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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第二章 忍びの島と影に映るもの

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第十一話 試験

 山へ入って半刻もしないうちに、光留は三度、同じ男を見失った。


 灰色の装束が、十歩先の石段を上っている。


 そう思って瞬きをすると、もう姿がない。


 辺りには濡れた杉の幹と、朝靄に沈む竹林しかなかった。


「また消えた、」


「消えたんじゃない。お前が見失ってるだけだ」


 後ろを歩く伊織が言った。


「どういう事だよ?」


「眼の使い方だ、意識を変えないと何度でも見失うぞ」


 光留は返事をせず、石段へ目を落とした。


 泥の上に足跡はない。


 落ち葉も踏まれていない。


 けれど、苔の先に溜まった雫が一つだけ揺れていた。


 光留は右ではなく、左の竹林を見る。


 竹の上から、灰色の男が音もなく降りてきた。


「少しは眼ができるじゃないか」


 男はそう言って、再び歩き出した。


 光留はその足元を見た。


 男はつま先から地面へ触れ、足裏を外側から静かに置いている。体重を乗せる前に、枝や小石がないか確かめているらしい。


 光留も同じように足を置いた。


 一歩目は、うまくいった。


 二歩目で、小枝が乾いた音を立てた。


 三歩目では、右脚から力が抜けて石段へ膝をついた。


「何してるんだ」


 伊織が腕をつかむ。


「歩き方を真似して見てるんだよ」


「今やることか?」


「強くなるためにできること少しでもやりたいんだ」


 黒水を使った右腕には、まだ痺れが残っている。


 背中も脇腹も、息を吸うたびに痛んだ。


 身体を休めるべきだということは、光留にも分かっていた。


 覚えられるものは、今覚える。


 それが、伊織に追いつくために一年間続けてきたやり方だった。


「歩き方だけ真似ても意味はない」


 灰色の男が、振り返らずに言った。


「音を立てないことが忍びではない。通ったことさえ相手の記憶へ残さない。それが忍びだ」


「どうやるんだ」


「教えてやると決めた覚えはない」


「じゃあ、見て覚えるさ」


「好きにしろ」


 男の声には呆れが混じっていた。


 光留は立ち上がり、今度は足だけでなく、男の肩と腰を見る。


 上半身がほとんど揺れていない。


 前へ進んでいるのに、どこへ重心を移したのか分からない。


 十歩も続けると、光留の額へ汗が浮かんだ。


 痛みのせいだけではない。


 一歩を真似るだけで、海岸を走るより神経を使う。


「楽しそうだな」


 伊織が言った。


 楽しいわけではない。


 蓮次郎を置いてきた事実は、胸の奥へ重い石のように残っている。


 立ち止まると、その重さに押し潰されそうになる。


 だから、今少しでも強くなるために努力の道を見つけたことが嬉しかった。


 それだけだった。


     ◇


 石段の先には、何もなかった。


 杉の木が三本、根元を絡ませるように立っている。


 道はそこで途切れ、奥には人一人通れそうにない藪が広がっていた。


「行き止まりか」


 光留が周囲を見回す。


 灰色の男は、三本の杉の中央へ立った。


 懐から細い金属の棒を取り出し、根元の穴へ差し込む。


 軽くひねる。


 鳥の鳴き声に似た、高い音が二度響いた。


 すぐ近くで、別の鳥が一度だけ鳴き返す。


 次の瞬間、杉の間にあった空間が揺れた。


 木の幹だと思っていたものが左右へずれ、石造りの門が現れる。


「眼の力か?」


「違う」


 灰色の男が答えた。


 光留は門の横へ回り込んだ。


 薄く削った板へ、周囲と同じ杉の皮が貼られている。藪に見えたものも、枝を編み込んだ一枚の壁だった。


 男は門をくぐった。


「眼は便利だ。だからこそ、最初に疑え」


 その言葉を、光留は頭の中で繰り返した。


 眼を疑う。


 黒の眼しか頼れるものがないと思っていた自分には、奇妙な教えだった。


 門の向こうには、山中とは思えないほど広い里があった。


 斜面に沿って、黒い板張りの家が何段にも重なっている。


 屋根から屋根へ細い縄が渡され、その上を籠や木箱が滑っていた。


 水路は道の中央ではなく、家々の軒下を通っている。


