EP 8
酸性の雨と、忍び寄る蟲の気配
縁側に置かれた冷たいポポロコーヒーのグラスの中で、氷がカランと音を立てた。
ジューッ……という、肉を焼く時のような嫌な音が足元から聞こえる。
見れば、空から降り注ぐ雨粒が黒土を白く泡立たせ、大切に育てた月見大根の青々とした葉をドロドロに溶かし始めていた。
「ぼやぼやしてる暇はないぞ! 畑が溶かされる前に防ぐんだ!」
俺は縁側から飛び出し、酸の雨の中へ身を投じた。作業着の表面で雨粒がジリッと音を立てるが、タローマン製のタフな生地がわずかに防いでくれている。
「スアイ! 畑の上空に氷の天蓋を作って、雨を弾け!」
「わ、わかったわ! 『アイス・シールド』!」
スアイが両手を掲げると、瞬時に極低温の魔力が放射され、畑の真上に巨大な氷の傘が形成された。強酸の雨が氷にぶつかり、ジュワジュワと白い煙を上げる。
俺はその隙に、【農具箱】を念じた。
取り出したのは、地球の農家なら誰もが持っている『特大農業用ビニールシート』と、土壌改良用の『消石灰(アルカリ性粉末)』の袋だ。
「リン! このシートの端を持って、畝全体を覆うんだ!」
「チッ、休日の用心棒にまで肉体労働させんのかよ!」
文句を言いながらも、リンは目にも止まらぬ速さでシートの端を掴み、畑全体をすっぽりと覆い隠した。
これで上空からの直接的な酸のダメージは防げる。だが、すでに土に染み込んでしまった酸はどうにもならない。
「氷の天蓋が溶かされる前に、土壌を中和する! スアイ、リン、下がっててくれ」
俺は消石灰の袋を抱え、URジョウロに放り込んだ。
「俺が『中和剤』だと思えば、このジョウロから出る液体は土壌のpH値を最適化する魔法の特効薬になる!」
ジョウロの口から、白濁した液体がシャワーのように散布される。酸性化して泡立っていた黒土にアルカリ性の消石灰液が染み込み、中和反応を起こしてシューッと音を立てながら元のふかふかな状態へと戻っていく。
「ふぅ……間一髪だったな。月見大根の葉は少しやられたが、根は無事だ」
俺が額の汗を拭うと、スアイもホッと胸を撫で下ろした。
「ハルトのそのよく分からない知識と道具がなかったら、今頃畑は全滅してたわ……。でも、一体なんなのこの雨。こんな強烈な酸の雨を降らせる自然現象なんて、聞いたことがないわよ」
「あぁ。これは自然現象なんかじゃない」
空を見上げていたリンが、鋭い声で言った。
いつの間にか雨は止み、空を覆っていた分厚い灰色の雲が、不自然なほど急激に散っていく。
「上空を覆ってた雲そのものが、何者かが人為的に撒き散らした『酸性の霧』の塊だったんだ。風に乗って流れてきたんだろうが……ただの魔法じゃねぇ。もっと嫌な匂いがする」
鼻を突くような酸の匂いに混じって、わずかに鉄錆と機械油のような無機質な匂いが漂っていた。
俺たちは顔を見合わせ、先ほど不気味な足音が聞こえてきた森の境界線へと向かった。
「これは……酷いな」
森の入り口に立った俺たちは、絶句した。
青々と茂っていたはずの木々が、まるで熱湯をかけられた飴細工のようにドロドロに溶け落ちていたのだ。地面の草花は黒く変色して枯れ果て、そこら中にジュクジュクと泡立つ酸の水たまりができている。
そして、泥状になった地面には、無数の『足跡』が残されていた。
「狼や魔猪の足跡じゃないわ。この細くて鋭い、突き刺すような跡……それに、この数」
スアイが眉をひそめながら地面を指差す。
二本足でも四本足でもない。六本の細い脚が、統制の取れた軍隊のように一直線に森の奥からこちらへと向かってきた痕跡だ。
「巨大な『昆虫』……いや、ただの虫じゃない。足跡の深さからして、一匹一匹が装甲車並みの重量を持ってるぞ」
俺の脳裏に、かつて農家を苦しめた『害虫の大量発生』のニュース映像がよぎった。だが、これは次元が違う。
「おい、ハルト」
リンが森の暗がりを見据え、臨戦態勢に入った。ジャラジャラと鳴っていたアクセサリーの音が止まり、彼の周囲の空気がビリビリと静電気を帯び始める。
「俺がさっきから感じてた『小せえ害獣』の気配、ゴブリンだけじゃなかったみたいだぜ」
森の奥。薄暗い木々の間から、ギチギチ、カチカチという硬質な音が響き始めた。
それは生物の鳴き声というよりは、錆びた歯車が無理やり回るような、不快な機械音だった。
「……スアイ、下がってろ」
俺は腰に下げていた【UR鎌】を抜き放ち、じりじりと後退しながら身構えた。
「せっかくの休日をぶち壊した上に、俺たちの畑に酸を撒き散らしてくれたんだ。ただの害虫駆除じゃ済まさないぞ」
『ギチッ……ギチギチギチギチッ!!』
突然、暗闇の中から真っ赤に発光する複数の『複眼』が浮かび上がった。
次の瞬間、強酸の唾液を滴らせた、金属的な光沢を放つ巨大な『アリ』のような怪物が、木々をなぎ倒しながら姿を現した。
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