第十一話 試験
山へ入って半刻もしないうちに、光留は三度、同じ男を見失った。
灰色の装束が、十歩先の石段を上っている。
そう思って瞬きをすると、もう姿がない。
辺りには濡れた杉の幹と、朝靄に沈む竹林しかなかった。
「また消えた、」
「消えたんじゃない。お前が見失ってるだけだ」
後ろを歩く伊織が言った。
「どういう事だよ?」
「眼の使い方だ、意識を変えないと何度でも見失うぞ」
光留は返事をせず、石段へ目を落とした。
泥の上に足跡はない。
落ち葉も踏まれていない。
けれど、苔の先に溜まった雫が一つだけ揺れていた。
光留は右ではなく、左の竹林を見る。
竹の上から、灰色の男が音もなく降りてきた。
「少しは眼ができるじゃないか」
男はそう言って、再び歩き出した。
光留はその足元を見た。
男はつま先から地面へ触れ、足裏を外側から静かに置いている。体重を乗せる前に、枝や小石がないか確かめているらしい。
光留も同じように足を置いた。
一歩目は、うまくいった。
二歩目で、小枝が乾いた音を立てた。
三歩目では、右脚から力が抜けて石段へ膝をついた。
「何してるんだ」
伊織が腕をつかむ。
「歩き方を真似して見てるんだよ」
「今やることか?」
「強くなるためにできること少しでもやりたいんだ」
黒水を使った右腕には、まだ痺れが残っている。
背中も脇腹も、息を吸うたびに痛んだ。
身体を休めるべきだということは、光留にも分かっていた。
覚えられるものは、今覚える。
それが、伊織に追いつくために一年間続けてきたやり方だった。
「歩き方だけ真似ても意味はない」
灰色の男が、振り返らずに言った。
「音を立てないことが忍びではない。通ったことさえ相手の記憶へ残さない。それが忍びだ」
「どうやるんだ」
「教えてやると決めた覚えはない」
「じゃあ、見て覚えるさ」
「好きにしろ」
男の声には呆れが混じっていた。
光留は立ち上がり、今度は足だけでなく、男の肩と腰を見る。
上半身がほとんど揺れていない。
前へ進んでいるのに、どこへ重心を移したのか分からない。
十歩も続けると、光留の額へ汗が浮かんだ。
痛みのせいだけではない。
一歩を真似るだけで、海岸を走るより神経を使う。
「楽しそうだな」
伊織が言った。
楽しいわけではない。
蓮次郎を置いてきた事実は、胸の奥へ重い石のように残っている。
立ち止まると、その重さに押し潰されそうになる。
だから、今少しでも強くなるために努力の道を見つけたことが嬉しかった。
それだけだった。
◇
石段の先には、何もなかった。
杉の木が三本、根元を絡ませるように立っている。
道はそこで途切れ、奥には人一人通れそうにない藪が広がっていた。
「行き止まりか」
光留が周囲を見回す。
灰色の男は、三本の杉の中央へ立った。
懐から細い金属の棒を取り出し、根元の穴へ差し込む。
軽くひねる。
鳥の鳴き声に似た、高い音が二度響いた。
すぐ近くで、別の鳥が一度だけ鳴き返す。
次の瞬間、杉の間にあった空間が揺れた。
木の幹だと思っていたものが左右へずれ、石造りの門が現れる。
「眼の力か?」
「違う」
灰色の男が答えた。
光留は門の横へ回り込んだ。
薄く削った板へ、周囲と同じ杉の皮が貼られている。藪に見えたものも、枝を編み込んだ一枚の壁だった。
男は門をくぐった。
「眼は便利だ。だからこそ、最初に疑え」
その言葉を、光留は頭の中で繰り返した。
眼を疑う。
黒の眼しか頼れるものがないと思っていた自分には、奇妙な教えだった。
門の向こうには、山中とは思えないほど広い里があった。
斜面に沿って、黒い板張りの家が何段にも重なっている。
屋根から屋根へ細い縄が渡され、その上を籠や木箱が滑っていた。
水路は道の中央ではなく、家々の軒下を通っている。
橋だと思った板が持ち上がり、その下から子どもが三人飛び出した。
子どもたちは光留と伊織を見た途端、左右の路地へ散る。
一人は壁を蹴って屋根へ上がり、一人は井戸の陰へ消え、最後の一人は老女の背負った籠の中へ潜った。
