第十八話 執念
夜明け前、北の見張り道に細い血の跡が見つかった。
跡は古い演武場へ続き、その奥では巡回中の忍びが一人死んでいた。
霧生朔兵衛は、三人の上級忍へ命じた。
「朱堂蓮を捕らえよ。何があっても殺すな」
雪の眼、白峰六花。
竹の眼、篠宮岳。
剣の眼、剣持迅。
三人はいずれも、眼の能力を忍術へ重ねられる上級忍だった。
◇
古い演武場は、長く使われていなかった。
床板は腐り、壁の隙間から伸びた竹が屋根を押し上げている。
中央には、巡回忍びの遺体が横たえられていた。
血の跡は、その遺体の下で途切れている。
「周囲に人の気配はない」
迅の灰色の眼に、細い剣のような光が浮かぶ。
「屋根にも床下にもいません」
六花が遺体のそばへ膝をついた。白い息が広がり、床に残った血が薄い氷で覆われる。
「死後、半刻ほど。身体の血も、すでに冷えています」
「なら、血の跡だけを残して逃げたか」
岳が入口へ手を向けた。
地面から何本もの竹が伸び、扉と窓を塞いでいく。
「どこに隠れていようと、これで外には出られん」
そのとき、六花の眉がわずかに動いた。
凍らせたはずの血が、遺体の傷口へ向かって流れている。
「離れて!」
三人が同時に跳んだ。
遺体の胸から血が噴き上がる。
赤い血は床へ落ちず、空中で人の形を作った。骨が生まれ、腕が伸び、最後に二つの赤い眼が開く。
血の膜を破り、朱堂蓮が姿を現した。
血を失った遺体が、その背後で力なく崩れる。
「死体の血に潜んでいたのか」
迅が眼力の剣を構える。
「死人の血ほど、静かな隠れ場所はないからな」
「その男も、お前が殺したのか」
「俺が来たときには死んでいた」
「信じると思うか」
「信じるかどうかは、お前たちが決めろ」
蓮の赤い眼が細くなる。
「俺は、俺の邪魔をする者を倒す」
迅が最初に動いた。
「剣の眼――剣山!」
床から、無数の眼力の剣が突き上がる。
蓮は血を蹴って横へ跳んだ。一本目をかわし、二本目を腕で受け流す。だが、背後から伸びた三本目が肩を裂いた。
さらに左右から剣が生まれる。
太腿、脇腹、頬。
かわすたびに新たな刃が待ち受け、蓮の身体へ浅い傷を増やしていく。
床へ赤い雫が落ちた。
「竹の眼――竹牢!」
岳が両手を合わせる。
蓮の周囲から太い竹が伸び、互いに絡み合った。天井まで届いた竹が檻となり、蓮の動きを封じる。
「雪の眼――白凍!」
六花の足元から雪が広がった。
床へ落ちた蓮の血が次々と凍り、赤黒い氷へ変わっていく。
「血の眼は、血がなければ何もできない」
六花が告げる。
迅が竹の隙間から剣を向けた。
「終わりだ。抵抗せずに来い」
蓮は肩から流れる血を見た。
苦しげに息を吐いたあと、僅かに笑う。
「勘違いしている」
「何?」
「血を流させたと思っているのか」
竹牢の一本が、内側から赤く染まった。
「俺が、流していたんだ」
蓮が指を曲げる。
「三式――血縛」
竹の空洞を通っていた血が、一斉に噴き出した。
細い血の縄が岳の両腕へ巻きつき、その身体を柱へ叩きつける。
「竹は中が空いている。血を隠すには都合がいい」
迅が蓮へ斬りかかる。
蓮の掌から、細長い赤い刃が伸びた。
「四式――血刃」
二つの刃がぶつかる。
迅の剣が血刃を両断した。だが、分かれた血は空中で曲がり、迅の背後でもう一度つながる。
「後ろだ!」
六花の声と同時に、迅が身を伏せた。
血刃が頭上を通り、壁を斜めに切り裂く。
六花が血刃へ手を向ける。
「凍りなさい!」
血の刃が白く凍り、砕け落ちた。
だが、砕けた赤い氷の一つ一つが霧へ変わる。
「五式――血霧」
演武場が赤い霧に包まれた。
六花たちから蓮の姿が消える。
