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KILARe:  作者: 川合 佑樹


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34/36

第34話

 風影事件は、多くのことを変えた。

 霧の国による単なる拉致事件ではない。

 第三障壁で起きた一瞬の混乱は、霧の国が新日本国に牙を剥いた証拠として、瞬く間に上層部に伝わった。

 外交使節の往来を激化させ、侍忍学校の空気を重く淀ませた。

 生徒たちの間では、噂が広がった。

 食堂の隅で、雪の国の生徒が囁き合っていた。

「俺たちの国も危ういぜ」

 隣の騎士の国生徒が、拳を握りしめて応じた。

「弱腰じゃ、七つの国が終わる」

 クラノの行方不明は、友情の喪失以上の喪失感を生んだ。

 キラリは、病院のベッドで何度も目を覚ました。

 夜中、キラリがうめき声を上げると、マシロがベッド脇で飛び起きた。

「キラリ! また悪夢か?」

 キラリは額の汗を拭い、苦笑を浮かべた。

「ああ……ごめん。クラノが助けてくれって」

 マシロは拳を握り、声を低くした。

「……俺たちで取り戻せるさ。絶対に」

 だが、事件の真相は、まだ闇に覆われていた。

 霧の国は、公式には「なにも知らない」と突っぱねた。

 ミツヒの行方は闇に溶け、コタロウの裏切りは「霧の工作員による洗脳」と片付けられた。

 表向きの平穏の下で、新日本国は牙を研いでいた。

 そして、その牙の先端に、ハンゾウの長刀が光った。

 尋問室の扉が、軋む音を立てて開いた。

 重い鉄の扉は、古い牢獄のそれのように鈍く響き、部屋の空気を一瞬で重く押しつぶした。

 薄暗い室内は、松明の炎が壁に揺らめき、湿った石の匂いが鼻を突いた。

 カビと血の混じった息苦しい湿気。

 中央の木製の椅子に、ヒサヒが縛り付けられていた。

 金髪は乱れ、頰の傷跡が赤黒く腫れ上がり、かつての余裕たっぷりの笑みは、塗りつぶされていた。

 両手両足は太い縄で固定され、額、喉元、胸、腹部――全身に無数の呪符が貼り付けられていた。

 符文は、淡い青白い光を放ち、ヒサヒの体内の胆力を強制的に封じ込めていた。

 気脈を塞ぐ呪いの力は、無数の棘が内側から突き刺さるように、彼の神経を蝕み、微かなうめきを漏らさせた。

 だが、それだけではなかった。

 この呪符は、ただの封印ではない。

 言葉が触媒となり、回答を拒めば痛みの波が倍増する、残酷な仕掛けだった。

 スパイを崩すための、新日本国の禁術。

 倫理の境界を曖昧に塗りつぶす術だった。

 ハンゾウは、無言で扉を閉め、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 長刀を膝に置き、灰色の瞳をヒサヒに向けた。

 その視線は、穏やかだったが、底知れぬ深淵を湛えていた。

 部屋の空気が、わずかに重くなった。

 松明の炎が一瞬、揺らぐ。

 ヒサヒは、ゆっくりと顔を上げた。

 金髪の隙間から覗く瞳は、痛みに曇りながらも、誇りを失っていなかった。

 唇の端が、わずかに引きつり、嘲るような笑みを浮かべた。

「ようこそ、ハンゾウ。――正式な尋問状を出さずに、こんな地下室で私を嬲るなんて。新日本国も、相当焦っているようだね」

 ハンゾウは息を吐いた。

 灰色の髪が、額に落ちるのを指で払い、ゆっくりと口を開いた。

 声は低く、しかし部屋の隅々まで染み渡るように響いた。

「焦っているのは、お前の国の方だろ、ヒサヒ。霧の影主が、わざわざお前のような若造を潜入させるなんてな。――クラノの拉致、ミツヒの裏切り、コタロウの洗脳工作。すべて霧の国の手によるものか?」

