第十二話 鐘の鳴る前に
霧生朔兵衛の屋敷を出ても、光留の耳には小夜の声が残っていた。
――五本目。
首筋に触れる。傷はない。それでも、木刀を突きつけられた感触だけは消えてくれなかった。
「五回負けて、合格かよ」
光留が呟くと、隣を歩いていた伊織が小さく息を吐いた。
「まだ納得してないのか」
「勝てなかったからな」
「まあ、勝てとは言われてなかっただろ」
「でも、試験なら普通は勝つと思うだろ」
「お前の普通は、だいたい面倒だな」
伊織はそう言って、光留より半歩前を歩いた。
道の両側には、黒い木造の家が隙間なく並んでいる。どの屋根も低く、山から吹き下ろす風を受け流すように傾いていた。人影は少ない。だが、視線だけはあった。
屋根の上。
格子窓の奥。
干された布の向こう。
光留が目を向けるたび、そこにいた気配が消える。
「見られてるな」
「余所者だからか」
「随分と警戒されてる」
「島に流れ着いた、正体の分からない二人組だからな。歓迎される方がおかしい」
先を歩いていた里の忍びが振り返った。
「今夜は休め。明日から、お前たちがここにいる価値を見せてもらう」
「修行を受けさせてもらえるのか?」
「長が認めたのは、里へ入ることだけだ。教えを受けられるかは、まだ決まっていない」
忍びはそれだけ告げると、二人を共同の宿舎へ案内した。
部屋に荷物を置いたあと、光留と伊織は宿舎の裏手にある共同湯へ向かった。
竹垣の向こうには、山の岩を削って作られた大きな露天風呂があった。白い湯気が立ち込め、その先には深い森が広がっている。湯は少し白く濁り、鼻にかすかな硫黄の匂いが残った。
光留は肩まで湯に沈み、長く息を吐いた。
「生き返る……」
「さっきまで負けたことを引きずってた奴とは思えないな」
「負けたことと、温泉が気持ちいいことは別だ」
向かいにいた伊織が、呆れたように目を閉じる。
湯船には、二人のほかにも数人の少年が浸かっていた。年齢は光留たちと大きく変わらない。全員、腕や肩に細かな傷があり、体つきも引き締まっている。
そのうち、頬に一本の傷がある少年が光留を見た。
「お前が、小夜さんに五回負けた余所者か」
光留は思わず身を起こした。
「もう知られてるのか?」
「忍びの里だぞ。壁に耳があるどころか、耳の方から走ってくる」
湯船の中で笑いが起きた。
「それにしても、五回も立ったのは大したもんだ。普通は二本目で足が動かなくなる」
「小夜って、そんなに強いのか?」
「呼び捨てにするな。聞かれたら、六本目を取られるぞ」
少年は周囲を気にするように声を落とした。
「小夜さんは、里でも上の忍びだ。眼力の扱いだけなら、一級忍にも劣らないって言われてる」
「なら、三光忍の一人なのか?」
光留が尋ねると、湯船にいた少年たちが一斉にこちらを見た。
短い沈黙のあと、頬に傷のある少年が噴き出した。
「違う。強いけど、三光忍じゃない」
「三光忍って、何なんだ?」
「知らないでこの島に来たのかよ」
少年は湯船の縁に背を預け、頭上に広がる夜空を見上げた。
「太陽、月、星。それぞれの眼を持つ、一級忍の中でも頂点に立つ三人だ。里の忍びなら、誰だって一度は三光忍を目指すもんだよ」
「お前も?」
「当たり前だ」
少年は迷いなく答えた。
「子供の頃から崖を走って、滝に打たれて、眼力が尽きるまで術を繰り返す。全部、あの三人に近づくためだ。三光忍になれるのは三人だけだって、みんな分かってる。それでも、最初から諦める奴は忍びになんかなれない」
湯船にいたほかの少年たちも、笑わなかった。
三人しか辿り着けない場所。
それでも、この里にいる者は皆、そこを目指している。
「今、その三人はどこにいるんだ?」
伊織が目を開いた。
「知らない」
「里の人間でもか?」
「三光忍がどこで何をしているかなんて、下の忍びには知らされない。任務に出てるとも、島のどこかで修行してるとも言われてる。俺たちが知ってるのは、あの三人が里の頂点にいるってことだけだ」
光留は、湯の表面に映った自分の黒い眼を見た。
小夜に五度負けた。
その小夜でさえ、三光忍ではない。
自分が知らなかった強さが、この島にはまだいくつもある。
「遠いな」
光留が呟くと、伊織が横目を向けた。
「珍しく弱気だな」
「違う。今いる場所が分かっただけだよ」
光留は湯の中で拳を握った。
「今の俺じゃ届かない。だから、ここで届くところまで行く」
「弟を連れ戻すためか」
「ああ」
「三光忍まで目指す必要はないだろ」
「強くなれるなら、目指さない理由もない」
大声で宣言したわけではなかった。
ただ、自分に言い聞かせるような静かな声だった。
伊織はしばらく光留を見たあと、再び目を閉じた。
「お前は、静かに言うと余計に面倒だな」
そのとき、竹垣の向こうから声がした。
「葛城光留、橘伊織。長からの伝言だ」
一枚の木札が、竹垣の上を越えて飛んできた。
光留が湯船から腕を伸ばして受け取る。
木札には、短い文字が刻まれていた。
『明朝、暁の鐘が鳴る前に白糸の滝へ到達せよ』
その下には、さらに小さな文字が続いている。
『二人で辿り着くこと。一人でも欠ければ失格とする』
◇
空が白み始めるより早く、二人は里の西端に立っていた。
