている」
三人は鎖の隙間を抜け、崩れかけた拝殿へたどり着いた。
中には、柱へ自らを縛りつけた老人がいた。腕と胸に何重もの鎖を巻き、右眼を布で覆っている。頬は痩せ、唇は血の気を失っていた。
「鞍馬兵馬だな」
伊織が問うと、老人はうつむいたまま答えた。
「……朱堂要の息子を、連れてきたか」
蓮の足が止まる。
「俺を知ってるのか」
「その眼を忘れるものか。あの夜、要も同じ眼で我らを見ていた」
兵馬の声には、長い年月ですり減った震えがあった。
「私は命令に従った。要を罪人に仕立て、記録から名を消し、処刑場へ引き立てた。寄生の眼に恐れを煽られていたとはいえ……足を動かしたのは私だ」
蓮の指先から血がにじみ、細長い刃へ変わる。
「なら、話は早い」
「ああ。私を殺せ」
兵馬が顔を上げた。布の下から、黒い液が涙のように流れていた。
「こいつは私の中で、南へ向かう仲間を呼び続けている。もう抑えきれん。完全に奪われる前に――要の息子、お前が終わらせろ!」
血刃の切っ先が兵馬の喉元へ向く。
そのとき、蓮の脳裏に父の文字がよみがえった。
『寄生された者を敵と思うな。撃つべきは、その者の中で笑う眼だ』
ほんの一瞬、血刃が揺れた。
「蓮、下がれ!」
光留が叫ぶ。
兵馬の右眼を覆っていた布が弾け飛んだ。眼球の上にもう一つ、黒い瞳が重なっている。柱を砕いて鎖が飛び出し、蓮の肩をかすめた。
『殺せばよかったものを』
兵馬の口から、別の声が漏れた。
『父を奪った男だぞ。憎いだろう、朱堂蓮』
「黙れ」
『殲ならば簡単だ。眼も、頭も、罪も、一息に貫ける』
鎖が拝殿を埋め尽くした。光留は両眼へ眼力を均一に巡らせ、両手を床につく。
「一式――壁!」
黒い壁が半球状に広がり、三人を包んだ。鎖が幾度も叩きつけられる。以前の光留なら、力の偏った一角から砕かれていた。だが今は、どこを打たれても壁の厚さは変わらない。
「長くはもたない! 伊織!」
「分かっている!」
伊織の火が糸のように走った。柱や床を焼かず、兵馬の身体から伸びる黒い筋だけを一本ずつ焼き切っていく。
『熱い、熱いぞ! この身体ごと焼く気か!』
「その声は兵馬じゃない」
伊織は炎をさらに細く絞った。
「人の口を借りなければ叫べない臆病者が、兵馬のふりをするな」
黒い筋が次々にちぎれた。だが寄生の眼は兵馬の眼窩深くへ潜り込み、鎖を狂ったように振り回す。
一本が黒い壁を割り、蓮の脇腹を裂いた。
血が床へ落ちる。
蓮は傷口を押さえなかった。散った血を霧へ変え、兵馬の周囲へ漂わせる。
「五式――血霧」
赤い霧が皮膚へ触れ、呼吸に合わせて揺れる。血の一滴一滴が蓮の眼となり、兵馬の身体を巡る眼力の流れを探った。
「見つけた」
寄生の眼の核は、右眼そのものではない。その奥、視神経へ絡みつく米粒ほどの黒い塊だった。
『撃てるものか』
寄生の眼が笑う。
『少しでも外せば、この男の頭を貫く。父を殺した男を救うために、そこまで危険を冒すのか?』
蓮の指先へ血と眼力が集まる。あの日、三人の上級忍者と三重の壁を貫いた力が、赤い光となって脈打った。
「でかいのが来るぞ!」
伊織が身構える。だが光留は、蓮の指先を見て首を振った。
「違う。小さくしてるんだ」
壁を貫くためではない。人の内に潜む、たった一点だけを撃ち抜くために。
蓮の腕が震えた。怒りを込めれば狙いが広がる。憎しみを足せば、兵馬ごと消し飛ばせる。
「お前は三人を倒したとき、あれだけの壁を貫いて、急所を全部外した」
光留が鎖を押し返しながら言う。
「なら今度は、一つだけを狙える」
「簡単に言いやがる」
「難しいから、お前がやるんだろ」
蓮は息を吐いた。
父の顔はもう、ぼんやりとしか思い出せない。それでも、古い紙に残された言葉だけは鮮明だった。
人を殺すための術ではない。
「六式――」
指先から放たれたのは、轟音を伴う血の槍ではなかった。
「――殲」
髪の毛より細い赤い線が、静かに兵馬の右眼へ吸い込まれた。
一瞬遅れて、黒い瞳だけが大きく見開かれる。
『なぜだ。なぜ、殺さぬ!』
兵馬の眼から黒い塊が弾き出された。蜘蛛のような脚を広げて逃げようとするが、伊織の炎が床を円く囲む。
「逃がさない」
火が閉じ、黒い塊を焼き尽くした。
『南……八雲は、すでに……器に……』
不気味な声を残し、寄生の眼は灰になった。同時に鎖が力を失い、兵馬の身体が前へ倒れる。光留が壁を解いて駆け寄り、その肩を支えた。
「生きてる。呼吸もある」
兵馬はゆっくりと右眼を開いた。焦点は揺れていたが、そこに黒い瞳はない。
「……なぜ、私を助けた」
蓮は血に濡れた指を下ろした。
「勘違いするな。許したわけじゃない」
兵馬を見下ろす眼には、消えない怒りがあった。
「死んで逃げるな。父の名を消したことを、自分の口で里の全員に話せ。誰に命じられ、何を恐れ、何をしたのか、一つ残らずだ」
「……それが、お前の望みか」
「俺の望みは、父の名を取り戻すことだ。お前の死体じゃない」
長い沈黙のあと、兵馬は弱々しくうなずいた。
「分かった。生きて、証言しよう」
三人は兵馬を担ぎ、廃社を出た。朝には薄かった光が、竹林の隙間からまっすぐ差し込んでいる。
「父親の術で、一人救ったな」
光留が言うと、蓮は前を向いたまま答えた。
「父の術だ。俺のじゃない」
「でも、撃ったのはお前だ」
蓮は何も言わなかった。
ただ、血刃を作っていた右手を一度だけ見つめ、静かに握りしめた。