その一方で蓮には、霧へ触れる三人の動きが指先の震えとして伝わっていた。
右から迫る迅の剣を避け、血縛で足を払う。背後から伸びた竹を血刃で断ち、六花の冷気が届く前に血を霧へ戻す。
傷が増えるほど、戦場にある蓮の血も増えていく。
追い詰められていたはずの蓮が、三人を押し返していた。
「一度下がる!」
迅の声で三人が演武場の端へ集まる。
蓮は追わなかった。
血の霧と床の血が、ゆっくりと右腕へ集まっていく。
腕を這い上がった赤い線が、人差し指の先へ吸い込まれる。
六花の顔色が変わった。
「指先に、眼力が集まっています」
蓮の周囲で床板が震え始める。
圧縮された眼力に押され、空気が低く鳴った。
「でかいのが来るぞ!」
迅が叫ぶ。
「三枚とも重ねろ!」
迅が両手を前へ突き出す。
「一式――剣壁・千刃!」
無数の剣が鱗のように重なり、巨大な盾を作る。表面の剣は絶えず動き、触れた忍術を斬り削る構えだった。
その後ろで六花が眼力を放つ。
「一式――雪壁・白嶺!」
圧縮された雪と氷が、白い山のような壁を生む。七層に分かれた氷が、衝撃を受け止めながら凍らせる。
最後に岳が床を殴った。
「一式――竹壁・千節!」
何百本もの竹が編み込まれ、幾重もの壁となる。外側が折れても内側から新しい竹が伸び、衝撃を後方へ逃がしていく。
三人は三枚の壁の後ろへ身を隠した。
剣、雪、竹。
三人の上級忍が作る、里でも破られたことのない三重城壁だった。
蓮の指先が裂け、血が一筋流れた。
「壁が弱いとは言わない」
赤い光が一点へ縮んでいく。
「だが、俺の父が作った術を、壁で止められると思うな」
蓮が指を向ける。
「六式――殲」
赤い光が放たれた。
剣壁の中心で、何百もの剣が一斉に回転する。
それでも赤い光は止まらない。剣を一本ずつ砕き、中心へ小さな穴を開ける。
光は雪壁へ届いた。
七層の氷が赤い光を包み、凍らせようとする。だが、次の瞬間には白い壁の内側から蒸気が噴き出した。
雪壁を貫いた光が、竹壁へ突き刺さる。
竹がしなり、折れた場所から新しい節が伸びる。
一本。十本。百本。
生まれ続ける竹を、殲は正面から貫き続けた。
最後の一本に、赤い穴が開く。
三枚の壁を一直線に貫いた眼力が、その後ろで弾けた。
迅、六花、岳の身体を赤い衝撃が貫き、三人を演武場の壁まで吹き飛ばす。
剣壁が崩れ、雪が溶け、折れた竹が床へ降り注いだ。
三人は倒れたまま動かない。
蓮は震える右腕を押さえながら、ゆっくりと近づいた。
「お前たちの盾が弱かったんじゃない」
迅が薄く眼を開ける。
「俺の父の六式を、甘く見ただけだ」
「なぜ……とどめを刺さない」
蓮は三人の傷を見下ろした。
三人の傷は、いずれも急所を僅かに外れている。
「お前たちの名は、父の記録にはなかった」
それだけ告げ、背を向ける。
その直後、蓮の右膝が床へ落ちた。
三重城壁を貫くために、眼力と血を使い過ぎていた。右腕は指先から肩まで痺れ、赤い眼の光も弱くなっている。
演武場の中央で、音がした。
血を失って倒れていた忍びの指が動いた。
死んでいるはずの身体が、糸で引かれるように立ち上がる。
閉じていた眼が開いた。
白目の中を、黒い虫のような線が何本も這っている。
「死体の血に潜むとは、面白い」
男の口から、本人とは違う声が漏れた。
蓮が動かない右腕を構える。
「お前は誰だ」
死体の首が、不自然な角度に傾く。
「お前は血に潜り、俺は、人の中に潜る」
黒い線が、男の瞳へ集まった。
「寄生の眼。ずっと次の器を探していたよ」
死体が蓮へ一歩近づく。
「血の眼と六式――ようやく見つけた」
黒い眼力が、蓮の顔へ伸びた。
「その身体を、俺に寄越せ」