老女は何事もなかったように歩いていく。
「全員、忍びなのか」
「魚を獲る者も、田を耕す者もいる」
灰色の男が答えた。
「ただし、この里では自分の身を隠せない者から飢える」
「どうして」
「畑を荒らす獣より、海の外から来る人間の方が厄介だからだ」
道を行く者たちは、二人を見ていないふりをしていた。
だが光留が黒い刀へ手を伸ばすと、軒下の影で数人の指が同時に動く。
視線だけではない。
屋根の上、閉じた雨戸の向こう、水路の下。
どこから攻撃されてもおかしくなかった。
灰色の男が足を止める。
「ここから先へ、刃は持ち込めない」
伊織は腰の刀を鞘ごと外し、男へ渡した。
光留は背中の黒い刀へ手をかけたまま動かなかった。
「これは預けられない」
「なら、面会はここで終わりだ」
「父さんが残したものなんだ」
「事情は刃を鈍らせない」
男の言葉は冷たかったが、間違ってはいない。
光留は黒い鞘を見た。
島で玄斎に奪われかけた。
海へ落としかけた。
今これを手放せば、また父へつながるものを失う気がした。
「光留」
伊織は急かさなかった。
「何をしに来たか、忘れるな」
弟を助けられるほど、強くなるためだ。
刀を守るために門前で帰れば、何の意味もない。
光留は柄から手を離した。
「預ける。ただし、俺の見えるところに置いてくれ」
灰色の男は少しだけ目を細めた。
刀を受け取るのではなく、赤い組紐を取り出す。
柄と鞘を三度巻き、見慣れない結び方で封じた。
「これで抜けない。背負っていろ」
「いいのか」
「無理に奪う必要はない」
男は伊織の刀だけを抱え、再び歩き出した。
◇
里の最も高い場所に、古い屋敷が建っていた。
門はなく、塀も低い。
その代わり、庭に植えられた木の位置も、飛び石の間隔も妙に整っている。
どこへ足を置いても、誰かの正面へ立たされるような造りだった。
二人は広い座敷へ通された。
正面の上段に、小柄な老人が座っている。
白髪は短く刈り、深い皺の刻まれた両手を膝へ置いていた。
名を霧生朔兵衛という。
忍びの島、その内里を束ねる長だった。
朔兵衛の右後ろには、白い装束の女が控えていた。
年は伊織より少し上に見える。
長い髪を一つに結び、細い眼を伏せたまま、湯気の立つ茶を注いでいる。
ほかに人の姿はない。
だが天井板の上から、僅かな衣擦れがした。
床下でも、一度だけ誰かが息を吸った。
光留がそちらへ視線を向けると、朔兵衛の口元が僅かに動いた。
「聞いていたより、落ち着きがないな」
伊織が木札を畳へ置き、頭を下げた。
「刃眼隊三番隊、橘伊織です。故郷の島が眼獣と死者に襲われ、島民を連れて逃れてきました。外里への一時滞在と、食料、負傷者の手当てを願います」
「外里の蔵は開けさせた。薬師も向かわせておる」
朔兵衛は静かに答えた。
「海から逃げてきた者を追い返さぬ。それは試すまでもない」
光留の肩から、僅かに力が抜けた。
団子屋の老婆も、時任も、御影も。
少なくとも今夜は、屋根のある場所で休める。
「ありがとうございます」
「礼は、島民が無事に朝を迎えてからにせよ」
朔兵衛は木札を裏返した。
「もう一つあるな」
「故郷へ斥候を出し、弟を含む生存者を救出したい。そのための協力を願います」
「断る」
返事は早かった。
光留の膝へ力が入る。
立ち上がりかけた身体を、自分で止めた。
まず、理由を聞く。
「なぜですか」
「何がいるのか、何人残っているのか、何を斬れば終わるのか。その一つも分からぬ戦へ、里の者は出せん」
「調べてからなら、」
「話は聞く」
拒絶ではなく、保留だった。
光留は一度息を吐いた。
御影も同じことを言っていた。
急いで全滅すれば、助ける者がいなくなる。
分かっている。
分かっていても、胸の奥では今すぐ舟へ戻りたい自分が暴れている。
光留は拳を畳へ置き、その衝動ごと押さえ込んだ。
「もう一つ、頼みがあります」
朔兵衛が顎を僅かに上げる。
「言え」
「俺に、ここの戦い方を教えてください」
「何のために」
