第十三話 五つの忍術
滝の裏側には、岩をくり抜いた細い通路が延びていた。
一歩入るだけで水音が遠ざかり、代わりに自分たちの足音が低く反響する。壁には一定の間隔で小さな灯籠が置かれ、青白い火が揺れていた。
小夜の後を進んだ先で、通路が円形の空間へ開ける。
中央には、人の背丈ほどの木人が三体。その周囲を囲むように、五枚の石板が立っていた。
石板には、滝の横で見たものと同じ印が一つずつ刻まれている。
「ここが修行場です」
小夜が振り返る。
「今から、古伝五式の基礎を教えます」
その言葉を遮るように、羽音が通路の奥から近づいてきた。
一羽の黒い鳥が水の幕を抜け、伊織の肩へ止まる。脚には細い竹筒が結ばれていた。
「俺に?」
伊織が竹筒を外す。中から出てきた紙には、刃眼隊の隊印が押されていた。
光留が隣からのぞき込む。
『東の浜にて、刃眼隊のものと思われる刀の部品を発見。周囲に複数人の足跡あり。橘伊織に現場の確認を求む』
「別の隊士が流れ着いたのか?」
「まだ分からない。だから俺に確認しろってことだ」
伊織は手紙を折り畳み、小夜へ向き直った。
「一度、現場へ行きます」
「この島の東端までは、急いでも半日かかります」
「仲間の手掛かりかもしれない」
小夜は止めなかった。
「情報は時間とともに形を失います。今すぐ向かいなさい」
伊織が光留を見る。
「お前はどうする」
「ここに残る。せっかく修行を受けられるんだ。止める理由がない」
「俺が戻るまでに、強くなってろよ」
「分かってる」
伊織はまだ何か言いたそうだったが、手紙を懐へ入れた。
「仲間のことは俺が調べる。お前は自分の眼をどうにかしろ」
「帰ってきたとき、驚くくらいにはな」
「一日で調子に乗るなよ」
短く言い残し、伊織は通路を走っていった。
水の幕の向こうへ、その背中が消える。
光留は見送ったあと、五枚の石板へ向き直った。
「始めてください」
「切り替えだけは早いですね」
「伊織が帰ってくるまでに強くならなきゃいけないんだ」
小夜はわずかに目を細めた。
「では、見ていなさい」
小夜が右手を前へ出す。
眼力が掌の前へ流れ、薄い板のように広がった。直後、天井から石が落ちる。石は小夜へ届く前に見えない面へぶつかり、乾いた音を立てて床へ転がった。
「一式――壁。眼力を面へ変え、攻撃を防ぎます」
続いて指を曲げる。
五本の指先から、短い爪の形をした眼力が伸びた。小夜が腕を振ると、吊るされていた五枚の木札へ同時に切れ目が入る。
「二式――爪。複数の短い刃を作り、近い間合いを制します」
木人が小夜へ向かって動き出した。
小夜の手から細い眼力が伸び、縄のように木人の両腕へ巻きつく。木人は一歩踏み出した姿勢のまま動きを止めた。
「三式――縛」
小夜は縄を解き、その眼力を一枚の薄く長い形へ変えた。
一閃。
木人の持っていた木刀だけが、半ばから切れて落ちる。
「四式――刃」
最後に、小夜の身体から淡い眼力が溢れた。
それは煙のように床を這い、修行場全体へ広がっていく。小夜の輪郭が揺らぎ、次の瞬間には姿も気配も消えていた。
「五式――霧」
声は、光留の背後から聞こえた。
振り向くと、小夜が何事もなかったように立っている。
「固有の眼は、生まれ持った力です。しかし忍術は、眼力へ後から形を与える技術。修練すれば、誰でも同じ入口へ立てます」
「全部できるよになるのか?」
「基礎はすべて。その後、どの式を主に使うかは本人の適性で決まります」
光留は五枚の石板を順番に見る。
「今、あなたが学ぶのは五つです」
「一式も使えない者が、先を急ぐ必要はありません」
小夜は一枚目の石板の前へ移動した。
「まず、壁を作りなさい」
光留は両手を前へ出した。
黒水は使わない。眼の奥から眼力だけを引き出し、両方の掌の間へ広げていく。
薄暗い面が生まれた。
小夜が足元から五つの小石を拾う。
「保ちなさい」
五つの小石が、ほぼ同時に放たれた。
中央へ飛んできた一つだけが弾かれる。残りの四つは壁の端を突き抜け、光留の肩、脇腹、両脚へ当たった。
「痛っ」
「中心に眼力を集めすぎです」
「でも、真ん中は防げたな」
「敵が必ず中心を狙ってくれるなら、それでもよいでしょう」
小夜が再び小石を拾う。
「壁とは、硬い一点を作る術ではありません。すべての場所へ、同じだけ眼力を通す術です」
