第十七話 血に残る名
「……いいんだな。後悔はないな」
「ああ」
血の眼の少年が背を向ける。
「待て」
少年の足が止まった。
「まだ答えを変える気になったか?」
「違う。お前の名前を聞いてない」
少年が振り返る。その赤い眼に、わずかな驚きが浮かんだ。
「今まで誰も聞かなかった。血の眼、赤い眼、六式を作った男の息子。それで十分だと思っていたんだろう」
「名乗ってない奴を、名前で呼べるわけないだろ」
しばらくの沈黙のあと、少年は低く告げた。
「朱堂蓮だ」
「朱堂、蓮」
「覚えておけ。父の名を奪った連中に、俺まで名のない者にされるつもりはない」
光留はまっすぐに蓮を見る。
「覚えた。次に会ったら、朱堂蓮、お前を止める」
「やってみろ」
蓮は屋根へ跳び上がり、夕暮れの町へ姿を消した。
「待て!」
光留も屋根へ上がったが、すでに蓮の赤い眼の光はどこにもなかった。
追うべきか。
朔兵衛を殺すと明言した以上、放ってはおけない。
だが、蓮がどちらへ向かったのかさえ分からなかった。
光留は一瞬だけ迷い、長の屋敷へ走った。
蓮を裏切りたいわけではない。
それでも、黙っていれば次に流れる血を止められない。
◇
長の屋敷へ続く坂の途中で、小夜と出会った。
「どうしたのです」
走ってくる光留を見て、小夜が足を止める。
「朱堂蓮。血の眼の奴が来た」
「名乗ったのですか」
小夜の眼が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「さっきな。その名字を知ってるのか」
「今は続きを。蓮に何を言われました」
「六式を教える代わりに、長を殺すのを手伝えって」
小夜の手が木刀の柄へ伸びる。
「あなたは?」
「断った。でも、あいつは一人でもやる」
「長の屋敷へ急ぎます」
二人が坂を駆け上がろうとしたとき、町の奥から鋭い鐘が鳴った。
一度。
短く二度。
海から眼獣が現れたときの重い警鐘とは違う。
小夜の顔色が変わる。
「里内で襲撃です」
鐘が鳴ったのは、長の屋敷とは反対の北側だった。
光留と小夜は顔を見合わせ、同時に方向を変えた。
◇
北の通りにある古い屋敷の前には、すでに忍びたちが集まっていた。
門は閉じたまま。壊された跡もない。
屋根にも庭にも、争った形跡はなかった。
小夜が人垣を分けて中へ入る。光留もその後を追った。
屋敷の中央にある書庫で、一人の男が倒れていた。
上級忍、百地宗玄。
長く里の記録を管理してきた男だった。
宗玄の両手には細い切り傷があり、そこから流れた血が床へ何本もの線を作っている。
血の線は柱を上り、梁を渡り、男の身体へ巻きついていた。
まるで、自分の血に縛られたまま息絶えたようだった。
「触れるな」
低い声がした。
音無弦真が書庫の奥から現れる。
その後ろには、口元を布で覆った紫藤薊がいた。
「毒は検出されていません」
薊が宗玄の首筋から指を離す。
「死因は失血。ただし、この傷だけで短時間にこれほど血を失うことはありません」
「血の眼が、傷口から血を引き出したのか」
光留が呟く。
小夜が振り返る。
「なぜ、そう思うのです」
「蓮が言ってた。父の血が教えたって」
「それだけではありませんね」
弦真が部屋の壁を指した。
血で、一つの名が書かれていた。
『百地宗玄』
その上には、太い線が引かれている。
自分が殺した相手の名を、わざわざ残したのだ。
「何のために……」
光留が近づこうとすると、足元で紙が鳴った。
「光留!」
廊下から伊織が駆け込んできた。
港で鐘を聞き、近くにいた忍びから場所を聞いて戻ってきたのだ。書庫の光景を見た瞬間、伊織の足が止まる。
「誰がやった」
「朱堂蓮。血の眼の少年だと思う」
「思う?」
「姿を見た者はいません」
弦真が門の方へ顔を向けた。