「弟を迎えに行くためです」
光留は正面から老人を見た。
「次の救出作戦に、俺も参加したい。でも今の俺じゃ、黒の眼を使えば倒れて、助けに行っても、足手まといになります」
口にすると、悔しさがはっきりした形を持った。
蓮次郎を助けるどころか、最後には弟に逃がされた。
伊織や御影がいなければ、舟へも乗れなかった。
「だから、強くなりたい」
「強さを欲しがる者は、毎年のように来る」
朔兵衛の声は変わらない。
「何を差し出すんだ」
「強くなるなら何だって、」
「命もか」
光留は、すぐには答えなかった。
昨日までなら、差し出すと言ったかもしれない。
けれど、蓮次郎は自分を生かすために島へ残った。
ここで簡単に命を捨てると言えば、弟の選んだものまで軽くなる。
「命は、持って帰ります」
光留は答えた。
「弟を連れて戻るために、必要だから」
朔兵衛の眼が細くなる。
「では、何を惜しまぬ」
「時間も、痛みも、負けることもです。覚えるために必要なら、何度でもやります」
「口なら、誰でも言える」
「なら、試してください」
座敷が静かになった。
天井裏にいた者の気配まで消える。
朔兵衛は光留の背中へ視線を移した。
「その黒い刀は、誰から受け取った」
「父が残したものです」
「父の名は」
光留は父の名を告げた。
その瞬間、朔兵衛の指が膝の上で一度だけ止まった。
驚きは、すぐに皺の中へ隠れた。
「そうか」
「父を知ってるんですか」
「その話を聞く資格があるか、先に確かめる」
朔兵衛は右後ろへ顔を向けた。
「小夜」
白装束の女が、茶器を置く。
「はい」
「試せ」
女――月白小夜は、音もなく立ち上がった。
湯を注いでいたときとは、立ち姿が違う。
肩から余計な力が消え、手の位置も、足の向きも読めない。
ただ立っているだけなのに、座敷が急に狭く感じられた。
「この人と戦うんですか」
「不服か」
「逆です」
光留は立ち上がった。
「この人に勝てば、教えてくれるんですね」
朔兵衛は答えなかった。
小夜が床の間から、二本の木刀を取る。
一本を光留へ投げ、もう一本を右手へ下げた。
「立てなくなったら終わり。黒い刀の封は解かない。殺し合いもしない」
朔兵衛が告げる。
「それ以外は、好きにせよ」
光留は木刀を握った。
「始め」
◇
光留は動けなかった。
動かなかったのではない。
朔兵衛の声が消えたときには、小夜の木刀が喉元へ触れていた。
「一本」
小夜が言う。
光留は息を止めた。
正面にいたはずの女が、いつの間にか右脇へ立っている。
「今、何をしたんだ、」
「試験中に、相手へ教えを求めるの?」
「聞くだけなら損はないだろ」
「答える理由もない」
「それもそうか」
光留は一歩下がり、木刀を構え直した。
小夜の口元が、僅かに緩んだ。
二度目。
今度は開始の声ではなく、小夜の呼吸を見た。
胸が膨らむ。
吐く瞬間に動くと考え、光留は半歩早く踏み込んだ。
木刀を振り下ろす。
小夜の姿が揺れた。
刃は肩を捉えたはずだった。
手応えがない。
白い装束だけが霧のように崩れ、視界の外から足を払われた。
背中が畳へ落ちる。
胸の奥から空気が押し出された。
「二本」
光留はすぐに起き上がった。
小夜は最初の場所へ戻っている。
乱れた髪一本すらない。
「残像か」
「好きに考えて」
三度目。
光留は小夜を見ず、畳へ落ちる影を見た。
右へ揺れる。
光留は反対の左へ木刀を薙いだ。
背後から、首筋を軽く打たれる。
両膝が落ちた。
「三本」
「影も当てにならないのかよ」
「朝の光は、障子を通って二方向から入ってる」
伊織が座敷の端から言った。
「教えていいのか」
「今のは戦い方じゃなくて、部屋の見方だ」
「同じだろ」
「だからお前は罠にかかるんだ」
朔兵衛が二人を見る。
「橘。次に口を出せば、お前も敵へ加える」
「失礼しました」
伊織は口を閉じた。
四度目。
光留は自分から攻めなかった。
足の裏で畳の感触を拾う。
息を吸い、眼力を足から腰、背中へ巡らせた。
海岸で御影に教わった流れ。