二度目。
今度は右端が薄くなった。
三度目は、上側。
四度目は、中央を薄くしすぎて、五つすべてが壁を抜けた。
光留の身体へ小さな赤い跡が増えていく。
「眼力の量は足りています。均一に通せていないのです」
小夜が石板へ手を触れた。
「強く押し出そうとするほど、眼力は掌の正面へ集まる。壁全体を一つの面として感じなさい」
光留は、痺れ始めた両腕を下ろした。
海岸の稽古場で、御影に教えられたことを思い出す。
眼力を腕だけに集めるな。
足裏から腰、背、肩へ通し、全身を一本につなげる。
あのときは、自分の身体へ均一に流そうとした。
今度は、その流れを身体の外へ作る。
光留は呼吸を整え、もう一度両手を上げた。
中央から広げるのではない。
先に壁の四隅を思い描く。その間を細い線で結び、最後に内側を満たしていく。
先ほどより薄い壁が現れた。
見た目は頼りない。だが、どこにも濃い部分がなかった。
「来い」
小夜が五つの石を放つ。
乾いた音が、一つに重なった。
五つの小石が同時に弾かれ、床へ落ちる。
次の瞬間、壁は砕け、光の粒になって消えた。
光留は膝へ手をつき、大きく息を吐いた。
「できた」
「一度だけです」
「一度はできた」
「それを百回続けられて、初めて使えると言います」
小夜は新しい小石を拾った。
「もう一度」
◇
同じ頃、伊織は東の浜へ到着していた。
波打ち際には二人の隊士が待っていた。片方が布に包んだ小さな金具を差し出す。
刀の鍔だった。
半分が欠け、海水で黒く変色している。それでも、残った部分には刃眼隊の印が刻まれていた。
伊織は砂を払い、裏側を確かめる。
「これは二番隊のものだ」
「分かるのか」
「隊ごとに結び方が違う。二番隊は鍔の裏へ細い紐を二重に通す」
伊織は周囲を見渡した。
砂浜には複数の足跡が残っていた。海から上がった跡ではない。岩場から浜へ下り、そのまま林の方へ続いている。
「ここで見つかったのは、これだけか」
「ああ。血も遺体もない」
「なら、まだ生きている可能性がある」
伊織は鍔を握り、林へ続く足跡を追い始めた。
◇
光留が壁を作った回数は、四十を超えていた。
成功したのは七回。そのうち三秒以上保てたものは、一度もない。
小夜は新しい小石を取りに、修行場の奥へ入っている。
光留は一人で両手を上げた。
四隅を作る。
線で結ぶ。
内側へ、同じ濃さで眼力を満たす。
薄い壁が形を持った。
「そんなんじゃ、防げないよ」
知らない声がした。
光留が振り向く。
五枚目の石板の上に、一人の少年が立っていた。
深く被った頭巾の下で、片方の眼だけが赤く光っている。
森にいた人影だと、光留は知る由もない。
「誰だ」
少年は答えず、右手の人差し指を光留へ向けた。
指先へ、赤い眼力が集まる。
広がらない。
米粒よりも小さな一点へ、何重にも押し固められていく。
「壁を解け」
「嫌だと言ったら?」
「壊れるだけだ」
赤い点が放たれた。
音はなかった。
光留が作った壁の中央へ、小さな穴が開く。
赤い光はそのまま背後の石板まで貫き、石の表面を深くえぐった。
壁全体が遅れて砕ける。
光留は反射的に刀の柄へ手をかけた。
だが、少年の指先が微かに震えていることに気づく。
「今のは何だ」
「眼力を広げ、薄め、形を整える。それが五つの術だ」
少年が石板から下りる。
「だが、広げた力は、一点に集めた力には勝てない」
「六つ目の術なのか」
少年の赤い眼が細くなる。
「その名を、軽々しく口にするな」
奥の通路から、小夜の足音が近づいてきた。
少年は頭巾を深く下ろす。
「五つを教える者に聞いてみろ。なぜ六つ目だけが、石板から消されたのか」
「待てよ、どういうことなんだ?」
光留が踏み出したときには、少年の姿は霧の中へ消えていた。
入れ替わるように小夜が戻ってくる。
床へ散った眼力の残滓と、石板に開いた穴を見た瞬間、その足が止まった。
「誰が来ました」
「赤い眼の奴だ」
「何をされたのですか?」
「俺の壁を、赤い眼力で撃ち抜いた」
小夜は穴へ指を当てた。
いつも変わらなかった表情が、初めて硬くなる。
「知ってるのか?」
小夜は答えない。
五枚の石板に囲まれた壁の中央には、小さく深い穴が一つだけ残っていた。
まるで、消された六つ目の印が、再び刻み直されたように。