 橋だと思った板が持ち上がり、その下から子どもが三人飛び出した。


 子どもたちは光留と伊織を見た途端、左右の路地へ散る。


 一人は壁を蹴って屋根へ上がり、一人は井戸の陰へ消え、最後の一人は老女の背負った籠の中へ潜った。


 老女は何事もなかったように歩いていく。


「全員、忍びなのか」


「魚を獲る者も、田を耕す者もいる」


 灰色の男が答えた。


「ただし、この里では自分の身を隠せない者から飢える」


「どうして」


「畑を荒らす獣より、海の外から来る人間の方が厄介だからだ」


 道を行く者たちは、二人を見ていないふりをしていた。


 だが光留が黒い刀へ手を伸ばすと、軒下の影で数人の指が同時に動く。


 視線だけではない。


 屋根の上、閉じた雨戸の向こう、水路の下。


 どこから攻撃されてもおかしくなかった。


 灰色の男が足を止める。


「ここから先へ、刃は持ち込めない」


 伊織は腰の刀を鞘ごと外し、男へ渡した。


 光留は背中の黒い刀へ手をかけたまま動かなかった。


「これは預けられない」


「なら、面会はここで終わりだ」


「父さんが残したものなんだ」


「事情は刃を鈍らせない」


 男の言葉は冷たかったが、間違ってはいない。


 光留は黒い鞘を見た。


 島で玄斎に奪われかけた。


 海へ落としかけた。


 今これを手放せば、また父へつながるものを失う気がした。


「光留」


 伊織は急かさなかった。


「何をしに来たか、忘れるな」


 弟を助けられるほど、強くなるためだ。


 刀を守るために門前で帰れば、何の意味もない。


 光留は柄から手を離した。


「預ける。ただし、俺の見えるところに置いてくれ」


 灰色の男は少しだけ目を細めた。


 刀を受け取るのではなく、赤い組紐を取り出す。


 柄と鞘を三度巻き、見慣れない結び方で封じた。


「これで抜けない。背負っていろ」


「いいのか」


「無理に奪う必要はない」


 男は伊織の刀だけを抱え、再び歩き出した。


     ◇


 里の最も高い場所に、古い屋敷が建っていた。


 門はなく、塀も低い。


 その代わり、庭に植えられた木の位置も、飛び石の間隔も妙に整っている。


 どこへ足を置いても、誰かの正面へ立たされるような造りだった。


 二人は広い座敷へ通された。


 正面の上段に、小柄な老人が座っている。


 白髪は短く刈り、深い皺の刻まれた両手を膝へ置いていた。


 名を霧生朔兵衛(きりゅう・さくべえ)という。


 忍びの島、その内里を束ねる長だった。


 朔兵衛の右後ろには、白い装束の女が控えていた。


 年は伊織より少し上に見える。


 長い髪を一つに結び、細い眼を伏せたまま、湯気の立つ茶を注いでいる。


 ほかに人の姿はない。


 だが天井板の上から、僅かな衣擦れがした。


 床下でも、一度だけ誰かが息を吸った。


 光留がそちらへ視線を向けると、朔兵衛の口元が僅かに動いた。


「聞いていたより、落ち着きがないな」


 伊織が木札を畳へ置き、頭を下げた。


「刃眼隊三番隊、橘伊織です。故郷の島が眼獣と死者に襲われ、島民を連れて逃れてきました。外里への一時滞在と、食料、負傷者の手当てを願います」


「外里の蔵は開けさせた。薬師も向かわせておる」


 朔兵衛は静かに答えた。


「海から逃げてきた者を追い返さぬ。それは試すまでもない」


 光留の肩から、僅かに力が抜けた。


 団子屋の老婆も、時任も、御影も。


 少なくとも今夜は、屋根のある場所で休める。


「ありがとうございます」


「礼は、島民が無事に朝を迎えてからにせよ」


 朔兵衛は木札を裏返した。


「もう一つあるな」


「故郷へ斥候を出し、弟を含む生存者を救出したい。そのための協力を願います」


「断る」


 返事は早かった。


 光留の膝へ力が入る。


 立ち上がりかけた身体を、自分で止めた。


 まず、理由を聞く。


「なぜですか」


「何がいるのか、何人残っているのか、何を斬れば終わるのか。その一つも分からぬ戦へ、里の者は出せん」


「調べてからなら、」


「話は聞く」


 拒絶ではなく、保留だった。


 光留は一度息を吐いた。


 御影も同じことを言っていた。


 急いで全滅すれば、助ける者がいなくなる。


 分かっている。


 分かっていても、胸の奥では今すぐ舟へ戻りたい自分が暴れている。


 光留は拳を畳へ置き、その衝動ごと押さえ込んだ。


「もう一つ、頼みがあります」


 朔兵衛が顎を僅かに上げる。