 ヒサヒの瞳が、わずかに細まった。

 呪符の光が、彼の肌を青白く照らし、額に新しい汗の粒が浮かんだ。

 胆力が封じられた体は、ただの肉塊のように重く、痛みの波が内側からそれを蝕んだ。

 それでも、彼は笑った。

 薄くも執拗に。

「ふふ……洗脳? 面白い表現だ。コタロウさんは、立派な『十侍』だよ。霧の国が、そんな安い手を使うと思うかい?」

 ハンゾウの指が、ヒサヒの胸元の呪符に軽く触れた。

 触媒の合図。

 符文の青白い光が、瞬時に脈打ち、棘のような痛みがヒサヒの気脈を内側から引き裂いた。

 息を吸うたび、肺に無数の針が絡みつき、吐き気が喉を締め上げた。

 ヒサヒの唇から抑えきれないうめきが漏れた。

「はぐっ……!」

 痛みの波は、回答を拒んだ代償として、徐々に収まったが、残響のように神経を蝕んだ。

 ハンゾウの声は、変わらず穏やかだった。

「答えろ、ヒサヒ。コタロウの裏切りは、霧の工作か? それとも、自らの意志か?」

 ヒサヒの息が、乱れながらも、嘲笑を浮かべた。

 汗が頰の傷口に染み、鉄臭い痛みが加わった。

「自らの……意志さ。隕石の八人目が目覚めた今、霧の国は――いや、すべての国が、君たちを恐れているんだ」

 言葉を吐き出した瞬間、痛みの余波が引いたかと思うと、呪符の光がわずかに柔らかくなった。

 だが、ハンゾウは追及を緩めなかった。

 長刀の柄を、静かなリズムで叩いた。

 心臓の鼓動のように、ヒサヒの胸に響いた。

「八人目の隕石の力は、霧の国にとって脅威なようだな。キラリを、お前たちはどうするつもりだ?」

 ヒサヒの唇が、引きつった。

 痛みの記憶が、答えを渋らせた。

「脅威? 新たな国が生まれ、七つの秩序は再構築されるんだ。霧の国は、それを許さない。キラリを……あの化物を手にしたものが――」

 言葉を飲み込み、沈黙した。

 即座に、ハンゾウの指が喉元の呪符に触れた。

 光が爆発的に輝き、棘が喉を内側から絞め上げた。

 息が詰まり、咳き込み、血の味が口に広がった。

 クラノの嘲笑う顔が、痛みの渦に混じり込んだ。

「答えろ」

 痛みの頂点で、ヒサヒの抵抗がわずかに崩れた。

 声が掠れた。

「武器……新時代の……武器だ。あの力を、手にすれば、世界を統べる。歴史はここだけじゃない……過去未来全てを統べるのが、あいつ一人の手のひらの上だ」

 呪符の光が、再び静まった。

 ヒサヒの胸が激しく上下し、汗が石の床に滴り落ちる音が、部屋に響いた。

 ハンゾウの瞳が、わずかに光った。

 怒りではなく、理解の光。

 だが、決して同情ではなかった。

「クラノの拉致は、なんのためだ? 人質か、それとも……囮か?」

 今度は、ヒサヒの笑みが凍りついた。

 痛みの蓄積が、精神を削った。

「クラノは……キラリの心を揺さぶるための餌さ。あの嫉妬深い彼が、キラリをどれだけ憎みながらも、慕っていたか……霧の国は、そんな脆い絆を、利用するだけだ」

 ハンゾウの指が、腹部の呪符に触れようとした。

 ヒサヒが続けた。

「ミツヒは、すでにクラノを連れて霧の国境を越えた。――戦争だ、ハンゾウ。新日本国は、霧の国と、いや……手を出せば世界と……戦う覚悟はあるかい?」

 部屋の空気が、重く沈んだ。

 ハンゾウは立ち上がった。

 長刀を腰に佩き、ヒサヒの前に近づいた。

 だが、今回は呪符に触れず、ただ視線で圧した。

「覚悟? もちろん、持っているさ。――だが、お前のような若造が、そんな大それた計画のただの駒だなんて、哀れだな。キラリは、俺たちのものだ。クラノも、必ず取り戻す」

「ふふ……楽しみだよ、ハンゾウ。あの時殺せてなくて残念だ――」

 言葉の途中で、喉元の呪符が自然に脈打った。

 最後の抵抗に対する、自動的な罰。

 ヒサヒのうめきが、薄れていった。

 ハンゾウは、無言で扉を開け、部屋を出た。

 扉の閉まる音が、重く響き、ヒサヒの笑いが断末魔のように途切れた。

 尋問室の外、廊下の冷たい石畳に、ハンゾウの足音が響いた。

 風影事件は、終わっていなかった。

 そして、新たな戦いの幕が、ゆっくりと上がった。


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