第十六話 三つの光
紫藤薊の解毒薬は、毒より苦かった。
「まずい……」
屋敷の縁側で横になった光留は、痺れの残る舌を突き出した。
「毒を飲んだ感想がそれか」
伊織が呆れたように言う。
「毒より薬の方がつらい」
「次からは毒だけ残してもらえよ」
「それは嫌だ、」
指先の感覚は戻っていたが、まだ真っすぐには立てない。音無弦真の音も耳の奥に残り、庭の竹が揺れるたびに偽物の足音が聞こえる気がした。
小夜が二人の前へ立つ。
「今日の修行は終わりです」
「もう少し休めば動ける」
「動けるようになっても終わりです」
「なら、何をするんだ?」
小夜は屋敷の門へ目を向けた。
「町を歩きます」
「町?」
「あなたたちは修行場と宿舎しか見ていません。この島で何を学んでいるのか知るには、暮らしている者を見ることも必要です」
伊織が立ち上がる。
「俺は賛成だ。こいつを修行場から離した方がいい」
「勝手に決めるな」
「歩けるのか」
光留は縁側から立とうとして、痺れの残る右脚を踏み外した。
伊織が肩を掴む。
「まず立てるようになってから言え」
◇
昼を過ぎる頃には、光留も一人で歩けるまでに回復した。
忍びの町は、初めて里へ入ったときより賑わっていた。
通りの両側には武具屋や薬屋が並び、屋根の上では幼い子供たちが板から板へ跳ぶ練習をしている。井戸の近くでは、黒装束の若者たちが荷物を背負って出発の準備をしていた。
「あの人たちも忍びなのか?」
光留が尋ねる。
「下級忍です」
小夜が答えた。
「この里の忍びは、まず見習いから始まります。見習いは里の外へ出ず、眼力の扱いと五式の形を学びます」
屋根から落ちた子供が、地面へ着く直前に薄い壁を作った。壁はすぐに割れたが、落下の勢いを弱めることには成功している。
「五式を一通り使えるようになり、試験を通れば下級忍です。里の警備や荷の護衛を担当します」
三人は荷物を背負った一団とすれ違った。
「下級の上は?」
「中級忍。里の外で任務を行い、少人数の組を率いることを許されます」
通りの先に、数人の忍びへ地図を見せている男がいた。指示を受けた者たちが、別々の路地へ散っていく。
「そして上級忍。先ほど戦った弦真と薊、それから私も上級です」
「小夜も?」
光留が少し驚いて見る。
「何か不満でも?」
「いや。試験で五回負けた理由が分かった」
「階級を聞くまで分からなかったのか」
伊織が横から言う。
「上級忍は、固有の眼を忍術へ乗せ、自分だけの技を完成させた者です。重要な任務を任され、下の忍びを指導します」
「その上が一級忍か」
「はい。一級忍は、里全体の行方を左右する任務を任される者。数は多くありません」
通りの中央に、大きな石碑が立っていた。
上部には、太陽、月、星を表す三つの印が並んでいる。
「三光忍」
伊織が石碑を見上げる。
「三光忍は新たな階級ではありません。一級忍の中でも、頂点に立つ三人へ与えられる呼び名です」
「太陽、月、星の眼を持つ三人だったな」
「里にとって最後の刃であり、最後の盾です。一級忍を何人集めても遂行できない任務を、三光忍は一人で終わらせると言われています」
石碑の前を通る忍びたちは、年齢に関係なく一度だけ頭を下げていた。
「あの三つの印のどれかに、自分の名を刻む。それが、この里で育つ忍びの目標です」
「小夜も目指してるのか?」
「忍びである以上は」
小夜はそう答えたが、石碑を見上げる目には、いつもの冷静さとは違う強い光があった。
「上級忍でも、まだ遠いのか」
「遠いから、目指すのでしょう」
光留は三つの印を見つめた。
音と毒を忍術へ重ねた二人でさえ、まだその下にいる。
三光忍がどれほど遠い場所に立っているのか、今の光留には想像することしかできなかった。
「難しい顔をするのは、そこまでにしてください」
小夜が石碑の向かいにある店へ入っていく。
軒先には、大きく『団子』と書かれた布が下がっていた。
◇
「町を知るためじゃなかったのか?」
光留は串から最後の団子を外しながら尋ねた。
「団子屋も町の一部です」
小夜の前には、空になった皿が二枚重なっている。
「小夜、意外と食べるな」
「修行には眼力を使いますから、補うのは当然です」
「今日は見てただけだろ」
「あなたへ石を投げました」
「それで二皿分なのか」
伊織が声を殺して笑う。
光留と小夜が同時に睨むと、伊織は団子で口を塞いだ。
修行場を離れ、毒も音も飛んでこない場所で三人が座るのは初めてだった。
伊織は南の島で見つかるかもしれない仲間の話をし、小夜は出発前に必要な準備を説明した。
光留は聞きながら、時折、石碑の三つの印へ目を向けた。
自分が三光忍を目指すかは、まだ分からない。
だが、強くなる道の先にあの三人がいる。
それだけは覚えておこうと思った。
日が傾き始めた頃、三人は団子屋の前で別れた。
小夜は長の屋敷へ戻り、伊織は南へ向かう船を調べるため港へ向かった。
光留は一人で宿舎へ続く細い路地へ入った。
「随分、楽しそうだったな」
屋根の上から声が落ちてきた。
光留が足を止める。
赤い眼の少年が、夕日を背に座っていた。
「何の用だ」
「取引をしに来た」
少年が地面へ下りる。
「俺は、お前に六式・殲を教える」
「急にどうした」
「欲しくないのか。お前の壁では、俺の殲を完全には防げない」
「条件は?」
少年の赤い眼から、僅かな迷いが消えた。
「俺と一緒に、霧生朔兵衛を殺せ」
路地の空気が冷えた。
「長を?」
「父は六式を作った。その功績が認められれば、次に長の座へ推されるはずだった」
少年が一歩近づく。
「朔兵衛は、自分の地位を失うことを恐れた。上級忍を使って父を殺し、術の事故として処理した。それから六式を禁じ、父の名を記録から消した」
「証拠はあるのか」
「父の血が教えてくれた」
「それだけじゃ分からない」
「朔兵衛を信じるのか?」
「信じ切ってはいない」
光留は、朔兵衛へ隠し事がないか尋ねたときのことを思い出す。
迷いなく返された、何もないという答え。
今も胸の引っ掛かりは消えていない。
「でも、お前の話だけで人を殺すつもりもない」
「俺が殲を教えると言っても?」
「誰かを殺した報酬で覚えた技を、弟を救うために使いたくない」
少年の目に、初めて明確な怒りが浮かぶ。
「なら、父を殺した者を放っておけと言うのか」
「証拠を探す。長が本当に殺したなら、俺も真相を隠させない。でも、確かめる前に殺すことには協力しない」
「断るんだな」
「ああ」
少年は光留をしばらく見つめた。
「……いいんだな。後悔はないな」




