第十五話 先に立つ者
それから十日間、光留は滝の裏の修行場へ通い続けた。
夜明け前に一式「壁」を百回。
朝になると、二式「爪」で吊るされた木札を同時に刻む。
昼からは三式「縛」で動く木人を捕らえ、四式「刃」で木刀だけを切り落とす。
日が沈む前には、五式「霧」で自分の姿と気配を隠した。
最初は一つの術を使うだけで、ほかの形が頭から消えた。
壁を作れば爪が崩れ、縛へ変えれば眼力が途中で途切れる。霧を広げたまま刃を作ろうとすると、どちらも形にならなかった。
それでも光留は、毎日同じ失敗を繰り返さなかった。
眼力を増やす前に、どこで薄くなったかを確かめる。
形が崩れたら、その直前に何を変えたかを考える。
小夜に言われるより先に、失敗した理由を口にするようになった。
十日目の朝。
八体の木人から放たれた小石を、光留の壁が連続して弾いた。
壁を右へ流し、背後へ回す。形を保ったまま頭上へ移し、最後の一つを防ぐ。
そのまま眼力を五本の爪へ変え、木人の胸に下げられた札だけを切った。
別の木人が背後から迫る。
光留の指先から伸びた縄が、その両脚へ巻きついた。
「三式――縛」
倒れた木人の木刀を、薄い刃が切断する。
最後に霧が修行場へ広がった。
光留の姿が消える。
次に現れたときには、五枚すべての石板へ手形が残されていた。
小夜が静かに息を吐く。
「五式すべて、形にはなりました」
「形には、ってことは?」
「使えることと、戦いで使い続けられることは別ですから」
「少しくらい褒めてもいいだろ」
「十日で入口へ立ったことは認めます」
「それ、褒めてるのか?」
「私としては、かなりね」
水の幕の向こうから、誰かが拍手した。
「確かに、十日前とは別人だな」
橘伊織が滝をくぐって入ってくる。
外套には泥がつき、腰には東の浜で見つけた鍔が結ばれていた。
「伊織!」
「声が大きい」
「戻るなら先に言えよ」
「言ったら、修行を切り上げて迎えに来るだろ」
「流石に、行かないよ」
「一瞬考えただろ」
光留は答えず、伊織の腰にある鍔を見た。
「仲間の手掛かりは?」
「見つかった鍔は二番隊のものだった。足跡を追った先で、南へ向かう商船の船頭から話を聞いた。刃眼隊の羽織を持った連中が船を探していたらしい」
「生きてるのか」
「本人を見つけるまでは断定できない。ただ、南の島へ渡った可能性は高い」
弟へ戻るための仲間が、南にいるかもしれない。
光留はすぐにでも出発したかった。
だが、壁さえ作れなかった十日前の自分を思い出し、一度だけ息を整えた。
「この島で覚えるべきことを覚えてから、南へ行く」
伊織が少し驚いた顔をする。
「止める言葉を考えてたんだが、無駄になったな」
「俺だって少しは考えるよ」
「十日に一回くらいはな」
◇
その日の午後、光留は朔兵衛の屋敷へ呼ばれた。
庭には八体の木人が並び、その奥で朔兵衛が待っている。小夜と伊織も縁側へ座っていた。
「十日で五式すべてを形にしたそうだな」
「まだ入口だと言われました」
「小夜が入口と言うなら、片足くらいは入っておる」
朔兵衛は、木人に残った爪と刃の跡を順番に見た。
「焦りで力を振り回していた者とは思えぬ。よく積み上げた」
光留は素直に頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げたあとも、その場を動かなかった。
「一つ、聞きたいことがあります」
「申してみよ」
「俺の六式のことです。まだ、何か隠していませんか」
風が庭の竹を揺らした。
朔兵衛は光留の眼を見つめる。
「隠しておることはない」
迷いのない答えだった。
だが、光留の胸には小さな引っ掛かりが残った。
「そうですか」
「納得しておらぬ顔だな」
「何もないと言うなら、今はそれ以上聞きません」
「今は、か」
朔兵衛は杖を手に立ち上がった。
「ならば、今のお前が立っている場所を教えてやろう。五式の先に何があるのか、その眼で見よ」
老人が手を二度叩く。