森へ続く道の前で待っていたのは、小夜だった。
昨日と同じ黒装束を身につけ、腰には木刀を差している。
「白糸の滝まで、道なりなら半刻ほどです」
「なら、余裕だな」
光留が森を見ながら答える。
「道が残っていれば、ですが」
小夜の言葉と同時に、背後の木から縄が落ちた。
道の入口を示していた札が引き上げられ、枝葉の中へ消えていく。
「地図は?」
「ありません」
「目印は?」
「ありません」
「滝の方角は?」
「自分で見つけてください」
伊織が眉を寄せた。
「俺の炎は使っていいのか」
「構いません。ただし、森の木や葉を一枚でも焼けば、その時点で失格です」
「随分と勝手な条件だな」
「力を出すだけなら、眼獣にもできます」
小夜の視線が、伊織の眼へ向けられる。
「忍びに必要なのは、力を必要な場所へ、必要なだけ通すことです」
続いて、光留を見る。
「黒い刀の封を解くことは禁止します。昨日と同じです」
「黒水は?」
「使うなとは言っていません。ただし、頼り切れば滝には着けないでしょう」
遠くから、鐘を打つ準備をする低い音が聞こえた。
小夜が道を開ける。
「行きなさい。鐘は待ってくれません」
光留と伊織は同時に森へ飛び込んだ。
最初に見つけた獣道を、二人は並んで走った。
だが、百歩も進まないうちに光留が足を止める。
「待て」
「時間がないぞ」
「この道は違う」
「どうして分かる」
光留は足元を指した。
土は柔らかい。それなのに、獣の足跡も、落ちた木の実の跡もない。道のように見える部分だけが、不自然なほど綺麗だった。
光留が小石を投げる。
次の瞬間、地面から何本もの縄が跳ね上がり、木々の間を激しく交差した。
「そのまま走ってたら、二人とも吊られてたな」
「昨日五回負けた分、少しは疑うことを覚えたらしいな」
「余計な一言だ」
二人は道を外れ、木々の根元を縫うように進んだ。
森の奥へ入るほど霧が濃くなる。
やがて、道が三つに分かれた。
光留が眼へ力を通す。視界が研ぎ澄まされ、揺れる葉の一枚一枚まで見える。
しかし、三本の道はどれも同じだった。
同じ形の木。
同じ場所に落ちている石。
枝に止まる鳥まで、三つの道すべてに存在している。
「術か」
伊織が足元の枝を拾い、右の道へ投げた。
枝は地面に落ちる直前、霧の中へ溶けた。
「眼で見えてるものが、全部作られてる」
光留は目を閉じた。
「何してる」
「見えないなら、見なければいい」
視界を捨てると、森の音が少しずつ形を持ち始めた。
葉が擦れる音。
虫の羽音。
伊織の呼吸。
そのさらに奥から、途切れることなく低い音が聞こえる。
水だ。
「左だ」
二人は左の道へ走った。
霧を抜けた直後、地面が突然なくなった。
光留の体が前へ傾く。
足元には、深い谷が口を開けていた。
「光留!」
伊織が腕を掴む。
だが、その反動で伊織の足に蔓が絡みついた。蔓は生き物のように締まり、二人の体を谷へ引きずっていく。
「焼け!」
「お前の腕まで焼けるぞ」
「俺じゃなくて蔓だけ狙え!」
伊織の右眼に、赤い光が宿った。
いつものような激しい炎は出ない。
指先に生まれたのは、糸のように細い火だった。
伊織は歯を食いしばり、その火を蔓の一点へ当てる。
火は光留の袖にも、周囲の葉にも触れない。
焦げた匂いがした直後、蔓だけが切れた。
二人は谷の手前へ転がり込む。
伊織の指先から炎が消えた。
「できるじゃないか」
光留が息を整えながら笑う。
「次は自分で避けろ」
「分かった。次も頼むぞ」
滝の音は、もう近い。
二人は立ち上がり、再び走り出した。
森が開けた先で、白い水が岩壁を流れ落ちていた。
白糸の滝。
その前には、小夜が立っている。
光留たちが滝へ踏み込んだのと、里から暁の鐘が響いたのは、ほとんど同時だった。
低く重い音が、山全体を震わせる。
「間に合った……よな?」
光留が息を切らしながら尋ねる。
小夜は二人を見た。
光留の泥だらけの足。
伊織の焦げていない袖。
それから、二人の背後にある森へ視線を移した。
「ぎりぎりですが、合格です」
光留はその場に腰を下ろした。
「また、勝ってないのに合格か」
「これは戦いではありませんからね」
小夜は滝の横にある石壁へ歩いていく。
苔を払うと、その下から五つの印が現れた。
「今日の課題は、眼に頼らず道を見つけること。そして、眼力を抑えることでした」
光留は三つの道を見破り、伊織は一本の葉も焼かずに蔓だけを断った。
「ここから先、あなたたちには忍術の基礎を覚えてもらいます」
小夜が五つの印へ指を触れる。
「この島に伝わる、五つの忍術を」
温泉で聞いた言葉が、光留の頭に蘇る。
この里にいる者は、誰もが三光忍を目指している。
自分はまだ、その入口に立っただけだ。
それでも、進むべき方向は見えた。
光留が立ち上がる。
「始めよう」
小夜は答えず、滝の向こうへ歩き出した。
二人がその後を追ったとき、森の奥で枝がわずかに揺れた。
濃い霧の中に、人影が立っている。
その者は石壁に刻まれた五つの印を見つめていた。
やがて片方の眼だけが、血のような赤色に染まる。
「……五つで終わったことにしたのか」
誰にも届かない声が、滝の音へ消えた。