「言え」


「俺に、ここの戦い方を教えてください」


「何のために」


「弟を迎えに行くためです」


 光留は正面から老人を見た。


「次の救出作戦に、俺も参加したい。でも今の俺じゃ、黒の眼を使えば倒れて、助けに行っても、足手まといになります」


 口にすると、悔しさがはっきりした形を持った。


 蓮次郎を助けるどころか、最後には弟に逃がされた。


 伊織や御影がいなければ、舟へも乗れなかった。


「だから、強くなりたい」


「強さを欲しがる者は、毎年のように来る」


 朔兵衛の声は変わらない。


「何を差し出すんだ」


「強くなるなら何だって、」


「命もか」


 光留は、すぐには答えなかった。


 昨日までなら、差し出すと言ったかもしれない。


 けれど、蓮次郎は自分を生かすために島へ残った。


 ここで簡単に命を捨てると言えば、弟の選んだものまで軽くなる。


「命は、持って帰ります」


 光留は答えた。


「弟を連れて戻るために、必要だから」


 朔兵衛の眼が細くなる。


「では、何を惜しまぬ」


「時間も、痛みも、負けることもです。覚えるために必要なら、何度でもやります」


「口なら、誰でも言える」


「なら、試してください」


 座敷が静かになった。


 天井裏にいた者の気配まで消える。


 朔兵衛は光留の背中へ視線を移した。


「その黒い刀は、誰から受け取った」


「父が残したものです」


「父の名は」


 光留は父の名を告げた。


 その瞬間、朔兵衛の指が膝の上で一度だけ止まった。


 驚きは、すぐに皺の中へ隠れた。


「そうか」


「父を知ってるんですか」


「その話を聞く資格があるか、先に確かめる」


 朔兵衛は右後ろへ顔を向けた。


「小夜」


 白装束の女が、茶器を置く。


「はい」


「試せ」


 女――月白小夜は、音もなく立ち上がった。


 湯を注いでいたときとは、立ち姿が違う。


 肩から余計な力が消え、手の位置も、足の向きも読めない。


 ただ立っているだけなのに、座敷が急に狭く感じられた。


「この人と戦うんですか」


「不服か」


「逆です」


 光留は立ち上がった。


「この人に勝てば、教えてくれるんですね」


 朔兵衛は答えなかった。


 小夜が床の間から、二本の木刀を取る。


 一本を光留へ投げ、もう一本を右手へ下げた。


「立てなくなったら終わり。黒い刀の封は解かない。殺し合いもしない」


 朔兵衛が告げる。


「それ以外は、好きにせよ」


 光留は木刀を握った。


「始め」


     ◇


 光留は動けなかった。


 動かなかったのではない。


 朔兵衛の声が消えたときには、小夜の木刀が喉元へ触れていた。


「一本」


 小夜が言う。


 光留は息を止めた。


 正面にいたはずの女が、いつの間にか右脇へ立っている。


「今、何をしたんだ、」


「試験中に、相手へ教えを求めるの?」


「聞くだけなら損はないだろ」


「答える理由もない」


「それもそうか」


 光留は一歩下がり、木刀を構え直した。


 小夜の口元が、僅かに緩んだ。


 二度目。


 今度は開始の声ではなく、小夜の呼吸を見た。


 胸が膨らむ。


 吐く瞬間に動くと考え、光留は半歩早く踏み込んだ。


 木刀を振り下ろす。


 小夜の姿が揺れた。


 刃は肩を捉えたはずだった。


 手応えがない。


 白い装束だけが霧のように崩れ、視界の外から足を払われた。


 背中が畳へ落ちる。


 胸の奥から空気が押し出された。


「二本」


 光留はすぐに起き上がった。


 小夜は最初の場所へ戻っている。


 乱れた髪一本すらない。


「残像か」


「好きに考えて」


 三度目。


 光留は小夜を見ず、畳へ落ちる影を見た。


 右へ揺れる。


 光留は反対の左へ木刀を薙いだ。


 背後から、首筋を軽く打たれる。


 両膝が落ちた。


「三本」


「影も当てにならないのかよ」


「朝の光は、障子を通って二方向から入ってる」


 伊織が座敷の端から言った。


「教えていいのか」


「今のは戦い方じゃなくて、部屋の見方だ」


「同じだろ」


「だからお前は罠にかかるんだ」


 朔兵衛が二人を見る。


「橘。次に口を出せば、お前も敵へ加える」


「失礼しました」


 伊織は口を閉じた。


 四度目。


 光留は自分から攻めなかった。


 足の裏で畳の感触を拾う。


 息を吸い、眼力を足から腰、背中へ巡らせた。