「この屋敷には、戸や窓が開けば音を出す仕掛けが十二か所あります。どれも作動していない。屋根を歩いた音も、壁を破った音も、近隣の者は聞いていません」
「音を消す術を使った可能性は?」
伊織が尋ねる。
「完全に音を消したとしても、戸を開ければ仕掛けそのものが鳴る。侵入者は仕掛けの位置を知っていたか、宗玄自身に中へ入れてもらったかのどちらかです」
光留は閉じたままの入口を見る。
「宗玄は、殺した相手を知っていた」
「少なくとも、警戒せず書庫へ通す程度には」
薊が遺体の袖をまくった。
腕には、古い針の跡がいくつも残っている。そのうち一つだけが新しく、周囲が薄く赤らんでいた。
「殺される前に、身体の動きを鈍らせる薬を打たれています」
「血の眼だけじゃないのか」
「薬の知識まで持っているか、協力者がいるのでしょう」
伊織が光留を見る。
「お前、あいつと会ったんだな」
「長を殺すのを手伝えと言われた」
「それで断ったあと、これか」
「ああ」
後悔はないな。
蓮の最後の言葉が、光留の中でもう一度響いた。
床一面に、古い記録が散らばっている。
その中の一枚だけが、宗玄の血で赤く染まっていた。
小夜が紙を拾う。
十年以上前に作られた、死亡記録だった。
本来なら死者の名があるはずの上部は、刃物で削られて白く毛羽立っている。
『六式開発中の眼力暴走により死亡。本人の過失と認定する』
その下には、調査へ参加した忍びたちの署名が並んでいる。
最初に書かれていたのは、百地宗玄の名だった。
「こいつが、事故だと記録したのか」
「宗玄は当時、記録と任務報告を管理していました」
小夜が答える。
「おそらく六式を作った者が死んだあと、殲に関する記録の大半を封じたのも宗玄です」
「なら、あいつは無関係な人間を殺したわけじゃない」
「関係があれば、殺してよいのですか」
「そういう意味じゃない」
光留は言葉に詰まった。
宗玄が何をしたのかは分からない。
事故を偽装したのか、命令に従って記録しただけなのか。それとも、本当に事故だと信じていたのか。
本人の口から聞くことは、もうできない。
廊下から杖の音が近づいてきた。
霧生朔兵衛が、数人の護衛を連れて書庫へ入る。
床の遺体と壁の名を見ても、その表情は変わらなかった。
「朱堂蓮から、何を聞いた」
朔兵衛が光留へ尋ねる。
「長が、自分の地位を守るために父親を殺したと」
周囲にいた忍びたちが息を呑む。
「六式を教える代わりに、長を殺すのを手伝えと言われました」
「それで?」
「断りました」
朔兵衛は一度だけ目を閉じた。
「里の門を閉じよ。上級以上は二人一組で行動。蓮を見つけても殺すな。必ず生け捕りにせよ」
「長自身の護衛は」
弦真が尋ねる。
「要らぬ」
「狙いはあなたです」
「だからこそだ。わしの周りへ人を集めれば、ほかが狙われる」
朔兵衛は宗玄の死亡記録を受け取り、署名を上から確認した。
その指が、二つ目の名でわずかに止まる。
光留はそれを見逃さなかった。
「次に狙われるのは誰です」
「まだ決まったわけではない」
「でも、心当たりがあるんだろ」
朔兵衛は紙を折り畳んだ。
「今は宗玄の家族へ知らせることが先だ」
「また隠すのかよ、」
光留の声が、書庫に響いた。
誰も動かなかった。
朔兵衛は光留を見たが、答えない。
その沈黙だけで十分だった。
何も隠していないという言葉は、やはり真実ではなかった。
◇
宗玄の遺体が運び出されたあと、光留は一人で書庫へ残った。
壁に書かれた名は、拭き取られている。
それでも、古い木には血の色が薄く染み込んでいた。
床へ散った記録を拾い集めていると、一枚の裏側に小さな文字を見つけた。
乾き始めた血で、今夜書かれたものだった。
『父の名を奪った者は、あと四人』
その下には、最後の標的だけが記されていた。
『霧生朔兵衛』