右腕だけへ集めない。
力を一か所へ堰き止めない。
小夜が消える。
畳が、ほんの僅かに沈んだ。
左後ろ。
光留は振り向かず、木刀の柄を後方へ突き出す。
硬い音がした。
初めて、木刀と木刀が触れた。
だが次の瞬間には手首をひねられ、光留の木刀が畳へ落ちていた。
小夜の切っ先が胸へ触れる。
「四本」
「今のは、見えた」
「見えても、間に合わなければ同じ」
「次は間に合わせる」
光留は木刀を拾った。
右手が震えている。
小夜にひねられたせいではない。
黒水の痺れが、指先から戻り始めていた。
白鷺の言葉が蘇る。
吸ったものを自分の中で流し、不要なものを外へ逃がす術を身につけるまで使うな。
今、黒水を使えばどうなるか分からない。
それでも小夜の眼力を吸えば、あの動きを止められるかもしれない。
勝つための最も近い道が、右腕の奥にある。
「続けられる?」
小夜が尋ねた。
「続ける」
「次に倒れれば、起き上がれないかもしれない」
「そのときは終わりだろ」
「怖くないの」
「怖いさ」
光留は素直に答えた。
「でも、覚えられない方が困る」
五度目。
小夜の姿が二つに分かれた。
白い影が、左右から同時に走る。
光留は眼の奥へ意識を沈めた。
瞳が、墨を落としたように黒く染まる。
右腕の黒い筋が僅かに浮いた。
座敷にいた者たちの気配が変わる。
天井裏で、金属が鞘を擦った。
「光留」
伊織の声が低くなる。
「分かってる」
光留は黒水を使わなかった。
吸うのではなく、見る。
試合場で何度も行ったように、眼力の流れだけへ意識を凝らした。
世界から色が薄れる。
人の身体を巡る熱が、水路のような細い光となって浮かぶ。
二人の小夜にも、眼力が流れていた。
左の影には、肩から木刀へ向かう一方通行の細い流れ。
右の影には、足裏から腰へ戻る大きな巡り。
片方は、形を持たせるために放たれた眼力。
もう片方は、生きた身体の内を巡っている眼力。
「右だ」
光留は右へ踏み込んだ。
木刀を横へ薙ぐ。
小夜が初めて、正面からそれを受けた。
乾いた音が座敷を貫く。
衝撃が手首へ入る。
光留は止まらない。
足から腰、腰から背、背から左肩へ眼力を流す。
右の木刀を押し込むと見せ、空いた左手を小夜の袖へ伸ばした。
指先が白い布へ触れる。
小夜の眼が、初めて僅かに開いた。
袖の内側で、銀色の光が走る。
短刀だった。
刃が光留の木刀を斜めに切り落とす。
先端が畳へ転がった。
光留は折れた木刀を手放し、小夜の懐へ踏み込む。
倒すなら、ここしかない。
肩を入れ、身体ごとぶつかろうとした。
小夜の姿が沈む。
次の瞬間、光留の右腕は背中へ回されていた。
足を刈られ、畳へうつ伏せに倒される。
頬のすぐ横へ、短刀が突き立った。
「はい、終わり」
小夜の膝が背中を押さえている。
動けば、肩が外れる。
光留は畳へ額をつけたまま、息を吐いた。
「……参りました」
小夜が手を離す。
光留はゆっくり起き上がった。
身体のあちこちが痛む。
それ以上に、胸の奥が冷えていた。
五度戦って、一度も倒せなかった。
最後は近づけたと思ったが、それさえ小夜の間合いへ入れられただけかもしれない。
勝てなかった。
なら、教えてもらえない。
蓮次郎へ近づくための道を、また一つ失った。
「すみません」
光留は朔兵衛へ頭を下げた。
「もう一度だけ――」
「合格だ」
光留は顔を上げた。
「……何がですか」
「面会の試しだ」
「でも俺、負けましたよ」
「見ておった」
「一度も倒してません」
「倒せとは一度も言っておらん」
光留は言葉を失った。
隣で、伊織が長い息を吐く。
「やっぱり勝手に条件を決めてたのか」
「強さの試験なら、勝たなきゃいけないだろ」
「島へ来て半刻で、この人を倒すつもりだったのか」
「そのつもりだった」
「自信があるのか、何も考えてないのか分からないな」
「両方だろう」
朔兵衛が答えた。
小夜は短刀を拭い、袖の内へ戻した。
「月白小夜は、島を守る三光忍の一人。今のお前が倒せる相手ではない」