 海岸で御影に教わった流れ。


 右腕だけへ集めない。


 力を一か所へ堰き止めない。


 小夜が消える。


 畳が、ほんの僅かに沈んだ。


 左後ろ。


 光留は振り向かず、木刀の柄を後方へ突き出す。


 硬い音がした。


 初めて、木刀と木刀が触れた。


 だが次の瞬間には手首をひねられ、光留の木刀が畳へ落ちていた。


 小夜の切っ先が胸へ触れる。


「四本」


「今のは、見えた」


「見えても、間に合わなければ同じ」


「次は間に合わせる」


 光留は木刀を拾った。


 右手が震えている。


 小夜にひねられたせいではない。


 黒水の痺れが、指先から戻り始めていた。


 白鷺の言葉が蘇る。


 吸ったものを自分の中で流し、不要なものを外へ逃がす術を身につけるまで使うな。


 今、黒水を使えばどうなるか分からない。


 それでも小夜の眼力を吸えば、あの動きを止められるかもしれない。


 勝つための最も近い道が、右腕の奥にある。


「続けられる?」


 小夜が尋ねた。


「続ける」


「次に倒れれば、起き上がれないかもしれない」


「そのときは終わりだろ」


「怖くないの」


「怖いさ」


 光留は素直に答えた。


「でも、覚えられない方が困る」


 五度目。


 小夜の姿が二つに分かれた。


 白い影が、左右から同時に走る。


 光留は眼の奥へ意識を沈めた。


 瞳が、墨を落としたように黒く染まる。


 右腕の黒い筋が僅かに浮いた。


 座敷にいた者たちの気配が変わる。


 天井裏で、金属が鞘を擦った。


「光留」


 伊織の声が低くなる。


「分かってる」


 光留は黒水を使わなかった。


 吸うのではなく、見る。


 試合場で何度も行ったように、眼力の流れだけへ意識を凝らした。


 世界から色が薄れる。


 人の身体を巡る熱が、水路のような細い光となって浮かぶ。


 二人の小夜にも、眼力が流れていた。


 左の影には、肩から木刀へ向かう一方通行の細い流れ。


 右の影には、足裏から腰へ戻る大きな巡り。


 片方は、形を持たせるために放たれた眼力。


 もう片方は、生きた身体の内を巡っている眼力。


「右だ」


 光留は右へ踏み込んだ。


 木刀を横へ薙ぐ。


 小夜が初めて、正面からそれを受けた。


 乾いた音が座敷を貫く。


 衝撃が手首へ入る。


 光留は止まらない。


 足から腰、腰から背、背から左肩へ眼力を流す。


 右の木刀を押し込むと見せ、空いた左手を小夜の袖へ伸ばした。


 指先が白い布へ触れる。


 小夜の眼が、初めて僅かに開いた。


 袖の内側で、銀色の光が走る。


 短刀だった。


 刃が光留の木刀を斜めに切り落とす。


 先端が畳へ転がった。


 光留は折れた木刀を手放し、小夜の懐へ踏み込む。


 倒すなら、ここしかない。


 肩を入れ、身体ごとぶつかろうとした。


 小夜の姿が沈む。


 次の瞬間、光留の右腕は背中へ回されていた。


 足を刈られ、畳へうつ伏せに倒される。


 頬のすぐ横へ、短刀が突き立った。


「はい、終わり」


 小夜の膝が背中を押さえている。


 動けば、肩が外れる。


 光留は畳へ額をつけたまま、息を吐いた。


「……参りました」


 小夜が手を離す。


 光留はゆっくり起き上がった。


 身体のあちこちが痛む。


 それ以上に、胸の奥が冷えていた。


 五度戦って、一度も倒せなかった。


 最後は近づけたと思ったが、それさえ小夜の間合いへ入れられただけかもしれない。


 勝てなかった。


 なら、教えてもらえない。


 蓮次郎へ近づくための道を、また一つ失った。


「すみません」


 光留は朔兵衛へ頭を下げた。


「もう一度だけ――」


「合格だ」


 光留は顔を上げた。


「……何がですか」


「面会の試しだ」


「でも俺、負けましたよ」


「見ておった」


「一度も倒してません」


「倒せとは一度も言っておらん」


 光留は言葉を失った。


 隣で、伊織が長い息を吐く。


「やっぱり勝手に条件を決めてたのか」


「強さの試験なら、勝たなきゃいけないだろ」


「島へ来て半刻で、この人を倒すつもりだったのか」


「そのつもりだった」


「自信があるのか、何も考えてないのか分からないな」


「両方だろう」


 朔兵衛が答えた。


 小夜は短刀を拭い、袖の内へ戻した。


「月白小夜は、島を守る三光忍の一人。今のお前が倒せる相手ではない」


