第35話
風影事件から一週間が経った。
侍忍学校の校門は、普段の喧騒を失っていた。
重い鉄の扉が半開きのまま、警備に守られていた。
生徒たちの足音はまばらで、代わりに家臣たちの低い呟きと馬の蹄が石畳を叩く音が響いた。
事件の余波は、学校全体を覆い尽くしていた。
クラノの拉致、ミツヒの裏切り、コタロウの洗脳工作――すべてが、七つの秩序の亀裂を象徴するように、静かながら確実に広がっていた。
キラリは、校門でハンゾウの傍らに立ち、遠くの山並みを睨んでいた。
ハンゾウの灰色の瞳は、いつもより深く沈み、唇に薄い笑みが浮かんだものの、その奥に潜む疲労は隠せなかった。
「キラリ、準備はできたか?」
「はい……」
二人は、無言で馬に跨がり、山道を下り始めた。
馬の蹄が土を叩く音が、静寂を破った。
事件後の新日本国は、表面上は平穏を保っていたが、国境の第三障壁は三倍の兵力で固められ、雪の国や騎士の国からの使節が、ひっきりなしに訪れていた。
七つの国は、霧の国の大胆な牙城に、静かな警戒を強めていた。
それは、単なる拉致事件ではなく、秩序の綱引きの序曲だった。
霧の国境近くの山間、隠れ里のような集落――新日本国の秘密の外交拠点。
石畳の道が、苔むした門をくぐり、木造の広間に繋がった。
ノカミは、広間の中央に座り、茶を啜っていた。
黒髪をきっちりと束ね、腰の刀が冷たく輝いていた。
十侍として、国境の守りを任される男の瞳は、氷のように冷静だった。
だが、その瞳の奥に、弟――クラノの嘲笑う顔――が、かすかに揺らいだ。
キラリとハンゾウが入室すると、ノカミは立ち上がり、二人に頭を下げた。
「よく来てくれました、キラリ。ハンゾウ師範」
声は穏やかだったが、重みが宿った。
それは、名家の血筋としても、守護者としての覚悟だった。
ハンゾウは、茶碗を置き、灰色の瞳を地図に落とした。
「『七国評議会』で、非難決議を提案した。雪の国と騎士の国が賛成、荒野の国は中立――だが、霧の国は拒否権を使い、決議は凍結された」
「クラノは……?」
「霧の影主の宮廷に幽閉されていると推測される」
ノカミの指が、地図の霧の国境をなぞった。
第三障壁の線が、墨で太く描かれていた。
ハンゾウが口を開いた。
「事件直後、霧の国は国境に三倍の兵力を増強した。忍者が夜毎に偵察を繰り返し、接触報告もある」
ノカミが眉を寄せた。
「ずいぶんと練られた計画だったのだろうな」
ハンゾウが続けた。
「経済面では、新日本国は霧の国への貿易を三割制限した。神秘の国からの薬の輸入を止め、霧の国は報復として、騎士の国経由の鉄鉱石を禁輸――七つの国は、すでに綱引きの真っ只中だ」
キラリの胸が痛んだ。
「世界規模で……戦争になるんですか?」
ノカミの瞳が、キラリを射抜いた。
「まだだ。七国評議会で、首脳会談が決まった――一ヶ月後、荒野の国の中立地で。霧の影主が、クラノの返還を餌に、お前の身柄を要求してくるだろう」
ハンゾウの口元に細長い笑みの糸が引かれた。
「だが、それは罠だ。霧の国は、お前を『新たな王』として利用しようとしている――隕石の八人目として」
キラリは、息を飲み、胸の奥で吉良の残響を感じた。
「俺は……新日本国を守ります。クラノを、取り戻します」
ノカミは立ち上がった。
「今夜、俺は霧の国境に潜入する。クラノの位置を特定し、救出の糸口を探る」
ハンゾウの瞳が、光った。
「キラリ、俺とお前はここで待機だ」
キラリは首を振り、刀の柄を握った。
「いや……俺も行きます。クラノは、俺のせいで」
ノカミの声が制した。
「それは違う。霧の国が、お前の力に飢えている今、無闇に動けば戦争の火種になる」
キラリは歯を食いしばった。
「分かりました……」
ノカミは、キラリの肩に手を置き頷いた。
「お前なら正しい判断ができるさ。俺は信じている」
「はい……!」
三人は、広間を後にした。
外では、七つの国が動き始めていた。
秩序の亀裂は、ゆっくりながら確実に広がっていった。
その夜――霧の国境、第三障壁。
ノカミが潜入を開始した。