「最初に教えてください」
「教えれば、勝てぬ理由を作って挑む」
朔兵衛は折れた木刀の先を見た。
「試したのは、勝てるかではない。負けるたびに、何を拾えるかだ」
一度目は、動く前に喉を取られた。
二度目は、姿だけを追った。
三度目は、影に惑わされた。
四度目には、畳の沈みを聞いた。
五度目には、眼力の流れから本体を見抜いた。
「五度とも負けた。だが、同じ負け方は一度もしなかった」
朔兵衛は続けた。
「そして、最後まで黒の眼で小夜の力を奪わなかった」
光留は右腕を見る。
皮膚の下へ浮かびかけた黒い筋は、すでに薄れていた。
「使えば、勝てたかもしれません」
「それはないが、お前はその場で勝ち、再び倒れただろう」
朔兵衛の眼が、光留を射抜く。
「弟を迎えに行く者に必要なのは、一度の勝利ではない。敵のもとへ辿り着き、救い出し、ともに帰る力だ」
光留の脳裏へ、白い霧の中に立つ蓮次郎が浮かんだ。
今度は、兄ちゃんが待ってて。
あの言葉へ応えるなら、生きて帰らなければならない。
「黒水を使わずに勝て、ということですか」
「違う。使うべきときに使い、止めるべきときに止めろということだ」
小夜が初めて口を挟んだ。
「さっき黒水を開いていたら、その時点で不合格だったんだよ」
「どうして分かったんですか?」
「殺気より分かりやすい顔をしていたからね」
「え、顔には出してないと思ってたのに」
「出てた」
伊織まで同意した。
光留は納得できなかったが、今は言い返すところではない。
朔兵衛へ向き直る。
「合格なら、教えてくれるんですね」
「合格は、教えを請うための門を開いただけだ」
「ありがとうございます」
返事は迷わなかった。
「どんな修行でもやります」
「その言葉を軽く使うな。修行が始まれば、今日のように五度で終わるとは限らぬ」
「何度でも、同じ負け方はしません」
朔兵衛はしばらく光留を見つめた。
「よかろう。ただし、三つ守れ」
老人が指を一本立てる。
「師の許しなく眼を使わぬこと」
二本目。
「身体に異変があれば隠さぬこと」
三本目。
「強くなる理由を、勝ちたいという欲へすり替えぬこと」
最後の言葉だけが、光留の胸へ深く残った。
「破れば、島から出すからな、良いな?」
「分かりました」
光留は、今度は言葉を選んで答えた。
「弟と帰るために」
朔兵衛が小さく頷いた。
伊織が木札を膝元へ戻す。
「救出への協力は」
「まず二人、海沿いへ斥候を出す。刃眼隊の者も同行させよ。報告を聞いてから、出す人数を決める」
「感謝します」
「お前はどうする、橘伊織」
朔兵衛が尋ねた。
「使者としての役目が終われば、外里へ戻るか」
伊織は小夜を見た。
「俺も試験を受けます」
「負傷しているぞ」
「こいつよりは動けますよ」
伊織は横目で睨んだ。
小夜が新しい木刀を一本取る。
だが朔兵衛は、片手を上げて止めた。
「橘の試しは日が沈んでからだ。まず二人とも休め」
「俺はまだ動けます」
光留が言った。
「動けるかどうかを決めるのは、今から診る薬師だ」
「修行は」
「明朝、鐘が鳴る前に滝へ来い」
「場所が分かりません」
「探せ。それが最初の修行だ」
光留は少し考えた。
この里には、見えている道さえ本物とは限らない。
滝の音を隠す仕掛けがあるかもしれない。
鐘がいつ鳴るのかも知らない。
「今から探してもいいですか」
「先に寝ろ」
伊織と朔兵衛の声が重なった。
小夜が僅かに笑った。
光留は不満を飲み込み、頭を下げる。
「分かりました」
面会は終わった。
光留は立ち上がり、背中の黒い刀へ触れる。
敗れた痛みは残っている。
勝てなかった悔しさも消えていない。
だが、閉じたと思った門は開いていた。
そして、道の果てには蓮次郎が待っている。
光留は今度こそ、焦って駆け出さなかった。
まず身体を治す。
夜のうちに島の地形を頭へ入れる。
朝までに滝を見つける。
一つずつでいい。
今の自分に足りないものを、惜しまず積み上げる。
それが弟のもとへ戻る、一番速い道だと信じて。