屋敷の屋根から、一人の男が音もなく庭へ下りた。
背が高く、黒い髪を首の後ろで束ねている。腰に武器はなく、両手にも何も持っていない。
「上級忍、音無弦真。音の眼を持つ」
続いて、竹林の中から一人の女が現れた。
紫色の紐で袖を留め、指先まで覆う薄い手袋をつけている。腰には細い瓶がいくつも下がっていた。
「同じく上級忍、紫藤薊。毒の眼の使い手だ」
「二人と戦うのか?」
「勝てとは言わぬ。二人のうち、どちらかの肩へ触れてみよ」
光留が木刀を抜く。
「毒は死なない程度にしてくれ」
薊が微笑んだ。
「動けなくなる程度にしておきます」
「それも困るな」
「始め!」
朔兵衛の杖が地面を打った。
光留は最初から五式「霧」を広げた。
庭が白い眼力に覆われ、互いの姿が見えなくなる。
右から足音がした。
光留は二式「爪」を作り、音の方向へ踏み込む。
だが、そこには誰もいなかった。
「遅い」
今度は弦真の声が背後から聞こえた。
振り返る。
声だけが、竹の根元から響いている。
「音の眼は、好きな場所から音を出せるのか」
「気づくのが遅い」
頭上、足元、左右の竹林。
異なる場所から弦真の声と足音が重なった。
光留の霧の中を、何人もの人間が走り回っているように聞こえる。
その一つへ三式「縛」を伸ばす。
縄は空を捕らえた。
首筋に、冷たいものが触れる。
薊の爪だった。
光留は一式「壁」を背後へ回した。
五本の爪を弾く。
だが、一本だけが壁の端を薄く削った。紫色の眼力が傷口のように広がり、光留の左腕へ痺れが走る。
「触れてないのに……」
「私の毒は、眼力にも流れます」
薊の姿が霧の向こうへ消えた。
光留は壁を保ったまま、痺れた腕を動かす。
前方から木刀を振る音がした。
壁を前へ移す。
何も来ない。
代わりに壁の内側から、耳を刺すような音が鳴った。
眼力の面全体が激しく振動する。
音は壁を通り抜け、光留の頭蓋へ直接響いた。
平衡感覚が崩れ、片膝が地面へ落ちる。
「一式『壁』に音の眼を乗せた、響壁だ」
弦真の声が、今度は光留自身の壁から聞こえた。
「壁は、守るだけの術ではない」
霧の奥から紫色の縄が伸びる。
光留は四式「刃」で切断した。
切れた縄から紫の煙が漏れ、霧の中へ混ざっていく。
「五式『霧』に毒の眼を重ねれば、逃げ場そのものが毒になります」
薊の声だった。
息を止めても、腕の痺れは肩まで上がっている。
音を追えば惑わされる。
霧を広げれば毒を混ぜられる。
それでも、光留は霧を解かなかった。
音は偽物でも、霧の揺れは偽物ではない。
無数の足音の中で、一か所だけ霧が人の形に割れた。
「そこだ」
光留の縛が弦真の足首へ巻きつく。
初めて、偽物ではない感触が返ってきた。
縄を引き、同時に四式「刃」を地面へ走らせる。弦真の逃げ道を塞ぎ、光留は動く右腕を伸ばした。
あと一歩。
指先が弦真の肩へ届く。
その直前、光留の右脚から力が抜けた。
足元には、紫色の小さな爪痕が残っている。
薊の毒が、霧に紛れて脚へ触れていた。
倒れる光留の喉元へ、弦真の指が添えられる。
「終わりだ」
庭の霧が消えた。
光留は地面へ倒れたまま、動かない手を握ろうとする。
「あと少しだった」
「その少しが、上級忍との距離です」
薊が腰の瓶から解毒薬を取り出し、光留の口へ流し込んだ。
縁側で見ていた伊織が立ち上がる。
「五つ全部使って、それでも届かないのか」
朔兵衛が答える。
「光留は、五つの術を順番に使った。あの二人は、己の眼と忍術を重ね、一つの技として使った。その差だ」
光留の指先に、少しずつ感覚が戻る。
響く壁。
毒を運ぶ爪と霧。
固有の眼と、学んだ忍術。
別々に使うのではない。
二つを重ねることで、初めて自分だけの技になる。
光留は、自分の黒い眼へ触れた。
「黒の眼も、五式に乗せられるのか」
「それを見つけるのは、わしではない」
朔兵衛が言う。
「お前自身だ」
光留は庭に残った五つの術の跡を見渡した。
自分が立っている場所は分かった。
そして、その先に道が続いていることも。