「最初に教えてください」


「教えれば、勝てぬ理由を作って挑む」


 朔兵衛は折れた木刀の先を見た。


「試したのは、勝てるかではない。負けるたびに、何を拾えるかだ」


 一度目は、動く前に喉を取られた。


 二度目は、姿だけを追った。


 三度目は、影に惑わされた。


 四度目には、畳の沈みを聞いた。


 五度目には、眼力の流れから本体を見抜いた。


「五度とも負けた。だが、同じ負け方は一度もしなかった」


 朔兵衛は続けた。


「そして、最後まで黒の眼で小夜の力を奪わなかった」


 光留は右腕を見る。


 皮膚の下へ浮かびかけた黒い筋は、すでに薄れていた。


「使えば、勝てたかもしれません」


「それはないが、お前はその場で勝ち、再び倒れただろう」


 朔兵衛の眼が、光留を射抜く。


「弟を迎えに行く者に必要なのは、一度の勝利ではない。敵のもとへ辿り着き、救い出し、ともに帰る力だ」


 光留の脳裏へ、白い霧の中に立つ蓮次郎が浮かんだ。


 今度は、兄ちゃんが待ってて。


 あの言葉へ応えるなら、生きて帰らなければならない。


「黒水を使わずに勝て、ということですか」


「違う。使うべきときに使い、止めるべきときに止めろということだ」


 小夜が初めて口を挟んだ。


「さっき黒水を開いていたら、その時点で不合格だったんだよ」


「どうして分かったんですか?」


「殺気より分かりやすい顔をしていたからね」


「え、顔には出してないと思ってたのに」


「出てた」


 伊織まで同意した。


 光留は納得できなかったが、今は言い返すところではない。


 朔兵衛へ向き直る。


「合格なら、教えてくれるんですね」


「合格は、教えを請うための門を開いただけだ」


「ありがとうございます」


 返事は迷わなかった。


「どんな修行でもやります」


「その言葉を軽く使うな。修行が始まれば、今日のように五度で終わるとは限らぬ」


「何度でも、同じ負け方はしません」


 朔兵衛はしばらく光留を見つめた。


「よかろう。ただし、三つ守れ」


 老人が指を一本立てる。


「師の許しなく眼を使わぬこと」


 二本目。


「身体に異変があれば隠さぬこと」


 三本目。


「強くなる理由を、勝ちたいという欲へすり替えぬこと」


 最後の言葉だけが、光留の胸へ深く残った。


「破れば、島から出すからな、良いな?」


「分かりました」


 光留は、今度は言葉を選んで答えた。


「弟と帰るために」


 朔兵衛が小さく頷いた。


 伊織が木札を膝元へ戻す。


「救出への協力は」


「まず二人、海沿いへ斥候を出す。刃眼隊の者も同行させよ。報告を聞いてから、出す人数を決める」


「感謝します」


「お前はどうする、橘伊織」


 朔兵衛が尋ねた。


「使者としての役目が終われば、外里へ戻るか」


 伊織は小夜を見た。


「俺も試験を受けます」


「負傷しているぞ」


「こいつよりは動けますよ」


 伊織は横目で睨んだ。


 小夜が新しい木刀を一本取る。


 だが朔兵衛は、片手を上げて止めた。


「橘の試しは日が沈んでからだ。まず二人とも休め」


「俺はまだ動けます」


 光留が言った。


「動けるかどうかを決めるのは、今から診る薬師だ」


「修行は」


「明朝、鐘が鳴る前に滝へ来い」


「場所が分かりません」


「探せ。それが最初の修行だ」


 光留は少し考えた。


 この里には、見えている道さえ本物とは限らない。


 滝の音を隠す仕掛けがあるかもしれない。


 鐘がいつ鳴るのかも知らない。


「今から探してもいいですか」


「先に寝ろ」


 伊織と朔兵衛の声が重なった。


 小夜が僅かに笑った。


 光留は不満を飲み込み、頭を下げる。


「分かりました」


 面会は終わった。


 光留は立ち上がり、背中の黒い刀へ触れる。


 敗れた痛みは残っている。


 勝てなかった悔しさも消えていない。


 だが、閉じたと思った門は開いていた。


 そして、道の果てには蓮次郎が待っている。


 光留は今度こそ、焦って駆け出さなかった。


 まず身体を治す。


 夜のうちに島の地形を頭へ入れる。


 朝までに滝を見つける。


 一つずつでいい。


 今の自分に足りないものを、惜しまず積み上げる。


 それが弟のもとへ戻る、一番速い道だと信じて。

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